43・よる
「あら、ナハトもう寝ちゃった?」
「あ、バーゼット様、お帰りなさいです。ナハトちゃん、もう寝ちゃったみたいです。たぶん疲れてたんじゃないですかね」
夜遅く。
時計の針が12時を打つよりも少し前。
スーツ姿のアステラ・バーゼットは自分の家でもある、アンフェドールの寮へと帰ってきていた。
リビングのドアを開ければ、クッションを抱えながらテレビを見ているシャルロッテの姿があった。
寝間着姿で、ソファーの上で大きなクッションに顎を埋め、閉じそうな目でゆらゆらと揺れている。
眠そうな様子である。
アステラが話しかけると、シャルロッテはぱっと振り返ってむふーと笑みを浮かべた。
「そ。まあ、しょうがないかしらね。結構ぼろぼろな様子だったもの」
「記憶がないのも心配ですよ。これからの生活に不安もあると思います」
「うーん……」
アステラはバッグを壁掛けにぶら下げ、椅子に座り込んで吸引器を口に押し当てた。
リビングは禁煙。タバコの代わりである。
テーブルの上には料理が並べられている。
今日のメインディッシュは「エビチリ」なる料理であり、大皿に盛り付けられたその他に、サラダやらパスタやらが見てとれる。
それらの料理は言わずもがなシャルロッテが、 「異界料理読本」と呼ばれるレシピ本を参考に用意したものであった。
「それねぇ……。あの子、なにか隠してると思うのよね」
「え?」
その言葉に、テレビに視線を戻していたシャルロッテが驚きながら振り返る。
「バーゼット様、ナハトちゃんを疑ってるんですか?」
「いやだわ、冷静に分析しただけよ。あとカメラに映ってたし」
エビをフォークで突き刺して口元に運ぶアステラ。
シャルロッテはそれをきょとんとしながら見つめている。
「カメラ?」
「監視カメラよ。きょう魔獣が出た交差点があったでしょ。あそこのカメラに、あの子っぽいのが映ってたのよ」
「でも、カメラにくらい映るんじゃないですか? それで訝しむのは……」
「なら……その子が魔獣を倒してたって言ったら? それも見たことのない力で」
◇
「……ダメだな。割れてしまう」
布団のなかでピシンと、紫色の光が弾け飛ぶ。
水色の寝間着姿の女性が布団に潜り込んでいる。
黒いロングヘア、紫色の瞳───ツヅリは手元のフォークを握りしめていた。
キッチンから拝借した銀色のフォーク。
それはなんの変哲もない、ただの金属製の食器である。
そんなフォークに彼がいま何をしようとしているのかといえば、戦闘用術式を刻み込もうとしている真っ最中であった。
彼はフォークをベッドの上に放り投げる。
「これ以上術式を簡素化するわけにはいかない……」
現状において、ツヅリが持ち得る戦闘手段は己の身一つであった。
自分の全身に刻み込まれている幾何学術式。
それらを使えばもちろんある程度の戦闘は可能であるし、出力によってはあるいは、領域内のヌシと渡り合うこともできるだろう。
彼はおもむろに、左腕を覆っているカバーを外す。
黒く刻み込まれた幾何学的な術式紋様が露わになり、彼はそれを撫でさすりながらため息を吐いた。
───「それは使いようによっては、毒にも薬にもなるだろう」。
師匠の言葉が脳裏に浮かぶ。
彼の偽名であるナハト。それは彼の師であった人物から借りた名前であった。
肉体に刻まれた術式は、肉体を媒体として使えば使うほどにその身体を蝕んでしまう。
いまのところ、それは術式紋様が定着するというレベルに収まっていはいるものの、進行することでより悪い状態になることもあり得る。
まさしく諸刃の剣であった。
「やっぱり、ちゃんとしたものじゃないと」
何にでも術式を刻み込めるわけではない。
というよりは「高度な術式になればなるほど、刻み込む対象のエーテル導性を必要とする」と言ったほうが良いだろうか。
例えばバンテージ。
あれには「バグ持ち」、つまりはエーテル干渉力とも言える「変性指数」に対応するための術式が込められているわけだけれど……。
あの術式はほとんど、あのバンテージにしか刻み込むことができない。
それはバンテージの材料が特殊な、極密度震源体に関係した材料であることに起因していた。
いま刻み込もうとしている術式は、彼が愛用していた指輪の射撃術式である。
あれは高威力のエーテル弾を射出するだけの術式だが、それでもこのサイズの物に刻み込むには、高いエーテル導性が必要不可欠。
あの指輪だってただの指輪ではなく、流体エーテルの練り込まれた合金製であった。
もちろん道路標識くらい大きい物であればその限りではないが……。
彼はむくりとベッドから起き上がると、傍らの机に置かれていた白い衣を手に取った。
───これを使うしかない。




