第4話:利益の向こう側と、大人の説教
深い、泥のような眠りだった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。窓から差し込む光の角度から推測するに、数十分、あるいは一時間程度かもしれない。だが、ローウェンにとってそれは、ここ数年で最も質の高い、完全な安息の時間だった。
「……ん、ぁ……」
ゆっくりと瞼を開けると、視界の端で木漏れ日が優しく揺れていた。
意識が完全に覚醒していくのと同時に、ローウェンは自らの身体に起きている『劇的な変化』に気がついた。
(痛みが……ない。完全に、消えている)
信じられない思いで、ソファからそっと上体を起こす。
いつもなら、起き上がるという動作だけでみぞおちが重く痛み、胃液が逆流するような不快感に襲われるはずだった。しかし今はどうだ。鉛のように重かった内臓は羽のように軽く、深呼吸をすると、新鮮な空気が身体の隅々にまでスムーズに行き渡るのがわかる。
シャツのボタンを外し、恐る恐る自分の腹部を触ってみる。熱を持っていた胃の周辺はすっかり平熱に戻り、押しても引いても、あの絶望的な激痛は微塵も走らなかった。
そればかりではない。
酷使し続けて霞んでいた視界は驚くほどクリアになり、慢性的な睡眠不足で常に重かった頭脳は、朝一番の冷水を浴びたように冴え渡っている。身体の奥底から、信じられないほどの活力がマグマのように湧き上がってくるのを感じた。
(なんという……なんという薬だ。あのたった一杯の薬湯が、私のボロボロだった胃袋を、いや、全身の疲労を完全にリセットしてしまったというのか……!?)
ローウェンの中で、休火山となっていた商人としての本能が、凄まじい勢いで爆発した。
この薬の真の価値。それは「怪我を治す」ことではない。
王都の貴族や、大商会の重鎮、あるいは国を動かす高官たち。彼らは皆、ローウェンと同じように過度なストレスと不規則な生活で内臓を痛め、慢性的な疲労に苦しんでいる。
もし、彼らにこの『一瞬で内臓のダメージと疲労を完全にリセットする薬湯』を売り込んだらどうなるか。
(売れる……! いや、売れるなどという次元ではない! 彼らは競って金貨の山を積み上げ、この薬を求めるはずだ! 健康と活力を金で買えるとなれば、富裕層はどれほどの財産でも投げ出す……!)
ローウェンの頭脳は、これまでにないほどの超高速で回転し始めた。
販売ターゲットは王都の特権階級に絞る。パッケージは最高級のクリスタルガラスの瓶を使用し、一本あたりの価格は庶民の生涯年収に匹敵する額に設定する。徹底的なブランド化と希少性の演出。供給量を極限まで絞り、オークション形式で販売すれば、価格は青天井で跳ね上がる。
この薬の独占販売権さえ握れば、ローウェン商会は辺境の街のいち商会から、王国全土を支配する巨大な経済帝国へと成り上がることができる。
「素晴らしい……っ! 素晴らしいぞ!!」
完全な健康体を取り戻した万能感と、目の前に広がる無限の黄金の海。
その二つに酔いしれ、ローウェンは先ほどまでの激痛などすっかり忘れ去り、バンッと勢いよくソファから立ち上がった。
テーブルの上に置きっぱなしになっていた分厚い契約書の束をひったくるように手に取り、興奮で目を血走らせる。
「あ、起きたのね。気分はどう……って、ちょっと!?」
ちょうどその時、洗面器と冷たいタオルを持ったシズルがリビングに戻ってきた。
先ほどまで虫の息だった青年が、目をギラギラと輝かせて契約書を振り回している姿を見て、彼女は目を丸くして驚いた。
「シズル様! 私は愚かでした!!」
「えっ? は、はい?」
「貴女様のお薬の価値を、私は根本から見誤っていた! 先ほどの条件はすべて白紙にしましょう! 我が商会の利益率を極限まで削り、売上の八割……いや、九割を貴女様に還元することをお約束します!!」
ローウェンはシズルに歩み寄り、捲し立てるように熱弁を振るい始めた。
「この薬は、世界を変えます! 王都の貴族どもを完全に依存させ、莫大な富を搾り取ることができる魔法の霊薬だ! 私に任せていただければ、貴女様をこの国で一番の、いや、世界一の大富豪にしてみせます! さあ、今すぐこの契約書にサインを!!」
唾を飛ばさんばかりの勢いで契約書を突きつけるローウェン。
彼は完璧に『計算高い野心家の商人』へと戻っていた。いや、一度地獄の苦しみから解放されたことで、その野心は以前よりもさらに肥大化し、暴走している状態だった。
自分を親身になって看病してくれた女性に対する感謝よりも、利益の計算が完全に上回ってしまっていたのだ。
「さあ! これで私たちは最高のパートナーだ! 黄金の未来が、私たちの足元に――」
――ペチンッ!!
小気味良い音が、静かな山小屋のリビングに響き渡った。
「…………へ?」
ローウェンは、間の抜けた声を漏らして動きを止めた。
彼のおでこには、赤い指の跡がくっきりと残っている。
シズルが、無防備に近づいてきたローウェンのおでこを、容赦なく中指で弾き飛ばしたのだ。
「い、たっ……!?」
「あのねぇ」
おでこを押さえて涙目になるローウェンを見上げ、シズルは両手を腰に当て、これまでにないほど大きな溜息をついた。
その表情からは、先ほどまでのふんわりとした優しい微笑みは完全に消え去っている。代わりに浮かんでいたのは、出来の悪い弟、あるいは聞き分けのない後輩を叱りつけるような、呆れと怒りが入り混じった『大人の女性の顔』だった。
「少し痛みが引いたからって、調子に乗らないの」
冷水を浴びせられるような、静かで、しかし絶対的な威圧感を持った声。
ローウェンは思わずビクッと肩をすくめた。王都の大貴族に凄まれた時でさえ、こんなに心臓が縮み上がるような感覚は味わったことがなかった。
「シ、シズル、様……? 私はただ、このお薬の正当な価値を――」
「あなたね。あの薬湯を、なんだと思ってるの?」
シズルはローウェンの手から契約書の束をひったくると、それをテーブルの上にバサリと放り投げた。
「あの薬湯はね、あなたの壊れかけた胃粘膜を一時的に修復して、痛みを散らしただけよ。根本的にあなたの『狂った生き方』を治す魔法じゃないの」
「狂った生き方、だと……?」
「そうよ。睡眠時間を削って、プレッシャーで胃をキリキリ言わせて、まともなご飯も食べずに働き続ける。……そんな生活を続けていたら、どんなにいい薬を飲んだって、いつか必ず取り返しがつかなくなるわよ」
シズルの言葉は、冷たく、そして鋭かった。
前世でブラック企業に勤めていた彼女は、ローウェンのような人間を腐るほど見てきた。栄養ドリンクや強い胃薬で身体を誤魔化し、ハイになって働き続け、最後には心か身体のどちらかが完全に壊れて、二度と社会に戻れなくなっていった同僚たち。
薬で一時的に回復したからといって、同じペースで働き続ければ、次に待っているのは『死』か『再起不能の崩壊』だけだ。
「人間の身体はね、壊れても買い替えがきく商売道具じゃないの。お金をいくら積んだって、新しい胃袋は買えないのよ。……それなのに、痛みが消えた途端にまた徹夜して働く計算をしてるなんて、馬鹿じゃないの?」
「馬鹿……っ!」
面と向かって馬鹿呼ばわりされたローウェンの顔に、カッと血が上った。
孤児から這い上がり、血の滲むような努力で商会を築き上げてきた自負がある。その生き方を真っ向から否定され、彼の商人としてのプライドが激しく反発した。
「貴女に何がわかる!! 私は遊びで働いているわけじゃない! 商売とは、そういうものだ!」
ローウェンはテーブルに両手をつき、シズルを睨み下ろすようにして声を荒らげた。
「休めばライバルに蹴落とされる! 一度でも立ち止まれば、たちまち資金繰りがショートして商会は潰れるんだ! 私が歩みを止めるということは、私を信じてついてきてくれた従業員たちや、その家族が路頭に迷うということだ! 貴女のような山奥で呑気に暮らしている世間知らずに、数十人の命を背負う重圧がわかるものか!!」
激しい怒りと共に吐き出された言葉。
それは、ローウェンが心の奥底にずっと抱え込んできた、恐怖と重圧の叫びだった。
孤児院という地獄を抜け出し、もう二度とあの飢えと寒さを味わいたくないという強迫観念。そして、商会を大きくしてしまったがゆえに、自分一人ではなく多くの人間の人生を背負ってしまったという逃げ場のないプレッシャー。
だから、彼は立ち止まることができなかった。胃に穴が空こうと、寿命を削ろうと、働き続けるしかなかったのだ。
(しまった……っ)
言い放った直後、ローウェンはハッとして後悔した。
いかに感情的になったとはいえ、命の恩人である女性に向かって「世間知らず」などと暴言を吐くなど、あまりにも恩知らずで下劣な振る舞いだった。嫌われて当然だ。冷たく追い出されても文句は言えない。
だが。
ローウェンの激しい怒鳴り声を聞いても、シズルは怒ることも、怯えることもしなかった。
彼女はただ、どこまでも悲しそうな、胸を締め付けられるような切ない瞳で、息を乱すローウェンを見つめていた。
「……そうやって」
シズルが一歩、ローウェンに近づく。
そして、彼女の冷たくて柔らかな両手が、ローウェンの強張った頬を、そっと包み込んだ。
「え……っ」
「そうやって、全部、ぜーんぶ、あなた一人で背負い込んでるから……胃に穴が空きかけるのよ」
頬から伝わってくるシズルの体温と、そのあまりにも優しい声色に、ローウェンの怒りは一瞬にして霧散してしまった。
「……っ」
「従業員の生活を守るのは立派よ。すごく責任感があって、優しいのね、あなたは。……でもね」
シズルの親指が、ローウェンの目の下に残るうっすらとした隈を、優しく撫でた。
「あなたが過労で倒れて死んじゃったら、いくらお金が残ったって、従業員の人たちは悲しむだけじゃない。……『自分たちの生活のために、商会長が命を削って死んでくれて嬉しい』なんて思う人が、本当にいると思う?」
「それは……っ」
「上に立つ人間の一番の仕事はね、いつでも余裕のある顔をして、みんなが安心して働ける場所を作ることよ。……利益より、健康の方が絶対に大事。自分が壊れるまで働くのは、美徳でもなんでもないわ」
シズルの言葉は、鋭い刃物のようにローウェンの虚勢を切り裂き、最も柔らかい本音の部分に深く、深く突き刺さった。
孤児から成り上がり、誰にも弱みを見せず、常に完璧な商人として気を張って孤独に戦い続けてきた日々。
『休め』と言ってくれる人間など、ただの一人もいなかった。
みんな、彼がもたらす利益と金貨にしか興味がなかった。ローウェンがどれだけ苦しんでいようと、どれだけ睡眠を削っていようと、結果さえ出せばそれでいいと、誰もがそう思っていた。ローウェン自身も、そうだと思い込んできた。
しかし、目の前のこの女性は違う。
ローウェンがもたらす莫大な富の提案になど目もくれず、ただひたすらに、ローウェンという一人の青年の『命』と『心』を心配してくれている。
「もう十分頑張ってるんだから、少しは自分を労ってあげなさいな」と、その瞳が語りかけていた。
(あぁ……私は。私は……なんて、みっともない真似を……)
独占契約だの、利益だの。世界一の大富豪だの。
そんな薄汚れた欲望と金の話を、このひだまりのように温かく、無償の愛を与えてくれる女性に持ち込み、あまつさえ大声で怒鳴りつけてしまった。
自分が築き上げてきた『商人としての武器』が、ここでは全くの無価値であり、ただ周囲を傷つけるだけの不純物に過ぎないという事実を、ローウェンは痛感させられた。
ローウェンは、テーブルの上に放り出された契約書に視線を落とした。
つい先程まで、あれが自分の全てであり、成功の証明だと信じて疑わなかった。だが今の彼には、その羊皮紙の束が、自分を縛り付けていた醜い呪いの鎖のように見えた。
「……私の、負けです。シズルさん、と言いましたね」
ローウェンの目から、ギラギラとした野心の炎が完全に消え去った。
彼はシズルの手からそっと離れると、深く、深く、心からの敬意と謝罪を込めて頭を下げた。
それは、人を食ったような商人の作り笑いでもなく、虚勢を張った商会長の顔でもない。
ただの一人の、素直で不器用な青年の顔だった。




