第3章:野心家の商人は、胃痛と共にスローライフを知る 第1話:黄金の匂いと、悲鳴を上げる胃袋
キリリ、と。
みぞおちの奥で、赤く熱した鉄串を直接ねじ込まれたような、鋭く暴力的な痛みが走った。
「……っ、ぐ……ぅ……」
辺境の街ランズベリーの目抜き通りに居を構える『ローウェン商会』の執務室。
その豪奢なマホガニーのデスクに突っ伏しながら、若き商会長であるローウェンは、脂汗を滲ませて呻き声を上げた。
震える手で引き出しを開け、常備している安物の胃薬――すり潰しただけの苦い薬草の粉末――を無造作に掴み出し、水も飲まずに直接口の中へ放り込む。泥のように不味い粉末を無理やり唾液で飲み下すが、荒れ果てた胃壁を撫でる程度の気休めにしかならないことは、彼自身が一番よくわかっていた。
(くそっ……。最近、ますます痛みの間隔が短くなってきているな……)
額に浮かんだ冷たい汗を上等な絹のハンカチで拭いながら、ローウェンは大きく息を吐き出し、背もたれに深く身体を預けた。
まだ二十代半ばという若さでありながら、彼の顔には年齢にそぐわない深い疲労の色が刻まれている。身だしなみこそ完璧に整えられているものの、目の下にはうっすらと暗い隈が落ち、頬は不健康に削げていた。
無理もない。彼が一代で立ち上げたこのローウェン商会は、今まさに正念場を迎えていたのだ。
孤児院出身という泥水のような底辺から這い上がり、血の滲むような努力と持ち前の商才だけで、のし上がってきた。だが、規模が大きくなればなるほど、のしかかる重圧は桁違いに跳ね上がる。
古参の商人たちからの陰湿な嫌がらせ。無理難題を押し付けてくる強欲な貴族への接待。仕入れルートの確保に、数十人という商会の従業員とその家族たちを養うための莫大な資金繰り。
休む暇など、一日たりともなかった。
もし自分がここで立ち止まれば、あっという間にライバル商会に食い潰され、またあの泥にまみれた飢えと寒さの底辺へと逆戻りしてしまう。それだけは絶対に嫌だった。
だからローウェンは、睡眠時間を極限まで削り、三度の食事もそこそこに仕事に没頭した。その結果が、この四六時中悲鳴を上げ続けるボロボロの胃袋である。
(……だが、今が最大の勝負時だ。ここで倒れるわけにはいかない)
ローウェンは痛む腹部を上着の上から強く押さえつけ、デスクの上に広げられた数枚の報告書に鋭い視線を落とした。
そこに記されているのは、最近ランズベリーの街でひそかに囁かれている、ある『異常な噂』についてだった。
『討伐で右腕を失いかけた傭兵ヴァルガが、一夜にして傷一つなく完治して酒場に現れた』
『連日の激務で死にかけていた騎士団の第参部隊が、謎の滋養薬を飲んだ途端、信じられないほどの活力を取り戻した』
どちらの噂にも共通しているのは、魔の森の奥深くに住むという『神代の魔女』の存在だった。
どんな傷も、どんな病気も、そしてどんな疲労も一瞬で治してしまう奇跡の特効薬を作る、伝説の薬師。
騎士団はその薬の出所をひた隠しにしていたが、ローウェンは商会が持つ独自の裏ルートと多額の賄賂を使い、ついにその魔女が住むという山の正確な場所を突き止めたのだ。
(どんな怪我も病も治す奇跡の薬……。もしその独占販売権を我が商会で握ることができれば、莫大な富が転がり込んでくる。王都の貴族たちすら、私に頭を下げるようになるはずだ……!)
頭の中はすでに、黄金色に輝く未来の計算で埋め尽くされていた。
この特効薬の利権を手に入れれば、商会の基盤は盤石なものになる。従業員たちにも豊かな暮らしを約束できるし、何より、もう二度と誰にも自分を見下させはしない。
(誰かに先を越される前に、私自身が赴いて直接交渉をまとめる。金ならいくらでも積んでやるさ)
ローウェンは立ち上がり、痛む胃を誤魔化すように分厚い契約書の束を鞄に詰め込むと、誰にも行き先を告げずに単身で魔の森へと向かった。
◆
「はぁっ……はぁっ……くそっ、なんて酷い山道だ……」
それから数時間後。
ローウェンは魔の森の険しい斜面で、何度も足を取られながら悪戦苦闘していた。
彼はあくまで商人であり、体を鍛え抜いた傭兵や騎士ではない。普段は馬車で移動し、舗装された街の道を歩くことしかしていない彼にとって、道なき道を進む登山は地獄そのものだった。
上等な仕立てのジャケットは容赦なく伸びた木の枝に引っかかって破れ、磨き上げられた革靴は泥だらけになっている。
周囲には、魔物が潜んでいるかもしれないという底知れぬ恐怖が満ちていた。高価な『魔物避けの香炉』を腰にぶら下げているとはいえ、いつ凶悪な獣が茂みから飛び出してくるかわからない。
その極度の緊張感と、慣れない激しい運動が、彼の弱り切った胃袋に致命的なダメージを与え始めていた。
「ぐ、ぅ……っ」
立ち止まり、大きな木の幹に寄りかかってうずくまる。
胃液が喉の奥まで込み上げてくるような不快感と、腹の中を鋭い爪で掻き毟られるような激痛。視界がチカチカと点滅し、全身から嫌な脂汗がどっと吹き出してきた。
(ここで、引き返すか……? いや、駄目だ。もしライバルのギドウ商会がこの魔女の噂に気づき、先に接触してしまえば……全てが終わる。私が築き上げてきたものが、根こそぎ奪われる……!)
恐怖と痛みに心が折れそうになるのを、強烈な野心と執念だけでねじ伏せる。
ローウェンは泥にまみれた手で木の幹を掴み、無理やり震える足を前に進めた。
「利益だ……。莫大な利益が、この先にある……っ」
呪文のように独り言を呟きながら、這うような速度で山を登り続ける。
やがて、鬱蒼と生い茂っていた木々が不自然に途切れ、視界がぱぁっと明るく開けた。
「……あ、そこか……?」
荒い息を吐きながら顔を上げたローウェンの目に飛び込んできたのは、毒々しい瘴気が立ち込める恐ろしい魔女の棲家――などでは、断じてなかった。
そこは、柔らかな陽光が降り注ぐ、おとぎ話に出てくるような美しいひだまりの空間だった。
こぢんまりとした可愛らしい丸太小屋が建っており、その庭先には、色とりどりの花や、見慣れない種類の薬草が青々と葉を広げている。
風が吹き抜けるたびに、心を落ち着かせるような甘いハーブの香りと、日向で干された清潔なリネンの匂いが鼻腔をくすぐった。魔の森の淀んだ空気とは完全に切り離された、そこだけが別世界のような穏やかな聖域。
そして、その庭の片隅で。
「ふふふーん、ふーん♪」
楽しげな鼻歌を歌いながら、しゃがみ込んで薬草の手入れをしている一人の女性がいた。
夜の闇をそのまま切り取って溶かしたような、艶やかで美しい黒髪。ゆったりとした麻のワンピースを着たその後ろ姿は、どう見ても若く美しい普通の女性にしか見えない。
(あれが……噂の『神代の魔女』だと? 冗談だろう。あんな世間知らずの小娘が、騎士団を蘇らせるような薬を作ったというのか?)
あまりにも拍子抜けする光景に、ローウェンは一瞬呆然とした。
だが、商人としての計算高い思考がすぐに働き始める。
(いや、好都合だ。相手が強欲な老婆や恐ろしい魔法使いであれば交渉は難航しただろうが、あんな若い女一人なら、言葉巧みに丸め込んで独占契約を結ばせることなど赤子の手をひねるより容易い)
ローウェンはパンッ、と両手で自分の頬を叩き、激しく痛む胃を強引に押さえつけた。
痛みを顔に出すことは、商人にとって最大の恥であり、弱みを見せることと同義だ。彼は深呼吸を一つして、顔に『自信に満ちた完璧な商人の笑み』を貼り付けると、女性の背中へ向かって堂々とした足取りで歩み寄った。
「――お忙しいところ、突然の訪問をお許しください」
よく通る、洗練された声色でローウェンが声をかける。
鼻歌を歌っていた女性は、ビクッと肩を揺らして振り返った。
「あら?」
振り返った彼女――シズルの顔を見た瞬間、ローウェンは思わず息を呑んだ。
三十路を少し超えたくらいの、大人の落ち着きと色香を纏った絶世の美女だった。黒曜石のような深い黒い瞳が、きょとんとした様子でローウェンを見上げている。
恐ろしい魔力も、他者を威圧するような気迫も一切感じられない。ただ、そこにあるのは、春の陽だまりのような圧倒的な『無防備さ』と『穏やかさ』だけだった。
「まぁ、お客さん? こんな山奥までどうしたの。もしかして、道に迷っちゃったのかしら」
鈴を転がすような、ゆったりとした優しい声。
相手が山を登ってきた見知らぬ男だというのに、彼女は警戒するそぶりすら見せず、ふわりと花が咲くように微笑んだ。
(……やはり、ただの世間知らずのようだ。これなら、いくらでもこちらのペースで買い叩けるぞ……!)
ローウェンの胃袋が、プレッシャーと獲物を前にした興奮で再びキリリと痛んだ。
だが彼はその痛みを完璧な笑顔の下に隠し、恭しく胸に手を当てて、貴族に対するような最上級の礼をとった。
「ご安心ください、迷子ではございません。私はランズベリーで商会を営んでおります、ローウェンと申します。本日は、貴女様が作られているという『素晴らしいお薬』について……両者にとって大変魅力的なご提案があってお伺いいたしました」
野心に燃える商人と、無自覚に伝説を作り出している薬師。
決して交わるはずのなかった二人の出会いは、ローウェンの荒れ果てた胃袋に、この後かつてないほどの激震をもたらすこととなるのだった。




