第2話:独占契約の提案と、見透かされる胃壁
「まぁ、商人さんなのね。わざわざこんな山奥まで、大変だったでしょう。とりあえず、お茶でも淹れるから縁側に座って休んでちょうだい」
シズルはローウェンの大仰な挨拶にも動じることなく、まるで近所の回覧板を持ってきた顔見知りにでも接するような、のんびりとした態度で彼を招き入れた。
案内されたのは、陽当たりの良い南向きの縁側だった。よく磨かれた木の床は温かく、庭を吹き抜ける風が心地よい。ローウェンが促されるままに座布団の上に腰を下ろすと、ほどなくしてシズルがお盆に乗せた木組みの湯呑みを持って現れた。
「はい、どうぞ。ただの白湯だけど、山を登ってきて汗をかいた身体には一番優しいから」
コトリ、と置かれた湯呑みからは、かすかに湯気が立ち上っている。
喉はカラカラに乾いていたが、ローウェンはそれに手をつけることはしなかった。出されたものにすぐ口をつけるのは、相手に主導権を握られることと同義だと、底辺から這い上がってきた商人の経験則が告げていたからだ。
「お気遣い痛み入ります。ですが、私はお茶を飲みに来たわけではございません」
ローウェンは背筋をピンと伸ばし、鞄の中から分厚い羊皮紙の束を取り出した。
それは、徹夜で書き上げてきた『ローウェン商会との独占販売契約書』だった。
「単刀直入に申し上げましょう。シズル様、貴女が作られているという『どんな傷や病も治す特効薬』……そのすべての販売権を、我がローウェン商会に独占的に委託していただきたいのです」
ローウェンは自信に満ちた笑みを浮かべ、捲し立てるように交渉の口火を切った。
相手に考える隙を与えない、情報量の多さで圧倒する。これが彼の得意とする商談のスタイルだった。
「お聞きしたところによると、貴女様は現在、極少量の薬を気まぐれに街へ卸しているだけのようですね。しかし、それはあまりにも勿体ない! 貴女の作られる薬は、まさに国宝級の価値がある。それを適切にパッケージングし、王都の貴族や富裕層に向けて大規模な販路を開拓すれば、現在の何十倍、何百倍もの利益を生み出すことができます!」
ローウェンは契約書の一部を広げ、具体的な数字や利益率を指差しながら熱弁を振るう。
自分の商会がいかに優れた流通網を持っているか。ライバル商会と比較して、どれだけ誠実な利益還元をお約束できるか。
この話に乗れば、一生遊んで暮らせるほどの莫大な富が転がり込んでくる。普通の人間であれば、目の前にぶら下げられた黄金の山に目が眩み、すぐさま契約書にサインをするはずだ。
「もちろん、貴女様には一切の面倒をおかけしません。販売、価格交渉、クレーマー対応、さらには素材の調達に至るまで、すべて我が商会が代行いたします。貴女様はただ、この山奥で今まで通りお薬を作っていただくだけで、莫大な対価をお約束いたしましょう。……いかがでしょうか?」
完璧なプレゼンテーションだった。
自画自賛したくなるほどの滑らかな口上に、ローウェンは勝利を確信した。これだけの条件を提示されて、断る理由などどこにもない。
あとは彼女が驚きと喜びの表情で頷くのを確認し、契約書にサインさせるだけだ。
だが――。
「……」
シズルは契約書を一瞥もせず、ただ静かにローウェンの顔をじっと見つめていた。
その黒曜石のような深い瞳には、黄金への執着も、条件に対する驚きも、一切の感情が浮かんでいない。ただ、どこか憐れむような、ひどく穏やかな光だけが宿っていた。
(なんだ、この反応は……? なぜ食いつかない? 私の提示した利益率が不服だというのか? いや、そんなはずはない。限界まで彼女に有利な条件に設定してあるのだから)
ローウェンの心に、僅かな焦りが生まれた。
これまでの商談で出会ってきた、強欲な商人やプライドの高い貴族たちとは全く違う。利益や金という『大人の世界の絶対的なルール』が、目の前の女性には全く通用していないような、そんな気味の悪さがあった。
「あー……シズル様? ご提案の内容、おわかりいただけましたでしょうか? もし条件にご不満があるというなら、さらに数パーセントの利益の上乗せを検討しても構いませんが……」
ローウェンの声が、少しだけ焦燥を帯びて上擦る。
するとシズルは、ふう、と小さく、けれど呆れたような溜息をついた。
「ええ。あなたが商売熱心で、すごく優秀な商人さんだってことはよくわかったわ」
シズルは縁側に両手をつき、少しだけ首を傾げてローウェンを見つめた。
その眼差しは、凄腕の商人に対するものではない。まるで、言うことを聞かずに泥んこ遊びを続ける子供を見つめるような、呆れと慈愛に満ちたものだった。
「でも、それより……あなた、胃が酷いことになっているわよ」
「えっ」
予想の斜め上をいく言葉に、ローウェンは間の抜けた声を漏らした。
独占契約だの、利益率だのといった商談の席で、突然『胃』の話をされるなど、どんな交渉術の教本にも載っていない。
「な、何を言っているんですか。私は至って健康――」
「誤魔化さなくていいわ。さっきから顔面蒼白だし、冷や汗はかいてるし。何より、無意識のうちにずっとみぞおちの辺りを強く押さえてるじゃない」
シズルの指摘に、ローウェンはハッとして自分の手を見た。
確かに彼の左手は、上着の上から、痛む胃袋のあたりをギリリと強く掴んでいた。無意識の癖だった。
「そ、れは……ただの疲労です! 山道を登ってきたせいで、少し息が上がっているだけで……商談には何の影響もありません!」
「本当に? その目の下のクマも、落ち窪んだ頬も? ちゃんと温かいご飯、食べられてるの? 毎日ぐっすり眠れてる?」
シズルの声が、スッと一段低くなった。
それは冷たさではない。前世で、数字とノルマに追われ、精神をすり減らしてついには倒れてしまった同僚たちを数え切れないほど見てきた、大人としての『凄み』だった。
彼女の目には、目の前で必死に虚勢を張る若き商人が、かつての可哀想な同僚たち、あるいは、過労で命を落とした前世の自分自身と重なって見えたのだ。
「そんなボロボロの胃袋じゃ、せっかく稼いだお金で美味しいものも食べられないじゃない。……利益だの独占だのって、生き急ぐのもいいけれど、自分が壊れちゃったら何の意味もないのよ」
「……っ!」
シズルの言葉は、冷徹なビジネスの世界で生きてきたローウェンにとって、あまりにも優しく、そして的確に彼の最も脆い部分を抉り出していた。
孤児から成り上がり、誰にも弱みを見せず、常に完璧な商人として気を張って孤独に戦い続けてきた日々。
『休め』と言ってくれる人間など、ただの一人もいなかった。周囲にいるのは、自分の足を引っ張ろうとする敵か、自分を金づるとしてしか見ていない有象無象ばかりだった。
そんな彼に、見ず知らずの女性が、利益の話などそっちのけで「ちゃんとご飯を食べているか」と心底心配してくれている。
それは、ローウェンが心の奥底で、ずっと、ずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。
「私は……私は、止まるわけにはいかないんです……っ! 私が立ち止まれば、商会の皆が路頭に迷う! 弱みを見せれば、ハイエナどもに食い殺される! だから、私は……っ!!」
ローウェンは激昂したように叫びかけた。
だが、その感情の爆発と、限界まで張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れた瞬間。
彼の荒れ果てた胃袋が、ついに限界を超えて悲鳴を上げた。
「……っ、が……っ!!??」
これまでに経験したことのない、腹の中を鋭利な刃物で直接かき回されるような、絶望的な激痛。
「あ、がっ……あぁぁっ……!」
ローウェンは椅子代わりにしていた座布団から転げ落ち、胃を抱え込んで縁側の板間にうずくまった。
「痛っ……痛い……っ、胃が、焼けるように……っ!」
冷や汗が全身から噴き出し、視界が白く明滅する。
もはや商人の矜持も、完璧な笑顔も保つことはできなかった。ローウェンはただの弱い青年に戻り、苦痛に顔を歪めて呻き声を上げるしかなかった。
(くそっ……こんな所で、こんな無防備な姿を晒すなんて……!)
商敵に見られれば、一発で付け込まれて破滅させられるような大失態だ。
絶望的な激痛と屈辱感の中で、ローウェンはギュッと目を閉じた。
「ほら、言わんこっちゃない。無茶しすぎなのよ、あなたは」
頭上から降ってきたのは、嘲笑でも呆れ声でもなく、ただひたすらに温かく、世話焼きな姉のような声だった。
シズルは慌てる様子もなく立ち上がると、うずくまるローウェンの肩を抱え、ひょいっと軽々と立ち上がらせた。
「さ、商談はおしまい。まずはその可哀想な胃袋を治してあげるから、中に入りなさいな」
激痛で抵抗する気力もないローウェンは、甘く落ち着くハーブの香りに包まれながら、なすがままに山小屋の奥へと運ばれていくのだった。




