第2話:職人の意地と、極上の特製薬湯(露天風呂)
「いててて……っ、すまねえ、傭兵の旦那。情けねえ姿を見せちまった」
ガストンは、大柄なヴァルガに肩を貸してもらいながら、脂汗を垂らして呻いた。
長年の重労働で酷使し続けてきた腰椎が、ついに完全にストライキを起こしてしまったのだ。少しでも自力で歩こうと体重をかけると、腰の奥底――背骨と骨盤の繋ぎ目あたりで、錆びついた鉄の歯車が無理やり噛み砕かれるような、暴力的な激痛が走る。
(くそったれ……! よりによって、こんな山奥で腰が抜けるとはな。これじゃあ街へ帰るどころか、自分の工房の敷居すら跨げねえぞ)
職人としてのプライドが音を立てて崩れ去っていく屈辱感。
ガストンは自分の不甲斐なさにギリッと歯を食いしばった。
「気にするな。俺も昔、魔物に腕を吹っ飛ばされて、ここで嬢ちゃんに拾われた身だからな」
「腕を、吹っ飛ばされたぁ……?」
ヴァルガの物騒極まりない慰めに目を剥いていると、前を歩いていたシズルが振り返り、ふわりと微笑んだ。
「はい、こっちよ。裏庭に案内して」
シズルの後に続いて山小屋の裏手へと回ると、そこにはガストンの想像を絶する光景が広がっていた。
「な、なんだこりゃ……?」
そこには、森の木々を切り拓いて作られた、立派な『露天風呂』があったのだ。
ヴァルガが山から切り出してきた巨大な一枚岩をくり抜き、底に川石を敷き詰めた野趣あふれる湯船。そこには、裏山の斜面から竹筒を伝って引かれた澄んだ水が、こんこんと注ぎ込まれている。
さらに驚くべきは、湯船の底に仕込まれた『火生石』と呼ばれる魔石だ。ローウェンが街から調達してきたこの高価な石が、水を適温の湯へと変え、湯面からは白い湯気がもくもくと立ち上っていた。
「お待たせしました、お姉さん! 薬草の準備、バッチリです!」
湯船の傍らでは、シズルの弟子であるティセが、籠いっぱいに積まれた薬草を抱えて待っていた。
「ありがとうティセちゃん。……さ、ガストンさん」
シズルはティセから受け取った薬草の束――普通の人間にはただの葉っぱにしか見えないが、ティセの魔眼を通せば『黄金の魔力』を放っているチート素材の塊――を、ためらいもなく湯船の中へドサリと放り込んだ。
瞬間。
無色透明だったお湯が、まるで魔法のように、透き通った美しいエメラルドグリーンへと染まり上がった。
同時に、鼻の奥をくすぐるような爽やかなハーブの香りと、大地から湧き出すような力強い生命力の匂いが、湯気と共に周囲に立ち込める。
「な、なんだこの湯は……!? 匂いを嗅いだだけで、頭の芯がスッキリしやがる……」
「私の特製の『薬湯』よ。ちょっと腰痛や関節痛に効く成分を多めに配合しておいたから。服を脱いで、ゆっくり肩まで浸かってみて」
シズルはそう言って、脱衣所代わりに立てられた衝立の奥へとガストンを促した。
「ま、待て待て! いくらなんでも、ただのお湯に草を入れただけで、俺のこの何十年も物の年代物の腰痛が治るわけがねえ! 街の教会の高位神官様だって、匙を投げたんだぞ!」
ガストンは職人の意地で反論した。
彼の腰痛は、ただの筋肉疲労ではない。すり減った軟骨、固く縮こまった筋膜、そして圧迫された神経。それらが複雑に絡み合った、大工という職業がもたらす『呪い』そのものなのだ。若い娘がちょっと庭の草を煮出した程度の民間療法でどうにかなるほど、甘いものではない。
だが。
「……」
シズルは、反論するガストンをじっと見つめた。
その黒曜石のような深い瞳。どこまでも穏やかで、慈愛に満ちているのに、なぜか『絶対に逆らってはいけない』と思わせる、圧倒的な大人のプレッシャー。
「あのね、ガストンさん」
「ひっ」
「痛みを我慢して仕事をするのが『男の勲章』だと思っているなら、それは大きな間違いよ。……壊れた道具じゃ、良い家は建てられないでしょう?」
大工としての矜持を、真っ向から、しかし優しく突く言葉。
前世において、部下の体調不良を絶対に誤魔化させなかったシズルの『強制休養』のオーラが、ガストンの頑固な職人魂をあっさりと絡め取っていく。
「……わ、わかった。入ればいいんだろ、入れば……っ!」
半ば逃げるようにして、ガストンは衝立の裏へと隠れた。
ヴァルガの手を借りてなんとか衣服を脱ぎ捨てると、生まれたままの姿で、湯気を立てるエメラルドグリーンのお湯を睨みつける。
(どうせ気休めだ。お湯で温めて、少し痛みが散れば御の字ってとこだな……。さて、どんなもんか)
ガストンは湯船の縁に手をつき、ゆっくりと、腰に響かないように慎重に足を踏み入れた。
ちゃぷん、と。
つま先から、温かいお湯が身体を包み込んでいく。
「……あ?」
足先がお湯に触れた瞬間、ガストンは違和感を覚えた。
お湯が、ただの『熱』ではない。
まるで、目に見えない無数の小さな温かい手が、皮膚を通り越して筋肉の奥深く、骨の髄にまで直接マッサージを施してくるような、異常な感覚。
「な、なんだこりゃ……?」
驚きながらも、ガストンはゆっくりと腰を下ろし、エメラルドグリーンの湯に肩までどっぷりと浸かった。
――その瞬間だった。
「……っ!!!!??」
声にならない絶叫が、ガストンの脳内で木霊した。
それは、痛みによるものではない。
圧倒的な、そして暴力的ですらある『快感』と『治癒』の波が、彼の身体を津波のように呑み込んだのだ。
(な、なんだこのお湯は!? お湯が……俺の腰の中に、直接染み込んできやがる……!?)
ガストンの魔力感知能力は皆無だが、身体に起きている劇的な変化は嫌でも理解できた。
三十年間、酷使し続けてカチカチに石灰化していた背中と腰の筋肉。それが、熱したフライパンの上に置かれた極上のバターのように、ドロドロと心地よく溶け出していく。
すり減って、動かすたびに神経を削っていた腰椎の軟骨。そこに、清らかな霊水が注ぎ込まれ、まるで新品のクッションのようにふっくらと再生していく感覚。
炎症を起こして熱を持っていた神経の束が、ハーブの清涼感によってスゥーッと鎮められ、代わりに圧倒的な『生命力』が血管の隅々までドクドクと巡り始める。
「あ、あぁ……ぁぁぁ……っ」
ガストンの口から、自分でも聞いたことのないような、情けなくも間抜けな声が漏れた。
気がつけば、彼は湯船の縁に後頭部を預け、完全に脱力していた。
お湯に浮力があるとはいえ、これほどまでに身体から『重さ』が消えたのはいつ以来だろうか。
(痛みが……ない。……嘘だろ。腰の奥にあった、あの鉛みたいな重苦しさが……綺麗さっぱり消えちまった……!)
三十年だ。
三十年間、一日たりとも忘れたことのなかった腰痛。朝起きる時の恐怖。重いものを持ち上げる時の覚悟。
それらが今、このエメラルドグリーンのお湯に浸かっただけで、完全に、跡形もなく消え去ってしまったのだ。
「ふぁぁぁぁぁ……っ、極楽だぁ……」
頑固で気難しい大工の親方の顔は、今や完全に溶け落ち、ただの幸せそうなお爺ちゃんのようなだらしない笑顔になっていた。
鼻先までお湯に浸かり、目を閉じて深く息を吸い込む。
ハーブの爽やかな香りが肺を満たし、森の澄んだ空気が頭を冷やしてくれる。
時折、風に揺れる木々の葉音が、これ以上ない極上のBGMとなって耳を撫でる。
(教会の神官様の魔法なんか目じゃねえ。このお湯は……まさに神様の奇跡だ。いや、このお湯を作ったあの嬢ちゃんこそが、女神様なんじゃねえか……?)
ガストンは、先ほどまで「若い娘の民間療法」と侮っていた自分を恥じた。
この湯船は、ただの風呂ではない。職人の命である身体を、根本から作り直してくれる『再生の泉』だ。
長年の激痛から解放された安堵感と、あまりの心地よさに、ガストンの目からポロリと一筋の涙がこぼれ落ちた。もちろん、それはお湯と汗に混じって、誰にも気づかれることはなかったが。
◆
「ぷはぁーっ!!」
それから小一時間後。
すっかり茹でダコのように赤くなったガストンは、ヴァルガに声をかけられてようやく湯船から上がり、用意されていたゆったりとした麻の作務衣に着替えて縁側へと戻ってきた。
「お風呂、どうでしたか?」
縁側でティセとお茶を飲んでいたシズルが、ふわりと微笑みかける。
「……」
ガストンは無言のまま、縁側の前に立つと。
ふんっ、と気合を入れ、両手を地面につく勢いで、深く、深く前屈をしてみせた。
さらに、身体を反らし、腰をぐるぐると回す。
「……信じられねえ」
ガストンは、自分の身体を触りながら震える声で呟いた。
痛くない。
まったく、欠片も痛くないのだ。
それどころか、二十代の頃のようなバネと柔軟性が戻ってきている。関節の可動域が広がり、どんな無理な体勢をとっても、ギシッという嫌な音一つ鳴らない。
「嬢ちゃん……いや、シズル様」
ガストンは、ドスンドスンと足音を立てて縁側へ歩み寄ると、シズルの前で勢いよく土下座をした。
「な、なに!? どうしたのガストンさん!」
「俺は……俺はとんでもねえ思い上がりをしていました! あんたのお湯は、世界一だ! 教会の魔法も、王都の医者も足元にも及ばねえ、最高の奇跡だ!!」
土下座をしたまま、ガストンは感極まったように叫んだ。
「この腰が治った恩は、一生かかっても返しきれねえ! 俺の、俺の全てを懸けて……この山小屋を、世界で一番住み心地の良い最高の大豪邸に改築させてもらいやす!!」
「えっ、大豪邸!? いや、そんな大きな家はいらないんだけど……」
「いいえ! 俺の職人魂が、このままじゃ収まらねえと叫んでるんです! もちろん、最高の木材と技術で、先ほどの露天風呂もさらに立派な『温泉施設』に作り変えてみせますぜ!」
先ほどまでの「こんな山奥で仕事ができるか」とぼやいていた頑固親方の姿は、そこには微塵もなかった。
完全に、シズルの特製薬湯(温泉)の虜となり、骨抜きにされてしまったのだ。
「あ、その前にこれ、どうぞ。お風呂上がりの水分補給に」
シズルが困ったように笑いながら、竹のコップを差し出す。
中には、冷たい湧き水に特製の蜂蜜と、レモンのような酸味のある果実の汁を絞った、特製のハーブ水が入っていた。
「お、おう。いただ、きます」
ガストンがそれを受け取り、一口飲む。
キンキンに冷えた甘酸っぱい液体が、火照った身体と乾いた喉に、暴力的なまでの爽快感をもたらした。
「……っ!! かぁぁぁぁっ! ウンめぇぇぇぇ!!」
ガストンは目をひん剥き、ゴクゴクと一気にコップを飲み干した。
風呂上がりの、冷たい一杯。
長年の激痛から解放された完璧な健康体と、この大自然の美味しい空気。そして、自分を心から労ってくれる美しい女将。
(……もう、街に帰りたくねえな)
ガストンは心の中で、本気でそう呟いた。
このままこの山の専属大工になり、毎日この薬湯に浸かり、この美味い水を飲んで生きていきたい。
彼の中で、仕事の優先順位が『街の権力者』から『この山小屋の増築(という名の長期滞在)』へと、完全に書き換えられた瞬間だった。
「よし! 野郎ども(ヴァルガとローウェン)! さっそく増築の図面を引くぞ! まずはキッチンの拡張と、ティセ嬢ちゃんの部屋、それから露天風呂の屋根とウッドデッキの増設だ!」
「おおっ! 頼もしいな親方!」
「資金ならいくらでも出しますよ! 最高の家を頼みます!」
すっかり意気投合し、図面(ただの木の板)を囲んで盛り上がり始める男たち。
その光景を見ながら、シズルは「大豪邸は掃除が大変だから嫌だなぁ……」と、幸せな溜息をつくのだった。
こうして、ランズベリーで一番の頑固で気難しい大工の親方は、伝説の薬師が作り出した『圧倒的な癒やしの温泉』の前に完敗し、山の新たな住人(通い妻ならぬ、通い大工)として、愉快なスローライフの輪に加わることとなったのである。




