第3話:限界の胃壁と、沁み渡る薬湯
ローウェンの意識は、灼熱の痛みの中で白く濁っていた。
みぞおちに焼け火箸を突っ込まれ、そのままグリグリと乱暴にかき回されているような絶望的な激痛。息を吸うことすら満足にできず、口からは声にならない掠れた呻きが漏れ続ける。
商人としての完璧な矜持も、頭の中で弾いていた莫大な利益の計算も、今はすべて吹き飛んでいた。
ただひたすらに、痛い。
これまでも胃の痛みには幾度となく悩まされてきた。孤児院を飛び出し、底辺から這い上がって商会を立ち上げてからの数年間は、まさに自分の胃壁を削って金貨に換えるような毎日だった。強欲な貴族の理不尽な要求に笑顔で頭を下げ、裏切りを企む部下を冷徹に切り捨て、ライバル商会の陰湿な妨害を出し抜く。その度に、彼の胃袋は悲鳴を上げていた。だが、強い酒や強烈な苦味を持つ薬草で無理やり痛みを散らし、誤魔化し続けてきたのだ。
「休めば、すべてを失う」
その強迫観念だけが彼を突き動かしてきた。しかし、人間の身体の耐久力は無限ではない。蓄積され続けたダメージと、今日この魔の森の険しい山道を不慣れな足取りで登ってきたという極度の肉体的・精神的疲労が引き金となり、ついに彼の胃袋は限界の向こう側へと達してしまったのだ。
「……あ、が……っ、はぁ、はぁ……っ」
薄れゆく意識の中で、ローウェンは自分が温かく柔らかい場所に寝かされていることに気がついた。
いつもの、冷たく硬い執務室の革張りソファではない。ふかふかとした、陽だまりの匂いがする清潔な布地。
そして彼の額には、ひんやりと冷たい、驚くほど柔らかな布が当てられていた。
「大丈夫よ。すぐに痛みを引かせてあげるから、ゆっくり息を吐いて」
鈴を転がすような、穏やかで落ち着いた大人の女の声。
シズルだ。
彼女は苦痛に身悶えし、冷や汗にまみれるローウェンを全く嫌がるそぶりも見せず、優しく、本当に優しく彼の背中をさすっていた。
トントン、と。一定のリズムで背中を叩かれる。それはまるで、熱を出して苦しむ子供をあやす母親の慈愛に満ちた手つきだった。
ローウェンは汗で重くなった瞼をうっすらと開けた。
視界はまだ霞んでいたが、至近距離にシズルの顔があった。艶やかな黒髪が彼の頬を掠め、そこから甘く爽やかなハーブの匂いがふわりと漂ってくる。
その匂いを嗅いだ瞬間、不思議なことに、荒れ狂っていた呼吸が少しだけ落ち着きを取り戻した。
(私は……なんて無様なんだ……)
激痛の奥底で、ローウェンは己の惨めさに打ち震えた。
莫大な利益を生むはずの商談の席で、契約書を突きつけた直後に胃痛で倒れ伏すなど、商人としては三流以下の大失態だ。もしこれがライバル商会の前であれば、間違いなくこの弱みにつけ込まれ、骨の髄までしゃぶり尽くされていたはずだ。
だが、目の前にいるこの黒髪の女性は、彼を嘲笑うことも、見下すこともしない。
ただひたすらに、目の前で苦しんでいる一人の青年の痛みを和らげようと、穏やかな瞳で彼を見つめている。
「い、痛い……っ、胃が、焼けるように……っ」
「ええ、痛いわよね。ずっと無理して、痛みを我慢してきたんでしょう。偉いわね、よく頑張ったわ」
偉い。よく頑張った。
そんな労いの言葉をかけられたのは、一体いつ以来だろうか。
孤児院を出てから、誰かに認められ、無条件で優しくされることなど一度たりともなかった。結果を出せば嫉妬され、失敗すれば罵られる。それがローウェンの生きてきた氷のように冷たい世界だった。
シズルの温かい言葉は、彼の心の最も柔らかく、傷ついた部分にスッと入り込んできた。
「はい、少しだけ頭を上げられるかしら? これをゆっくり飲みなさいな」
シズルはローウェンの背中に手を差し込み、そっと上体を起こさせた。
彼女の手には、湯気を立てる木組みのカップが握られている。中には、少しとろみのある琥珀色の薬湯が入っていた。
薬湯からは、ほんのりと甘い、胃を優しく包み込むような良い香りがしている。
だが、ローウェンは商人としての最後の意地と執念で、首を横に振った。
「こ、んなもの……っ。私は、まだ……商談の、途中で……っ! 契約書に、サインを……っ」
「……」
強気な態度を崩そうとしないローウェンに対し、シズルはふう、と小さく溜息をついた。
そして、その顔からふわりとした笑顔が消え、スッと一段トーンの低い、静かな声が発せられた。
「いいから。黙って飲みなさい」
「……っ!」
それは、決して怒気を含んでいるわけではなかった。
ただ、絶対に逆らってはいけないと思わせる、圧倒的な『年上のお姉さんの凄み』だった。
前世において、部下や後輩の体調不良を見逃さず、時には強引にでも休ませてきた彼女ならではの、有無を言わさぬ圧。
その底なしの包容力と厳しさに当てられ、ローウェンは思わず口をつぐんでしまった。
逆らえない。逆らってはいけない。本能がそう告げていた。
「はい、ゆっくりね。熱いから気をつけて」
シズルはローウェンの口元にカップを当て、少しずつ、薬湯を流し込んでくれた。
抵抗する気力を完全に失ったローウェンは、言われるがままにその琥珀色の液体を喉に流し込んだ。
「……っ!」
一口飲んだ瞬間、ローウェンは目を大きく見開いた。
想像していたような、胃薬特有の泥臭い苦味など一切なかった。むしろ、ほんのりとしたハーブの甘みと、とろけるような優しい口当たり。
だが、驚くべきはその『味』ではなかった。
とろみのある温かい液体が食道を通り、荒れ狂う胃袋に到達した瞬間。
――まるで、燃え盛る火事場に、清らかな霊水がぶっかけられたかのように。
嘘のように、激痛がスッと引いていったのだ。
それだけではない。ただれて血を吹いていた胃粘膜が、内側から急速に修復されていくのがわかる。薬湯が胃の壁を優しくコーティングし、ポカポカとした心地よい温もりで包み込んでいく。
キリキリと限界まで張り詰めていた内臓の強張りが、春の雪解けのようにドロドロと溶け出していく感覚。
(な、なんだ、これは……!?)
ローウェンは驚愕に震えた。
街の医者が処方する高価なポーションや、教会の最高級の回復魔法ですら、ここまで劇的かつ瞬時に痛みを消し去ることはできないはずだ。
しかも、ただ痛みが消えるだけではない。胃袋から全身の血管へ向かって、圧倒的な『生命力』と『安らぎ』がドクドクと送り出されていくのがわかる。
「ほら、美味しいでしょう? 残さず全部飲んでね」
シズルの声に促され、ローウェンは夢中で残りの薬湯を飲み干した。
ごくり、ごくりと喉を鳴らすたびに、身体の中に蓄積されていた極度の疲労と、精神的な毒が、サラサラと洗い流されていく。
カップが空になる頃には、あれほど彼を苦しめていた激痛は完全に消え去り、代わりに、まるで母親の胎内にいるような絶対的な安心感と心地よい微睡みが彼を包み込んでいた。
「ふふ、よくできました」
シズルは空になったカップを受け取ると、ローウェンの頭をポンポンと優しく撫でた。
その手は、冷や汗で濡れた彼の前髪をそっと避け、ひんやりと心地よい温度で額に触れる。
「すごい……全く、痛くない……」
「そう。それは良かったわ」
ローウェンは、久しぶりに『痛みのない正常な状態』を取り戻した自分の身体に、感動すら覚えていた。
いつもみぞおちにあった鉛のような重苦しさが消え、呼吸が深く、楽にできる。
これほどの薬。もし市場に出回れば、それこそ国が傾くほどの富を生み出すだろう。商人としての計算高い思考が、再び頭をもたげようとした。
だが。
ソファの横に座り、ローウェンの顔を覗き込んでいるシズルの顔を見た瞬間、そんな薄汚れた金銭の計算は、すべて真っ白に吹き飛んでしまった。
窓から差し込む柔らかな午後の日差しが、シズルの黒曜石のような瞳をキラキラと輝かせている。
艶やかな黒髪から香る、清潔で甘い匂い。
そして何より、見ず知らずの商人である自分を、まるで大切な家族のように慈しみ、心配してくれている、そのどこまでも穏やかで母性に満ちた瞳。
冷たい損得勘定だけの世界で戦ってきたローウェンにとって、それはあまりにも眩しく、そして抗いがたい安らぎだった。
(あぁ……私は、なんて心地よい場所にいるんだろうか……)
痛みが消えたことで、急速に身体の緊張が解けていく。
ローウェンはソファに深く身を沈め、シズルの優しい眼差しに包まれながら、これまで感じたことのない深い深い安息の息を吐き出した。
独占販売だの、利益だの、ライバル商会だの。そんなものはもう、どうでもいい。
ただ、この温かく優しい時間を、もう少しだけ、味わっていたかった。
若き野心家の商人は、こうして伝説の薬師の作り出す圧倒的な『甘やかし空間』に、完全に呑み込まれてしまったのだった。




