夜会。
「俺様が何様か、だと?」
レイモンド様は面白がるように目を細めると、組み替えた脚の上で指先を軽く叩いた。
「他国の名ばかりの貧乏貴族だとでも思っていたのか? 重厚で堅苦しい礼服を着ていなければ高位貴族に見えないなんて、相変わらずお前は目に見えるものしか信じないな」
「~~っ! 人の見た目をあやふやにさせておいたのは、そちらでしょう!?」
思わず身を乗り出して抗議すると、彼はハッと鼻で笑い、テーブルの上の招待状を指先でトントンと叩いた。
「俺の身分が気になるなら、夜会の当日まで楽しみに取っておけ。門前払いなどされない『資格』があることだけは保証してやる」
「惨めなお前は一人で夜会に参加するのか?」
「それは……お父様と堂々と会場に入るつもりですわ」
お父様はわがままなわたくしを嫌っているからご一緒に参加なんてしてくれるわけがないわよね。
「会場の隅で浮いて、元夫と新しい妻が仲睦まじく踊る姿を遠目から睨みつけるのがお前の『復讐』か? 痛くも痒くもないな。それどころか、『三年間眠っていた哀れな前妻が、未練がましくやってきた』と周囲の笑いものにされるのが関の山だ」
レイモンド様の容赦ない正論が、胸に突き刺さる。
悔しいけれど、彼の言う通りだ。今のわたくしには社交界での立場も、味方になってくれる有力な後ろ盾もない。
いえ!いるわ!エリザベスという強い味方が!
でも……彼女は王太子妃……わたくしだけを贔屓にはできないわ……
悔しいけど、ただ乗り込んだところで、惨めに恥を晒すだけで終わってしまうわよね。
「……じゃあ、どうしろと言うのですの」
唇を噛み締め、悔しさを押し殺して尋ねると、レイモンド様は満足そうに口角を上げた。
「簡単だ。お前を『いなかった者』として処理し、平然と幸せを謳歌している奴らの前に、完璧な姿で現れるんだ。それも――社交界の誰もが無視できない、最高の男を隣に連れてな」
「最高の男って……まさか、あなたのことですの?」
思わず言って彼を舐め回すように見てやった。
うーん、意地悪な男にしか見えないわ。
「他に誰がいる?」
悪びれもせず堂々と言い放つ彼に、わたくしは呆れて溜息をついた。相変わらず自信に満ちあふれていて、本当に憎たらしい。
「……ルーカスもカーラも、そしてあの子も。わたくしを忘れて笑っている奴ら全員の鼻を明かしてやれるなら……」
「ああ、盛大に化けて見せろ。奴らの貼り付けた幸福な仮面を、叩き割ってやるために」
レイモンド様の低い声が、心地よく耳に響く。
わたくしはハーブティーのカップをテーブルに戻すと、彼が滑らせてきた招待状をしっかりと手に取った。
「いいでしょう。あなたのその不敵な自信、利用させていただきますわ。後で『手に負えない』なんて泣き言を言っても遅いですからね、レイモンド様」
「フッ、言ってくれる。期待しているぞ、イライザ」
ニヤリと不敵に笑い合う二人の間に、静かだが確かな嵐の予感が満ちていくのだった。
✴︎ ✴︎ ✴︎
侯爵家の屋敷の一室。
鏡の前に座るわたくしの姿を見て、リーンは感極まったように両手を胸の前で組んだ。
「お嬢様……本当にお綺麗です。あの三年間が嘘のようですわ」
「ふふ、当たり前よ。わたくしが本気を出せば、これくらい簡単だもの」
鏡に映るのは、あの地味な「イリア・フォード」の変装などではない。
美しいピンクブロンドの髪は夜会巻きに上品にまとめ上げられ、デコルテが美しく映える深紅のドレスは、かつての傲慢な侯爵令嬢としての誇りと、大人の女性としての気品を完璧に纏わせていた。
それは、三年前の眠りから覚めたボロボロの女性などではなく、社交界の主役に返り咲くための「戦闘服」だった。
「お迎えが参りましたよ、お嬢様」
部屋の扉をノックして現れたのは、いつもよりいくらか仕立ての良い正装に身を包んだトムだった。
彼は少しだけ複雑そうな、しかし頼もしい笑みを浮かべて一礼する。
「……お供いたします。あの方々を、ぎゃふんと言い返してやってください」
トムの顔を見てわたくしも微笑んだ。
「言うじゃない、トム。任せておきなさい。わたくしを『いなかった者』にしたあの人たちに、生きている現実をたっぷりと味あわせてあげるわ」
部屋を出ると、夜会の会場へと向かうための絢爛な馬車が待っていた。
そして、その馬車の扉のそばには――漆黒の礼服に身を包み、どこか余裕のある笑みを浮かべたレイモンドの姿があった。
「遅いぞ、眠り姫。主役が遅れては、会場の犬どもが退屈してしまうだろう」
「待たせたわね、レイモンド様。……さあ、最高の悪夢のはじまりよ」
わたくしは彼の差し出した大きな手の上に、自分の手をそっと重ねた。
冷たい夜風がドレスの裾を揺らす。
胸の奥で、冷たく黒い炎が美しく燃え盛っていた。
(待っていなさい、ルーカス。カーラ。
あなたたちが築いた砂上の楼閣を、今夜すっかり壊して差し上げますわ)
二人の乗った馬車は、静かに、しかし確かな車輪の音を響かせながら、王城へと向かった。
王城の舞踏会場は、まばゆいシャンデリアの光と、着飾った貴族たちの華やかな歓声で満ちあふれていた。
扉が重々しく開き、ファンファーレとともに来場者の名が告げられる。
「――隣国トレント公爵家、レイモンド様。および、ノーベルト侯爵令嬢、イライザ様のご入場です!」
そのアナウンスが会場に響き渡った瞬間、ざわめいていた空間に嘘のように静寂が訪れた。
すべての視線が一斉に、大扉の前に立つ二人に集中する。
――トレント公爵。
他国の貧乏貴族などと勘違いしていたレイモンドの正体は、隣国の超高位貴族、それも次期当主である公爵家本人のものだった。
漆黒の正装に身を包んだ彼は、圧倒的な威圧感と気品を纏い、まるで獲物を狙う野獣のように不敵な笑みを浮かべている。
(え?マジで?わたくしよりも下の貴族じゃなかったの?)
その隣でわたくしの顔は引き攣っていたが、化粧という仮面でなんとか誤魔化せた……と思う。
誰もが「死んだ者」、あるいは「永遠に目覚めぬ者」として忘れていたはずのノーベルト侯爵令嬢イライザが、深紅のドレスを纏って誇り高く立っていた。
「嘘だろ……? イライザ様って、確か……」
「三年前から眠り続けて、すでに故人扱いされていたんじゃ……?」
「しかも、隣国のトレント公爵を伴って……一体どういうことだ?」
あちこちでヒソヒソと囁き声が漏れる。
その視線の先に、一組の男女が凍りついたように立ち尽くしているのが見えた。
ルーカス・ファーマンと、その妻となったカーラだ。
カーラの顔から血の気が完全に引いていた。美しく着飾っているというのに、その顔は恐怖で引きつり、隣にいるルーカスは青ざめたまま、目の前にいるはずのないわたくしから一歩も目を離せずにいる。
「……行くぞ、イライザ」
レイモンドが低く甘い声で囁き、そっと差し出した腕に、わたくしは自分の手をしっかりと絡ませた。
心臓は早鐘を打っているけれど、足取りは一歩も揺るがない。
「ええ、行きましょう」
わたくしは顎をくいと上げ、社交界の最高級の微笑みを貼り付けながら、凍りついた群衆の中へと優雅に足を踏み入れたのだった。
(エリザベスがこちらを見て微笑んでいるわ。隣で王太子殿下も笑ってる)
会場のざわめきを背に受けながら、わたくしたちは優雅に歩を進めた。
視線の先で、ルーカスとカーラはまるでこの世のものざるを見ているかのように硬直している。
カーラは恐怖で小さく震え、白塗りのように青ざめた顔でこちらを睨みつけていた。あの、あの日の階段で浮かべていた勝ち誇った笑みはどこへやら、今の彼女の顔は惨めなほどに歪んでいる。
――ざまあみろ、と言いそうになるのを必死に堪えた。
「おや、あそこにいるのは……ファーマン伯爵ご夫妻ではないか」
レイモンド様が低く響く声でわざとらしく呟き、その視線をルーカスたちの方向へと向けた。
周囲の貴族たちも、冷ややかな好奇の目を一斉にそちらへと向ける。
「ご機嫌いかが、ファーマン伯爵。そして――新しい奥様」
レイモンド様が余裕の笑みを浮かべて声をかけると、ルーカスはガチガチに緊張した面持ちで、ようやく絞り出すように頭を下げた。
「……トレント公爵閣下。そして、イライザ様……ご無事で、何よりでございます」
その声はわずかに震えていた。
わたくしはゆっくりとレイモンド様の腕から手を離し、一歩前へ出た。三年前、この男から冷酷に冷遇され、最後にはすべてを奪われて地獄に落とされた因縁の相手。
「ご心配ありがとう、ルーカス様。わたくしがこうして元気に戻ってきたことが、そんなに驚きでしたか?」
冷徹なまでに澄んだトーンで問いかけると、ルーカスの喉がゴクリと鳴ったのが聞こえた。
(ふふ、とても愉快だわ)
「い、いや……君が目覚めたと聞いて、僕も安心していたんだ。まさか、このような場所で、公爵閣下とご一緒に……」
「そうね。わたくしが倒れて意識がないのをいいことに、あなた達は愛し合い、離縁を済ませ、新しい家庭を築いていらしたのだから。さぞや、わたくしがこの世から消えたものだと思っていたのでしょうね」
周囲の貴族たちから「えっ?」「離縁の前に……?」と、どよめきが大きくなる。
カーラが耐えかねたように震える声で割って入った。
「い、言い掛かりよ! 離縁は法的な手続きを経て……!」
「あら、カーラ様」
わたくしはクスリと冷たく笑い、彼女を真正面から見据えた。
「わたくし、まだ何も名前を出しておりませんけれど? なぜそんなに慌てていらっしゃるの? もしかして、何かやましいことでもおありかしら」
ニヤリとカーラ様を見つめた。
「わたくしが階段から落ちた時、あなたは目の前で見ていたはずなのに助けることなく放っておいたのでしょう?」
「っ……!」
カーラは言葉を失い、恐怖で一歩後ろへ退いた。
そこに、もう一つの声が会場の空気を一変させた。
「そこまでよ」
凛とした、しかし圧倒的な威厳を帯びた声とともに、王太子妃であるエリザベスが、王族の側近たちを引き連れてゆっくりと近づいてきたのだ。
「エリザベス様……!」
会場の貴族たちが一斉に膝を折り、深々と頭を下げる。
エリザベスは冷ややかな目をルーカスとカーラに向けたまま、わたくしの隣に並び立った。
「イライザが三年間眠り続けていたのをいいことに、助けることなく殺そうとした愚か者が彼女を『いなかった者』として扱い、不貞を隠して既成事実を作った者どもがいると聞いてね。王家としても、この件は看過できないわ」
王太子妃の口から発せられた「殺す」「不貞」という決定的な単語に、会場は水を打ったように静まり返った。
カーラの顔から血の気が完全に失われ、その場に崩れ落ちそうになる。
そしてカーラは絶望に染まった顔で頭を抱え、その場にへたり込んだ。
「さあ、ファーマン伯爵」
レイモンド様が不敵な笑みを深め、冷酷にトドメの一撃を放つ。
「君たちの『幸せな仮面』を剥ぎ取る時間だ。たっぷりと、その代償を支払ってもらおうか」
冷たいシャンデリアの光の下で、復讐の第一幕は完璧な勝利とともに幕を開けたのだった――。




