第5話:新たな専属商人(パシリ)の誕生と、完璧な防波堤
「……私の、負けです。シズルさん、と言いましたね」
ローウェンは、テーブルの上に放り出された分厚い契約書の束からゆっくりと手を離し、深く、深く頭を下げた。
それは、相手の機嫌を取るための計算高い商人の一礼ではない。自分という人間の脆さ、そして醜さを完全に包み込んでくれた、ひとりの偉大な大人の女性に対する、心からの敬意と謝罪の念だった。
「ごめんなさい。私は、どうかしていました。独占販売の件は、全て白紙に戻させていただきます」
「あら、いいの? さっきまであんなに『世界一の大富豪になる』って意気込んでいたのに」
シズルが目を丸くして尋ねると、ローウェンは自嘲気味に、しかしどこか晴れやかな顔で笑った。
「ええ。貴女のお薬は、決して金儲けの道具などにしてはいけないものだ。……それに、貴女を王都の権力争いや、商人たちの薄汚い泥沼の覇権争いに巻き込むのは、私の良心が咎めます」
もしこの薬が市場に出回れば、間違いなく血みどろの争いが起きる。
王族、大貴族、巨大商会。権力と金に群がる亡者たちが、この『奇跡の霊薬』を巡って殺し合いすら演じるだろう。そしてその矛先は、生産者であるこの無防備な女性に必ず向けられる。
軟禁され、自由を奪われ、一生薬を作り続けるだけの道具として飼い殺しにされる。そんな最悪の未来が、痛いほどはっきりと想像できた。
(そんなことは、絶対にさせてはならない)
ローウェンの中で、新たな感情が芽生え始めていた。
これまでは「いかに相手から利益を搾り取るか」しか考えてこなかった彼の心に、『守りたい』という強烈な庇護欲が湧き上がっていたのだ。
「そう? まぁ、私はもともと大富豪になんてなりたくないし、この山奥でのんびりスローライフが送れればそれで十分なんだけどね。わかってくれて良かったわ」
のほほんと笑いながら、シズルは冷めた白湯を美味しそうにすする。
そのあまりにも欲のない、マイペースな姿を見て、ローウェンは確信した。
この人は、自分が作り出している薬の『異常な価値』と、それが世界に与える影響の大きさを、全く、これっぽっちも理解していない。
本人は「ちょっとよく効く薬草茶」程度の認識なのだ。もし自分がここで身を引いたとしても、いずれ別の悪徳商人や強欲な貴族が、この山の存在に気がつくだろう。
そして、彼らが言葉巧みにシズルを騙し、あるいは暴力で脅し、このひだまりのように温かく優しい『聖域』を土足で踏み荒らすのは時間の問題だった。
(こんな優しくて、心地よい場所を……誰かに奪われてたまるものか……!)
ローウェンの胸の奥底で、一度は鎮火したはずの『野心』の炎が、全く別の色を帯びて再び激しく燃え上がった。
ただしそれは、金儲けのためではない。この癒やしの聖域と、恩人であるシズルを、世界中のあらゆる悪意から守り抜くための野心だった。
「シズルさん。独占販売の契約は結びません。貴女の薬を市場に流通させることもしません」
「うん」
「ですが、代わりに……私を、貴女の『専属の商人』にしていただけませんか?」
ローウェンが真剣な眼差しでそう切り出すと、シズルはきょとんと小首を傾げた。
「専属の商人? それってどういうこと?」
「言葉の通りです。山奥での一人暮らしは、色々と不便なことも多いでしょう。日用品の買い出しから、小麦粉や塩などの重い物資の運搬、衣類の調達、さらには貴女が気まぐれで作ったお薬の『適正価格での買い取り』まで、すべて私が無償で代行いたします」
ローウェンは、商人としてのこれまでの経験と交渉術のすべてを注ぎ込み、熱弁を振るった。
「つまり、貴女は一歩もこの山を下りることなく、街の便利な品物を手に入れ、快適なスローライフを送ることができるのです。もちろん、手数料や配送料は一切いただきません。私が個人的に、貴女の生活を全面的にバックアップさせていただきます」
それは一見すると、ローウェンにとって何の利益もない、ただの「都合のいいパシリ」になるという宣言だった。
だが、彼の狙いは別にあった。
彼が日用品の搬入ルートと薬の買い取りを完全に独占することで、シズルと外界との接触を最小限に抑えることができる。さらに、彼自身が『壁』となって、他の商人が山へ近づくのを経済的な圧力で徹底的に阻止するのだ。
(私がローウェン商会の全財力とネットワークを駆使して、この山周辺の情報を統制する。噂を流布している者には圧力をかけ、怪しい動きをする同業者は徹底的に潰す……! 私は、彼女を守る『完璧な防波堤』となるのだ!)
頭の中で、冷酷かつ緻密な「シズル防衛網」の構築を計算し、一人で勝手に決意を固めているローウェン。
その鬼気迫る表情を見て、シズルは少しだけ引き気味に瞬きをした。
「えっと……つまり、ローウェンさんが、私の代わりに街でお買い物をして、ここまで届けてくれるってこと?」
「はい! その通りです! 何なりとお申し付けください!」
「……本当に? 重い荷物とか、嫌じゃないの?」
「嫌なものですか! むしろ、それが私の新たな生き甲斐です!!」
食い気味に断言する若き商会長に、シズルはぱぁっと花が咲くような明るい笑顔を見せた。
「えっ、すっごく助かるわー! 実は最近、前世……じゃなくて、故郷で使っていた『お醤油』とか『お味噌』みたいな調味料がどうしても手に入らなくて、すっごく困ってたのよ!」
「お醤油……お味噌、ですか?」
「そう! お肉を焼くにも塩とハーブだけじゃ飽きちゃうし、どうしてもあのしょっぱい味が恋しくて。街の市場なら、そういう輸入物の調味料って売ってるかしら?」
シズルが目を輝かせて尋ねてきたのは、魔法のアイテムでも高価な宝石でもなく、ただの「調味料」だった。
国宝級の薬を作り出す伝説の薬師の要求が、あまりにも庶民的でささやかなことに、ローウェンは一瞬呆気に取られた。
「あ、でも重いし、値段も高いわよね……。ごめんなさい、やっぱり今のナシで――」
「お任せくださいッ!!!」
ローウェンは勢いよく立ち上がり、バンッと自分の胸を強く叩いた。
「このローウェン商会の名にかけて、世界中から最高級のお醤油とお味噌をかき集めてみせます! 明日……いえ、三日後には必ず、この国で最も美味い調味料を貴女の元へお届けに上がります!!」
「えっ、そんな、無理しなくていいわよ!?」
「無理などしていません! むしろ私の商魂が今、激しく燃えたぎっております! では、善は急げだ。早速手配に向かいます!」
ローウェンは鞄をひったくると、弾かれたように玄関へと向かった。
彼の顔には、先ほどまでの疲労や苦痛の影は微塵もなく、新たな目標を見つけた少年のようにキラキラとした生気が満ち溢れている。
「あ、ちょっと待って! 忘れ物!」
シズルが慌てて追いかけ、テーブルに置きっぱなしになっていた契約書の束と、小さな包みを彼に手渡した。
「これ、残ったお薬。また胃が痛くなったら、お湯に溶かして飲みなさいね」
「シズル様……っ」
手渡された包みからは、あの甘く優しいハーブの香りがした。
ローウェンはそれを両手で大切に受け取ると、胸の奥が熱くなるのを感じた。
金貨何万枚積んでも買えない、世界で一番価値のある薬。それを彼女は、ただ「胃が痛いなら飲みなさい」と、無償の優しさで与えてくれる。
「ありがとうございます。……この御恩は、必ずお返しいたします」
「大げさね。次来る時、美味しいお醤油と、あと甘いお菓子でも買ってきてくれたらそれでいいわ」
「はいっ! 必ずや!」
深く一礼し、ローウェンは山小屋を後にした。
◆
夕暮れ時。
オレンジ色に染まる魔の森の山道を下りながら、ローウェンは自分の身体の軽さに驚愕し続けていた。
「……信じられない。あんなに険しかった山道が、まるで平地のように歩きやすい」
登ってくる時は一歩進むごとに胃が引き裂かれそうになり、冷や汗を流していたというのに。今は足取りが羽のように軽く、息切れ一つしない。
胃の痛みは完全に消え去り、それどころか、慢性的な肩こりや目の疲れまで綺麗に吹き飛んでいた。彼の身体は今、十代の頃のような完璧な健康状態を取り戻していた。
(シズルさん。貴女は本当に、恐ろしい人だ……)
ローウェンは懐にしまった薬の包みを、衣服の上からそっと撫でた。
(私は誓う。貴女のあの平穏な生活は、このローウェンが命に代えても守り抜いてみせる)
彼は歩きながら、頭の中で次々と指示書を組み立てていった。
まず、街に戻ったら商会の裏の部隊を動かし、シズルが住む山の情報を徹底的に遮断する。酒場で噂を流している傭兵や冒険者には金を握らせて口を塞ぎ、それでも嗅ぎ回る同業者がいれば、経済的な圧力をかけて商売を干し上げる。
そして、王都の特別な伝手を使って、最高級の輸入調味料を最優先で確保する。
利益のためではない。
あの優しく、自分を甘やかしてくれた大人の女性に「ありがとう」と微笑んでもらうためだけに、若き天才商人は己のすべての才能を注ぎ込むことを決意したのだ。
「ふふっ……ははははっ!」
ローウェンは、誰もいない山道で一人、声を上げて笑った。
かつては金貨の枚数しか信じられなかった彼が、今は「醤油の買い出し」という任務に、これまでにないほどの高揚感と誇りを感じている。
そのことがおかしくて、そして嬉しくてたまらなかったのだ。
こうして、利益を追求する冷徹な亡者であった野心家の商人は、完全に牙を抜かれ――いや、より強靭な牙と財力を持った『伝説の薬師の専属パシリ兼、最強の防波堤』へと見事なクラスチェンジを果たしたのだった。




