惨めな現実。
思い出したのは、ルーカスとの結婚と娘がいること。そして、それが愛のない結婚だったらしいという記憶だけ。
他には何も思い出せない。
どうしてわたくしはここに居るの?
せめて自分の部屋で過ごさせてくれればいいのに。考えただけでイライラしてきた。
体が不調でなければベッドから立ち上がり、すぐにでもお父様に文句の一つでも言ってやるのに!
何年も眠り続けたからなのか、ずいぶん気が長くなったものだわ。
足をそっと動かしてみる。重たく感じるけれど、思ったよりは動く。
よし!まずはトイレへ行って、シャワーを浴びてスッキリさせましょう!
薄暗い灯りの中、重い体に鞭打ってなんとか起き上がり、床に足を下ろした。
ベッドフェンスに手をかけ、立ち上がろうとした――その瞬間。
ドタッ!!
思いっきり木目の床に倒れ込んでしまった。
足に全く力が入らない。
起き上がろうと焦るけれど、膝が笑って力が入らず、立ち上がることすらできない。
声を出そうにも、かすれた声しか出ない。
手を伸ばしても、ベッドサイドテーブルの呼び鈴には到底届かなかった。
……つまり、誰かが来てくれるまで、このまま動けないということ。
侯爵令嬢として生まれ、好き勝手に生きてきたわたくしが、床に姿を這わせたまま身動き一つ取れないなんて。
悔しくて、涙が溢れ出してきた。
思うように動かない体。何も分からない状況。これからどう生きていけばいいのかも見えない絶望に、心の中はぐちゃぐちゃだった。
「……誰か……助けてよ……。ルーカス、あなたわたくしの夫なんでしょう?助けに来なさいよ……」
ああ、そう言えば目覚めたというのに、お母様もお兄様も姿が現れない。
わたくしの意識が戻ろうと戻るまいと、どうでもいいのね。
あの二人は領地で暮らしていたもの。すぐに来られるはずがないわ。
お父様とお母様の仲は冷え切っていて、領地運営はお母様が行っていた。お兄様はその補助だ。
わたくしは退屈な田舎で暮らすより、王都の華やかな雰囲気を好み、王都の屋敷でお父様と暮らすことを選んだ。
王立学園での日々は楽しくて、毎日友人たちと遊び回っていた。
お兄様はとても優秀だったのに王立学園を選ばず、隣国の学園へ留学したのだったわ。
わたくしには理解できなかった。この国で社交することこそが、貴族として生きる上で一番大切なのではないかしら?顔を広げ、良好な関係を築き、利になる人と親しくなること。
けれど、長期休暇に領地へ行くと、お兄様はたくさんの友人たちを招いて楽しそうに過ごしていた。あれも一つの社交なの?どう見ても、ただ楽しんでいるだけにしか見えなかったけれど。
……もっとも、友人たちと遊び歩いていたわたくしが言えた立場ではないけれど。
お兄様と、たまに目が合うことがあった。わたくしを見るその瞳は氷のように冷たかった。
あれは……そうね。愛する妹を見る目ではなく、まるで大嫌いな虫でも見るような目だった。
お母様は仕事が忙しく、わたくしには無関心だった。
『あら、来たのね』
『少しは兄を見習って手伝いなさい』
『え?嫌よ』
『ふう……期待なんてしていないわ。ここに居てもいいけれど、問題を起こして仕事の邪魔はしないでね』
大きなため息と、諦めを含んだ言葉。
あの頃のお母様は、どんな顔をしていただろう。
もう6年以上も前のことなのに……わたくしにとっては、ほんの最近のことのように思える。
ついこの前のことのはずなのに、なんだか遠い昔のような気もしてくる。
なぜかしら。みんなの顔がぼやけて、思い出せない――。
ああ、また……意識が遠のいていく。
✴︎ ✴︎ ✴︎
翌朝、メイドのリーンはイライザの世話をするために部屋の扉をたたいた。
「お嬢様?」
いくら待っても返事がない。
まだお休みになられているのかもしれない。
そう思い、一度は諦めてその場を立ち去った。
1時間後、そろそろお召し上がりになる時間だろうと、朝食のトレイを抱えて再びやってきた。
けれど、やはり部屋の中から返事はない。耳をすませてみても、物音ひとつしない。
『返事がなくても、そろそろ起こして差し上げなさい』
メイド長にそう言われていたのを思い出し、もう一度ドアをノックしてから、ゆっくりと扉を開けた。
「――っ!?」
床に倒れているイライザの姿があった。
ピクリとも動かない。
「お嬢様……!?」
やっと長い眠りから目覚めたばかりのイライザが、冷たい床の上に倒れている。
ガタガタと全身を震わせながら、リーンは悲鳴をあげた。
「誰か!!お嬢様が!!早く来てください!!」




