娘の名前を教えて。
サラと屋敷の外へ散歩に出かけるのが最近の日課になった。
今日は馬車に乗り、少し遠出をした。
行き先はファーマン伯爵家の屋敷の近くにある公園。お供にはリーンとトムに付き添ってもらった。
この公園へ行くと言ったとき、二人はなんとも言えない顔をしたけれど、私は気がつかないふりをした。
公園は記憶の通り、青々とした美しい芝生が広がり、中央に大きな噴水があった。子どもを遊ばせるのにも、散歩を楽しむのにもいい、綺麗に整備された場所だった。
(やっぱり夢で見た場所だわ。ここに娘と来たことがある……)
「サラ、リーンとあそこの遊具で遊んでいらっしゃい」
「うん!」
「かしこまりました」
二人は手を繋いでブランコへと向かっていく。
私
わたくしはベンチに腰を下ろし、その様子を見つめていた。
あのレストランで見かけたピンクブロンドの女の子は、私が産んだ娘。そして、あの子がまだよちよち歩きの頃にここへ来た——。
思い出した記憶に、ツキンと胸が苦しくなる。このわたくしに、母性があるとでも言うの?
自分でも信じられない。
わたくしは自分が一番大事なはずだ。だからこそ、わたくしと向き合ってくれなかった夫が許せなくて、娘を乳母や使用人に任せて社交ばかりしていた。
頭で覚えていなくても、あの頃の心の痛みを体は覚えているみたいだった。
「お嬢様、サラが楽しそうですね」
後ろに立っていたトムが話しかけてきた。楽しそうにブランコを漕いで笑うサラの姿を黙って見つめたまま、わたくしは返す。
「ええ、そうね……ねぇ、トム」
「はい?」
「わたくしが産んだ娘の名前を教えてちょうだい」
唐突な問いに、トムは沈黙した。
返事のない彼に、わたくしはもう一度、強い口調で責め立てた。
「さっさと言いなさい! あのレストランでわたくしにわざとあの三人の姿を見せつけたのでしょう?」
トムはしばらく黙り込んでいたが、わたくしが諦めないのを悟ったのか、諦めたように口を開いた。
「…………イザベラお嬢様です」
「そう……」
イザベラ。その名を口にしてもピンとはこない。あの子の顔を見てから、こんなにも気になり続けているというのに。
「わたくしね、すべてを思い出したわけではないの。ルーカスと結婚したこと、娘を産んだこと。あとはこの公園に、娘と遊びに来たことくらい……」
あの惨めな日々の具体的なことまでは口にしなかった。覚えているのは、彼との冷め切った結婚生活という事実だけなのだから。
「お嬢様……思い出せないのなら、そのままでいたほうがいいとは思いませんか?」
「……?」
トムは思い出させたくてヒントを与えたのではなかったの? わたくしは思わず眉を顰めた。
「そうね。わたくしが目覚めたことは、世間には伏せられているみたいね。みんなわたくし
に過去を隠そうとしている。でもトム、どうしてあなたはヒントを与えたの? 教えてはいけない決まりなのでしょう?」
「……悔しいからです」
「悔しい? 何が?」
「旦那様は、お嬢様の記憶がないのならそのままにしておいたほうがいいと考えていらっしゃいます。それに、目覚めたことも誰にも知らせておりません。奥様にもアーサー様にも……」
「ふふっ……予想通りね。誰も見舞いに来ないなんて不自然だもの」
お母様にもお兄様にも嫌われてはいないはずだ。
我儘すぎて呆れられたり叱られたりはしても、会いに行けばわたくしの好きな料理が並んでいたし、誕生日には必ず来てくれていたのだから。
後ろから聞こえるトムの声に、少しだけ苛立ちが混ざっているのを感じた。彼が今どんな表情をしているのかは見えない。
「お嬢様……旦那様からは絶対に話すなと言われております。それに、僕が知っていることなど、お嬢様が忘れてしまった記憶のほんのわずかでしかありません」
「あなたは嫁ぐときについて来てくれなかったものね」
「残念ながら、侯爵家からは誰もついて行きませんでした」
「そう……じゃあ、訊いても答えられることは少ないのね」
「……はい」
「なら、これだけは教えて。どうしてわたくしは三年間も眠り続けていたの?」
ずっと空気を読んで訊ねなかった一番の疑問を口にする。
「……事故です。伯爵家の階段から落ちて頭を強く打たれました。治療はマーカス先生では手に負えず、アーサー様のご友人である隣国の辺境伯夫人が治療をしてくださいました」
「先生が手に負えない? だったらわたくし、死ぬしかなかったのではなくて? あの先生より優秀な医師なんてこの国にはいないでしょう。隣国にはいたの?」
「怪我自体は治療できましたが、脳に影響が残りました。そのため、魔法を使えるお方が必要だったのです」
「魔法……」
「その奥様が作るお薬は特別です。ご自分で薬草を栽培し調合される魔力のこもった薬が、お嬢様の脳のダメージを治癒しました。
ただ……その薬師様がおっしゃるには、治ったはずなのに目覚めないのは、イライザ様ご自身が目覚めることを拒否しているのではないかと。いつか目覚めるかもしれないし、一生このままかもしれないと言われておりました」
「そう……。階段から落ちたのは事故? それとも誰かの意図?」
「わかりません。伯爵家の使用人は誰も現場を見ていないそうです。旦那様はお嬢様を心配し、すぐに侯爵家の屋敷へと引き取り、手を尽くして治療にあたられました」
「あの無愛想でわたくしに冷たかったお父様が、わたくしを心配したと言うの?」
信じられない。大怪我をしても自業自得だと冷たく言い放たれるくらい、嫌われていると思っていたのに。
風に乗って、サラの明るい笑い声が耳に届く。
動揺と混乱で乱れる心の中で、その声だけが唯一、わたくしを平静に繋ぎ止めてくれていた。




