Mission.8「予告状 芽生えた感情」
ヒュン――と、空気を裂く音がした。
反射的に身を引いたモワの頬を、薄い紙片がかすめる。
背後の壁に突き刺さったそれは、見慣れたトランプだった。
「……誰よ」
低く吐き捨てながら、モワはすぐにイフリートの前に回り込む。
その小さな体を背中で庇うように。
薄暗い倉庫の奥から、靴音がゆっくりと響いてきた。
現れた男の姿に、モワの表情が露骨に歪む。
「あんた……何しに来たのよ……」
ルナールは肩をすくめ、楽しげに笑った。
「まあまあ、そんな顔すんなよ」
構えていた銃をあっさりと収める。
「いい事教えに来てやったのに」
「は?」
モワの声は冷たい。
「あんたの事なんて信じると思う?」
ルナールは気にする様子もなく、軽く息を吐いた。
「直にノアが此処に来るよ。“商品”を取り返しにね」
その言葉に、倉庫の空気がぴたりと止まる。
「君一人で大丈夫なわけ?俺も手伝おうか?」
モワはゆっくりとナイフを取り出した。
銀の刃が、わずかに光を反射する。
「馬鹿な事言わないで。あんたがノアに情報を漏らしたんでしょ?隠したって無駄よ――警察と怪盗のスパイさん」
ルナールは否定しなかった。
ただ、面白そうに目を細める。
「……さすがだね」
そして、ふっと顔を上げた。
「じゃあいいか」
その一言に、嫌な予感が走る。
「ノアさーん!この怪盗は、“商品”を返すつもりないみたいでーす!」
倉庫中に響き渡る大声。
「っ……!?」
次の瞬間、重い扉が軋みながら開いた。
差し込む光の中に、一つの影が立つ。
振り返った時には、もうルナールの姿は消えていた。
(逃げた……!)
だが、そんなことに構っている暇はない。
ゆっくりと近づいてくる足音。
「……そこに居たのか、イフリート」
落ち着いた声が、静かに響く。
「さあ、私と帰ろうじゃないか」
ノアは当然のように手を差し出した。
モワはすぐさま前に出る。
「近付かないで」
イフリートの手を掴み、強く握る。
「あんたなんかに、この子は渡さないわ」
その手の温もりに、イフリートはわずかに目を見開いた。
胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。
理由は分からない。
けれど――離れたくないと、思った。
ノアはその様子を見て、わずかに目を細める。
「……なるほど」
小さく舌打ちし、指を鳴らした。
倉庫に、バットやナイフ、銃を持った男達がなだれ込んで来たのだ。
十人ほどの影が、一気に空間を埋めた。
「私の“商売道具”を返して貰いますよ」
その一言で、男たちは一斉に動いた。
「チッ……!」
モワはナイフを構え、迎え撃つ。
飛びかかってきた男の腕を弾き、体勢を崩す。
続けざまにもう一人を蹴り飛ばし、距離を取る。
だが、数が多すぎる。
「イフリート、下がって!」
銃声が響き、床が抉れる。
避けるので精一杯だ。
(……まずい……)
逃げ場はない。
それでも、退くわけにはいかなかった。
背後にいる存在のために。
その時、パンッ、と乾いた音が響いた。
「っ……!」
腕を掠める衝撃がし、続けて足にも痛みが走る。
バランスが崩れ、その一瞬で、繋いでいた手が離れた。
「イフリート!」
イフリートも、無意識に手を伸ばしていた。
だが、届かない。
そのまま、モワの体が崩れ落ちた。
「モワさん……!」
駆け寄り、震える手で傷口を押さえる。
温かい血が滲んでくる。
「……逃げなさい……!」
かすれた声。
「この街の端にある……児童養護施設に……行くのよ……!」
その時、男たちが銃口を向けた。
「やめて……!」
イフリートの声が震える。
だが、止まらない。
「どうする?イフリート」
ノアの声が静かに響き、
「お前のせいで、この怪盗は死ぬ」
手を差し出した。
「それが嫌なら、私の元へ戻れ」
(……生きてほしい)
その一心で、イフリートはモワから手を離し、そして――ノアの手を取る。
ガツン、と鈍い音が響いた。
「……っ!」
男の一人が、モワの首元を銃で殴りつけたのだ。
ぐらりと、モワの体が揺れる。
「やめて……!」
叫びは届かず、モワはそのまま意識を失った。
「安心しろ、死んではいない。約束は守る」
それだけが、唯一の救いだった。
イフリートは何も言えないまま、ただ頷く。
視線が、もう一度だけモワへ向く。
(……生きて)
心の中で、強く願う。
ノアは満足げに踵を返した。
「さあ、こんな街とはおさらばだ!」
そのまま倉庫を後にする。
イフリートも、引かれるように歩き出す。
扉の前で、ふと立ち止まり、振り返る。
床に倒れたままのモワ。
それでも確かに、あの手の温もりが残っている。
守ろうとしてくれた意志が。
『逃げなさい』
その言葉が、胸の奥で静かに響く。
イフリートはぎゅっと拳を握り、前を向いた。
もう、ただ従うだけではない。
小さく芽生えた何かを、胸に抱いたまま。
重い扉がギィ、と響き、光が途絶えた。
倒れたままのモワの胸が、かすかに上下していた。
まだ――終わってはいない。




