え?バレたかしら?
イザベラが眠りについたのを見届けてそっとベッドから抜け出し、「いい夢を見てね」と優しく囁いた。
やっぱり子供の寝顔は可愛らしいわね。
わたくしが離れてしまわないようにと、小さな手で服を固く掴んで離そうとしなかった。
眠ってからも力の緩まないその手をそっと解いたけれど、手がピクッと動いた時は「まずい!」と心臓が跳ね上がった。
でも、スヤスヤと規則正しい寝息を立て続けたので胸を撫で下ろす。
寝室の外で待機していたメイドに「帰ります」と告げ、部屋を後にした。
廊下を歩いていると、目の前から……
会いたくない、けれど一度は会ってみたかったルーカスが歩いてくるのが見えた。
俯いて目を合わせないように歩く。
すれ違う間際、通路の端に寄って頭を下げ、彼が目の前を通り過ぎるのを待った。
使用人が屋敷の主人に自分から声をかけることはない。頭を下げて通り過ぎるのを待つのがこの場の常識だ。おかげで怪しまれることもなく、顔を合わせずに済むはずだった。
「……君は……」
それなのに、彼はピタリとわたくしの前で足を止めた。
今、この廊下にいるのはわたくしだけ。
(ど、どうしよう!?)
ドクッドクッと、心臓の音がうるさいほど跳ね上がる。
「……はい。イザベラお嬢様の家庭教師をしております、イリア・フォードと申します」
なんとか自然な声を作って答えた。
「ロミオから、イザベラが楽しく授業を受けていると話は聞いている。これからもよろしく頼む」
「はい、精一杯努めてまいります」
「………」
な、なんで立ち去らないのよ? あっちへ行ってよ! さっさとどこかへ行きなさいよ!!
「あ、あの……他に何かございますでしょうか?」
耐えかねて、こちらから問いかけた。
「………君、どこかで会ったことがあるかな?」
「わたくしは準男爵家の娘です。この国の中心である王都で、貴族のパーティーやお茶会に呼ばれることなどございません」
ほぼ平民のような身分が、高位貴族の社交に参加できるわけがないでしょう!?
そんなことも知らないの!?
だんだん腹が立ってきた。いいからさっさとどこかへ行ってしまえ! あんたなんかと話したくもないわ!
「君の声は……」
「わたくしの声!?」
あっ! 声を変えるのを忘れていた!
う、裏声……? 今更かしら?
ああ、でもどうせわたくしの声なんて覚えていないわよね。思い出した記憶の中でも、仲良く話したことなんて一度もなかったもの。
十三歳で婚約したあとも、わたくしに興味を示したことなんてなかったじゃない。
無理やり侯爵家の力を使って結んだ婚約だったから、義務感だけで付き合っていただけ。ルーカスから話しかけてくれたり、優しくしてくれたことなんて一度もなかった!
思い返すほどに悔しくて、涙が出そうになる。
元夫の屋敷で、自分が産んだ娘の家庭教師をしているだなんて。元友人が今のルーカスの妻で、イザベラの継母だなんて……よく考えたら悔しくて仕方がないわ。
リーンには「今更何を言ってるんですか?」と呆れられるかしら。
トムからは「お嬢様、わかっていたことでしょう?」と鼻で笑われそう。
「ああ、すまない。もう会うこともない人のことを思い出すなんてな。……もう帰っていいよ」
「……はい、失礼いたします」
『会うことのない人』………その言葉が胸にグサリと刺さった。
そんなに会いたくないの?
少しは心配しなさいよ!
わたくしの意識が戻ることなんて、絶対にないと思っているの!?
あんな奴、大っ嫌い! 嫌いよ! 大っ嫌い!!
門の外で待っていた、家紋のついていない使用人用の馬車に飛び乗り、「早く出して!」と御者に叫んだ。
唇を強く噛み締める。
じわりと血の味が広がった。
ドレスのスカートにぽろぽろと零れ落ちて染みを作っていくけれど、これは涙なんかじゃない。
そうよ、寒くて鼻水が垂れただけだわ。




