第2話:神々しいスープと、怖くない目
「……ん」
深い闇の底から浮上するように、ティセは重い瞼を持ち上げた。
最初に意識を支配したのは、得体の知れない恐怖だった。
(……どこ? ここはまた、あの地下室?)
心臓が早鐘を打つ。反射的に身体を起こそうとして、ティセはすぐに自分の身体がひどく自由であることに気づいた。
手首には、いつも食い込んでいた冷たい鉄の枷がない。足首を縛っていた鎖の重さもない。
身体を覆っているのは、ボロボロのぼろ布ではなく、陽だまりのような温かさを孕んだ、ふかふかの清潔な毛布だ。
いつもなら、叔父の怒鳴り声や、空腹のあまり泣きわめく他の子供たちの声が聞こえる場所だ。
しかし、ここにはそんな騒音は一切ない。
耳を澄ませば、遠くで風が木々を揺らす音と、小鳥が囀るような心地よい音色、そして――トコトコ、と、誰かが柔らかい布の上を歩く足音が聞こえるだけだった。
「あ、気がついた? びっくりしたわ。ドアを開けたら、泥だらけの小さな子が倒れているんだもの。風邪を引いてなくて良かった」
鈴を転がすような、透き通った声だった。
ティセが恐る恐る顔を向けると、ベッドの脇の丸椅子に座っていたのは、夜の闇を溶かしたような艶やかな黒髪を持つ女性だった。
昨日、倒れる直前に見た、あの美しく優しい人だ。
ティセは反射的に身体を縮こまらせた。
彼女の魔眼は、この女性の姿を捉えている。
(この人は……一体、何者なの……?)
ティセの魔眼を通して視る世界は、常に不穏な光で満ちていた。
人々が抱える欲望、嫉妬、悪意、あるいは魔物が放つ暴力的な殺意。それらはすべて、泥のように濁った光としてティセの視界を汚していた。
しかし、目の前の女性は違った。
(眩しい……)
彼女の周囲には、濁りのない、透き通った黄金色の光が満ちていた。
それは、ティセが今まで見てきたどんな高貴な貴族のオーラよりも、どんな熟練の魔導師の魔力よりも、圧倒的に純度が高く、そして巨大だった。
まるで、太陽をそのまま小さな人の形に凝縮したかのような、圧倒的な生命力。
恐怖よりも先に、ティセはそのあまりの神々しさに、言葉を失った。
「お腹、空いてるでしょう? 何も食べていないみたいだったし、温かいスープがあるわよ。これなら消化にもいいし、身体も温まるわ」
シズルはそう言って、サイドテーブルに置かれた木製の器を手に取った。
ふわりと、鼻をくすぐる温かい匂い。
ティセの魔眼が、そのスープを捉える。
(うそ……っ!?)
ティセは戦慄した。
シズルが手にしたスープ。それは、ただの野菜と鶏肉を煮込んだ、家庭料理にしか見えないものだ。
しかし、ティセの魔眼には、その器から噴き出すようにして、とてつもない濃度の黄金色の光が立ち上っているのが視えた。
それは、街の薬師が一生をかけて調合する霊薬の、何百倍もの密度を持った魔力だった。
(なにこれ……? これ、ただのスープじゃない……。伝説の霊薬よりも、もっとすごい光……。この人は、一体何をしている人なの……?)
ティセが呆然と器を見つめていると、シズルは「熱いから気をつけてね」と、スプーンでスープをすくい、ふーふーと優しく息を吹きかけて冷ましてくれた。
その動作の一つ一つが、あまりにも人間的で、優しくて、ティセの知っている『大人』とはまるで違っていた。
「さ、あーんして」
促されるまま、ティセが恐る恐る口を開ける。
スプーンが口の中に運ばれ、とろりとしたスープが喉を通り過ぎた瞬間。
「……っ!」
身体の底から、力が湧いてくるのを感じた。
泥水の中で冷え切っていた身体が、急速に温められていく。
擦りむいて血が滲んでいた手足の傷口が、痒みを伴って急速に塞がっていくのがわかる。
何より、飢えでひどく痛んでいた胃が、嘘のように心地よい満腹感に満たされていく。
(すごい……。魔法……? いや、これはもっと根源的な、生命の力……)
「美味しい……」
思わずこぼれた本音に、シズルはとろけるような笑顔で微笑んだ。
「ふふ、良かった。たくさんあるから、ゆっくり食べていいわよ」
二口、三口とスープを運ぶうちに、ティセの張り詰めていた心が、少しずつ溶けていくのがわかった。
この人は、自分を売ろうとしない。殴ろうとしない。化け物だと罵ろうともしない。
ただ、目の前の子供がお腹を空かせているから、ご飯を食べさせてくれている。
それだけのことが、ティセにとっては奇跡のように思えた。
しかし、スープを半分ほど飲み進めたところで、ティセはハッとして自分の顔に手をやった。
右目を隠すように巻かれていた、汚い布。それがいつの間にか外されている。
「あ……!」
ティセは慌てて手で右目を覆い隠した。
(しまった……見られた……! この人も、私の目を気味悪がるはずだ。きっと、『気持ち悪い』って顔をする……!)
心臓が早鐘を打つ。
また、虐待が始まるかもしれない。追い出されるかもしれない。
ティセはギュッと目を閉じ、身体を震わせた。
「どうしたの? 目、痛いの?」
シズルの声が、すぐ近くで聞こえた。
あぁ、やっぱり。今に、罵声が飛んでくる。
「ち、ちがうの! ごめんなさい、私……この目、変な色で……気味が悪いでしょ……!? 呪われてるって、みんな言うの。私が生まれてきたから……だから……っ!」
溢れ出す涙とともに、ティセは言葉を絞り出した。
これまでずっと、飲み込み続けてきた苦しみだった。
「呪われてる? 気味が悪い?」
シズルは驚くこともなく、ただ優しく、ティセの手首を掴んだ。
そして、ゆっくりと、ティセが右目を覆っていた手を、そっとどかした。
「え……?」
シズルは、ティセの右目を、じっと覗き込んだ。
そこには、蔑みも、恐怖も、嫌悪もなかった。
あるのは、ただ、彼女の深い黒い瞳に映る、純粋な好奇心と、柔らかな慈愛だけだった。
「うーん……アメジストみたいで、とっても綺麗な色だと思うけど」
その言葉は、ティセの脳内で何度も反響した。
『綺麗』。
生まれて初めて、この目をそう呼んでくれる人がいた。
「え……?」
「前世……じゃなかった、私の故郷ではね、こういう瞳の色を『オッドアイ』って言って、むしろちょっとカッコいい憧れの的だったのよ。すごく神秘的で、素敵な宝石みたいって言われてたわ」
シズルは、まるでお気に入りのおもちゃを見つけた子供のような笑顔で、ティセの右目を愛おしそうに撫でた。
「こんなに綺麗な宝石を持っているんだもの。隠す必要なんて、どこにもないわよ」
その瞬間、ティセの中で何かが弾けた。
張り詰めていた心の重石が、音を立てて崩れ去っていく。
呪いだと思っていた自分の目が、誰かにとっては『宝石』になり得る。
否定され続けてきた自分の存在を、この人は全肯定してくれた。
「う、うあぁぁぁぁぁぁ……っ!」
ティセは声にならない声を上げて、シズルの胸に顔を埋めて泣き出した。
溜め込んでいた泥のような感情が、涙となって溢れ出す。
シズルは何も言わず、ただ優しく、震えるティセの頭をポンポンと撫で続けた。
その手は、冷たい地下室で震えていた頃の彼女に欲しかった、何よりも温かい場所だった。
この黄金の光を放つ人。この、どこまでも優しい人。
ティセは、もう二度と、この温もりから離れたくないと強く願った。




