16:卑怯でごめんなさいね!
白い水面に銀色の波紋が広がっている。その中心に、美言は何をするでもなく佇んでいた。
裸足の足元には底の見えない白い湖が、周囲は濃い霧に覆われていて、まるで搾りたてのミルクの中にいるみたいだ。岸を目指して歩いても、水面に銀の波紋が躍るだけで景色は何も変わらない。水の上を歩いている時点で現実ではないことを理解していたが、夢なのかと言われれば足裏に感じる水の冷たさが生々しかった。
『……美言……』
どこからか、美言を呼ぶ声がする。男とも女ともわからない、不思議な声音だ。声は霧の中から、あるいは足元の湖から聞こえてくる。もしかすると美言の頭の中に直接響いているのかもしれない。
声が美言を呼ぶ度に、足元の波紋がりぃんと揺れる。次第に波紋の揺れる感覚が短くなり、やがてやさしい漣が起こったかと思うと、今度は満ち潮のように美言の足元へ一気に波が押し寄せた。
ざあっと、美言の眼前に水飛沫が上がる。
白い湖の色を全部吸い上げて姿を現したのは、美言の背丈ほどもある大きな一匹の狐だ。清浄な純白の毛並みは神々しささえ感じられ、赤い瞳で見つめられれば無意識にごくりと喉が鳴った。
わずかばかり緊張しているのは、白狐が放つ強い神気だけが理由ではない。背で揺れる九本の尻尾が、白狐の存在をより明らかにしているからだ。
「九尾の狐……!」
『我は白冥。そなたの祖先、古守斉久に仕える式神である』
九尾の狐はあやかしの中でもトップクラスの力を誇る妖狐だ。そんなあやかしを使役していたのならば、美言の先祖は当時でもかなりの実力者であったことが窺える。
『美言。斉久と古子の血を濃く受け継ぐ者よ』
「古子?」
『異界より現れし勇者のことだ。斉久と夫婦の契りを交わした際に、この世界に馴染む新たな名を授かった』
確かに平安時代にシフィルという名はめずらしいし、おそらく発音も難しかったのだろう。見た目だけですでに人目を引いてしまうのだから、せめて名前だけでも日本らしいものをと思ったのかもしれない。
(たぶんシフィルをもじったんだと思うけど……でも古子って)
『斉久と古子が力を合わせて魔王を倒した後、我はその封印の礎としてこの身を捧げた。だが今、その封印が解けかかっている。斉久亡き後も、我は主の命令により長らく封印を守ってきたが、主従の絆が弱化している今の我では綻び始めた封印を保つことができぬ』
そう告げた白狐――白冥の額には、目を凝らさなければ見落としてしまいそうなほどに薄い赤色の印があった。何かを使役する際に、主となる者が相手に付ける主従の印だ。
『美言。我と新たな契約を結べ。さすれば我の力は戻り、封印の礎としての役割を再び果たすこともできよう』
「あなたと契約したら弱ってる封印が元に戻る……。それってもしかして、あなたが魔王の魂を封印してる間に、聖剣で魂を消すこともできるってこと?」
『可能だ。寝込みを襲う卑怯な手を勇者が使うことには我も目を瞑ろう』
「卑怯でごめんなさいね! こっちは昨日勇者になったばっかりの非力な乙女なの! 少しくらい大目に見て」
シフィルならば正々堂々と戦える力もあっただろうが、無用な戦いを避けて魔王の魂を滅せるのならそれに越したことはない。
魂だけと言っても、相手は魔王。魔物を統べる悪の総大将だ。いくら聖剣があって、アルトリウスが補佐してくれても、復活した魔王相手に美言が対等に渡り合えるとは到底思えない。魔王が眠っている間にサクッと終わらせることができたなら、それが一番平和で安全である。
「それで……あなたはどこにいるの? 封印の礎ってことは、そこに魔王の魂もあるんでしょう?」
『無論だ。魔王を封じた場所はそなたらに最も近い神域――鎮守の森の中にある』
「そう。鎮守の……って、それ家じゃん!!」
『いつ如何なる時もすぐに現状を把握できるよう、斉久は封印場所の近くに居を構えたのだ』
「にしても近すぎでしょ! それに魔王の気配みたいなものは感じたこともないし、鎮守の森も何度か入ったことはあるけど、それらしい場所はなかったように思うんだけど」
『封印場所は斉久以外には見つけられぬ』
「じゃあ、どうやってあなたのところに行けばいいの?」
『もしもの時のために、我の力の一部を古守家に残している。それがそなたを我のもとへ導くであろう』
九尾の狐の力を宿したものが何なのかはわからないが、そんな強力な力を秘めたものが古守家にあっただろうか。家宝のようなものも特になかったはずだが、もしかしたら美言が知らないだけで現当主である雅就には伝えられているのかもしれない。
『だが、異界の魔物に魔王の居場所を悟られてはならぬ。そなたはまず、七楽町を覆わんとする黒き闇を祓え』
「それって、あの瘴気……」
『そうだ。封印が解ける前に、急ぎすべての闇を祓い、我のもとへ辿り着け』
白冥の輪郭が次第にぼやけて、足元の方から湖に同化して溶けるように沈んでゆく。湖は再び白く濁りはじめ、辺りにはより一層濃い霧が広がった。
『美言。そなたは聖剣をこちら側へ導いた、我らが悲願の勇者だ。封印するしか手段のなかった斉久たちに代わって、そなたが必ず魔王の魂を打ち滅ぼすのだ』
「……重責に押し潰されそう」
『その重さを共に分かち合う者がいるであろう』
この場にはいないはずなのに、美言は背中にあたたかい熱を感じてしまった。
『さぁ、もう夢が覚める。ここでのことを忘れず、一刻も早く我のもとへ来るがいい』
白冥の体がすべて湖の中に沈み込んだ。その拍子に湖から銀色の水飛沫が跳ね上がり、美言の周りをきらきらと輝く小さな光の粒で埋め尽くした。
銀色の光が瞬くたびに、美言の視界が霞んでゆく。けれども眼裏に届く光が水飛沫ではなく、カーテンの隙間から忍び込んだ朝日だと認識した途端、美言の意識は一気に覚醒した。
そこはもう不思議な白い湖ではなく、美言はあたたかい布団の中で目を覚ましていた。意識はまだぼんやりとしているが、夢の内容ははっきりと覚えている。
「……白冥、か」
「お? 起きたか。ならばさっさと支度して瘴気を祓いに行くぞ!」
見知らぬ声がしたかと思えば、突然掛布団の向こうからぬっと小さな白い影が現れた。猫くらいの大きさのそれは、三角耳にふさふさの尻尾を揺らす一匹の――。
「どえぇぇぇ!? は、は……白冥ぃぃ!?」
「いかにも。と言っても本体からこぼれ落ちた抜け毛みたいなものだから、我に助力は求めるでないぞ。我にできることはそなたを本体へ導くだけの、愛らしい子狐だからな」
胸を張ってそう言った子狐白冥の後ろには、九尾ではなく一本の尻尾がふあっふあと誇らしげに揺れていた。




