26:少しは落ち着いた?
「美言っ!」
腕を強く捕まれ、体が後ろに引き寄せられた。振り返ると、めずらしく焦った表情をした雅就が、厳しい目を美言に向けている。
「お父さん……。アルトリウスが、魔王に……ディセリアに……行っちゃった」
「それでお前まで行くつもりだったのか」
「だって……っ!」
「落ち着きなさい! 冷静さを欠いた頭で、正常な判断をしていると思っているのか!」
滅多に聞かない雅就の怒号に美言の肩がびくんと震えた。視界が熱く歪んだのは、叱られたからだけではない。アルトリウスのことを思うと、不安と絶望が一気に押し寄せてきて感情も思考もぐちゃぐちゃに入り乱れてしまう。
泣くのを必死に堪えても、涙は不安と一緒にじわじわと膨れ上がってゆく。それもやがて小さくしゃくりを上げた拍子に決壊し、美言の頬を大粒の涙が濡らしていった。
「お父……さんっ。アルトリウスが……連れて行かれちゃった……。私っ……私、どうしたらいいの……っ」
「美言。彼のことが心配なのはわかるが、丸腰のままディセリアへ行ってもどうしようもないだろう? 焦りや不安は判断を鈍らせる。危機に瀕する時こそ、深呼吸して心を落ち着かせることだ」
焦りと不安に荒れていた心の中が、雅就の穏やかな声音でゆっくりと平静を取り戻していく。言われた通りに深呼吸をすると、さっきより空気が澄んでいることに気が付いた。周囲に瘴気もなければ、引き寄せられてきた悪霊の気配もなくなっている。代わりに感じるのは、雅就の張った結界の力だ。
「結界を……張ったの?」
「さっき溢れた瘴気と死霊は祓ったけれど、ディセリアへの道が開いている以上、そこから新たな瘴気が溢れ出すとも限らないからね。瘴気が町へ流れ出さないよう、白冥を核として、この神社一帯に結界を張った」
「勝手に動いたことは謝ろう。しかしこの場を守ることは、そなたを守ることに繋がると判断した」
声が聞こえたと思ったら、未だ闇深い空から白冥がゆったりと降り立った。
「ううん。ありがとう、白冥」
瘴気は祓ったものの、空はまだ暗雲が立ち込めている。その中に無垢な白を落とす白冥の体は、まるで闇を照らす光明のように美言の目に映った。
そして、その光はひとつではないことを思い出す。半壊した家の方から駆け寄ってくる、黄金の光を目にしたからだ。
「姫! 無事でござるか!?」
「ヘイちゃん。それにガリバーも……守ってくれたの?」
ヘイちゃんの腕には座布団にくるまれた聖剣が抱えられていた。
「非常に不本意ではござるが……拙者では魔王を倒すことができぬゆえ」
「ありがとう、ヘイちゃん。聖剣まで奪われてたら、本当に終わりだった」
「ヘイちゃんってば、本当にかっこよかったのよ~! 突然屋根が吹き飛んだかと思ったら、聖剣と私と、ついでに家に来てたシゲっち君まで抱えて、ぶわーって結界を張ってくれたの」
「ここはいつから遊園地になったんだ? 爆発《花火》は上がるはデケェ狐はいるは……。昨夜からお前ら一家は騒がしいぞ」
「お母さん。それにシゲおじさんも……」
ヘイちゃんの後ろから現れた二人は、こんな状況でもいつもと変わらない様子だった。それが何だか少しだけホッとする。
「昨夜お前らを運んでやった礼でもせびろうかと思って来てみたら、とんでもねぇことになってんじゃねぇか」
「シゲっち君ってば、こんなこと言ってるけど、本当は美言たちのこと心配で様子見に来てくれたのよ。お礼せびるどころか、夜有堂の極楽団子まで手土産に持ってきてくれたんだから。明日は雨が降るかしらね!」
「チッ。余計なこと言うんじゃねぇよ!」
「うふふ。照れてる照れてる~」
緊張感のない加代の様子に美言はすっかり毒気を抜かれ、涙や不安さえ吹き飛んでいくようだ。思わずふっと息を漏らして笑うと、加代は美言の方を振り返ってにっこりと穏やかに微笑んだ。
「少しは落ち着いた?」
「……え?」
「アル君の中にいけ好かない魔王が入っちゃってびっくりしたわよね。でも何も心配することはないわ」
そっと、加代に手を握られる。伝わるぬくもりは心まで包み込むように、やさしく、じんわりと沁み込んでゆく。
「あなたには強力な助っ人がたくさんいるでしょう? それに魔王を倒す聖剣だってある。だから――ちゃちゃっと行って、魔王を倒してきなさい。ね?」
「お母さ……え?」
「はい、これ。きびだんごの代わりに、シゲっち君からもらった夜有堂の極楽団子。アル君お団子好きだったから、もしかしたら釣られて出てくるかもしれないわ」
そんな犬みたいな……と思っているうちに、美言は手に極楽団子の包みを握らされた。
目の前では加代が屈託のない笑みを浮かべている。その横では雅就が顔を青くして声を詰まらせており、斎藤はあろうことか巨大な白冥の前足に背を預けて腕を組んでいる。
「しかし母さん。ディセリアからこちらへ戻ってこられる保証はどこにもないんだよ? そんなところへ、はいそうですかって美言を送り出せるわけがないだろう?」
「でもあなた、このままだと美言のお婿さんがいなくなっちゃうわよ?」
「婿……っ、げほっ!」
「落ち着け、雅就。美言と我は既に契約を終えている。何も心配はいらぬ」
咳き込む雅就の背中を尻尾でさすってやりながら、白冥は視線を美言の方へ向けた。
「本当なら我もついて行き、力を貸してやりたいが、結界の核としてここを動くわけにはいかぬ。だが我とそなたは契約により絆が結ばれている。それは遠く離れていても、互いの存在を見失うことはない」
「白冥……」
「手を出すのだ、美言」
言われた通り右手を差し出すと、白冥の尻尾の一本がふぁさ……と手首に触れた。一度だけ尻尾が淡く光を弾かせると、美言の手首と白冥の尻尾の先端が細く白い一本の糸によって繋がった。
「これ……」
「命綱のようなものだ。そなたが魔王を倒したら、我が尻尾を引く。だからそなたは何も心配せずに、魔王を倒すことだけに専念するといい」
「ありがとう、白冥」
これで帰りの心配はなくなった。ちらりと雅就を見ると、まだ眉間に深い皺を寄せて苦い顔をしている。
「お父さん。ディセリアへ、行ってきてもいい?」
「うぅん……しかしだなぁ……」
「魔王を倒すのが古守家の悲願なんでしょ? それに……アルトリウスを、助けたいの」
「雅就殿。拙者も同行するでござる。姫は必ず無事に連れ帰りますゆえ、許可を頂きたいでござる」
『……まぉー……ボク……じゅうぶ、ん……』
「ヘイちゃん……、ガリバー」
それまで事の成り行きを見守っていたヘイちゃんが、スッと前に進み出て雅就に頭を下げた。彼の腕の中では、同意するように聖剣もピカピカと光っている。まだ完全に回復していないガリバーの声は弱々しかったが、それでも二人の宣言は強く美言の胸に響いてゆく。
美言とヘイちゃんのまなざし、そして聖剣の点滅を真正面から受け止めた雅就は、やがて溜息をひとつ落とすと根負けしたように渋々と頷いた。
「決して無理せず、危険だと思ったら戻ること。いいね? お前は勇者だが、一人で戦う必要はないんだからね。私たちがいることを決して忘れないように」
「お父さん……わかった。ありがとう」
「私が書き溜めていた護符もありったけ持っていきなさい。途中でお腹が空くといけないから……母さん、おにぎりも」
「コンビニ飯でよけりゃ、俺の昼飯があるぞ」
「あ、じゃあ急いで荷造りしないとね! 水筒もいるわよね?」
「皆、ありがたいけど……遠足じゃないんだから」
加代のおにぎりと斎藤のコンビニ弁当、麦茶を入れた水筒におやつの極楽団子。タオル数枚にポケットティッシュとウェットティッシュ。ポイ捨てしないためのゴミ袋と雅就の書いた護符の束。
さすがに大荷物すぎるだろうとは思ったものの、美言は文句ひとつこぼさずに荷物でパンパンに膨れたリュックを背負った。
重かった。
「準備はいいかい? 忘れ物はないね?」
「うん。大丈夫」
正直必要なものは聖剣と、そして白冥と繋がる手首の糸だけである。それでもリュックには美言を思う両親と斎藤の気持ちが詰まっていて、それを無駄だと思う気持ちは微塵もない。リュックは重かったが。
「危なくなったらすぐに戻ってきなさい」
「そしたら皆でディセリアに行きましょう。お父さんもいるし、シゲっち君も銃があるから戦えそうだしね~」
「バケモンに拳銃が通用すると思うなよ」
「……何だ、この緊張感のなさは……」
いつも通りの雅就たちに、白冥が呆れている。けれどそのおかげで、美言は余計な緊張も不安も感じる暇がなかった。
「じゃあ、行ってきます」
背中にリュックを背負い、右手には刃の部分にバスタオルを巻いた聖剣を持ち、左手でヘイちゃんとしっかり手を繋ぐ。そして、二人同時に魔法陣の中に足を踏み入れた。
魔法陣の青白い光が膨れ上がって、美言の視界から雅就たちの姿をあっという間に覆い隠してゆく。美言の名を呼ぶ雅就の声が遠ざかって消えた瞬間、目の前の青白い光も真っ黒に塗り潰されてしまった。




