第4章:魔眼の少女は、優しい居場所を見つける 第1話:泥だらけの逃亡者と、温かい光
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
肺が焼け焦げるように痛かった。
吸い込む空気は刃物のように冷たく、喉の奥を容赦なく切り裂いていく。
鬱蒼と生い茂る魔の森の獣道を、小さな影が転がるような勢いで駆け抜けていた。
十二歳になる少女、ティセだ。
彼女が着ているのは、麻袋に頭と腕を通す穴を開けただけの、粗末で薄汚い衣服。もはや服と呼ぶことすらためらわれる布切れは、泥と枯れ枝に引っかかってボロボロに引き裂かれていた。
靴などという上等なものは履いていない。裸足の小さな足裏は、鋭い石や棘のある草に何度も切り裂かれ、一歩踏み出すたびに赤い血の跡を腐葉土の上に残している。
だが、ティセは立ち止まることができなかった。
痛みに顔を歪め、涙で視界をぼやかせながらも、ただひたすらに前へ、もっと森の奥深くへと逃げるしかなかった。
「……っ、う……ぐずっ……!」
背後から、微かに犬の吠え声が聞こえた。
人間の大人の怒声と、松明の赤い光が、木々の隙間からチラチラと見え隠れしている。
追手だ。彼らは猟犬の鼻を頼りに、確実にティセを追い詰めてきている。
(捕まったら、殺される……っ。ううん、殺されるより、もっとひどい目に遭う……!)
ティセは、生まれつき右目が濁った紫色をしていた。
アメジストのように透き通った美しい紫ではない。どこか不吉で、底知れぬ深淵を覗き込むような、異質な色。
この世界において、その目は『魔眼』と呼ばれるものだった。
大気中に漂う魔力の流れや、人や物に宿る魔力、果ては感情の揺れ動きに伴う魔力の変質までを、視覚的な『光の糸』や『霧』として捉えることができる特異体質。
かつての神話の時代であれば、重宝された能力かもしれない。だが、現代においては、それはただの「呪われた忌み子」の象徴でしかなかった。
『気味が悪い! こっちを見るな、化け物!』
『どうしてうちから、こんな呪われた子供が生まれたの……っ。恥ずかしくて外も歩けないわ!』
両親は彼女を愛さなかった。
気味の悪い右目を隠すために、顔の半分を覆うような汚い布を巻かされ、家の奥の暗い地下室に閉じ込められて育った。食事は犬に与えるような残飯だけで、少しでも魔眼の力で「何かが見える」と言えば、激しい折檻を受けた。
やがて両親はティセを持て余し、遠方に住む親戚の叔父に、彼女をわずかな銀貨で売り飛ばしたのだ。
その叔父は、輪をかけて最低な人間だった。
表向きは真っ当な商人を装っていたが、裏では違法な品や奴隷を売りさばく悪党だった。叔父はティセの魔眼に目をつけ、彼女を『呪いの道具』として裏社会のオークションに出品しようと企んだのだ。
『いいか、お前はただの商品だ。俺の言う通りに大人しくしていれば、悪いようにはしねえ。だが、もし逃げようとしたら……この猟犬の餌にしてやるからな』
脂ぎった顔で、ティセを値踏みするように見下ろす叔父の目。
ティセの魔眼には、叔父の身体から立ち上る『どす黒く濁った欲望と暴力の魔力』がはっきりと見えていた。その色は、森に潜む魔物よりもずっと醜く、おぞましいものだった。
昨夜、叔父が酒に酔って見張りを怠った隙を突き、ティセは檻の鍵を盗み出して逃げ出した。
そして、誰も近づかない『魔の森』へと飛び込んだのだ。
森の中なら、追手もすぐには見つけられないだろうと思ったからだ。
しかし、それは十二歳の少女の浅はかな考えだった。
魔の森は、その名の通り魔物たちの巣窟である。
ティセの魔眼には、森のあちこちから立ち上る、暴力と飢えに満ちた『赤黒い瘴気』がはっきりと見えていた。右を向いても、左を向いても、命を刈り取る恐ろしい獣たちの気配で満ちている。
恐怖で頭がおかしくなりそうだった。
追手に見つかれば、地下のオークションで奴隷として売られる。
魔物に見つかれば、文字通り骨まで食い尽くされる。
どちらに転んでも、絶望しかなかった。
「あ……っ!」
その時、限界を迎えていたティセの足が、地面に張り出していた太い木の根に引っかかった。
「きゃあっ……!」
受け身を取る余裕すらなく、ティセの小さな身体は空中に放り出され、斜面を派手に転げ落ちた。
ゴツゴツとした石や木の枝に全身を打ち付けられ、最後は冷たくて臭い泥水たまりの中に、バシャリと音を立てて突っ込んだ。
「い、つぅ……っ、う、あぁ……っ」
泥水の中で咳き込みながら、ティセは必死に立ち上がろうとした。
だが、力が入らない。膝がガクガクと震え、手をついた地面の泥がぬるりと滑る。
三日三晩、まともな食事をとっていない身体は、とうに限界を超えていたのだ。
『ワンッ! ガウガウッ!!』
『こっちだ! 犬が匂いを嗅ぎつけたぞ!』
『あの忌み子め、見つけたらただじゃおかねえ……!』
斜面の上から、無数の足音と怒号が近づいてくるのが聞こえた。
松明の赤い光が、木々の隙間を縫ってティセのいる場所を照らし出そうとしている。
距離にして、もう数十メートルもない。
(……もう、だめだ)
ティセは泥水の中にうつ伏せになったまま、ぎゅっと目を閉じた。
痛いのも、怖いのも、もう嫌だ。
誰にも愛されず、化け物と罵られ、暗い地下室で震えるだけの人生だった。こんな世界に未練なんてない。ここで犬に噛み殺された方が、まだマシかもしれない。
絶望に支配され、自分の命を諦めようとした、その時だった。
(……え?)
ティセの隠された右目――魔眼が、微かな『光』を捉えた。
それは、松明の暴力的な赤い光でもなく、魔物が放つ赤黒い瘴気でもなく、叔父たちが放つどす黒い欲望の光でもない。
これまでの人生で、一度も見たことがないほど美しく、そして『温かい光』だった。
ティセは重い瞼をゆっくりと開け、光のする方角、森のさらに奥へと視線を向けた。
木々の隙間、少し開けた場所。
そこに、まるで春の陽だまりをそのまま切り取って固めたような、圧倒的な密度を持った『黄金色の光』が満ちていた。
その光は、周囲の恐ろしい魔物たちの瘴気を優しく押し除けるように、円形に広がっている。
光の糸が、ゆったりと、穏やかな呼吸のように明滅している。
そこには一切の悪意も、暴力も、欲望もなかった。ただひたすらに、凍えた心を溶かしてくれるような、絶対的な『安心』と『包容力』の魔力が立ち上っていたのだ。
(あそこ……あの光のところへ行けば……)
助かるかもしれない。
そんな確証はどこにもない。もしかしたら、もっと恐ろしい化け物が作り出した罠かもしれない。
だが、ティセの魂が、あの光にすがりつきたいと強烈に叫んでいた。
「う……ぁ……っ」
ティセは血だらけの指を泥に突き立て、這いつくばりながら、黄金の光の方角へと身体を引きずり始めた。
『あそこだ! あの泥だらけの影だ! 捕まえろ!!』
背後で男たちの声が弾け、猟犬たちが鎖を引きちぎらんばかりの勢いで吠え立てる。
足音が、地鳴りのように迫ってくる。
ティセは振り返らなかった。ただ無我夢中で泥を這い、枯れ葉を掻き分け、光の中心へと向かった。
やがて、鬱蒼とした木々が途切れ、視界がぱぁっと開けた。
そこにあったのは、こぢんまりとした可愛らしい丸太小屋だった。ティセの魔眼には、その小屋全体が、温かい黄金色のオーラで幾重にも守られているように見えた。
風が吹き抜け、鼻腔に甘く爽やかなハーブの匂いが届く。
血と泥と、カビの臭いしか知らなかったティセにとって、それは天国のような匂いだった。
「た、すけ……て……」
ティセは最後の力を振り絞り、小屋の玄関のドアに、泥だらけの手を伸ばした。
バタンッ、と。
小さな手のひらが重い木製のドアに触れた瞬間。
ティセを動かしていたアドレナリンが完全に切れ、彼女の意識は深い闇の中へと沈んでいった。
だが、最後に感じたドアの木の感触は、ひどく温かく、彼女の冷え切った身体に微かな希望を灯してくれていた。




