第5章:腰痛持ちの頑固な大工、特製薬湯(温泉)で骨抜きにされる 第1話:悲鳴を上げる腰椎と、気難しい職人肌
魔眼の少女ティセが、シズルのアシスタント(兼、初めての同居人)としてこの山小屋に迎え入れられてから、数週間の月日が流れた。
「ティセちゃん、そっちの薬草の束、もう少し乾燥させたいから日当たりのいい場所に移してくれる?」
「はいっ! お姉さん、お昼ご飯のスープの下ごしらえも終わってますよ!」
「ありがとう。ティセちゃんがいてくれると、本当に助かるわ」
ふわりと微笑むシズルと、嬉しそうに尻尾を振る子犬のようにパタパタと立ち働くティセ。
二人暮らしの生活は、シズルが当初想像していた以上に快適で、温かいものだった。ティセの魔眼による薬草の選別作業は完璧で、シズルの負担は大きく減った。空いた時間でシズルは新しい料理に挑戦したり、ティセに簡単な文字や計算を教えたりと、まるで本物の姉妹か母娘のような、穏やかなスローライフを満喫していた。
――ただ、一つだけ問題があった。
「シズル殿! 街の市場で新鮮なトマトが手に入ったのだ! これでまた、あの酸味の利いた煮込み料理を作ってもらえないだろうか!」
「おう嬢ちゃん! 今日は珍しくデカい熊が獲れたぜ。こいつの肉は精がつくからな、ティセの嬢ちゃんにもたっぷり食わせてやろうぜ!」
「お待たせいたしましたシズル様! 本日は我が商会が総力を挙げて仕入れた、南国の珍しい果物をお持ちしましたよ!」
ドカドカと。
週末ともなれば、この山小屋には『シズル防衛網』の面々――女騎士エリノーラ、凄腕傭兵ヴァルガ、若き大商会長ローウェンの三人が、両手いっぱいの土産を抱えて嬉々として押しかけてくるのだ。
「みんな、いらっしゃい。……って、ちょっと待って。テーブルの上がもうお土産でいっぱいよ」
シズルが苦笑するのも無理はない。
もともとこの山小屋は、シズルが「一人で細々と暮らすため」に建てられた、こぢんまりとしたワンルーム(プラス小さな寝室)程度の広さしかないのだ。
そこに、大柄なヴァルガが座り、エリノーラが鎧の音を鳴らし、ローウェンがうやうやしく果物の箱を広げ、さらにティセがちょこまかと動き回ると、もはやすれ違うことすら困難なほどの人口密度になってしまう。
「うーむ……」
壁際まで押しやられながら、ローウェンは顎に手を当てて真剣な顔で呟いた。
「シズル様。やはり、この家は手狭すぎます。貴女の平穏な生活を守るためにも、そして我々が気兼ねなく寛ぐ……コホン。貴女がより快適に過ごすためにも、家の『増築』を行うべきです」
「増築? でも、こんな山奥に大工さんを呼ぶなんて大変でしょう。お金だってかかるし……」
「ご心配には及びません。建築費用はもちろん、我がローウェン商会が全額負担いたします。シズル様の専属商人として、住環境の整備は当然の義務ですから!」
ドンッと胸を叩くローウェン。
シズルは遠慮して断ろうとしたが、ヴァルガもエリノーラも「確かに狭い」「広いキッチンがあればもっと色々な料理が作れるぞ」と口々に賛同し始め、すっかり増築の流れができあがってしまった。
「すでに、心当たりはあります。この街で一番腕が良く、口は固く、そして何より『仕事に妥協を許さない』最高の親方を知っていますから。……数日以内に、必ずここに連れてまいりましょう」
ローウェンは不敵な笑みを浮かべ、密かに計画を練り始めるのだった。
◆
辺境の街ランズベリーの裏路地。
そこに工房を構える『ガストン建築工房』は、街の誰もが認める最高峰の技術を持つ大工集団だった。
「てめえら! その柱の鉋がけ、あと数ミリ甘えぞ! 俺の現場で妥協は許さねえ、やり直せ!!」
工房に響き渡る、雷のような怒声。
声の主は、この工房の親方であるガストンだ。
年齢は五十代半ば。白髪交じりの短髪に、深い皺が刻まれた強面。腕は丸太のように太く、長年の過酷な現場仕事で鍛え上げられた分厚い胸板には、無数の小さな傷が刻まれている。
典型的な「職人気質で頑固な親方」であり、領主からの依頼であろうと、気に食わない仕事は平気で蹴り飛ばす男だった。
「……っ、痛ぇ……」
弟子たちを怒鳴り散らした後、ガストンは作業台の影に隠れるようにして、太い手で自分の『腰』をドンッと叩いた。
(くそっ……。最近、ますます腰の爆弾が酷くなってきやがった)
ズシン、と。腰の奥底に、重い鉛を埋め込まれたような鈍い痛みが走る。
長年、自分の体重よりも重い木材を肩に担ぎ、無理な体勢でノコギリを引き、屋根の上で中腰の作業を続けてきた代償だった。
大工にとって、腰痛や関節痛は職業病のようなものだ。若い頃は一晩寝れば治っていた。だが、五十を過ぎたあたりから、その痛みは確実にガストンの身体を蝕み始めていた。
朝起きる時の、背骨が完全に固まってしまったような絶望的な強張り。
重いものを持ち上げようとした瞬間に、ピキリと走る冷たい電気のような痛み。
特に、雨が降る前日や今日のように冷え込む日は最悪だ。骨と骨の間にある軟骨がすり減り、直接ゴリゴリと擦れ合っているような、えぐられるような痛みが四六時中つきまとってくる。
「親方、大丈夫ですか? 最近、よく腰を叩いてますけど……」
「馬鹿野郎! 俺の腰は鋼鉄製だ、心配すんじゃねえ! さっさと手を動かせ!」
心配する弟子を怒鳴りつけて追い払うが、ガストンの額には冷や汗が滲んでいた。
(街の医者でもらった湿布も、気休めにしかならねえ。……だが、俺が現場を休んだら、この工房の仕事は回らねえんだ)
休むわけにはいかない。痛みを酒で散らし、湿布を何枚も重ね貼りして、気合と根性だけで己の身体を誤魔化し続ける。それが、不器用な昭和気質……もとい、職人気質のガストンの生き方だった。
そんな限界ギリギリの腰を抱えるガストンの工房に、一人の客が訪れた。
「お忙しいところ失礼します、ガストン親方。本日は、あなたにしか頼めない特別な仕事を持参しました」
完璧な商人の笑顔を貼り付けた、ローウェンだった。
ローウェンは、工房の隅にガストンを招き入れると、周囲に聞かれないよう声を落として本題を切り出した。
「魔の森の奥深くにある山小屋の、増築工事をお願いしたいのです」
「はぁ? 魔の森の奥だぁ?」
ガストンは呆れたように顔をしかめた。
「冗談じゃねえぞ。あんな魔物ウヨウヨの山奥に、大工が入って仕事なんてできるか。それに、俺は今、街の神殿の修繕で手一杯だ。他の大工を当たりな」
にべもなく断るガストン。
実際、彼の腰の状態を考えれば、険しい山道を登って現場に通うなど自殺行為に等しい。
しかし、ローウェンは引き下がらなかった。
「他の大工では駄目なのです。あそこには、私の……いや、この街にとって最も大切な『恩人』が住んでいる。絶対に手抜きをしない、完璧な技術を持ったあなたにしか任せられない」
ローウェンが提示した金貨の額は、小さな家が一軒建つほどの破格のものだった。
だが、ガストンの心を動かしたのは金ではない。ローウェンの目だった。
これまで利益のことしか頭になかったはずのこの若き商人が、まるで神聖な儀式でも依頼するかのような、真摯で切実な目をしていたからだ。
(……この金の亡者が、ここまで惚れ込む『恩人』だと? 一体どんな大層な奴が住んでやがるんだ)
職人としての好奇心と、プライドをくすぐられたガストン。
「……チッ。仕方ねえ。とりあえず現場の視察だけは行ってやる。だが、気に入らなけりゃその場で断るからな!」
「ありがとうございます! 護衛の傭兵は手配済みです。明日の朝、出発しましょう!」
ガストンは、内心で激しく痛む腰に「明日だけはもってくれよ」と祈りながら、忌々しげに舌打ちをしたのだった。
◆
翌朝。
「……っ、が……っ、くそったれが……!」
ガストンは、魔の森の急な斜面で、何度も立ち止まっては腰を丸めて呻いていた。
山登りなど何年ぶりだろうか。普段の現場仕事で使う筋肉とは全く違う場所を酷使され、爆弾を抱えた腰椎が、一歩足を踏み出すたびに「ギシッ、メリッ」と嫌な音を立てて悲鳴を上げている。
(腰が……砕ける……っ。やっぱり断るべきだった……!)
護衛として同行している大柄な傭兵は、重い資材の一部を軽々と担ぎながらスイスイと登っていくというのに。ガストンは脂汗をダラダラと流し、持ってきた杖(という名の木の枝)に縋りつくようにして、なんとか前へ進んでいた。
「親方、大丈夫か? もう少しで着くぞ」
「うるせえ! 俺の足腰を舐め……っ、い、いててててっ!」
強がるものの、ついに耐えきれずにその場にうずくまってしまう。
下半身の感覚が痺れ、腰から背中にかけて、燃えるような激痛が走っていた。
(最悪だ……。これじゃあ、現場を見るどころか、帰りの山道すら降りられねえぞ……)
激痛と屈辱に唇を噛みしめながら、ガストンはようやく視界が開けた場所へとたどり着いた。
「着いたぜ。ここがシズル嬢ちゃんの家だ」
ヴァルガの声に、ガストンは顔を上げた。
そこに建っていたのは、彼が想像していたような「世捨て人の怪しい小屋」ではなかった。
丸太の組み方は少々素人臭いが、手入れが行き届き、陽だまりのような温かさを放つ、なんとも居心地の良さそうな空間だった。
そして、その庭先で。
「あ、ヴァルガさん! それに、大工の親方さんも! お疲れ様です!」
シーツを干していた女性が、振り返って花が咲くような笑顔を見せた。
黒曜石のような深い瞳と、艶やかな黒髪。三十路を少し超えた大人の色香と、底知れぬ母性を感じさせる美女だった。その隣には、紫色の右目を持つ可愛らしい少女が、ひょこりと顔を出している。
(なんだ……? こんな山奥に、こんな綺麗な女が……?)
ガストンが呆気にとられていると、シズルはすぐに冷たいハーブ水を木組みのコップに注ぎ、小走りで近づいてきた。
「よくいらっしゃいました。山登り、すごく大変だったでしょう?」
シズルからふわりと香る、甘く爽やかな匂い。
冷たいハーブ水を差し出され、ガストンはドギマギしながらそれを受け取った。
「お、おう。まぁ、俺くらい鍛え抜かれた職人にとっちゃ、こんな山道は庭みたいなもんで……っ、ぐあぁっ!?」
見栄を張って背筋を伸ばそうとした瞬間。
ガストンの腰に、本日最大級の『ピキリッ』という雷が落ちた。
「痛っ……! い、いかん、腰が、抜け……っ!」
ガストンはコップを持ったまま、生まれたての小鹿のように膝をガクガクと震わせ、無様にその場にへたり込んでしまった。
「ああっ、親方さん!?」
(終わった……俺の、大工人生が……。こんな所で、見ず知らずの若い女の前で……)
激痛と恥ずかしさで顔を真っ赤にするガストン。
しかし、シズルは彼を嘲笑うことも、呆れることもなかった。
彼女はすぐにガストンの傍にしゃがみ込み、その分厚く硬い背中に、そっと柔らかな手を添えたのだ。
「大丈夫ですか? ……あなた、腰が酷いことになっているわね」
「な、なに……?」
「わかるわよ。職人さん特有の、長年無理をしてきた『重くて硬い背中』をしてるもの。……すごく痛かったでしょう。よくこんな山道、登ってきてくれましたね」
シズルの瞳には、痛みに耐えるガストンへの深い労いと、絶対的な包容力が宿っていた。
彼女の手から伝わってくる温もりと、その「痛みを理解してくれている」言葉に、ガストンの強張っていた頑固な心が、ほんの少しだけ揺らいだ。
「よし。増築の打ち合わせは後回しね。ティセちゃん! ちょっと裏庭の『あれ』の準備を手伝って!」
「はいっ、お姉さん!」
シズルは立ち上がると、腕まくりをしてニッコリと微笑んだ。
「せっかく山奥まで来てくれたんだから。まずはその悲鳴を上げている可哀想な腰を、最高の『特効薬』で癒やしてあげるわ」
伝説の薬師による、頑固な腰痛持ち大工への「骨抜き」の儀式が、今まさに始まろうとしていた。




