第3話:招かれざる客と、魔女の盾
泣き疲れて眠ってしまったティセが再び目を覚ましたのは、翌朝のことだった。
小鳥のさえずりと、窓から差し込む柔らかな朝日。そして、キッチンの方から漂ってくる、パンの焼ける香ばしい匂いとベーコンがはぜる音。
それは、彼女のこれまでの十二年間の人生において、最も穏やかで、信じられないほど平和な朝の風景だった。
(……夢じゃ、なかったんだ)
ティセはふかふかのシーツをぎゅっと握りしめた。
昨夜、シズルは泥だらけだったティセを温かいお風呂に入れ、傷だらけの身体を丁寧に洗い、特製の軟膏を塗ってくれた。その薬のおかげで、全身にあった擦り傷や打撲の痛みは嘘のように消え去っている。
さらに、清潔で肌触りの良い麻のワンピースまで貸してくれたのだ。少しサイズが大きくて裾を引きずってしまうが、ティセにとっては王族のドレスよりも価値のあるものに思えた。
「あ、おはようティセちゃん。よく眠れた?」
キッチンから顔を出したシズルが、ふわりと微笑みかける。
その姿を見た瞬間、ティセの魔眼は再び、シズルから放たれる『圧倒的に温かい黄金の光』を捉えた。眩しいけれど、決して目を焼くことのない、陽だまりのような光。
「お、おはよう、ございます……」
「顔色、すっかり良くなったわね。さ、顔を洗ってきなさい。朝ご飯ができてるわよ」
促されるままに食卓につくと、そこには厚切りのベーコンエッグと、ふっくらとした黒パン、そして新鮮な野菜のスープが並べられていた。
ティセにとっては、どれも見たことのないようなご馳走だった。恐る恐るパンをちぎって口に運ぶと、小麦の甘みとバターの香りが口いっぱいに広がり、思わず頬が緩んでしまう。
(こんなに美味しいご飯、毎日食べられるのかな……。ううん、駄目だ。私、何にもお返しできない。このままじゃ、いつか捨てられちゃう……!)
孤児として、そして『呪われた忌み子』として生きてきたティセの心には、常に強迫観念が根付いていた。「役に立たない人間は生きていけない」「価値のない者は捨てられる」という、残酷な世界のルールだ。
「あのっ……お姉さん!」
「ん? シズルでいいわよ。どうしたの?」
「私、なんでもします! お掃除でも、お洗濯でも、ご飯の準備でも……! だから、ここに置いてくださいっ。捨てないで……っ」
必死に身を乗り出して懇願するティセ。
その悲痛な叫びに、シズルは少しだけ目を丸くした後、困ったように柔らかく微笑んだ。
「捨てるわけないじゃない。ここは私の家だもの、私がいいって言えばそれでいいのよ」
「でも……私、お返しできるものが何もない……」
「そう? じゃあ、朝ご飯を食べ終わったら、少しだけ私のお仕事を手伝ってもらおうかしら」
シズルの提案に、ティセはパァッと顔を輝かせた。「はいっ!」と元気よく返事をし、残りの朝食を夢中で平らげた。
◆
食後、二人が向かったのは、家の裏手にある薬草園だった。
そこには、ティセが見たこともないような色とりどりの植物が植えられており、小屋の縁側には、乾燥させるために仕分けされた草の束がいくつも並べられていた。
「この乾燥させた葉っぱの中から、傷んでるものを取り除いてほしいの。できるかしら?」
「はい! やります!」
ティセは意気込んで草の束に向かった。
そして、彼女は自分の右目を覆っていた前髪を少しだけ除け、魔眼の力を解放した。
(あ……わかる。わかるよ!)
普通の人間にはただの枯れ草にしか見えない束だが、ティセの魔眼を通すと、それぞれの葉に宿る『魔力の残滓』がはっきりと光となって視えたのだ。
強い光を放っている葉は良質で、光が濁っていたり消えかかっている葉は傷んでいる。ティセは迷うことなく、次々と不純物を取り除き、完璧な状態の薬草だけを瞬く間に選別していった。
「まぁ! すごいわね、ティセちゃん。こんなに早く、しかも完璧に仕分けてくれるなんて。私よりずっと上手かもしれないわ」
「ほ、ほんとですか……!?」
「ええ。やっぱり、ティセちゃんのそのお目々は、すごく素敵な才能ね。助かるわ」
シズルに頭を撫でられ、ティセは胸の奥が熱くなるのを感じた。
自分の魔眼が、誰かの役に立った。褒められた。
初めて味わう『承認』の喜びに、ティセの口元に自然と笑みがこぼれる。
(私、ここなら生きていける。この優しい光の中で、ずっと――)
――その時だった。
『ワンッ! ガウガウッ!! ワンッ!!!』
平和な静寂を引き裂くように、ひどく狂暴な猟犬の吠え声が森の入り口から響き渡った。
「……っ!!」
ビクンッ、と。ティセの小さな身体が、弾かれたように硬直した。
全身の血の気が一気に引き、顔面が蒼白になる。
猟犬の声だけではない。ドスドスという乱暴な足音と、下品な男たちの話し声が、確実にこの山小屋へ向かって近づいてきている。
『おい、犬がこの辺りで立ち止まったぞ。間違いない、あのガキの匂いだ』
『チッ、生意気にこんな森の奥まで逃げ込みやがって。見つけたら半殺しにしてやる』
その声を聞いた瞬間、ティセの脳裏に、暗く冷たい地下室の記憶がフラッシュバックした。
息ができない。喉がひゅっと鳴り、手足の震えが止まらなくなる。
「おじ、さん……っ」
ティセの魔眼は、森の木々の向こうから近づいてくる『おぞましい光』をはっきりと捉えていた。
泥のように濁り、悪意と欲望にまみれた赤黒い瘴気。間違いない、ティセを地下オークションで売り飛ばそうとしていた、あの悪徳商人の叔父だ。
逃げた商品を捕まえるため、荒くれ者の男たちを雇って追いかけてきたのだ。
「ティセちゃん? どうしたの、顔が真っ青よ」
異変に気づいたシズルが駆け寄ってくる。
ティセはガタガタと震えながら、シズルのエプロンをきつく握りしめた。
「き、来た……来ちゃった……! 捕まったら、殺される……っ、また、あの暗い所に……っ!!」
「落ち着いて。……もしかして、昨日あなたを追いかけてた人たち?」
ティセが泣きながら頷くと、シズルは縁側に並べていた薬草をパタンと片付け、ティセを抱きかかえて素早く家の中へと入った。
「いい? ベッドの下に入って、毛布を被って耳を塞いでいなさい。絶対に、私が出るまで出てきちゃ駄目よ」
「で、でも、お姉さんが……! あの人たち、すごく怖い人たちなの……っ。武器も持ってるし、犬も……っ!」
「大丈夫」
シズルは怯えるティセの震える両手を握り、まっすぐにその紫色の瞳を見つめた。
「ここは私の家よ。私の大事な場所に、泥靴で踏み込んでくるような真似は絶対に許さないから」
その時のシズルの声は、いつものふんわりとした優しいお姉さんのものではなかった。
ティセの魔眼が捉えたシズルの『黄金の光』が、その瞬間、信じられないほどの密度に圧縮され、一切の隙間もない『絶対的な盾』へと変貌するのを見た。
それは、暴力を以て敵を粉砕する光ではない。いかなる悪意も、理不尽も、暴力も決して通さないという、鋼のような『意志の壁』だった。
『ドンドンッ! ドンドンドンッ!!』
突然、玄関の重い木製ドアが、叩き割らんばかりの勢いで乱暴に叩かれた。
「おい! 開けろ! ここに薄汚いガキが逃げ込んだのはわかってるんだぞ! さっさと引き渡しやがれ!!」
叔父の怒声が外から響く。猟犬たちが血の匂いを求めて興奮し、ドアをガリガリと引っ掻く音が聞こえる。
ティセは言われた通りに寝室へ逃げ込み、ベッドの下で毛布を被って小さく丸まった。ガタガタと震える身体を抱きしめ、必死に耳を塞ぐ。
シズルは一つ深い深呼吸をすると、一切の怯えを見せることなく、玄関へと歩み寄った。
ガチャリ、と鍵を開け、ゆっくりとドアを引く。
「……何かご用かしら」
外に立っていたのは、予想通り、柄の悪い男たち五人と、血走った目をした猟犬を二匹連れた小太りの男――ティセの叔父だった。
彼らは皆、腰に粗悪な剣や棍棒を提げており、いかにも裏社会で汚れ仕事を引き受けているゴロツキといった風体だ。
叔父は、ドアから出てきたのが見目麗しい若い女だったことに一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに脂ぎった顔に下卑た笑みを浮かべた。
「チッ、なんだ女か。こんな山奥に住んでやがるとは変な奴もいたもんだな。……おい、ここに右目の色がおかしいガキが来ただろう! そいつは俺の『所有物』だ。さっさと引き渡せ!」
所有物。
その言葉を聞いた瞬間、シズルの心の中で、決定的に何かが冷たく凍りついた。
前世において、シズルが最も嫌悪し、決して許さなかったものがある。
それは、立場の弱い人間を、数字や道具としてしか見ない理不尽な搾取者たちだ。部下を使い潰し、心を壊しても平然としている上層部の人間たち。彼女はそんな連中から後輩たちを守るために、自らの命を削って戦い続けた。
ましてや、目の前にいるこの男は、血の繋がった姪を『所有物』と呼び、金のために売り飛ばそうとしている。
シズルにとって、万死に値するほどの絶対悪だった。
「……あなたたちが、あの子にあんな酷い怪我をさせたのね」
シズルの声は、氷のように冷たく、そして静かだった。
魔力も、戦闘能力もない。ただの一般人の女が放つ声。だが、その声に含まれた絶対的な拒絶と怒りの感情に、ゴロツキの男たちが一瞬だけ気圧されて後ずさる。
「あぁ!? なんだその態度は! いいか、あの忌み子は俺の商売道具なんだよ! 勝手に逃げ出して、商品に傷をつけやがって……! そいつはな、裏の貴族様に高く売れる極上の代物なんだ。さっさと出さねえと、お前も痛い目を見るぞ!」
叔父が凄み、威嚇するように猟犬の鎖を強く引く。
ガウガウと牙を剥き出しにする犬たちを前にしても、シズルは眉一つ動かさなかった。
彼女はドアの前に立ち塞がり、毅然とした態度で男たちを睨み据えた。
「帰りなさい。あの子は、誰にも渡さないわ。あの子は『商品』なんかじゃない。感情のある、一人の女の子よ」
「強情なアマだ……っ。人の権利を侵害しやがって! ええい、面倒だ! おい、そこの女をどかせ! 家の中を探し出して、ガキを引きずり出せ!」
叔父の命令を受け、ゴロツキの男たちがニヤニヤと卑猥な笑みを浮かべながら、武器を片手にシズルへと歩み寄ってくる。
「へへっ、少し痛い目を見りゃあ、大人しくなるだろ。綺麗な顔してるじゃねえか。ガキを見つけた後、少し遊んでやってもいいんだぜ?」
男の手が、シズルの髪を掴もうと伸びてきた。
シズルは逃げなかった。一歩も退かなかった。
彼女の背後には、あのベッドの下で震えている小さな宝石がいるのだ。絶対に、ここを通すわけにはいかない。
(私が、あの子を守る……!)
シズルが男を睨み返し、無力な拳を強く握りしめた、まさにその瞬間だった。
「――おっと」
背後の森から、地を這うような野太い、そして圧倒的な『殺気』を含んだ声が響き渡った。
「恩人の家の前で、薄汚い真似をするのは感心しねえな」
伸びていたゴロツキの手が、空中でピタリと止まる。
いや、止めざるを得なかったのだ。
森の木陰からヌルリと姿を現した『それ』から放たれる、あまりにも濃密で、圧倒的な暴力の気配に、男たちの生存本能が警鐘を鳴らしたからだ。
シズルはきょとんとして、声のした方角を振り返った。
そこに立っていたのは、身の丈をゆうに超える巨大な大剣を肩に担ぎ、凶悪な笑みを浮かべる凄腕の傭兵。
その背後には、白銀の鎧をチャキリと鳴らし、冷たい怒気と共に騎士剣を抜く女騎士。
さらにその後ろには、分厚い書類の束を片手に、氷のような笑顔を貼り付けた若手商人。
最強の傭兵、ヴァルガ。
騎士団長、エリノーラ。
大商会長、ローウェン。
「お、お前ら……なんだ!? どこから湧いて出やがった!」
狼狽する叔父たちを前に、三人の『シズル防衛網』を構成する猛者たちは、それぞれの武器と権力を手に、ゆっくりと、そして確実に、哀れな獲物たちを取り囲んでいった。




