冒険者と覗く深淵
「レニーくん」
錬金術師エレノーラと知り合って、間もないころだっただろうか。店の品物を眺めていると、レニーに話しかけてくるのだが、だんだんと言葉数が多く感じられるようになってきた。そんな時期。
「『深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ』」
「……いきなり何?」
「哲学者の言葉だ。知っているかね」
読んでいたらしい本をぱたんと閉じ、エレノーラはレニーを見つめる。レニーは静かに首を振った。
「意味は、わかるかね」
「踏み込みすぎるな、でしょ」
冒険者が森の奥地に行けば、強力な魔物と遭遇する。そうなれば、命を落とす。簡単な話だ。
無知で力のないまま、奥地に足を踏み入れるな。そういう意味合いの言葉だろう。
しかし、エレノーラは視線を鋭くするだけだった。
正解ではない、のだろう。
「世間一般の認識としてはそれで十分だろう。しかしあれだ、君は冒険者だ。それに私とも関わっているしな。深く知っておくといい」
大きく息を吐く。
「深淵は本当にこちらを見てくる」
レニーは返事をしなかった。黙ったまま、顔だけ向けていた体を、エレノーラに全て向ける。
すると、エレノーラは意外そうに眉をあげた。
「存外、真面目に聞いてくれるものだな」
「冗談でも話すつもりなら、もう少し気軽な物言いだろ」
「――ふむ。その観察力は好ましいな。余計な踏み込みもしない。実に都合のいい話相手だ。これからも定期的に頼むよ」
「杖つくってもらってるわけだし、少なくともその間は世話になるだろうさ」
「それもそうか」
「――で、意味は?」
「そのままだ」
あっけからんと答えられた。
「言葉を残した者は偉大な哲学者だ。哲学とは知的実践の探求者であり、常に問いが存在する。要は屁理屈に見えるものだったり、机上の空論であったりするものがあったりする。比喩も多い。例えばだが――ここに私の船があったとしよう」
カウンターの上で船の模型でもあるかのように手を動かすエレノーラ。
「私が死んでもこの船は使われ続けた。修理も繰り返され、部品も全て更新された。私が生きていたころとは全く別の船になっているとする。このときはこの新しくされた船は私の船と呼べるのだろうか」
問いを投げられる。
正直「知らない」の一言で済む問題だ。
「その時代の人間がキミの船と信じているなら、キミの船でしょ」
「なぜだ? 実態は全く別物だぞ」
「キミの船として使われ続けていた経緯がある。引き継いでいるのは構成するパーツじゃなくてキミの船というカタチでしょ」
エレノーラは顎に手を当て、数秒考えた。
「ふむ。それもひとつの答え、か」
「……深淵うんぬんは屁理屈じゃないってこと?」
「ま、屁理屈といえば語弊になるが、学者でもないキミに正確性を求めても意味がないな。そうだ。これは珍しく哲学に関係ない真理も言っている」
真理という言葉に力が込もっていた。
「錬金術師の多くは店を開く。まぁ、誰かに仕えるものもいるが、真に探究するものは非常に少なくなった。錬金術は探究するもの。しかし、同時に真に探究すべきではないものだ」
「法に触れるからか」
「いいや。深淵に呑まれるからだ」
至極真面目に、エレノーラは返してきた。
「私は天才だ。私なら世界をひっくり返すほどのものを創れる」
「そりゃあ……」
店を見渡す。特許を得た魔道具や、高品質の薬たち。レニーの要望に合う杖を試作できる腕。
否定する要素はなかった。
「没頭していた時期がある。神の偉業すらできるといわれる賢者の石の生成、それを私ならできると……ま、若気の至りというやつだ」
「今はやろうとしないわけ」
「このこじんまりとした店を見ればわかるだろう」
エレノーラは肩を上げる。
「研究室に引きこもって文献を読み漁り、ただひたすらに没頭した。それが許されるほど私は錬金術師として成功していたわけ……いや今も成功しているし、衰えているわけではないぞ」
「そこは別に疑っていない」
「あのときの私には問題があった」
「問題?」
「独りだったことだ。理解者をつくろうとせず、忠告も聞かず、己だけを信じていた。研究を進めていく中で『誰か』に見られている感覚も、気のせいだと流せるくらいには、な」
エレノーラは立ち上がって商品棚の小瓶をひとつ取りに行った。
「気がついたら薬ができていた」
そしてカウンターの上に置く。
「蘇生薬だとわかった。逆に言うと、蘇生薬ということしかわからなかった」
小瓶を持ち上げ、顔の近くで振る。
「製法も、どういう理論なのかも、何の蘇生薬なのかも、わからない。そして」
エレノーラは暗闇へ視線を向ける。誰も、何もない、ただの影を。
「視界の端で誰かが笑っているのがわかった。私を視て、そして、先を期待しているナニカ」
「それが、深淵」
「何か正確にはわからない。ただ、深淵と呼ぶにはふさわしいやつだな。だから深淵に進むとき、深淵もこちらに歩み寄ってきている。そして、おそらく私たちに何かをさせようとしている。哲学者の言葉は、ヤツを警告するものでもあるのだと、そのとき実感した」
小瓶を握り、胸に抱く。
「私が錬金術師だったから遭遇したのか、魔導のものでも出会えるやつなのか、はっきりはわからない。私は二度と会いたくない。だから研究をやめた」
「……蘇生薬は」
「燃やした。再現性のない、生成した自覚もない薬なぞ、持っていられない」
「そこでその判断ができるあたり、天才だね」
「理性的であるべき者が理性を失くした。あのときの研究はあるまじき愚行だったよ。帳消しにはならない」
小瓶を棚に戻す。
「レニーくん、友人は持っておきたまえ。でなければ深淵に引きずり込まれる。本能的に皆知っている。錬金術師が店をやるように。冒険者がパーティーを組むように。キミは、どこか危なげだ」
「話し相手には困らないね。ここに来ればいいから」
レニーがそう返すと、エレノーラは笑った。
「ぜひ来たまえ。深淵の話をしたが、実はあの言葉の完全体ではない」
エレノーラは人差し指を立てながら、こう言った。
「前にこの言葉がつく。
『魔物と戦うものはその過程で自らが魔物とならぬよう気をつけよ』」
つまり、魔人のことである。
「レニーくん、キミが気をつけるべきはこちらだろう」
「賊狩りがそんな縁できるとでも?」
天井に向けていた指がこちらに向く。
「警句を胸に抱くだけで避けられる未来はある。覚えておきたまえ」
しかし、とエレノーラは続ける。
「笑わないのだな。ありえない話だ、と。疑いもしない」
レニーは己を影を見る。
「……オレが信じられるかどうかなんてどうでもいいからね」
「つまり信じてないと」
「現実感は薄いさ。でも嘘だとは思わないよ。ありえないことをありえないと否定すれば、首を狩られるからね」
常識で対処できるほど冒険者は楽じゃない。
――――と。
なぜこんなことを思い出したかというと、それは……朝に夢を見たことと――
「――気がついたら、完成していたの。薬が」
――そんな、リミーヤの話を聞いたからだ。




