逆再生の音(5)
「お、お母さん……。なんで……」
『許せない! あんたなんて産まなきゃ良かった!』
幽霊のくせに、母の声はキンと耳に突き刺さった。非科学的だ。一体なぜ母が幽霊となって出てきたが、わからない。
『もう終わり! 終わり! 終わりよ! あんたと一緒に死ぬ!』
母の泣き叫び声を聞きながら、記憶が呼び起こされていた。
そう、記憶は都合よく改竄していた。頭の中で「優しかった母」の記憶だけ残し、あとは消した。消したはずだったのに、今、全部思い出す。
物心ついた時から母は情緒不安定だった。起源が良いときはとても優しい。起源が悪い時は楽人にモノを投げ、身体を叩くこともあった。
今の楽人の体格なら、こんな母はすぐに投げ飛ばすことはできる。その上、幽霊だ。何も怖くないはずなのに、子供の頃のように身体が固まり、声もでない。
当時の身体の痛みが蘇る。痛い、痛い、ママ辞めてと訴えても聞いてはくれなかった。それどころか暴力はもっと酷くなった。
「七海さんのお母さん、いわゆる育児ノイローゼらしいわよ」
「本当?」
「楽人くんを泣くまで叩いているの見ちゃった。いやねぇ、一人息子なのに。育児ノイローゼってやつ?」
近所の人たちの声、無関心な父親の視線、身体にできたアザの数々の記憶が全部蘇ってしまった。
『ねえ、もう楽ちゃん。一緒に死にましょう。お母さん、もう限界よ。もう終わりだから』
母に首を絞められ、殺されそうになった日もあった。その時は父に助けられ、死なずに済んだが、自分は愛されていないと思った。
母につれられた教会では、神様は人間を愛してるって聞いた。その母も、全部嘘ではないか。誰にも愛されていないという思いだけが、くっきり胸に刻まれた。
『そうよ、わたしはあんたなんて愛していない……!』
楽人の思考を読んだかのように、幽霊の母が叫ぶ。そうか。そうだ、もう親にも殺されかけた自分はもう誰にも……。
その時だった。急に目の前にいる母の幽霊、別のものの見えた。母の仮面をつけているだけで、その正体は別人?
わからない。こんな幽霊を見てしまったこと自体、非科学的だったが、目の前にいるのは母じゃないかもしれない?
「そ、そうだ。こんな非科学的なことがあってたまるか……!」
確かに過去の記憶を思い出したが、これは本当にリアルなのか疑わしい。何ものかに幻想を見せられているのかもしれない。それこそ、思い込みによって。思いをエネルギーにしている悪しき霊が?
急に頭が冷えてきた。しれにこも幽霊、あの逆再生の声と似たような言葉も言ってる。もしかして、あの音を聞いてしまったのが原因か?
急いで尋人に連絡をした。もう夜だ。その上、あんな失礼な態度をとったくせに、頭に浮かんだのは尋人の顔だった。
「なんだと!? 死んだ母ちゃんの幽霊が出たって? 死んだ人間はこの世には絶対に存在できないはずだ。それ、母ちゃんのフリをしている悪霊だ! 待ってろ、すぐにそっちに行く!」
相変わらずオカルト話は何を言っているのか分からな伊が、本当にすぐに尋人はやってきた。
尋人の顔を見るだけで安心したから不思議だ。しかも、祈っていた。イエスの御名で出ていけと、映画でよく見るようなエクソシストの台詞も言っているじゃないか。
『その名前を出すな!』
目の前にいた母の幽霊、そんな言葉も叫ぶ。同時に母の顔や形も崩れ、霧のように消えてしまった。
「な、なんだったんだ。これは……」
幽霊もエクソシストも非科学的すぎたが、急に身体も軽くなった。正気に戻った感覚がした。過去の記憶もまた封印され思い出せない。やはり、何ものかによって幻でも見せられていたのだろうか。
「本当にもう逆再生とか、オカルトを調べるとかやめろよな。それは悪しき霊を呼ぶ足場になったんだよ」
一方、尋人も一仕事終えたと言わんばかりに、すっきりとした顔を見せていた。
「お、おお……」
「土地の呪いも逆再生も全部忘れろ。死んだ人間のこともな。神様は今生きてるお前のことが一番大事なんだからな」
そう言った尋人は小さい声で歌っていた。讃美歌らしい。別に神聖な雰囲気もない曲だったが、眠くなってきた。まるで子守唄のように優しい声で。
そして数日後。何も問題なく生活していた。逆再生の音楽も削除した。コンビニやスーパーで、あの音楽を耳にすることもあったが、単なるアイドルソングだと思う。
それにあの記憶も思い出せなくなってしまった。母の日記を読も返しても、楽人への暴力や無理心中の記録もない。近所や親戚の人に聞いても「覚えていない。記憶違いでは?」と言われるだけ。やはり何者かに幻想を見せられていたのか。記憶違いか。思い込みかは謎だったが。
「そうか。もう、過去の記憶は思い出さない方がいい。良い記憶があれば、それだけを覚えておけばいいんだよ」
羽生教会へ向かうと、尋人からそう言われた。なぜか尋人の声だけは優しく、子供の頃も面影も意外と残っているなと思う。
「質問してもいいですかね。俺は神様に愛されてるんですかね?」
オカルトとか幽霊の話はどうでもよくなってきた。むしろ、それが気になり、礼拝堂の高い天井を見上げる。
「そうだ。楽人がいくら神様に愛されていないと思い込んでもだ。絶対に変わらないことはあるんだよ」
尋人の笑顔を見ていたら、なぜか心は落ち着き、この一件について全部解決したと思う。
「そう、か……」
「そうだ。だからもう、変な逆再生とか手を出すな。悪霊を呼ぶ足場になるからな」
「ああ。うん、もうそういうの興味なくなった」
肩が軽い。もう今は過去のこともどうでもよくなってきた。
「ところで母は地獄にいるんですかね?」
「おいおい、まだそういうことに興味あるのかよ」
「ぶっちゃけるとどうですか? 正直なところは?」
「わからんよ。こればっかりは神様と個人個人の関係によるものだし、死ぬ直前まで母ちゃんがどう思っていたかんて、俺らにはわからない」
「つまり、神のみぞ知ること?」
「もちろん」
そう言った尋人は、子供みたいに無邪気に笑う。つられて楽人も笑ってしまう。二人の笑い声は重なり響いていた。




