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第5話 スライム素材の相場って、どれくらいですか



午後になると、遠くの景色に変化が出てきた。


森を抜けてなだらかな丘陵に出ると、視界が一気に開ける。今まで木々に遮られていた分、遠くまで見渡せるのはそれだけで少し気分がいい。風も通るし、空も広い。……まあ、足場はあまり良くないが。


最初にそれに気づいたのは、その丘のてっぺんに立った時だった。


地平線のあたりに、細い銀色の線が一本、すっと横に伸びている。


光の加減でたまに見える反射かと思った。金属片でも落ちているのか、あるいはただの見間違いか。そう思って一度は気にも留めなかったのだが、丘を一つ越え、二つ越え、さらにもう一つ越えても、その線は消えないどころか、少しずつ存在感を増していく。


細い糸のようだったものが帯のようになり、やがてはっきりとした輪郭を持ち始める。


「ああ、あれか」


思わず声が漏れた。


ライン川だ。


遠目には頼りないほど細く見えたそれが、近づくにつれてゆっくりと太さを増していく。最初はただの光の筋にしか見えなかったのに、次第に水面の揺らぎが分かり、さらに近づけば、流れそのものが視界に入ってくる。


陽の光を受けて、きらきらと反射する水面。


風に撫でられて波紋が広がり、ところどころで流れが速くなって白く泡立っている。


川、というよりはもう一つの道だ。


それもただの道ではない。馬も車輪もいらない、水でできた街道だ。物も人も、そのまま流れに乗せて運べる。重い荷を背負う必要もなければ、ぬかるみに足を取られることもない。


なるほど、商人が川沿いに集まるわけだ。


視線を下げると、川沿いには小さな集落が点々と並んでいるのが見えた。


木と石で組まれた家が数軒から十数軒ほど、まとまって建っている。屋根は藁や板で簡素に作られているが、どの家も川に背を向けていない。むしろ、川に向かって開いている。


岸辺には粗末だがしっかりした船着き場があり、丸太を組んだ桟橋が水の上へ突き出している。杭には小舟が何艘も繋がれていて、流れに合わせてゆらゆらと揺れていた。


干し棚には魚が並び、腹を開かれて塩を振られたそれが風にさらされている。網は広げられ、補修の途中なのかところどころに糸が結び直されている跡が見える。


子どもたちがその間を走り回っている。


網に引っかかって転びそうになり、誰かに怒鳴られ、それでも懲りずにまた走る。ああいうのはどこへ行っても変わらない。


何軒かの家の前では煙が上がっていた。


薪の匂いに混じって、焼いた魚の香ばしい匂いが風に乗ってくる。腹が鳴りそうになる。たぶん今しがた捕れたばかりのやつだろう。新鮮なうちに焼いて塩だけで食うのだろうが、…あれはうまい。


視界の端では、平底の船がゆっくりと川を進んでいた。


帆を張って風を受けているものもあれば、長い竿で川底を押しながら進むものもある。流れに逆らう船はゆっくりで、下る船は驚くほど軽やかだ。


船の上には樽や麻袋が積まれ、雨除けなのか布がかぶせられている。中身までは分からないが、穀物か、干し肉か、それともこの辺りで採れた魚か。いずれにせよ、あれがそのままレスタルムへ運ばれていくのだろう。


川を下れば、そのまま大きな市場へ。


市場に着けば値段がつき、商売になり、誰かの生活を支える金に変わる。


俺はしばらくその光景を眺めていた。


森の中でスライムを追いかけている時には、あまり意識しない流れだ。


素材を採って、ポーションを作って、店で売る。


それだけで完結していると思っていたが、本当はその外側に、もっと大きな流れがある。


川の流れみたいに止まらず、途切れず、どこかへ繋がっていく流れが。


「……面倒そうだな」


結論としては、それだった。


分かってしまうと、関わらずにいられなくなる気がする。


俺は肩をすくめて、再び歩き出した。



水の匂いが、はっきりと強くなってきた。


湿っていて、少し青臭い。


森の奥にあるぬかるみや、雨上がりの土の匂いとは違う。もっと大きく、絶えず動いていて、こちらの都合など気にせず流れていく水の匂いだ。鼻の奥に入り込むたび、森を抜けて川へ近づいているのだと分かる。


風も変わっていた。


さっきまでの風は、木々の間を抜けてくる柔らかいものだった。葉に削られ、枝に絡まり、土と草の匂いを含んだ風だ。だが今、頬を撫でていくそれは、もっとひらけた場所から吹いてくる。水面を渡り、岸辺の砂と干された魚と荷車の埃を少しずつ拾ってきたような、妙に広い風だった。


耳に入ってくる音も、少しずつ変わっていく。


森の中では鳥の声と葉擦れと、自分の足音、それからモカの蹄が土を踏む音くらいしかなかった。ところが今は、水鳥の甲高い鳴き声、遠くで誰かが人を呼ぶ声、荷車の車輪が軋む音、そして川のほうから響く低い木の音が混じっている。


ぎしり、ぎしり、と船が水に揺られる音だ。


視線を向けると、川面には何艘もの船が見えた。


先ほど遠目に見た平底船とは違い、近くで見ると役割ごとに形がまるで違う。


まず目立つのは、荷船だ。


幅が広く、底が浅く、ずんぐりとした造りをしている。速く進むための船ではない。大量の荷を積んで、川の流れに逆らわず、確実に運ぶための船だ。船腹には補強用の太い木材が何本も渡され、甲板には樽や麻袋、木箱が隙間なく積まれている。小さな家一軒分くらいの長さはあるだろうか。あれなら馬車数台分の荷を一度に運べる。


次に、帆を張った中型の川船がある。


荷船ほど鈍重ではなく、かといって漁師の小舟ほど小回りが利くわけでもない。風を受けて進むための三角帆が一枚か二枚立っていて、甲板には数人の船員が忙しなく動いている。あれはたぶん、レスタルムと川沿いの町を行き来する定期便のようなものだろう。人も荷も一緒に運ぶ、商人向けの船だ。


もっと岸に近いところには、小舟が何艘も浮かんでいる。


二人か三人乗ればいっぱいになるような細長い船で、漁や渡しに使うものらしい。網を積んでいる船もあれば、人だけを対岸へ渡すためなのか、座る場所を広く取った船もある。漁船、渡し舟、作業船。ひとまとめに船と言っても、使い道が違えば形も違うものだ。


そして、川の中央をゆっくり下っていく一艘には、見張り台のような小さな屋根付きの台がついていた。船首には領主家の紋章らしき旗が揺れている。


あれはたぶん、巡視船だ。


川を通る荷の確認や、密輸の取り締まり、水賊除けを兼ねているのだろう。大きさは荷船より一回り小さいが、船縁が高く、弓を持った男が二人立っている。商売が集まる場所には金が集まり、金が集まる場所には面倒ごとも集まる。川も例外ではない、ということだ。


街が近い。


そういう音と匂いと流れだった。


やがて街道は、川沿いの広い道へと合流した。


踏み固められた土の幅が一気に広がり、轍の跡が何本も重なっている。馬車の車輪が同じ場所を何度も通ったせいで、道の中央は少しへこみ、端には乾いた泥が固まっていた。


そこをひっきりなしに荷馬車が行き交っている。


麦袋を山のように積んだ車。


樽を何段にも重ねた車。中身は酒か油か、それとも塩漬けの魚か。


鉄で補強された頑丈な荷台には、灰色の鉱石が無造作に積まれていた。揺れるたびに、ごろり、ごろりと鈍い音が鳴る。


別の荷馬車には、束ねられた薬草が干されたまま積まれていて、風に揺れるたび、独特の青い香りが流れてくる。


御者たちは慣れた様子で手綱を操り、道の端を歩く者に声をかけ、時には軽い罵声も飛ばしながら進んでいく。怒っているというより、そうしないと音に埋もれて届かないのだろう。


皆、同じ方向へ向かっている。


レスタルムだ。


俺もその流れに混じった。


横を歩くモカが、ぴくりと耳を動かす。


普段は静かな森の中での移動が多いからか、この騒がしさは少し気になるらしい。荷馬車が横を抜けるたびに目だけをそちらへ向け、川から船の鐘が鳴ると耳を倒し、それでも足取りそのものは乱さない。


いい相棒だ。


無駄に暴れないし、変なところで立ち止まらない。


……まあ、道端の草に未練を見せて、たまに首だけそちらへ伸ばすところを除けば。


さっきも一度、やけに足取りが重くなったと思ったら、視線の先に青々とした草があった。手綱を軽く引くと名残惜しそうに首を戻したが、ああいうところはまだ野生の獣だ。


「帰りに好きなだけ食わせてやるから、今は我慢しろ」


そう声をかけると、理解したのかどうか分からないが、一応まっすぐ前を向いた。


夕方前、ようやくそれは見えてきた。


レスタルムの外壁だ。


何度見ても――いや、若い頃はそれこそ何度も足を運んでいたはずなのに、そのたびに同じことを思っていた――やっぱり大きい。


遠目に見えていた灰色の帯が、近づくにつれて圧倒的な質量を伴って迫ってくる。切り出した石を積み上げた壁は表面こそ風雨で角が丸くなっているものの、一つ一つの石が人の胴ほどもある。継ぎ目には苔が入り込み、ところどころに補修の跡が見えるが、それすらも含めて「長く使われている防壁」という風格を作っていた。


高さも幅も、村とは比較にならない。


エルムホルン村の家を全部集めて積み上げても、あの高さには届かないんじゃないか――昔もそう思ったし、今見てもやっぱりそう思う。誇張ではなく、本当にそれくらいの差がある。


壁は川に沿って緩やかに湾曲しながら続いていて、視界の端から端まで伸びているように見える。その上には等間隔で見張り塔が設けられており、四角い塔の上部には屋根がつき、風除けの板が張られている。


塔の上では旗が風にはためいていた。


深い色合いの布に、領主の紋章が染め抜かれている。風向きによっては布がぴんと張り、紋章がはっきり見える。ああいうのを見ると、「ああ、ここはちゃんとした領地なんだな」と妙に実感する。


衛兵らしき影も見える。


槍を持って壁の上を巡回している者、塔の縁に肘をついて下を見ている者、交代なのか階段を上り下りしている者。動きはゆっくりだが、目は確実にこちらを見ている。


見られている、という感覚は、何度来ても慣れない。


門の前には、すでに列ができていた。


これも見慣れた光景だが、相変わらず長い。


荷馬車が数台、間隔を空けて並び、その間に徒歩の旅人や商人が入り込んでいる。荷台には木箱や樽が積まれ、布や縄でしっかり固定されているものもあれば、少し雑に積まれているものもある。馬は退屈そうに尾を振り、時折蹄で地面を掻く。


冒険者の姿もちらほら見える。


軽装で剣だけ下げた者もいれば、鎧を着込んで大荷物を背負っている者もいる。パーティで動いている連中は、地面に座り込んで軽食を取ったり、水筒を回したりしていた。


順番を待つ間、それぞれが思い思いに時間を潰している。


門の内側では衛兵が一台ずつ荷馬車を止め、積み荷を確認していた。布をめくり、箱を軽く叩き、必要があれば中を開けさせる。簡単なやり取りをして、問題なければ通行証に印を押して中へ通す。


時折、少し長く止められている商人もいる。


たぶん税の確認か、申告と実物が合っているかのチェックだろう。ああいうのに引っかかると時間を食う。列が進まなくなる原因でもある。


俺は列の流れを目で追いながら、無意識に荷物の量を確認した。


今回は軽い。


スライム素材の瓶が数本と、簡単な携行品だけだ。昔はもっと無駄な荷物を持ち歩いていた気がするが、何度も通ううちに「持ってきても使わないもの」が自然と削れていった。


経験というやつだ。


川港のほうからは絶えず音が流れてくる。


鐘の音が一定の間隔で鳴り、荷の到着や出発を知らせているらしい。


船頭が声を張り上げて指示を飛ばし、荷役たちがそれに応じて声を揃える。重い樽を担ぎ上げる時の掛け声、縄を引く時のリズム、木箱を下ろす時の鈍い音。


どこかで商人同士が言い争っている怒鳴り声も混ざっていた。


値段か、順番か、あるいは契約の話か。内容までは聞き取れないが、声の調子からして穏やかな話ではないのは分かる。


その隙間に紛れて、客引きの声が飛び交う。


「安宿ありますよー!」

「今朝獲れの魚だ、見ていけ!」

「荷運び手伝います、力仕事なら任せてください!」


……うるさい。


いや、活気があると言うべきか。


昔はこの音の渦にわくわくした記憶もある。冒険者として何か始まるんじゃないか、ここなら大きな依頼があるんじゃないか、そんな期待を抱いていた時期も、確かにあった。


今は違う。


音の一つ一つが、「関わると面倒そうだな」という感想に自動で変換される。


俺は列の途中で一度立ち止まり、深く息を吸った。


肺に入ってくる空気は、やはりいろんな匂いが混ざっている。


薬草の青い香りがかすかに漂い、どこかの店で刻まれているのだろうと分かる。川の湿った匂いが鼻の奥に残り、風向きによっては魚の匂いも混じる。


馬と騎獣の体臭。


乾いた草と汗の混ざった、生き物特有の匂い。


焼いた肉の脂の香ばしさ。


油と煙の焦げた匂い。


それらが層になって、空気そのものを重くしている。


そして――金の匂い。


比喩だぞ。


本当に金貨の匂いがするわけじゃない。


ただ、こういう場所には独特の熱がある。人が集まり、物が動き、金が回る場所特有の、落ち着かない空気。じっとしているだけで誰かに声をかけられそうで、何かに巻き込まれそうで、気を抜くとその流れに引きずり込まれそうになる。


昔はその流れに乗りたかった。


今は、できるだけ岸にいたい。


「……やっぱり、長居はしたくないな」


小さく呟きながら、俺は列の最後尾に並んだ。


前にいた商人が気配に気づいたのか、くるりと振り返った。


「おや、エルムホルンの方ですか」


「分かるのか」


「荷札に村名が」


「ああ」


「最近、あのあたりのポーション屋が評判だそうで」


俺は視線を前に戻した。


「そうらしいな」


「青ぷよ薬房とか言いましたか。変な名ですよねえ」


「本当にな」


「一度、品を見てみたいものです」


「見られるといいな」


自分でも白々しいと思った。


俺は嘘があまりうまくない。


これは自覚している。


顔に出るとか、声が震えるとか、そういう分かりやすい癖があるわけじゃないのだが、妙に言い回しが回りくどくなる。結果として「こいつ何か隠してるな」と思われる類の下手さだ。


だから基本的に、嘘はつかない。


つかないで済む範囲で言葉を選ぶ。


今もそうした。


列の前にいた商人に「どこから来た?」と軽く聞かれて、「北のほうから」とだけ答えた。嘘ではない。エルムホルン村は北だ。ただ、名前を出していないだけだ。


商人は一瞬だけ怪訝そうな顔をしたものの、それ以上は突っ込まず、すぐに前へ視線を戻した。


助かった。


ここで変に会話が広がって、「で、どこの店だ?」と聞かれ、「青ぷよ薬房です」と答えて、「ああ、あの!」と声を上げられる流れだけは避けたい。


門の前で身元が割れて、「お前が青ぷよか」と騒がれるのは勘弁してほしい。


青ぷよは俺ではない。


店だ。


……いや、店名でもだいぶ嫌だな。


列はゆっくりと進み、やがて俺の番が回ってきた。


門の下は影になっていて、外の陽気が少しだけ和らぐ。近くで見ると、門扉の木材には鉄の帯が打ち付けられており、何度も開閉された跡が刻まれている。地面の石もすり減っていて、長年の往来の多さが分かる。


衛兵が一人、前に立った。


革鎧に鉄の胸当て、腰には短剣。槍を持った別の兵が少し後ろに控えている。表情は特別厳しいわけではないが、目だけはきちんと仕事をしている目だ。


「荷は?」


短く、事務的な問い。


「ポーションの見本とスライム素材、帳簿です」


俺は背負っている袋を軽く叩いて示した。中身は本当にその通りだ。見られて困るものは入っていない。


「商売か?」


「調査です」


嘘ではない。


今回は本当に相場と素材の確認が目的だ。


「薬師か?」


「ポーション屋です」


これも嘘ではないが、微妙なラインだ。学院に通った正式な薬師からすれば「名乗るな」と言われそうな気もする。


衛兵は小さく頷き、次の問いを口にした。


「店名は?」


その一言で、俺はほんのわずかに黙った。


ほんの一拍。


だが、衛兵の眉がぴくりと動いた。


あ、これはいけない。


今の間で余計なことを考えているのがばれた。


逃げられない。


「……青ぷよ薬房」


できるだけ平坦な声で言う。


感情を乗せると余計におかしくなる気がした。


衛兵は手元の紙に視線を落としかけて、ぴたりと止めた。


そして、ゆっくりと顔を上げる。


「青ぷよ薬房?」


「はい」


「最近、噂の?」


「噂の中身は知りません」


半分本音だ。


どこまで広がっているのか、俺自身よく分かっていない。


「王都騎士団が探していたやつか?」


「探されてはないと思いたい」


実際は向こうから来た。


来られた。


思い出したくない。


衛兵は俺を上から下までじろじろと見た。


背負い袋、腰のナイフ、靴の泥、手の荒れ具合。そういう細かいところを一つずつ確認しているのが分かる。慣れている目だ。


やがて、ふっと口元を緩めた。


なぜか、笑った。


「通っていい。レスタルムへようこそ、店主さん」


「どうも」


俺は軽く頭を下げて、そのまま門をくぐった。


背中にじんわり汗が滲んでいるのを感じる。


……もう広まっている。


門番の時点でこれだ。


嫌な汗が出る。


中に入った瞬間、街の音が一気に近づいた。


外から聞こえていたざわめきが、壁一枚分の距離を詰めて押し寄せてくる。石畳の道はしっかりと敷かれていて、靴底に硬い感触が伝わる。左右には店がぎっしりと並び、看板が突き出し、布のひさしが風に揺れている。


荷を担ぐ人夫が早足で通り過ぎ、肩が触れそうになる。


香辛料の強い香りが鼻を刺し、次の瞬間には焼きたてのパンの甘い匂いがそれを上書きする。どこかの店先には薬草の束が吊るされていて、乾いた葉がかすかに擦れ合う音を立てている。


ガラス瓶を並べた露店では、色とりどりの液体が陽に透けていた。


魔道具屋らしき店の前には、見たことのない形の器具が並び、淡く光っているものまである。ああいうのに手を出すと金がいくらあっても足りなくなる。


掲示板の前には冒険者たちが群がっていた。


依頼書を指差して何かを言い合い、紙を剥がしてはまた別の紙を読む。昔、あの中に混じっていた自分を思い出して、少しだけ遠い気分になる。


レスタルムの市場通りは、相変わらず情報量が多い。


目が忙しい。


耳も忙しい。


そして、気を抜くと財布の紐まで忙しくなりそうだ。


俺はモカを引きながら、まず宿を探した。



旅の基本は宿である。


これは、何度か痛い目を見て覚えた。


街に着いたらまず宿を押さえる。それから荷を下ろし、落ち着いてから動く。この順番を守るだけで、余計な出費も疲労もかなり減る。逆にこれを怠ると、だいたいろくなことにならない。


夕方までうろついてから宿を探すと、残っているのは高い部屋か、やたら騒がしい酒場の二階か、最悪の場合は共同寝床だ。厩も埋まっていて騎獣を預けられず、自分で面倒を見る羽目になることもある。


若い頃の俺は、その全部を一度やった。


結果、どうなったかというと。


酒場の隅で寝た。


床が硬かった。


酒臭かった。


酔っぱらいに足を蹴られた。


朝起きたら背中が痛くて、まともに動けなかった。


……二度とやらない。


だから今回は、門を抜けてからあまり寄り道せず、さっさと宿を探した。


市場通りは便利だが、その分値段も上がるし騒がしい。少し外れた場所のほうが落ち着けるし、値段も現実的だ。昔からその辺りは変わっていない。


石畳の道を一本外れ、さらに人通りの少ない通りへ入る。


さっきまでの喧騒が少しずつ遠ざかり、代わりに生活の音が聞こえてくる。洗濯物を干す音、桶を運ぶ音、どこかの家で煮込みをかき混ぜる音。こういう場所のほうが、正直落ち着く。


そこで見つけたのが、〈川風亭〉という宿だった。


木の看板が軒先から下がっている。


魚と風を描いた素朴な絵で、青い線で水の流れが表現され、その上に風を示す白い曲線が重なっている。絵として上手いかどうかはともかく、「川沿いの宿ですよ」という主張は分かりやすい。


……青ぷよ薬房の看板より、ずっとまともだ。


悔しいが、認めざるを得ない。


建物は二階建てで、外壁は白い漆喰、窓枠は濃い木の色。手入れは行き届いているらしく、軒や扉に目立った傷みはない。横手には厩があり、数頭分のスペースが確保されているのが見えた。


「ここなら大丈夫そうだな」


俺はそう呟いて、扉を押した。


中に入ると、木の床が軽く軋む音がした。


正面にカウンターがあり、その奥に女将らしき女性が立っている。年は四十手前くらいか、腕まくりをして帳簿をめくっていたが、俺に気づくと顔を上げた。


「いらっしゃい」


声はよく通る。


商売慣れした声だ。


「一泊、空いてますか」


「空いてるよ。騎獣は?」


「一頭、外に。預かってもらえますか」


「厩はまだ余裕ある。餌は別料金だけどいいかい?」


「問題ないです」


手短に話を済ませ、俺は一泊分の部屋を取った。


値段も確認したが、相場より少し安いくらいだ。変に安すぎるわけでもなく、かといってぼったくりでもない。こういう「普通に安心できる価格帯」が一番ありがたい。


荷物を一旦カウンター横に置いたところで、女将の視線がそれに落ちた。


袋の形、瓶の音、背負い方。


一目で分かる人には分かる。


女将は少し目を細めた。


「薬売りかい?」


「ポーション屋です。調査に来ました」


嘘ではないが、ややぼかした言い方だ。


「へえ、どこの?」


来た。


この街、やたら店名を聞いてくるな。


俺はほんの一瞬だけ間を置いた。


そして、観念する。


「……青ぷよ薬房」


女将の顔がぱっと明るくなった。


ぱん、と軽く手を叩く。


「ああ、聞いたことあるよ! 安くて妙に効くって噂の!」


「妙にって何ですか」


思わず聞き返す。


妙に、はやめてほしい。


「客が言ってたんだよ。普通の回復薬のはずなのに、なんか効きがいいってさ」


「普通です」


「名前は変なのに、品はまともどころかすごいって」


「名前の件はもう許してくれ」


自分でつけたとはいえ、こう何度も言われると地味に削られる。


女将はくすくす笑いながら肩をすくめた。


「店主がそう言うなら、変えればいいじゃないか」


「今さら変えると負けた気がする」


「何と戦ってるんだい」


俺にも分からない。


ただ、ここまで来ると意地の問題だ。


女将に部屋の鍵を受け取り、階段を上がる。


廊下はきちんと掃除されていて、足音もそれほど響かない。割り当てられた部屋は奥のほうで、扉を開けると簡素だが清潔な空間が広がっていた。


ベッドが一つ、机が一つ、水差しと洗面用の桶。窓からは少しだけ川が見える。十分だ。これ以上を求めると、値段も跳ね上がる。


荷を置き、軽く体を伸ばしてから、俺は一度外へ出た。


厩に回り、モカの様子を確認する。


モカは落ち着いた様子で干し草を食んでいた。鼻先を撫でると、軽く息を吐く。問題なさそうだ。水桶も満たされているし、係の手も悪くない。


「ここで少し休んでてくれ」


そう声をかけてから、俺は手を払った。


やることはまだ残っている。


部屋へ戻ることなく、そのまま通りへ出る。


夕方の光に染まり始めたレスタルムの街を見渡しながら、俺は市場通りのほうへ足を向けた。



夕方の市場は、まだ熱が残っていた。


昼間の喧騒がそのまま沈みきらず、少しだけ色を変えて続いている、そんな時間帯だ。西に傾いた陽が屋台の布を赤く染め、石畳の隙間に伸びた影が長く伸びている。人の数は昼よりやや減っているはずなのに、なぜか静かにはならない。むしろ声の種類が増えて、余計に騒がしく感じる。


日持ちする品を扱う店は、すでに軒先に明かりを灯していた。


油ランプの黄色い光が、干し肉や乾燥果実、塩漬けの魚の表面を鈍く照らしている。昼間よりも少し高めの声で値段を呼び込む店主、まとめ買いを狙う商人、値切り交渉を始める旅人。どこも「今が最後の稼ぎ時だ」と言わんばかりに活気づいている。


少し離れた場所では、酒場の客引きが声を張り上げていた。


「今日は新酒だぞー! 一杯目は半額だ!」


「冒険者さん、疲れてるだろ! うちのスープは効くぞ!」


酔い始めた連中がすでに肩を組んで歩いている。まだ夕方だぞ、と言いたくなるが、ああいうのは時間の問題ではないのだろう。


薬草市場の一角では、明日の取引に向けた準備が進んでいた。


麻袋に詰められた乾燥薬草が山のように積まれ、木箱には根や実が種類ごとに分けられている。葉の匂い、土の匂い、少し青臭い水分の匂いが混ざり合って、独特の空気を作っている。商人たちが帳簿を片手に在庫を確認し、品質を見ては小声で何かを話し合っている。


そして、その周囲にはポーション屋の看板もいくつか見えた。


〈白角薬房〉。

白く塗られた木の看板に、角を模した装飾がついている。高級そうだ。


〈レスタルム中央薬品店〉。

やたら長い名前だが、いかにも信用できそうな響きである。中央とつくだけで強そうだ。


〈月雫堂〉。

黒地に銀の文字。雰囲気がいい。絶対に高い。


どれも立派だ。


看板だけで「効きそう」と思わせる力がある。店構えも整っているし、入口も広く、客が入りやすい。棚の配置も見やすく、外からでも商品が分かるように工夫されている。


……ここに〈青ぷよ薬房〉が並んだらどうなるか。


完全に浮く。


間違いなく浮く。


というか、並べる勇気があるならその精神力を別のところに使うべきだ。俺なら三歩手前で帰る。看板を見た瞬間に「やっぱやめとくか」となる自信がある。


そんなことを考えながら歩いていると、一軒のポーション屋の前で自然と足が止まった。


特別に豪華な店ではない。


だが、整っている。


棚の高さは揃えられ、瓶の配置も左右対称に近い。色ごとにきちんと分けられていて、一目で用途が分かるようになっている。


赤い回復ポーション。

緑の解毒ポーション。

黄色の疲労回復薬。

青い魔力回復薬。


色味も統一されていて、濁りが少ない。瓶は同じ形状で揃えられており、コルクの締め方も均一。ラベルには丁寧な文字で名称と効果、注意書きまで書かれている。


……ちゃんとしてるな。


当たり前のことだが、当たり前にできているのはやはり強い。


俺の店を思い出す。


瓶の形は微妙にバラバラ。ラベルは手書き。たまに貼り忘れる。説明は「普通の回復薬だ」で済ませる。……比較するのがつらくなってきた。


視線を値札へ落とす。


通常回復ポーション、銀貨一枚。

高品質回復ポーション、銀貨三枚。

強化回復ポーション、銀貨八枚。

解毒ポーション、銀貨二枚。

疲労回復薬、銀貨一枚と銅貨五枚。


……高い。


いや、これが普通なのだろう。


むしろ、これが基準だ。


品質が上がれば値段も上がる。効果が安定していればさらに上がる。材料費、手間、技術、ブランド、全部ひっくるめての価格だ。


分かっている。


頭では分かっている。


だがどうしても、脳裏に自分の値段が浮かぶ。


銅貨八枚。


……安すぎるな。


俺は値札をじっと見た。


じっと。


本当にじっと。


銀貨一枚の文字を見て、次に銅貨八枚を思い出し、その差を頭の中で何度も往復させる。材料費を引いて、手間を足して、時間を換算して、それでも計算が合わない。


……俺、何やってるんだろうな。


そんなことを考えながら、気づけばかなり長いこと同じ場所に立っていたらしい。


「お客様?」


不意に声をかけられて、肩がわずかに跳ねた。


顔を上げると、店の内側から店員がこちらを見ていた。整った制服、落ち着いた表情、営業用の柔らかい笑顔。


完全に「買うか迷っている客」扱いである。


……まずいな。


どう考えても、値段を見て固まっている不審者だった。


「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」


声をかけてきたのは、店の奥から出てきた若い店員だった。白衣に近い淡い色のローブを着て、胸元には薬師組合の小さな徽章がついている。手はきれいで、爪の間に薬草の色も染みていない。日常的に調合をしているというより、売り場担当といった雰囲気だ。


「いや、相場を見ているだけで」


俺は棚に並んだ小瓶を一本、持ち上げるでもなく眺めながら答えた。瓶はどれも均一な形で、ラベルも整然としている。字も読みやすく、効果と注意書きがきっちり分けて書かれていた。


……うちとは大違いだな。


「薬師の方ですか?」


「まあ、一応。田舎で小さくポーション屋を」


「そうでしたか。何を主に?」


「スライム素材の回復薬を少し」


その瞬間、店員はほんの少しだけ口元を緩めた。


馬鹿にしたわけではない。


だが、はっきりと分かる程度には「そういう人もいるよね」という顔だった。子どもが木の実を拾って売っているのを見た時のような、軽い微笑ましさに近い。


「スライム素材なら初心者向けですね。安価な日常薬には向いていますし、駆け出し冒険者にも需要があります」


「そうですね」


俺はあいまいにうなずいた。


否定はしない。


というか、否定する材料も今のところない。


「ただ、品質管理が難しいので、あまり高い効果は期待しすぎないほうがいい素材ですけれど」


「そうなんですか」


「ええ。スライムの粘液は時間経過で性質が変わりやすいですし、魔力の保持も弱いので、安定した効能を出すには手間がかかるんです。だから大きな薬房だと、あまり主力にはしませんね」


店員はさらりと言った。


説明としては丁寧だし、内容ももっともらしい。


俺は黙ってうなずいた。


……うちの粘液、劣化しにくいんだが。


魔力保持も、妙にいいんだが。


一晩置いても沈殿が少ないし、加熱しても性質が崩れにくい。むしろ他の素材と合わせた時の安定感は、そこらの薬草より扱いやすいくらいだ。


だが、それをここで言う理由はない。


村長に前に言われたことを思い出す。


「ロイド君、口を開く前に一度考えなさい」


今、考えた。


言わないほうがいい。


「スライム素材の相場って、どれくらいですか?」


話題を変えるように、俺は聞いた。


店員は少し考えてから答えた。


「種類にもよりますが、一般的な青スライムの粘液でしたら、小瓶一杯で銅貨一枚にもなりませんね。採取状態が良くて不純物が少なければ多少上がりますが、それでも大きな値はつきません」


「そんなものですか」


「ええ。薬草のほうが安定して値がつきますから。スライム素材はどうしても個体差が出やすいんです」


「核は?」


「核ですか。割れていなければ銅貨二枚から三枚ほどですね。魔力を多く含んでいる個体なら、銀貨に届くこともありますが、それはかなり稀です」


「なるほど」


俺は小さくうなずきながら、頭の中で計算を始めた。


一匹のスライムから採れる粘液量。


だいたい小瓶半分から一杯弱。


状態がいい個体なら、一杯きっちり取れる。


核は八割方、割れずに取り出せる。


一日に狩れる数は、森の状況にもよるが三十から四十。


朝と夕方で分ければ、もう少し増やせるが体力がもたない。


そこに、現在の売価。


通常回復ポーション、銅貨八枚。


瓶代。


薬草の補助素材。


釜の燃料。


ミーナの給金。


……そして、今見ているレスタルムの店頭価格。


棚の値札を横目で見る。


同等に見える回復ポーションが、銀貨一枚、あるいはそれ以上で並んでいる。中には銀貨二枚近いものもあった。ラベルには「高純度」「安定化処理済み」など、いかにもそれらしい文言が並んでいる。


計算が、合わない。


いや、合っているのか?


うちの原価が低すぎるのか。


俺の採取効率がおかしいのか。


それとも、売価が安すぎるのか。


……たぶん、全部だ。


俺はゆっくりと瓶を棚に戻し、店員に軽く頭を下げた。


「参考になりました。ありがとうございます」


「いえ、お役に立てたなら」


店員は丁寧に一礼した。


その態度は終始変わらない。


客として扱われている。


それが逆に、妙に現実味を帯びていた。


俺は店を出た。


外に出ると、夕暮れの市場通りが広がっていた。


昼間ほどの喧騒ではないが、それでも人は多い。露店の灯りがぽつぽつと灯り始め、焼き物の匂いが風に乗って流れてくる。商人の呼び声も、昼より少し落ち着いた調子になっている。


その景色が、さっきまでとは少し違って見えた。


俺が田舎で銅貨八枚で売っているものが、ここでは銀貨一枚以上で売られている。


しかも、店員の話を信じるなら、スライム素材のポーションは本来そこまで高性能ではないはずだ。


うちの品がどの位置にあるのか、まだ正確には分からない。


分からないから、こうして調べに来た。


だが、数字と現物を並べてみると、どうにも嫌な予感がする。


俺の「普通」は、また世間とずれているのかもしれない。


……しかも、だいぶ大きく。


「……いや、まだ分からん。明日ちゃんと調べよう」


俺は誰に聞かせるでもなく、小さくそう言って自分に言い聞かせた。頭の中ではさっき見た値札と店員の言葉と、自分の計算がぐるぐる回っているが、このまま考え続けても碌な結論にはならない気がする。こういう時に無理やり答えを出そうとすると、だいたいろくなことにならない。


焦るな。


結論を急ぐな。


相場をちらっと見ただけで慌てるな。


腹が減っている時に大きな判断をすると、ろくなことにならない。


……これは経験則だ。過去に何度かやらかしている。


値段を決めるにしろ、取引先を選ぶにしろ、空腹のまま考えた案はだいたい後で見返すと「なんでこれでいけると思った?」みたいな内容になっている。人間の判断力は、腹具合にかなり左右される。


そうだ。


まず飯だ。


俺は気持ちを切り替えて、市場通りの奥へと足を向けた。通りの喧騒を抜けると、少しだけ人通りが落ち着く。そのあたりに、宿の女将が教えてくれた食堂があるはずだった。


しばらく歩くと、目的の店はすぐに見つかった。


扉の外まで流れてくる、焼き魚のいい匂い。


炭で焼いた香ばしさに、香草の青い香りが混じっている。鼻をくすぐるあの感じは、川魚特有のものだ。たぶんライン川のやつだろう。この街のすぐそばを流れている大きな川で、漁も盛んだと聞いた。


看板は簡素だが、客の入りは悪くない。


中を覗くと、旅人と地元の人間が半々くらい。騒がしすぎず静かすぎず、ちょうどいい具合だ。


「ここだな」


俺は扉を押して中に入った。


香草焼き、豆の煮込み、黒パン、麦酒。


女将が勧めてくれた内容を頭の中でなぞる。


今回の旅の目的は、ポーション相場の確認、素材の情報収集、商業組合への顔出し、騎士団契約の確認……いろいろあるが、その中にしっかりと含まれているのが「うまい飯屋の調査」だ。


これは遊びではない。


判断力を保つための必要経費だ。


うまい飯は、頭を働かせる。


これは重要な要素である。


……ミーナがいたら、帳簿にどう書くかで少し悩むところだが。


「市場調査中の栄養補給」と書けば通るかもしれない。


通らないかもしれない。


たぶん、後で細かく聞かれる。


俺は空いている席に腰を下ろし、店員を呼んだ。


「焼き魚と麦酒を」


「香草焼きでよろしいですか?」


「ああ、それで」


注文を済ませてから、ようやく一息つく。


窓の外には、ライン川へ続く緩やかな坂道が見えた。石畳の道を荷車がゆっくり下り、夕焼けが川面に赤く映っている。水面は風に揺れて、光が細かく砕けていた。遠くで船の鐘が鳴り、通りのざわめきが石壁に反響して、柔らかく響いている。


さっきまでの市場の喧騒とは、また違う静けさだ。


運ばれてきた麦酒を一口飲む。


冷たい液体が喉を通り、胸のあたりにすっと落ちていく。


「……うまい」


思わず小さく声が出た。


やっぱり旅には飯がいる。


これだけは間違いない。


焼き魚が来るまでの間、ぼんやりと窓の外を眺めながら、俺はふと昔のことを思い出した。


若い頃、冒険者に登録したばかりの頃。


広い世界を旅して、知らない町へ行って、危険な依頼をこなして、何か大きなものを見つける――


思い返せば返すほど懐かしい記憶ばかりが蘇ってくるが、今の俺は剣ではなく帳簿と素材瓶を持ってレスタルムにいる。


腰に下げているのは剣じゃなくて採取ナイフだし、相棒も戦馬ではなく、食いしん坊の長耳ラプトだ。


目的も、魔王討伐なんて大層なものじゃない。


ポーションの相場確認。


……改めて言葉にすると、地味だな。


派手さはない。


英雄らしさもない。


だが、それでも。


これも一つの旅なのかもしれない。


自分の作るものが、この広い世界でどれくらいの価値を持つのかを知る旅。


静かな暮らしを守るために、ほんの少しだけ外の世界を覗きに来た旅。


「……まあ、悪くないか」


そう呟いたところで、ちょうど焼き魚が運ばれてきた。


皿の上には、香草を腹に詰められた川魚が一匹、こんがりと焼かれている。皮はぱりっとしていて、ところどころに焼き目がつき、油がじゅわりと滲んでいる。横には粗く刻んだ塩と、柑橘の薄切り。


見るからにうまそうだ。


俺はフォークを入れて、一口食べた。


外は香ばしく、中はふっくらしている。淡白な白身に香草の風味が乗って、噛むたびに旨味が広がる。塩加減も絶妙だ。


「……これは」


かなりうまい。


思っていたより、だいぶうまい。


俺は心の中で静かに天を仰いだ。


明日、薬師会に行く。


商業組合にも顔を出す。


ついでに職安も覗いて、情報を集める。


スライム素材の値段も、もう少し細かく調べる。


やることははっきりしている。


はっきりしているが――


たぶん俺は、自分が思っている以上に面倒な場所へ足を踏み入れている。


そんな予感が、じわじわと広がっていた。


俺はただ、静かに商売がしたいだけなんだが。


そう思いながら、皿の上の焼き魚をきれいに食べ終えた。


……とても美味かった。


悔しいことに、レスタルム初日の成果として一番はっきり分かったのは、ポーションの相場でもスライム素材の価値でもなく、この街の川魚がやたらうまいということだった。


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