は?なに?
イザベラの授業が終わって部屋を出ようとした時、メイドがやってきて「ルーカス様がお話ししたいとおっしゃっています」と告げられた。
いつもなら1階の執務室に呼ばれるのに、今日はなぜか2階の応接室に来るようにとのことだった。
2階――。
その階段は、わたくしが転落した場所。
伯爵家族のプライベートな空間でもある。
イザベラが授業を受ける部屋は昼間過ごすためのもので、夜になれば2階の自室で過ごすと話していた。
なぜ、わざわざそんな場所へ行かなければならないの?
思わず眉間に皺が寄る。
わたくしへの嫌がらせ……なんて被害妄想をしてしまうけれど、彼らは目の前の家庭教師がイライザだなんて知る由もない。
――なぜか、足が震える。
この階段を上がるのが恐ろしい。記憶がないはずなのに、恐怖で足が前に進まないのだ。
必死で手すりにすがりつき、一歩、また一歩と階段を上った。
こんな状態で、なんの考えもなくこの屋敷で働こうだなんて、わたくしはなんて浅はかだったのかしら。
「自分ならどんなことでも乗り越えられる」という根拠のない自信は、一体どこから湧いて出ていたのだろう。
たかが階段を上るだけで、こんなにも怖いのに。
「ふぅ……っ」
なんとか階段を上りきり、深く息を吐き出す。
しばらく力なく俯いていたけれど、深く呼吸を整えてから、ルーカスの待つ応接室の扉をノックした。
2階に足を踏み入れてからは、記憶がないのに不思議なほど体が勝手に道を覚えていた。
迷うことなく応接室の前まで来られてしまったことが、なんだか悲しい。
「どうぞ」
扉の奥から、ルーカスの声が響いた。
「失礼いたします」
深々と頭を下げて部屋に入る。
「ご用とお伺いし、参りました」
「ああ、イリア嬢。忙しいところすまないね。イザベラの勉強の進み具合などを訊いておきたかったんだ」
着席を促され、仕方なくルーカスの正面にある一人掛けのソファに腰を下ろす。
メイドが淹れてくれた紅茶からは、華やかで気品ある香りがふわりと漂っていた。
チラリと視線を送ったものの、手はつけずに言葉を返す。
「概ね順調でございます。まだ五歳ということもあり、途中で集中力が切れてしまうこともございますが……」
イザベラの可愛らしくも健気に頑張る姿を思い出し、喉の奥に込み上げてくる熱いものをぐっと飲み込んだ。
わたくしは感情を押し殺した声で続ける。
「非常に素直で、飲み込みの早い賢いお方です。本日は文字の練習をいたしましたが……ご自身のお名前を綺麗に書けたとき、とても誇らしそうに微笑んでおられました」
(本当なら、あの瞬間に強く抱きしめて褒めてあげたかったわ)
心の中で切なく呟きながら、表面上はにこりと彼に向かって微笑んで見せた。
ルーカスは、そんなわたくしをじっと見つめている。
……まさか、わたくしだと気づいた?
ううん、それだけはあり得ない。髪色も化粧も服装も、名前だって全て違うのだから。
それに、わたくしが意識を取り戻したことなど、屋敷の者以外は誰も知らないはずだ。
「なぜか……あなたを見ていると懐かしく感じるんだ」
「……え?」
イザベラのことを訊いていたのではないの? 急に何を言い出すのかしら。
「懐かしく……ですか?」
恐る恐る聞き返してみる。
「ああ。多分……その声と話し方が、妻に似ているんだ」
「妻?……奥様と、わたくしが……ですか?」
声が震えてしまう。
「奥様? ああ、カーラか……いや、彼女のことではないんだ」
(――妻だなんて。前妻でしょう? 紛らわしい言い方はやめてほしいわ!)
「……前妻のイライザ様のことでしょうか?」
「前妻か……イザベラの母親だ。彼女の名を知っているのか?」
「……社交界では有名なお方ですから」
そう答えたものの、わたくしはこの三年間、社交界から姿を消していた。それに事故に遭う前の記憶もさっぱりないため、当時どんな風に振る舞っていたのかすら覚えていない。
本当に『有名』だったのか、あるいは目立たない存在だったのか……それすら分からないけれど。ただ、このわたくしが控えめで大人しく過ごしていたなんて、絶対にあり得ないはずだわ!
「ああ。彼女は社交的で明るく、誰とでも親しくなれる人だった」
(…………⁇)
イライザ――つまり『わたくし』について語るルーカスの、どこか優しげな表情と雰囲気に驚きを隠せない。
わたくしと彼の関係は冷え切っていて、最悪だったはずよね?
現に、階段から落ちたわたくしを実家に追い返したくらいなのだから。
「あ、あの……」
「奥様との仲は悪かったのでは?」と思わず訊ねそうになったその時、部屋の扉を叩く音が響いた。
部屋の隅に控えていたメイドが扉を開ける。
「ルーカス。お話は終わったかしら?」
部屋に入ってきたカーラは、チラリとこちらへ視線を向けたものの、すぐに気にとめる様子もなくルーカスへ甘えるように話しかけた。
「イザベラと三人でお買い物へ行きたいの。ね? いいでしょう? 最近はお仕事が忙しくて、三人でお出かけもできなかったじゃない?」
「……ああ、分かった。イリア嬢、時間を取らせたね。最近イザベラが君との授業をとても楽しみにしているようだ。これからも娘のことをよろしく頼むよ」
「はい、かしこまりました」
わたくしが部屋を退出する際、カーラは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
……なにがそんなに楽しいのかしら?
悔しがるとでも思われたのなら大違い。わたくし、別に何とも思っていないのだけれど。
それにわたくしはイライザではなくてイリアよ?




