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第6話 書類仕事という魔物は、たぶんスライムより手強い



レスタルムの朝は早い。


いや、正確に言えば、俺が泊まっている〈川風亭〉の朝が特別早いわけではない。この城塞都市そのものが、日の出前から腹を空かせた獣みたいに動き出すのだ。


窓の外では、まだ空の端に薄い紫が残っている時間からすでに一日の戦いが始まっていた。石畳を叩く荷車の車輪は重く乾いた音を立て、そのリズムに合わせるように御者の短い掛け声が飛ぶ。川港のほうからは靄の中を裂くように船頭の低い合図が響き、積み荷を担ぐ男たちが足並みを揃えて桟橋と倉庫を行き来している。濡れた木材と魚の生臭さが混じった空気が、風に乗ってここまで届いてきた。


市場のほうでは、すでに場所取りが始まっているらしい。魚売りの女たちが遠慮のない声で言い合いをし、布を広げる音や桶を置く音が重なり合う。そのすぐ近くから、今度は焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。麦の甘さと、少し焦げた表面の香ばしさ。空腹を刺激するには十分すぎる香りだ。こんな時間からあれを嗅がされたら、そりゃあ人も動く。


宿の中も例外じゃない。


廊下ではすでに足音が行き交っている。商人らしき男が分厚い帳簿を抱え、ぶつぶつ数字を口にしながら階段を下りていく音。隣の部屋の扉が開き、眠そうな顔の冒険者があくびを噛み殺しながら剣帯を締め直す気配。食堂のほうからは、どこかの巡礼者が低い声で祈りを捧げているのがかすかに聞こえる。


静かとは程遠いが、不思議と不快ではない。


むしろ「今日も一日が始まるぞ」と、街全体に背中を押されている感じがする。ありがたいかどうかは別として。


俺はベッドの上で目を開け、そのまましばらく天井を眺めていた。


知らない宿の天井というものは、どうしてこうも落ち着かないのか。


エルムホルンの自宅なら、視線を上げればすぐに分かるものがある。右の角にある染みは横から見るとスライムが潰れた形にそっくりで、雨の日になると少し色が濃くなる。中央の梁は去年補修したばかりで、木目がまだ新しく、あの節はもう少し削ったほうがよかったかもしれない――そんな、どうでもいいのに妙に安心する情報が、目に入るだけで頭に浮かぶ。


しかしここには何もない。あるのは旅人の寝息が壁越しに伝わってくる感じと、朝からやることが多すぎるという現実だけである。


王都に近いこのレスタルムでの用事。仕入れの確認。騎士団への納品の話。ついでに余計な商人に捕まる可能性。考え始めるときりがない。


「……起きるか」


返事が返ってくるわけもないが、こうでもしないと体が動かない。


俺は布団を払いのけて、ゆっくりと体を起こした。


その瞬間、腰のあたりで小さく、しかしはっきりと音が鳴った。


ぎし、と。


やめろ。


…朝一番から現実を鳴らすな。


今日は村長に言われた通り、まず商業組合と薬師会に相談するところから始める予定である。きちんと手続きをしておかないと、あとで面倒なことになる。いや、「面倒」なんて生ぬるい言い方じゃ足りないな。最悪の場合営業停止だの罰金だの、下手をすれば誰かに頭を下げて回る羽目になる。そういうのは勘弁してほしい。ポーションを作るために頭を下げるならまだしも、紙切れ一枚のために右往左往するのは精神的にかなり削られる。店が小さく、村の中だけで細々やっている間なら、多少曖昧でも許される範囲がある。村の婆さんの腰痛に効く薬を一本渡すくらいなら、誰も細かい書類など求めない。


問題は、今の〈青ぷよ薬房〉が、もはや「村の便利な薬屋さん」で済まなくなりつつあることだ。


ついこの前までは、扉を開ければ顔見知りが二、三人いて、「いつものやつを一本くれ」と言われて銅貨を受け取り、世間話をしながら瓶を渡す――そんな程度の店だった。売り上げも、在庫も、客の顔ぶれも、全部が手の届く範囲に収まっていたはずなのに、今はその範囲そのものがどこかへ行ってしまっている。


まず、王都騎士団との仮契約。


月八十五本。


数字だけ見れば大したことがないように思えるが、これが地味に逃げ場のない数だ。十日サボれば、その分だけ後ろに重くのしかかるし、一日体調を崩せば、その穴をどこかで埋めなければならない。品質を落とすわけにもいかないから、結局は作業時間を削るしかなくなる。つまり、休みが消える。


数字というのは、こういう形で人間を追い詰める。


次に、冒険者たちの行列。


朝っぱらから店の前に並び、扉が開くのを今か今かと待ち構え、売り切れたと分かれば露骨に舌打ちをして帰っていく連中。あれが一人や二人ならまだいい。今は十人、二十人、日によってはそれ以上だ。鎧のきしむ音と革靴の足音で、まだ静かなはずの村の朝が一気に騒がしくなる。


中には礼儀正しいやつもいるが、そうでないやつも当然いる。「もう一本だけ融通してくれ」とか「金なら出す」とか、あの手の押し方をされると、正直かなり消耗する。断るのも体力がいるのだ。


さらに、王都商人の接触。


笑顔で近づいてきて、言葉の端々に金の匂いを混ぜながら、少しずつ値段と条件を吊り上げてくる、あの手の人種。悪いとは言わない。あれも仕事だし、商売としては正しいやり方だ。ただ、俺の生活とは相性が悪いだけで。


彼らは「規模を広げればもっと儲かる」と言うが、その「もっと」の中に、俺の休息時間が含まれていないのが問題だ。


そして、ここレスタルムにまで届いている噂。


「スライム素材で高級ポーションを作る薬師がいる」だの、「王都騎士団が目をつけた辺境の店」だの、「一瓶で戦況を変える回復薬」だの――誰がそんな話を盛ったのか知らないが、実物を知っている身としては首をかしげるしかない内容ばかりだ。


……どれもこれも、俺の想定していた「細々とした商売」からはだいぶ外れている。


ここまで来ると、いくら俺が「いや、うちはスライム素材の小店なんで」と言い張ったところで誰も聞いてくれない。世間というものは、本人の希望よりも周囲が面白がっている話のほうを優先して物事を進める。勝手に評価して、勝手に広めて、気づいた時には引き返せないところまで持っていく。


困ったものだ。


本当に困る。


俺はただ、スライムを相手にのんびりやっていたかっただけなのに。


その「のんびり」が、いつの間にか一番遠い場所にある。


そして追い打ちをかけるように、書類関連の手続きがある。


あれは苦手だ。


心の底から苦手だ。


薬草の刻み具合なら、刃の入り方と繊維の断面を見ればだいたい分かる。硬すぎれば刃が跳ねるし、乾燥しすぎていれば粉になり方が違う。スライム粘液の質だって、光の反射と粘り気を見れば、使えるかどうかはほぼ一目で判断できる。釜の温度は、立ち上る湯気の匂いと色でおおよそ掴めるし、少しくらいなら手をかざせば熱の重さで分かる。


そういうものは、長年の勘でどうにかなる。


間違えたとしても、原因は大体見当がつくし、次にどうすればいいかも分かる。


ところが書類というやつは、見ても分からない。


小さな文字がびっしり並び、似たような項目が延々と続き、欄がやたら細かく区切られている。署名欄、押印欄、添付書類、証明書、控え、写し。どれか一つでも抜けると差し戻し。どこが足りないのか聞こうとすると、「規定ですので」の一言で片付けられる。


その規定がどこに書いてあるのかを探すと、別の紙を出される。


それを読んでもよく分からないから聞くと、また別の説明が出てくる。


気づけば最初の紙に戻っている。


まるで紙の上に巣を張った蜘蛛みたいなものだ。


一歩踏み込めば糸に絡まり、もがけばもがくほど抜け出せなくなる。ようやく抜けたと思ったら、別の糸に引っかかる。気づいた時には、最初に何をしに来たのか分からなくなっている。


あれは魔物よりたちが悪い。


少なくともスライムは、こちらが叩けば素直に潰れる。


書類は叩いても潰れないし、下手に力を入れると余計に増える気がする。


それでも、こればっかりは仕方ない。


スライム相手ならいくらでもやりようがあるが、制度相手に「勘でなんとか」は通じないのだ。


それはそれとして、「資格」についてをどうするかだが…



俺は正式な薬師資格を持っていない。


村でポーションを売っている分には、いちおう問題はない。というか問題にされていない。エルムホルンのような小さな村では、「効くものを作れるなら、それでいい」という空気があるし、村長も「変なものを売らなければ構わん」と暗黙の了解を出している。俺のやっていることは、その“地方慣例と村長の目の届く範囲”という、なんとも曖昧で優しい枠の中に収まっているらしい。


らしい、というのは、俺自身が細かい規定をきちんと理解しているわけではないからだ。正直に言えば、「昔からそうやってるから大丈夫だろう」という空気に乗っかっていただけである。


ところが、その範囲から一歩でも外に出ると話が変わる。


騎士団への継続納品。

他都市への卸し。

治療効果を明示しての販売。


このあたりをやろうとすると、途端に「資格」という壁が立ちはだかる。


薬師会への登録、あるいは認定調合師の資格取得。


どちらにせよ、「ちゃんとした薬師として認められていること」を証明しろ、という話になるわけだ。


……まあ、言いたいことは分かる。


分かるが、急に言われても困る。


これは一日や二日でどうにかできる問題ではない。


俺には知識が無さすぎる。


本を読めと言われても、どの本から手をつければいいのか分からない。薬草図鑑からか、調合理論からか、それとも法律関係の分厚いやつからなのか。そもそも字が多い本を長時間読む体質じゃない。


試験があるのか、実技があるのか、それとも誰かの推薦が必要なのか。試験官はどんな顔をしているのか。筆記なのか口頭なのか、失敗したらどうなるのか。そもそも俺みたいな見様見真似でここまで来たおっさんが、受けていい類のものなのかどうかすら分からない。


分からないことが多すぎて、どこから怖がればいいのかすら分からない。


若い頃、冒険者になり損ねた時より分からない。あの時は少なくとも「ゴブリンは怖い」「角兎は脛を狙う」「灰狼は群れると逃げる」という明確な学びがあった。


資格制度は、どこを噛むのかさえ見えない不気味な魔物である。


俺は顔を洗い、身支度を整え、村長から預かった紹介状を鞄に入れた。


ひとまず、これを頼りにすればある程度なんとかなるだろう。


なんとかならなかったら、帰る。


いや、帰ったらミーナに怒られるか…


しかも静かに、理詰めで。


「で、何をしに行ったんですか?」とか聞かれて、答えに詰まる未来が見える。


…これじゃ帰ろうにも帰れないな。


逃げ道が一つ消えた。


朝食は宿の一階で出された。


長い木のテーブルに、同じような皿がいくつも並んでいる。黒パンは外側がしっかり硬く、中は少しだけしっとりしている。豆のスープは塩気が強めで、旅人向けに腹にたまる味だ。塩漬け肉は薄く切られているが、噛めばしっかり旨味が出る。チーズは少し乾いているが、その分だけ香りが濃い。温かい麦茶は寝起きの胃にちょうどいい。


派手さはないが、旅宿としては十分すぎる朝食だ。


俺が席につくと、昨夜の女将が大きな皿をどん、と置きながら、にやりと笑った。


「青ぷよの店主さん、今日は市場かい?」


「商業組合と薬師会です」


「そりゃまた堅いところへ行くねえ」


「俺も行きたくて行くわけじゃないですよ」


木のスプーンでスープをすくいながらぼやく。今朝のスープは豆と塩肉のやつで、見た目よりしっかり腹に溜まる。ありがたいが、これから向かう先を考えると、胃の中が重いのは別の理由だ。


女将は小さく笑って、焼きたてのパンを籠から取り上げた。


「商売が大きくなると、紙と印から逃げられないよ」


「どこの女将も同じことを言うんですね」


思わずそう返すと、女将は「当たり前だろう」と言わんばかりに肩をすくめた。


「そりゃ、みんな痛い目を見て覚えるからさ」


言いながら、彼女は隣の席に座っている商人の前にもパンを置く。手際がいい。客の皿の減り具合も、焼き上がりのタイミングも、全部頭に入っている動きだ。


「ほらあんたも、最初は帳簿の書き方一つで税を余計に取られたって愚痴ってただろ」


「やめてくれ女将、その話はもう済んだことだ」


パンを受け取りながら、商人が苦い顔で答える。どうやら図星らしい。


「済んだから笑い話になるんだよ」


「その時は笑えなかったがな」


「今は笑ってるじゃないか」


そんなやり取りを横で聞きながら、俺はスープを一口すすった。


商売人は痛い目で学ぶ。


嫌な共通認識だ。


できれば軽い擦り傷くらいで済ませたいところだが、どうやらそうもいかないらしい。


俺はパンをちぎってスープに浸しながら、頭の中で今日の予定を整理する。


まずは商業組合。


村長の紹介状に書かれていた「クラウス」という人物を訪ねる。名前の横にやけに丁寧な肩書きが並んでいたのを思い出すあたり、たぶんそれなりに偉い人だ。そこでやることは山ほどある。商業登録の正式手続き、販売価格の基準確認、取引にかかる税の計算方法、ミーナを正式に雇う場合の届け出、それに将来的な卸売りの扱いと制限。


書いてあるだけで頭が痛くなる内容だ。


次に薬師会。


こっちはもっと面倒な匂いがする。薬師資格の扱い、無資格調合の是非、ポーションの品質鑑定、成分表示の義務、販売時の注意書き。今まで「効くからいいだろ」で通っていた部分を、全部言葉と紙に落とし込めと言われる場所だ。


俺の苦手分野のど真ん中である。


それが終わってもし体力と気力に余裕があれば、職安――正式には労務斡旋所とかいう場所にも寄る。人を増やすなら避けて通れないらしいが、正直そこまで辿り着ける気がしない。


気持ちの余裕なんてものは、朝の時点からすでに行方がわからなくなっている。


むしろ今このスープを飲んでいる時間が、今日一番の余裕なんじゃないかとすら思う。


食事を終え、女将に礼を言ってから、俺は宿の裏手にある厩へ回った。


木戸を開けると、干し草の匂いとほんのりとした獣の体温の気配が迎えてくる。奥のほうでもそもそと音を立てているやつが一頭。


「……お前の人生、実に安定してるな」


思わず口に出すと、モカは耳をぴくりと動かしただけで特に反応はしなかった。


いいよな、余計な契約もなければ、書類に追われることもない。ただ食って寝て、歩いて、それで一日が終わる。


俺もできればそっち側に行きたい。


しばらくそんなことを考えながら、モカの首筋を軽く叩いた。


「俺はこれから書類の魔物と戦ってくる」


モカはまた耳を片方だけ動かした。


「心配してくれてるのか」


もそもそ。


「干し草のほうが大事か」


もそもそ。


そうだな。


俺もできれば干し草側にいたい。


宿を出ると、レスタルムの街はすでに完全に目覚めていた。


いや、「目覚めていた」というより、もう一仕事終えているんじゃないかと思うくらいの勢いだ。朝の光が石壁の上を滑り始めた頃には、通りは人で埋まり、店の戸は半分以上が開き、荷車は行き交い、声と音が重なり合っている。寝ぼけた顔で外に出た俺のほうが、この街の流れから一歩遅れている気がした。


城壁に囲まれた都市というのは、外から見ればただの巨大な石の塊だ。高く積まれた灰色の壁は無骨で冷たく、近寄りがたい印象を与える。敵を拒むために造られたものだから、それで正しいのだろう。


だが一歩中へ入ると、その印象はきれいに裏切られる。


石壁の内側には、人の熱が詰まっている。


通りの角を曲がれば、パン屋の窯から立ちのぼる熱気と甘い香りが頬に当たり、そのすぐ隣では鍛冶屋の炉が赤く唸っている。金属を打つ音が一定のリズムで響き、火花が朝の空気に散る。少し離れたところでは薬師が釜をかき混ぜていて、薬草の青臭さと焦げた匂いが混ざった独特の香りが漂っていた。


商人の声は朝から遠慮がない。


「新鮮な魚だ、今朝上がりだぞ!」「こっちは干し肉だ、保存が利くぞ!」と声を張り上げ、値段のやり取りで笑い声と怒鳴り声が交じる。子どもたちはそんな大人の隙間を縫うように走り回り、誰かに怒鳴られてはまた別の通りへ逃げていく。荷車は容赦なく軋みながら進み、車輪が石畳を叩く音が足元から伝わってくる。


そこへ、川から吹き上げてくる湿った風が流れ込む。


水と木材と魚の匂いを含んだ風だ。少し冷たくて、しかし人の熱で温められた空気と混ざり合い、この街特有の匂いを作っている。


外敵を防ぐために築かれた壁の中で、人々は実に騒がしく生きている。


レスタルムは古い都市だ。


聞いた話では、元々はライン川を渡るための軍事拠点だったらしい。三百年以上前、北の山岳部族と南の諸侯が何度も争っていた時代、この川を押さえる者がグラム地方の物流を握ると言われていた。川はただの水の流れじゃない。物資と兵の流れそのものだ。


最初にあったのは、石造りの小さな見張り砦だけだったという。


川を監視し、敵の動きを探るための拠点。そこに兵士が常駐するようになり、やがて宿舎が建てられ、食料を蓄えるための倉庫が増えた。兵がいれば物資が動く。物資が動けば、それを当てにする商人が集まる。


商人が来れば、橋が必要になる。


橋が架かれば、人の往来が増える。


往来が増えれば、守るための壁が必要になる。


そうやって、砦は少しずつ形を変え、石壁は延び、門が増え、内部に通りができ、気づけば一つの城塞都市になっていた。


今では、その面影はあちこちに残っている。


古い城壁の一部は新しい石で補強され、かつての兵舎は宿屋や商家に改装され、倉庫は商品であふれている。昔は兵糧を積んでいた場所に、今は布や香辛料や薬草が積まれているのだから、時代というのは面白い。


戦のために生まれた場所が、今では商売の中心になっている。


皮肉と言えば皮肉だ。


人間というのは、壊すために作った道でも、使えるとなれば荷車を通す。兵を運ぶために整備された街道が、いつの間にか商人の命綱になる。砦の倉庫も、戦が減れば穀物や薬草を保管する場所に変わる。城壁は敵兵ではなく、魔物や野盗から市民を守り、川港は兵糧ではなく商品を運ぶ。


そう考えると、物というのは結局、使い方しだいなのかもしれない。


そして人間は、その使い方を変えることに妙に長けている。


俺の〈スライムキラー〉も同じだ。


冒険者としては無能。


素材採取には便利。


ポーション作りには、どうも思った以上に便利。


改めて思うが、人生ってやつは何がどう転ぶか分からないな…



商業組合は、中央広場に面した大きな石造りの建物だった。


広場そのものがこの街の心臓みたいな場所で、人と物と情報が常に流れ込んでくる。その正面にどっしりと構えているあたり、「ここを通さずに商売はできません」と無言で主張しているようなものだ。壁は分厚く、窓は高い位置に整然と並び、入口には無駄な装飾こそないが、代わりに妙な圧がある。


入口の上には、天秤と羽ペンと貨幣を組み合わせた紋章が掲げられていた。


天秤は公平、羽ペンは記録、貨幣は利益――意味は分かる。分かるが、三つ並べられると途端に「全部ちゃんとやれよ」と言われている気がしてくるのは気のせいだろうか。公平に、正確に、そしてきっちり払え、と。


いかにも「数字と契約と規則で人を縛ります」という顔をした建物だ。


俺はその前で一度足を止めた。


……うーん、入りたくないな。


正直な感想がそのまま口に出そうになるのを、なんとか飲み込む。


スライム十匹の群れと向き合うほうが、よほど気が楽だ。あいつらはぷるぷるしているだけだし、こちらがナイフを抜いて、動きを見て、適切なタイミングで切り込めば終わる。粘液が少し跳ねるくらいで、大した後始末もいらない。


だが商業組合の書類はそうはいかない。


一枚処理したと思ったら、次の紙が出てくる。書いた内容を確認され、訂正を求められ、また別の欄に同じようなことを書かされる。切っても増えそうだし、燃やしたら確実に捕まる。たぶん燃やさなくても、変な書き方をしただけで呼び止められる。


俺は軽く肩を回して、小さく息を吐いた。


「……行くか」


覚悟を決めて、重たい扉に手をかける。


押し開けると、内側からざわりとした空気が流れてきた。


内部は思っていた以上に広く、そして朝から人で混み合っていた。


天井は高く、柱が等間隔に並び、その間にいくつもの窓口が設けられている。それぞれの窓口の前には列ができていて、商人や職人たちが手にした書類を見直したり、隣の人間と小声で情報交換をしたりしていた。中には明らかに慣れていない様子で、何度も紙をめくってはため息をついているやつもいる。気持ちは分かるぞ。


窓口の向こう側では、係員が淡々と仕事をこなしていた。


差し出された書類に目を通し、必要な箇所に印を入れ、足りない部分を指摘し、次の人間を呼ぶ。その動きに無駄はないが、優しさもあまりない。流れ作業と言えばそれまでだが、あれに捕まると逃げ場がない感じがする。


壁際には大きな公告板がいくつも設置されていて、そこにも紙がびっしり貼られていた。


税率変更の告知、輸送許可に関する注意書き、川港倉庫の使用料改定、商隊護衛の募集、偽造銀貨への警告――どれも重要そうな内容だが、一枚一枚読む気力は正直ない。あれを全部把握している人間がいるのだとしたら、尊敬より先に同情が出てくる。


奥には扉がいくつも並んでいる。


木製のしっかりした扉で、それぞれに小さな札がかかっていた。「相談室」「契約係」「調停窓口」などと書かれている。中ではたぶん、もっと面倒な話が行われているのだろう。係員が書類の束を抱えて出入りしており、その表情から察するに、あまり軽い内容ではなさそうだ。


俺は入口のすぐ内側で立ち止まり、ぐるりと周囲を見渡した。


……うん、やっぱり帰りたい。


だが、ここで引き返したところで状況が改善するわけでもない。


むしろ後で倍になって返ってくるのが目に見えている。


俺は観念して、空いていそうな列を探しながら、一歩足を踏み出した。


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