24:シフィルの血を引いているな?
その後、部屋にやってきた白冥に急かされて、美言は鎮守の森へと向かった。病み上がりのアルトリウスはもちろん、ヘイちゃんも今回は留守番である。白冥本体のもとへは契約者以外辿りつけないようになっているらしい。だから聖剣も神社に置いてきた。万が一、途中で人型に戻ると困るからだ。
「何だかいつもと雰囲気が違う感じがする」
今までも何度か足を踏み入れたことはあったが、白冥と共に入った鎮守の森はまるで迷いの森のように美言の方向感覚を狂わせた。知っている森なのに、初めて訪れたような新鮮さと、深い森に対する畏怖の念が込み上げてくる。
「当たり前だ。ここはもう、そなたが見ていた森ではない。鎮守の森の影に存在する、もうひとつの森。謂わば封印の森だ」
「封印の、森……」
「ほれ、見るがよい。あれが魔王を封印した場所への入口だ」
美言の足元でぴたりと止まった白冥が、顎をかすかに上げて前方を指す。釣られて視線を向けると、いつからそこにあったのか、美言の目の前に赤い鳥居が建っていた。
「こんなところに鳥居が……」
「ここは我に呼ばれた者しか辿りつけぬ。そなたらが七楽町に蔓延る瘴気を祓ったおかげで、我も安心して入口を開くことが出来た。礼を言うぞ」
ふふん、と、なぜか白冥の方が得意げに尻尾を揺らした。
「大変だったけどね」
「しかし想定していたより時間がかかりすぎた。おまけに昨夜、古子の力まで渡してしまったからな。預かっていたとはいえ、封印を維持する我の力の支えになっていたのも事実。それを失った今、封印の弱体化はより進んでいると覚悟しておいた方がよかろうな」
「えぇ!? それってかなりまずいんじゃ……。あなた、本体と意識は繋がってないの?」
「昨夜から何の声も聞こえぬ。おそらく封印を保つことに集中しているか、あるいは寝ているかのどちらだろう」
「絶対ヤバい方でしょ! 急がないと……っ」
厳かに聳える赤い鳥居に気圧されている暇はない。美言は白冥を抱え上げると、一礼も忘れて駆け足で鳥居を潜り抜けた。
――りん、とどこからか鈴の音が聞こえたような気がした。
鳥居を抜けた先はもう鎮守の森の中ではない。美言は以前夢で見た時と同じ、真っ白な湖の上に立ち尽くしていた。
一瞬で空気が変わったのがわかる。温度が下がったように感じるのは、周囲に満ちる神気があまりにも強烈だからだ。人が踏み込める領域ではないことを、直接肌に感じる。畏れに背筋がぞくりと震え、思わず一歩後ずさった。その足元でまた鈴の音が聞こえたかと思うと、美言の足元から銀色の波紋が漣のように広がっていく。
「来るぞ」
白冥の声を合図に、美言の足元から広がっていた漣の波紋が、今度は少し離れた前方に引き寄せられるように集まってゆく。集結した漣は次第に大きな水柱となり、やがて中からひとつの小さな祠が現れた。
「祠を開くがよい。中には我の……」
白冥の声を遮って、祠の扉が内側から勢いよく吹き飛ばされた。何事かと身構える間もなく、美言の体に何かが絡みつく。それは祠から飛び出した《《八本》》の白い尻尾だった。
「ちょっ……と、何!? どうなってるの? 白冥!」
「我にもわからぬわ! 寝起きが悪かったのやもしれぬ」
「そんなにかわいいものじゃないでしょ! 本気で締め付けて……っ」
首や腰に巻き付いた尻尾はぎりぎりと力を増し、このままでは本当に絞め殺されてしまいそうだ。間一髪で美言の腕から抜け出していた白冥が尻尾のひとつに噛みついているようだが、拘束は緩まるどころかなお強く締め付けてくる。そのうちついに足が浮き、もがく足元で白い湖の水面が激しく揺れた。
「白、冥……っ。離して……」
あっという間に美言の体は高く持ち上げられてしまった。
足元で祠が軋む音がする。溢れ出した八本の尻尾の質量に耐え切れず、祠が破裂するように吹き飛んだ。
跳ね上がる祠の破片と共に、神聖な空気に満ちていた神域が不穏な闇に侵されはじめる。破壊された祠を中心にして、白かった湖にじわり――と、まるで墨汁を垂らしたみたいに黒い何かが広がった。
「美言。気をつけろ! 非常に不本意だが、我の本体は魔王の魂に操られ……きゃん!」
尻尾のひとつに体当たりされ、白冥が子犬みたいな悲鳴を上げて後ろへと吹っ飛んだ。
「白冥!」
抜け出そうにも尻尾の拘束が強くて体が動かせない。けれどここから抜け出せたところで、戦う術を持たないことを美言は思い出してしまった。聖剣も御幣も、神社に置いてきてしまっている。
『あぁ……――』
長く吐き出された息と共に、水面を這うようなねっとりとした低い声が漏れ聞こえた。その声音を耳にした途端、美言の背筋にぞくりと悪寒が走る。
声だけでわかる。その異質さ。その凶悪さ。吐き出す息すら猛毒のように、美言の神経を麻痺させていく。
魔王だ。
魔王の魂が、そこに確かにあることを確信した。
『なんと居心地の悪い場所だ。我の復活に死体のひとつも転がっておらぬではないか』
魔王の乗り移った白冥本体が口から大量の瘴気を吐き出した。白かった湖は既に真っ黒に染まっており、加えて魔王の吐き出した瘴気が辺り一面に偽物の夜を連れてくる。空気は淀み、息をするたびに喉が痛んだ。
「ごほっ……」
『ん? お前は……』
美言の咳に気付いた魔王が、ゆるりと顔を頭上へと巡らせた。品定めでもするかのように美言を見つめる瞳は白冥と同じ赤色だ。けれど魔王の方がより青味の強い色をしている。そして白冥の白い体を浸食するように、黒い痣が今もまだらに広がっていた。
『その気配……知っているぞ。我を封印した忌々しい男の力だ。それに……ほぅ? これはまた懐かしい気配だ。――お前、シフィルの血を引いているな?』
そう言うや否や、尻尾の締め付けがまたきつくなった。
『だが、それだけか。力もシフィルには遠く及ばぬ。我の敵ではない』
「……くっ」
『手始めに、お前を血祭りにあげてやろう。まさかシフィルも、封印したはずの俺に子孫を嬲り殺されるとは思わぬだろうよ』
「……はな、し……て」
『四肢を引き裂くのは当たり前すぎてつまらんな。髪の毛を一本ずつ抜いてみるか。その後は爪だ。できるだけ血を流さぬよう、ゆっくりと命を削ってやる』
聖剣も御幣も、手元にはない。護符を取り出そうにも、体をぎっちりと尻尾に締め上げられて自由が利かない。
考えれば考えるほど、自分が死ぬ未来しか見えてこない。勇者の力を受け継いだとしても、それをフル活用できる聖剣が手元になければ美言は何もできないのだ。
――ミコト。
記憶の隅で、アルトリウスの声がした。
はじめて出会った時から、アルトリウスは美言を勇者と信じて疑わなかった。聖剣すら持てない出来損ないの勇者でも、決して見限らず、不満さえ口にしたことがない。美言がどんなに弱音を吐いても、手を引いて前に導いてくれた。
もし今、ここにアルトリウスがいたのなら、きっと何の迷いもなく言うだろう。お前ならできる、と。
「……っ!」
キュッと唇を噛み締めて、美言は必死に腕を動かした。首を絞めつける尻尾を掴んでわずかな隙間を作ると、胸いっぱいに息を吸い込みながら、同時に霊力を一気に引き上げる。
正直、これは賭けだ。
今でこそ神格を得た白冥だが、元を辿れば大妖怪「九尾の狐」だ。先祖である斉久が使役していたのならば、美言の言霊もおそらくは――。
「白冥。離して!」
強く、濃く、霊力を乗せて言霊を放つ。辺りの空気が騒めくように震え、美言を捕まえている尻尾の毛が一斉に逆立った。
『……っ!? 貴様っ、一体何をした……っ』
魂が魔王だからか、言霊の効力が薄い。それでも魔王自身が動揺するほどに効いてはいるようだった。その証拠に、美言を締め付ける尻尾の力が明らかに弱まっている。
美言は更に霊力を高めて、さっきよりもはっきりと響く声で叫んだ。
「私を離しなさいっ!」
ぶるりと白冥の本体が大きく震え、そして止まった。かと思うと体を締め付ける力がふっと消え、尻尾によって高く持ち上げられていた美言が真っ逆さまに落下した。
『ゴフッ!』
低い呻き声と共に白冥が頭を湖の上に打ち付けた。その白冥の後頭部に、美言は尻もちをついて座り込んでいた。ちょうど真下に白冥がいたおかげで、落下した美言を受け止めるクッションの役割を果たしてくれたようだ。
「美言、今だ! 我の本体と契約を交わすのだ! さすれば我の力も戻る。寝起きの魔王など、我の中から弾き出してやろう」
どこかへ吹っ飛んでいたちび白冥が、この好機を逃すまいと一目散に駆け寄ってきた。口には、さっき破壊された祠の破片を咥えている。
「契約って、どうすればいいの?」
「こうするのだ!」
ちび白冥は口に咥えた破片を美言の右手に押し当てると、そのまま一気に真横へと引いた。尖った破片の先端が手のひらの皮膚を裂き、ややあってからじわりと鮮血が滲み出る。
「痛ったぁ!」
「我慢せい! ほれ、その手を本体の額に押し当てろ。斉久との契約をそなたの血で上書きするのだ」
幸い美言は今、白冥本体の頭上に尻もちをついている状態である。少し探れば斉久との契約の印である、薄い赤色の痣が見つかった。
『待て……! 貴様、何をするつもりだ。やめろ!』
「白冥の体から出て行ってちょうだい!」
べちんっ、と。
白冥本体の額めがけて、美言は血の流れる右手を力強く叩きつけた。




