はじめまして、イザベラ様。
フリート子爵家に身を寄せるアビナ先生。
わたくしは今、その姪である『イリア・フォード』準男爵令嬢と名乗っている。
準男爵令嬢は、厳密に言えば貴族ではなく平民扱いだ。田舎に住む無名の令嬢に過ぎないが、アビナ先生の紹介状さえあればファーマン伯爵家の家庭教師に応募することができる。
紹介状には「一年間アビナ先生のもとで指導を受け、非常に優秀な成績を収めた」と記されていた。
当たり前だわ。
わたくしはアビナ先生の一番優秀な生徒だと言われていたのだから……たぶん。
ただ単に昔は勉強が苦手……というか、やらなかっただけだ。
興味のない科目には身が入らなかったけれど、大好きな外国語と数学の成績だけは昔からずば抜けていた。
おかげで、無事に家庭教師としてファーマン伯爵家へ潜入することができたのだ。
トムには、把握できる範囲で伯爵家の内情を調べてもらっていた。
それによると、わたくしが嫁いでいた頃に働いていた使用人のほとんどは首を切られ、すっかり入れ替わっているらしい。
わたくしが階段から落ちて大怪我を負った際、誰にも気づかれず放置されていたことも、使用人が一新された要因の一つだとトムが教えてくれた。
また、後妻のカーラ様は実家の母親の体調が優れないらしく、昨日から帰省中とのことだった。
それを聞いて内心ほっとする。
もしルーカスとカーラ様が仲睦まじく過ごす姿を目にしてしまったら、怒りを抑えきれずに暴れていたかもしれない。
ふと思う。あの屋敷でのわたくしの暮らしは、一体どんなものだったのだろうか。
思い出せない……。子供を放置して遊び呆けていたことは覚えているのに、それでもあの屋敷に帰り続けていたのだろうか?
今のわたくしなら、そんな冷え切った生活など嫌になってさっさと実家へ戻っているはずだ。それなのに、なぜ伯爵家に留まっていたのだろう。
意地?
それとも、ルーカスのことをまだ愛していたから?
自分の胸に手を当ててみても、彼を愛していたはずの心はもうどこにも見当たらない。
考えてみれば、少女特有の甘いときめきを恋だと勘違いしていただけなのだろう。
十六歳までの記憶しかない今のわたくしとしては、倒れて意識を失っている間に捨てられ、あっさり再婚されたことに対する怒りの方が強い。彼への甘い恋心なんて、とっくに壊れて腐ってしまっていた。
カーラ様が戻ってきたら、正体がバレないよう完璧に変装しなければならない。けれど彼女も昔のわたくしと同じで社交好きだ。
継子であるイザベラの世話など、するはずがないわ。あざといカーラ様のことだもの、ルーカスに気に入られたい時だけ、彼の前で「良い母親」のフリをするに違いない。
同類だからこそ、その考えは手に取るようにわかる。
だからこそ、面接さえ通ってしまえば大した心配はしていないのだ。
……当時の使用人たちには、やはり嫌われていたのかしら?
うーん、考えても思い出せないものは仕方ない。
とりあえずぶつかってみるしかないわね!
✴︎ ✴︎ ✴︎
リーンの腕前は本当に素晴らしいわ!
前髪を長めにとった三つ編みの栗色ウィッグをかぶり、ほぼスッピンの顔に太めの眉を描く。眼鏡をかけ、田舎娘らしい流行遅れの安物ドレスを身にまとって伯爵家を訪れれば、誰もわたくしがこの屋敷の元夫人だとは気づかないはずだ。
あまりの変わり様に、わたくし自身思わず「ねえ、さすがに田舎くさすぎないかしら?」と不満げに眉をひそめてしまったほどだ。
けれどトムとリーンは「これなら絶対にお嬢様だとバレません!」と言い切った。
いまいち納得は行かないものの、これでようやく堂々と伯爵家へ足を踏み入れることができる。
わたくしは週に三日、イザベラの家庭教師としてアビナ先生の屋敷から通っているという手はずになっている。
そのためアビナ先生にお願いして、先生の屋敷にもわたくしの部屋を用意してもらった。向こうが不審に思って調べたとしてもボロが出ないよう、事前に手を打っておく必要があるからだ。
リーンのおかげで完璧に変装し、自由に出歩けるようになった。
他人の目を気にせず買い物を楽しみ、街を堂々と歩くことができる。
これまで貴族の令嬢として、そして伯爵夫人として、いかに世間の目を気にして生きてきたかを思い知らされる。なんて堅苦しく、息苦しい世界にいたのだろう。
✴︎ ✴︎ ✴︎
「本日からイザベラお嬢様の家庭教師を務めさせていただきます、イリア・フォードと申します。よろしくお願いいたします」
出迎えた執事は、以前と変わらずロミオだった。
ロミオとは、かつてルーカスの婚約者としてこの屋敷を訪れていた頃に何度も顔を合わせている。
「フリート子爵夫人からのご紹介ですので安心しております。非常に優秀なご令嬢とお聞きしておりますので、期待しておりますよ」
ロミオは男爵の身分を持っているはずだ。
それにもかかわらず、準男爵令嬢に過ぎないわたくしに対しても見下すような態度は一切見せない。
この人は根が誠実な人なのかもしれないわね。だからこそクビにならず、今もこの屋敷で執事を続けていられるのだろう。
ただ……それならなぜ、わたくしが倒れていた時にすぐ助けてくれなかったのかしら?
疑問は尽きないけれど、今のところ答えは見つかりそうにない。
ロミオは自らイザベラの部屋へと案内してくれた。
「こちらがイザベラお嬢様のお部屋でございます」
扉を開けると、絨毯の上にちょこんと座る愛らしい女の子の姿があった。
ピンクブロンドの髪をツインテールにし、水玉のリボンを結んでいる。
屋敷の中にいる時はドレスではなく、動きやすいワンピースを着ているようだ。
わたくしも幼い頃、窮屈なドレスを嫌がって可愛らしいワンピースばかり好んで着ていたことを思い出す。
「こんにちは」
立ち上がり、可愛らしい笑顔をこちらへ向けてくれた。
人見知りをしない性格はわたくしに似たのかもしれない。ルーカスは無愛想で、お世辞にも人懐っこいとは言えない男だったから。
「初めまして、イリア・フォードと申します。これからイザベラお嬢様とお勉強をご一緒させていただくことになりました」
ふわりと微笑みかけて語りかける。
「イザベラお嬢様は、どのようなことがお好きですか?」
「どのようなこと……?」
言葉の意味がよく分からなかったのか、きょとんとした顔を浮かべた。
「わたくしは刺繍を刺すのが大好きですの。ダンスも、歌も、ピアノも大好きですわ」
「あっ! ああ! わたしは……おえかきがすき! それから……うたをうたうのも、だいすきです!」
少し恥ずかしそうにはにかみながら、好きなことを教えてくれた。
そして急いで机の引き出しへ向かうと、何かを取り出してきた。
「これ……」
そっと差し出されたのは、イザベラが描いた一枚の絵だった。
四歳の女の子が描いたその絵は、赤や青、黄色にピンクといった鮮やかなクレヨンで思いのままに彩られている。
ただ……。
「この絵は……お花……かしら?」
「ちがうわ! これは、とりさん! こっちは、ねこさん!」
「そ、そうなのね……。とても個性的な、すてきな絵だわ」




