25:行かないで
『この、小娘が……ぁああああ……――っ!』
全身の毛を逆立たせて震える白冥本体の体から、真っ黒な瘴気が一気に弾け飛んだ。まるで墨汁の中へ放り込まれたかのように、辺り一面視界が瘴気の黒に遮られる。
『おのれ……っ! ようやく得た体が台無しだ!』
魔王の声に引き寄せられるようにして、瘴気が一つ所に纏まってゆく。その中にギラリときらめく深紅の瞳が忌々し気に美言を睨みつけた。
『こうなったら、お前でも構わぬ。体をよこせ!』
美言の体を乗っ取ろうとして、瘴気から幾つもの細長い棒状の靄が伸びてくる。しかしそれらは美言に届く前に、なぜか魔王本人の意思で止められた。
不審に思って顔を上げると、魔王の深紅の瞳は美言ではなく、背後を振り返ってどこか遠くを見ているようだった。
『――ほう? ちょうどいいのがいるではないか』
そう呟いたかと思うと、魔王はもう美言には目もくれず、空の向こうへと飛んで行ってしまった。
魔王が去ったことにより、場を支配していた悍ましい威圧感が消えた。けれど胸を押し潰すような不安だけは、美言の胸の奥にずっと居残り続けている。
「体を……乗っ取る。……誰の……」
魔王は強い体を求めている。白冥本体がやすやすと体を奪われたのは、長きに渡って封印を守り続けたゆえの力の消耗に加え、美言がちび白冥からシフィルの力を譲り受けたことが原因だ。本来の白冥であれば、きっとそう簡単に体を乗っ取られることはなかっただろう。
逆を言えば、弱った体なら楽に奪えるということだ。
そして弱った人間なら、今ひとり、神社にいる。
「アルトリウス!」
魔王はアルトリウスを乗っ取るつもりだ。そう確信した美言は白冥本体の頭上から滑り降りると、どこにあるかもわからない出口を探して走り出した。
辺り一帯は白い霧に覆われていて、足元には白い湖がどこまでも広がっている。魔王が飛んで行った方角を目指して走っているつもりだったが、白い世界は一向に変わる気配がない。
焦りばかりが募って足がもつれてしまい、美言は白い湖の水面を派手に揺らして転んでしまった。湖は本物ではないので、もちろん服が濡れることはない。それでも焦燥と不安の波が、美言の胸をじわりと浸食していく。
「乗れ! 美言」
声がしたかと思うと襟首を何者かに掴まれて、美言の体が大きく宙を舞った。軽い衝撃と共に、全身にふわりと柔らかな感触に包まれる。ハッと目を開くと、美言は白い絨毯――ではなく、白冥本体の背中に乗せられていた。
「白冥!?」
「すまぬ。迷惑をかけた」
「もう大丈夫なの?」
「主従の契約は無事成された」
美言を振り返った白冥の額には、赤いハートマークの印がくっきりと浮かび上がっている。
「そなたの心は少々乙女が過ぎる。できればもっと威厳のある印がよかったが……仕方あるまい。今は急を要する。神社へ戻るぞ」
「あ、待って! ちび白冥は?」
「心配いらぬ。あれも我の一部だ。今は我とひとつに戻って、ここにいる」
「そう。ならよかった」
その証拠に、祠から飛び出した時は八本だった尻尾が、今は一本増えて九本に戻っている。ちび白冥の尻尾も一本だったことから、切り離していた力がきちんとあるべき場所へ戻ったということなのだろう。
「のんびりしている暇はないぞ。主、我に命じよ。我の力をそなたのために振るうことを誓おう」
「ありがとう、白冥。それじゃあ、今すぐ神社へ戻って、魔王を倒すわよ!」
「心得た」
白冥の九本の尻尾が孔雀の羽根みたいに広がる。肌にびりびりと伝わる白冥の神気に気圧されないよう、しっかりと首元にしがみつくと、それを合図にしたように白冥が勢いよく空を駆け上がった。
湖の水面を蹴って、白い霧漂う空をどこまでも駆けてゆく。やがて霧の向こうに青空が見えたと思った瞬間、ガラスが砕け散るような音と共に白い世界が空の青と鎮守の森の緑に塗り替えられていった。
眼下に見える鎮守の森の向こう、古守白狐神社が見える。変わりない神社の姿にホッとしたのも束の間、白冥が境内に降り立ったのとほぼ同時に、美言の目の前で家の屋根の一部が爆発したかのように吹き飛んだ。
「……っ!!」
半壊した家の瓦礫を踏んで外に出てきたのは、神父服を身に纏った――。
「……アルトリウス」
美言の声に、アルトリウスがゆっくりと振り返る。その瞳はもう、美言の知っている色ではなかった。
「美言っ!!」
雅就の声と、美言の眼前で光が弾けたのはほとんど同時だった。静電気が弾けたような音と共に、はらり、と美言の足元に焦げ付いた護符が落ちる。結界の作用がある護符だ。
どうしてこんなところに、と考えるよりも先に、美言の前に護符を手にした雅就が背を向けて立っていた。
雅就が無事だったことを喜ぶ一方で、父の背中から感じる緊迫した気配に心臓がどくんと鳴る。普段の柔和な雰囲気は微塵もなく、今の雅就は完全に祓い屋としてアルトリウスと対峙していた。
「お父、さん」
「しっかりしなさい! あれはもう私たちの知るアルトリウス君ではないっ」
雅就の言葉を肯定するかのように、アルトリウスが美言たちに向かって指を鳴らした。途端、足元から瘴気でできた幾つもの槍が飛び出してくる。雅就の護符がなければ、美言はあっという間に串刺しになっていただろう。先程の焦げた護符も、雅就がアルトリウスの攻撃を弾き返してくれたものだったのだ。
「ふむ。この体はなかなかに使いやすそうだ。この魔力……ディセリアの人間か」
「アルトリウスから離れて!」
霊力を込めて言霊を放つ。けれどアルトリウスも魔王もディセリアの人間だ。美言が聖剣を持てなかったように、魔力と霊力、質の違う力は効きにくい。その証拠に魔王はほんのわずか体を硬直させただけで、次にはもう意地の悪い笑みを浮かべていた。
「さっきの奇妙な術も、この体には効かぬようだな」
魔王が軽く腕を前に振ると、どこからともなく瘴気が漂い始めた。暗雲が空を覆い、神社の周りだけが急激に暗くなる。太陽はすっかりと追い出され、夜を真似た闇の中で細い蛇のような稲妻が不気味な光を走らせた。
闇の中から、亡者の呻く声がする。魔王の邪気に引き寄せられ、浮遊霊たちが悪霊化して集まってきたのだ。
「お前たちに用はない。ここで無様に朽ち果てろ」
美言たちに背を向けて、魔王が神社裏へと歩いていく。その先にあるのは割れた巨石の残骸と――ディセリアへ繋がる扉だ。魔王が復活してしまった今、もしかしたら再び扉が開いているかもしれない。
「待って!」
「美言!? 危険だ! 戻りなさいっ!」
雅就が止めるのも聞かずに、美言は魔王の後を追って神社裏へと急いだ。襲い掛かってくる霊は言霊で祓えるものの、魔王に対しては打つ手が何もない。けれど、動かずにはいられなかった。
「アルトリウスっ!」
神社裏へ続く角を曲がると、青白い光が目に入った。割れた巨石のあった場所に、青白い魔法陣が出現していた。
「待って! 行かないで!!」
美言の叫びに、魔王の足が止まる。ゆっくりとこちらを振り返った彼の瞳が、一瞬だけ金色に揺らめいて――。
引き留めようとする美言の手と、戻りたいと願うように伸ばされたアルトリウスの手。その指先がかすかに触れ合った瞬間、二人を分かつように魔法陣の光が炸裂した。
――ミコト。
薄れていく青白い光の中で、アルトリウスの声を聞いたような気がする。
ゆっくりと瞼を開くと、もうそこにアルトリウスの姿はなかった。




