美味しい。
「………イライザ様……」
馬車に乗り込み、黙ったまま窓の外の景色を眺めていた。
リーンの声に視線を移す。隣ではサラが疲れてしまったのか、うとうとしている。
指を唇に当て「しっ」とリーンを制した。せっかく眠り始めたサラを起こすのは忍びない。
「あ、あの……ルーカス様のことですが……」
それでもリーンは、絞り出すような小さな声で話しかけてきた。
ああ、そうね。リーンはわたくしの記憶が少しだけ戻っていることを知らないのよね。
「疲れたわ」
返事をするつもりはない。今は頭の中を整理したいのだ。
リーンはこれ以上話しかけても無駄だと悟ったのか、静かに口をつぐんだ。
✴︎ ✴︎ ✴︎
一晩、じっくりと考えた。
お父様に突撃して問いただそうかとも思ったけれど、気がつけばお父様は仕事で領地へ向かったらしい。そもそもわたくしが目覚めてからというもの、避けられているのか屋敷の中で会うことすら一度もなかった。
その代わり好き自由にさせてもらっているので文句はないけれど……記憶のない3年間と、眠り続けた3年間のことがどうしても解せない。
あれから思い出した記憶も特にない。
ただ、今日見かけたのは、わたくしと同じ髪色をした女の子と、仲睦まじく歩くルーカス様。そしてその横に寄り添うカーラ様。どこからどう見ても「親子」だった。
カーラ様は遠縁に当たる。隔世遺伝でピンクブロンドの髪の子供が生まれたと言われれば、違うと否定しきれないけれど……。
でも、わたくしが結婚していたこと、子供を産んだことくらい、世間は知っているはずでしょう?
隠したところでいつかは知られるのに、なぜ周りは揃って隠そうとするのかしら。お見舞いに誰も来ないのも、単にわたくしの性格が悪いからだと思っていたけれど……。
(……今日の外出もそうよ)
変装用にカツラをかぶらされたのは、目覚めたことが知れると面倒だからだと、トムは言った。
『お嬢様、その髪色は悪目立ちいたします』
その時は納得したけれど、本当は「目覚めたことを周囲に知らせたくないから」外に出したくなかったのでは?
今日行ったレストランでも身分を疑われ、家紋入りのハンカチを見せてようやく通された。しかもあの店のオーナーはお父様で、最近買い取ったばかりだという。わたくしが店に行くと決めたのはたった一週間前。
……誰にも存在を知られないよう、急遽買い取って支配人にすら周知していなかったのでは?
トムの行動も解せない。主人であるわたくしにも平気で物申すし、悪気がない振りをして意地悪をしてくる。
あの不快な支配人に対する態度も、わざと泳がせていたように思える。あの傲慢な態度は即クビ案件だけれど……トムが最初から一言教えてくれれば済んだ話だ。
……まさか、あの親子三人を見かけたのもトムの仕込み?
ううん、そんな訳ないわね。ただの偶然よ。
「ふぁ……ダメ、頭を使うのは慣れていないわ」
久しぶりに街へ出て疲れてしまった。
けれど、屋敷の子供たちにお土産を渡した時のことを思い出す。目をキラキラさせて、普段はわたくしを怖がって近づかないくせに、ビクビクしながら「ありがとうございます」とお礼を言ってきた姿……最高に気持ちが良かったわ。
ちょっとクセになりそう。
「ふあああ……眠たい……」
横になり、あっという間にまどろみの中へ落ちていく。
――だから、わたくしが気づくことは勿論ない。
スヤスヤと眠る姿を優しく見つめ、そっと毛布をかけ直した人物がいたことを。
「おやすみ」と、愛おしそうに囁いた声があったことを。
✴︎ ✴︎ ✴︎
特に予定もないわたくしの日課は、マーカス先生の診察にかこつけた言い合いとお茶の時間、そしてサラたちとの散歩だ。
サラたち……そう、最近は気がつくと使用人の子供たちがなぜか懐いてきて、ゾロゾロと散歩についてくるようになった。上は10歳から、一番下はサラの5歳まで。
リーンはその様子を見て「お嬢様がまさか子供たちに懐かれるなんて!」と楽しそうに笑う。
「ほんと、この子たち、なぜついてくるのかしら?」
ぶつぶつ文句を言っているのに、子供たちは気にした様子もなく話しかけてくる。
「イライザ様!ほら、蕾が!」
「あら、本当ね」
幼い指が指し示す先を見ると、確かにふっくらとした蕾がついている。
今夜にも咲くかもしれないわね。一年に一度、それも夜にひっそりと咲き始め、わずか数時間だけ美しい姿と甘い香りを放ち、朝には萎んでしまう幻の花。
「イライザ様、あの花は蕾が最初は下を向いているんですけど、開花が近づくと自然に上を向いて膨らむんです!」
詳しく説明してくれたのは、庭師の息子のユスクだ。たくさんの蕾があるから、今夜は見ごたえがありそう。
「子供は早く寝てしまうから見られないわね。残念ねぇ?」
ニヤリと意地悪く微笑むと、ユスクは顔を真っ赤にして悔しそうに言い返してきた。
「ぼ、僕、がんばって起きていられます!」
「あら? まだお母さんと一緒じゃないと寝られない坊やが何を言っているの? 起きていられるわけがないじゃない」
「ひとりだし! ちゃんと一人で寝てるし!」
必死に否定するユスクを周りの子がからかい、現場がやんわりと和む。
リーンが隣で「あまりからかわないであげてください」と呆れ顔で足を入れた。
「えー? 面白いじゃない。……リーン、今夜は一緒に花の鑑賞会よ」
「ふふ、喜んでお供いたします」
「せっかくだからお酒の用意も頼むわね。簡単なおつまみも欲しいわ」
「……マーカス先生に許可をいただいてからになりますが」
「今夜くらい良いじゃない。目覚めてからまだ一滴も飲んでいないのよ?」
「……お嬢様。6年間の記憶がないのに、ご自身がお酒を飲めることをご存知なのですか?」
「ギクッ」と効果音が聞こえそうなほど跳ね上がった。
――失われた記憶のどこかで、わたくしはお酒を嗜んでいた。
夢の中で見た景色。娘を産んだ後、社交に明け暮れて浴びるようにお酒を煽っていた記憶。身体がその感覚を覚えているから、自然と口に出てしまったのだ。
ごまかしつつ迎えたその夜。
庭園にはリーンやトム、マーカス先生にユスクの両親など、手が空いている者が集まり、ひっそりと花の鑑賞会が始まった。
夜の暗闇にふわりと浮かび上がる、神秘的な白い花。その美しさにうっとりとし、甘い香気に胸が満たされる。
「こんな素敵な花が今夜しか見られないなんて、本当に勿体ないわね」
そう呟きながら、テーブルに置かれたグラスを手に取り、豪快にグイッと煽る。
「お気に召しましたか? おかわりは如何ですか?」
「そうね、もう一杯いただくわ」
「かしこまりました」
笑顔のリーンがグラスになみなみと注ぎ足してくれたのは――出来立ての、搾りたてオレンジジュースだった。




