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第4話 とりあえず今は



森の道は昨夜の湿気をまだ残していて、踏みしめるたびにじっとりとした感触が靴越しに伝わってきた。腐葉土が厚く積もった地面は見た目ほど安定しておらず、油断すると足を取られる。ところどころに張り出した木の根や、ぬかるみに近い場所もあって、人間が歩くには少し気を遣う道だ。


その点、モカはこういう場所に強い。


前足で軽く地面を確かめるようにしながら、踏んでも沈まない場所を選んで進んでいく。後ろ足の踏ん張りも利くので、多少の段差なら気にした様子もない。鞍の上で揺られているこちらとしては、任せておけばいいという安心感がある。


長い耳が、ぴくり、ぴくりと小刻みに動いている。


鳥の鳴き声に反応し、草の中で何かが動けばそちらへ向き、遠くで枝が折れる乾いた音がすれば、一瞬だけ歩みを緩める。人間の耳では拾いきれない音まで拾っているのが分かる。


こういうところは、本当に頼もしい。


先に気づいてくれるというのは、それだけで安全が一段階上がる。こちらがのんびりしていられるのは、こいつが周囲を警戒してくれているからだ。


……もっとも、当の本人――いや本獣は、そこまで深く考えている様子はない。


危険だから警戒しているというより、「なんか音がしたから気になる」くらいの感覚なのだろう。頭の中の大半は、たぶん干し草で占められている。


森を抜けると、視界が一気に開けた。


木々の影が途切れ、やわらかな陽の光が広がる丘陵地帯に出る。


ここから先は、いかにもグラム地方らしい景色が続く。


ゆるやかに起伏する丘。人の手で積まれた低い石垣が、土地の区切りを示すように線を引いている。背の低い草が一面に広がり、ところどころに放牧された家畜の姿が見える。


点々と建つ農家はどれも似た造りで、煙突から細い煙が立ち上っている。風に流されてゆっくりと形を変え、その向こうには、白く霞んだ山並みが横たわっていた。


北に連なるウェスタロス山脈だ。


夏でも頂には雪が残り、晴れた日にはその白さがよく目立つ。遠くから見ると静かで綺麗な景色だが、あの中に入れば別の顔を見せるのだろう。行ったことはないが、わざわざ行こうとも思わない。


あの山から溶け出した水は、細い沢となって丘の間を流れ、やがて小さな川になり、それがいくつも集まってライン川へと注ぐ。


ライン川はこの地方の背骨みたいなものだ。


町も村も、その流れに沿うように作られているし、畑も水を引いて成り立っている。飲み水も、作物も、家畜も、結局はあの山と川に頼っている。


そう考えると、ずいぶん大きな流れの中で生きているものだと思う。


エルムホルン村の小さな畑も、俺の店のポーションも、元を辿れば同じ水に行き着く。誰かが山で飲んだ水が、どこかで薬になり、また別の誰かを助けるかもしれない。


世界というものは、思っているよりずっと繋がっている。


……俺の小さな店も、その流れの一部なのかもしれないな。


そんな、少しだけ真面目なことを考えていたところで。


もそっ、という間の抜けた音がした。


視線を下ろすと、モカが道端の草に顔を突っ込んでいた。


「おい」


声をかけても、耳がわずかに動くだけで止まらない。


もそもそ、もそもそと、実に満足そうに草を噛み続けている。


「今ちょっといい雰囲気だっただろ」


せっかくそれっぽいことを考えていたのに、完全に流れを切られた。


モカは気にした様子もなく、さらに一口分を引きちぎった。


……こいつに情緒を求めてはいけない。



昼前には、小さな宿場に着いた。


ハルクの辻。


大層な名前ではないが、由来はそれなりにあるらしい。昔この辺りで商隊をまとめていたハルクという男が、街道の分岐点に井戸と簡単な休憩所を作ったのが始まりだとか何とか。詳しいことは知らないし、知ったところで値段が安くなるわけでもないが、とにかくここは「ちょうど休める場所」として重宝されている。


街道が二つに分かれる地点にできた宿場で、東へ行けば牧場町オルフェ、西へ行けばさらに別の村へ続く。分岐点というのは人が集まる。人が集まれば商売が生まれ、結果としてこういう小さな拠点になる。


規模は大きくない。


木造の茶屋が一軒、その横に屋根付きの馬小屋。簡単な炉を備えた鍛冶場が一つと、中央には石組みの井戸。周囲には粗末な柵が巡らされているが、防御というよりは区切りの意味合いが強い。


それでも、エルムホルン村と比べればだいぶ「外の空気」がある。


荷馬車が数台停まり、荷台の上には布で覆われた積み荷が山になっている。商人たちが手綱を緩め、馬に水を飲ませながら互いに値段の話をしている。道端では、まだ若い冒険者らしき連中が腰を下ろし、干し肉を齧りながら地図を広げて何やら相談していた。


旅人の顔つきも様々だ。


慣れている者は無駄に動かず、必要なことだけを淡々とこなす。慣れていない者は周囲をきょろきょろ見回し、落ち着きがない。そういう違いがはっきり見える場所でもある。


俺はモカを馬小屋の柱に繋ぎ、水桶の位置を確認してから軽く首筋を叩いた。


「勝手に暴れるなよ」


言うまでもないが、一応言っておく。


モカは耳を少し動かしただけで、すぐに桶の水へ顔を近づけた。どうやら俺より水のほうが重要らしい。まあいい。こいつが静かにしていてくれれば、それで助かる。


茶屋の暖簾をくぐると、外よりも少しだけひんやりした空気が流れていた。土間に近い床と、日差しを遮る屋根のおかげだろう。中には木の机がいくつか並び、旅人たちが思い思いに腰を下ろしている。


「何にする?」


店の親父が無愛想に聞いてきた。


「豆のスープ」


余計なことは言わない。


旅先の飯というのは、うまいかまずいかより、温かいかどうかが重要だ。


温かければ、それだけでだいたい許せる。


逆に、冷えた干し肉や固いパンばかりが続くと、人は目に見えて機嫌が悪くなる。口の中だけでなく、心まで乾いてくる感じだ。


昔の俺がそうだった。


依頼で外を歩き回っていた頃、何日もまともな食事にありつけず、冷たい食べ物ばかりを噛んでいた時期がある。その時は、本当にどうでもいいことで苛立っていた記憶がある。


だから今は、温かいものが出てくるだけでありがたい。


運ばれてきたスープは、木の器にたっぷりと注がれていた。豆が柔らかく煮えていて、塩気は控えめだが、体に染みるような味がする。湯気が立ち上り、顔に当たるだけで少しほっとする。


一口すすって、ようやく息がつけた気がした。


こういう時間があるから、旅は嫌いじゃない。


スプーンを動かしながらぼんやりしていると、隣の席の会話が自然と耳に入ってきた。


若い冒険者たちの声だ。


「レスタルムで回復ポーション買っておいたほうがいいよな」


「高いんだよなあ、あそこの薬房」


「安いやつは効きが悪いし、効くやつは銀貨が飛ぶし」


「最近、どこかの辺境にすごい安くて効く店があるって噂聞いたぞ」


「青なんとかって店だっけ」


俺はスープを吹きかけた。


危ない。


豆が鼻に入りかけた。


「青ぷよ薬房じゃなかったか?」


「何だその名前。ふざけてんのか」


「名前はふざけてるけど、品はやばいらしいぞ」


「本当ならレスタルムにも卸してほしいよな」


やめろ。


本人が隣でスープを飲んでいるとは、まさか思っていないだろうな。


俺は思わず背筋を丸め、顔を少し伏せた。器を持つ手元に視線を落とし、そのまま何事もないふりでスープをすすり続ける。こういう時に変に反応すると、だいたい余計な方向に話が広がる。


耳だけはしっかり拾ってしまうのが厄介だが。


「その薬房の店主がさ、無口で渋い中年なんだってよ」


「いやいや、実は元Sランク冒険者で、怪我して引退したって話もあるぞ」


「それであのポーションかよ、納得だな」


納得するな。


勝手に過去を盛るな。


俺はただのスライム相手に強いだけのおっさんだ。


「しかもな、スライムの粘液だけで高級ポーション作ってるらしい」


「は? それ嘘だろ」


「ほんとほんと。なんか特殊なスキル持ってるとかで」


……そのへんは、まあ合っている。


合っているが、どうしてこう、話の周りに余計な飾りがつくのか。


俺は顔を上げずに、スープをもう一口すすった。


温かいはずなのに、さっきより味が分からない。


そっと視線だけ横に流して、外の様子を見る。


馬小屋の中では、モカが相変わらずのんびりと干し草を食べていた。半分閉じた目で、もそもそと口を動かしている。周囲の騒ぎなどまったく気にしていない。


……平和そうで、少し羨ましい。


こいつはいい。


噂もなければ評価もない。ただ食べて、歩いて、寝るだけだ。


俺も本来は、そっち側の生活を望んでいたはずなのだが。


噂というのは、とにかく足が速い。


街道を行き来する旅人、荷を運ぶ商人、依頼を求めて移動する冒険者、そして酒場で話を拾っては歌にする吟遊詩人。そういう連中が、断片的な話をあちこちへ運んでいく。


誰かが「よく効くポーションだった」と言う。


別の誰かがそれを聞いて、「すごく効くらしい」と言う。


さらに別の場所では、「瀕死でも助かるらしい」に変わる。


そのうち、「奇跡の霊薬」に育つ。


途中の過程で、たぶん俺の顔も勝手に変わっている。


銅貨八枚の回復ポーションが、どこかの町では「瀕死の騎士を一息で立ち上がらせた奇跡の霊薬」になっていても、もう驚かない。


……迷惑な話だ。


いや、瀕死の騎士を助けられるなら、それ自体はいいことなのかもしれない。


問題は、話の膨らみ方だ。


期待が膨らめば、そのぶん現実とのズレも大きくなる。実際に飲んだ時に「思ったほどじゃない」と言われれば、それはそれで困るし、「こんなものか」と評価が落ちることもある。


商売というのは難しい。


黙っていても評判が勝手に動くのだから、なおさらだ。


スープを飲み干し、代金を置いて席を立つ。


外に出ると、さっきより少しだけ日差しが強くなっていた。モカの手綱を取り、軽く引くと、名残惜しそうに草から顔を上げる。


「行くぞ」


耳が一度揺れ、仕方なさそうにこちらへ寄ってきた。


茶屋を後にして、再び街道へ出る。


ハルクの辻から先は、ライン川へ向かってゆるやかに下っていく道だ。勾配はきつくないが、確実に標高が下がっているのが分かる。道幅もここから先は広くなり、荷馬車同士がすれ違える程度の余裕がある。


実際、行き交う数も増えてきた。


干し草を積んだ荷馬車、樽を載せた商隊、旅装の冒険者。車輪の音と馬の足音が重なり、街道らしい賑わいが出てくる。


川に近づくにつれて、空気がわずかに湿り気を帯びてきた。


草の匂いに、水の匂いが混じる。


遠くのほうから、低く響く声が聞こえてくることもある。最初は風の音かと思ったが、よく耳を澄ませば、人の掛け声だ。


おそらく、船を曳く連中だろう。


ライン川では、上流へ向かう船を人力で引くことがあると聞いたことがある。川沿いに綱を取り、何人かで歩きながら船を引く。楽な仕事ではないが、それで生計を立てている者もいる。


水の流れと、人の力。


それがこの地方の動きを支えている。


そんなことをぼんやり考えながら、俺はモカと一緒に、ゆるやかな下り道を進んでいった。



このあたりの街道沿いには、それなりに魔物も出る。


とはいえ、森の奥や山中に比べれば穏やかなものだ。街道は人の往来が多いぶん、強い個体はあまり居つかない。それでも油断していいわけではなく、気を抜いていると足元をすくわれる程度の連中は、きっちり揃っている。


灰狼、角兎、草原スライム。


この三つが、この辺りではよく見かける顔ぶれだ。


灰狼は、見た目は普通の狼と大差ないが、性質が少し厄介だ。単体でうろついている時はそこまで脅威ではない。駆け出しの冒険者でも、冷静に対処すれば何とかなる範囲だ。


問題は、群れた時だ。


五匹を超えたあたりから、明らかに動きが変わる。前に出る個体と回り込む個体に分かれ、じわじわと距離を詰めてくる。正面だけを見ていると、いつの間にか横や後ろに回られていることもある。


ああなると、一気に危険度が跳ね上がる。


囲まれれば、数の差で押し切られる可能性が高い。だから冒険者の間では、「灰狼は三匹までなら様子見、四匹なら警戒、五匹以上は撤退を考えろ」とよく言われる。


角兎は、見た目だけなら実に愛らしい。


丸い体に短い足、ぴょこぴょこと跳ねる動きは、子どもが見れば喜びそうなものだ。だが額に生えた一本の角が、すべてを台無しにしている。


あれが意外と鋭い。


油断して近づくと、低い姿勢から一気に突っ込んできて、脛あたりを狙ってくる。骨まで持っていかれることは少ないが、うまく入ればしばらく歩くのが辛くなる。


見た目に騙されると痛い目を見る、分かりやすい例だ。


そして草原スライム。


こいつは森にいる連中とは少し性質が違う。


水分が少なく、全体的に粘りが強いというより、やや硬い。触った感触もぷるぷるというより、ぬるりとしたゴムに近い感じだ。乾いた草の間にいるせいか、色も少しくすんでいる。


薬用として使えなくはないが、抽出すると少し癖が出る。


その代わり、粘着力は高いらしい。


昔、行商人が「これは接着剤として売れるぞ」と言っていたのを聞いたことがある。板と板をくっつけるとか、簡単な補修には向いているらしい。


……俺は試したことはないが。


スライムといっても、本当にいろいろいる。


今まで俺が主に使ってきたのは、エルム森でいくらでも手に入る青スライムと水スライムだ。あのあたりは性質が安定していて扱いやすいし、回復系のポーションとも相性がいい。


緑スライムは、薬草を食べているせいか、粘液にわずかな苦味が出る。効果自体は悪くないのだが、味と匂いに癖がつくので、配合を少し考えないといけない。


苔スライムは、さらに厄介だ。


独特の香りがある。人によっては「森の匂いで落ち着く」と言うが、別の人間からすれば「湿った布を放置したような匂い」にも感じる。まだうまく使い道を決めきれていない。


泥スライムは論外。


あれを鍋に入れると、全部が台無しになる。濾しても濾しても濁りが取れないし、底に残る不純物も多い。何より匂いがきつい。


鍋が泣く。


比喩ではなく、本当に泣きたくなる。


鉱石スライムは少し気になっている。


粘液に鉱石成分が混ざっているなら、何か別の効果が出るかもしれない。ただ、あれを試すにはダルモアまで行く必要がある。わざわざ素材のためだけに山道を往復するのは、なかなか骨が折れる。


そのうち、気が向いたら試すかもしれない。


たぶん。


レスタルムの市場に行けば、そういう素材の値段がある程度は分かるはずだ。


どのスライムがいくらで取引されているのか、どの品質なら薬師が買うのか、逆にどの程度なら雑に扱われるのか。そういう基準が、あの場所には集まっている。


もしかすると、俺が普段何気なく採っている素材の中に、思わぬ価値を持つものがあるかもしれない。


逆に、俺が「まあ使えるだろう」と思っているものが、ほとんど値段のつかない代物かもしれない。


どちらにしても、知らないまま値段を決め続けるよりはましだ。


少なくとも、「分かった上で外す」のと、「何も知らずに外している」のとでは、後悔の仕方が違うしな。


「なあ、モカ。俺は商売人として成長してると思うか」


モカは耳を動かした。


「そうか、分からんか」


当たり前である。


騎獣に経営相談をする時点で、俺の疲れもなかなかだ。



街道の途中で、小さな祠のそばに出た。


道の脇にぽつんと建てられた、古い石造りの祠だ。苔むした台座の上に、風雨で角の丸くなった像がひとつ。人の形にも見えるし、獣にも見える。誰が彫ったのか、いつからここにあるのかは分からないが、旅人たちは自然と足を止め、軽く頭を下げていく。


道の守り神。


そう呼ばれている。


街道を行き来する者にとって、こういう場所はありがたい。祈るかどうかは別として、「ここで一息つける」という目印になるからだ。


祠のすぐ脇には、小さな湧き水がある。


岩の隙間から細く流れ出る水は透き通っていて、手を差し入れると指先がきゅっと締まるように冷たい。誰かが置いた木の桶があり、旅人はそこから水を汲む。


俺はモカを止め、手綱を軽く結んでから水袋を取り出した。


「少し休むぞ」


声をかけると、モカはありがたそうに首を下げ、水のほうへ歩いていく。鼻先を近づけて匂いを確かめ、それからゆっくりと飲み始めた。


俺もしゃがみ込み、両手ですくって口に含む。


冷たい。


喉を通る感触がはっきり分かるくらい、よく冷えている。ほのかに石の味がして、それが妙にうまい。何度か繰り返しているうちに、体の内側にたまっていた熱がすっと引いていく気がした。


ここには、昔も立ち寄ったことがある。


若い頃――まだ何も持っていなかった頃に。


ふと、その時のことを思い出した。


十五の頃の俺は、冒険者になりたかった。


もっと正確に言えば、冒険者になれば何者かになれると信じていた。


エルムホルン村で生まれ、村で育ち、畑を手伝い、薪を割り、たまに街へ荷を運ぶ。朝起きて、体を動かして、日が暮れれば家に帰る。そういう生活だった。


悪かったわけではない。


飯はきちんと食えたし、屋根のある場所で眠れたし、家族もいた。近所の連中も顔見知りで、困れば手を貸してくれる。穏やかで、安定していて、たぶん恵まれていた。


けれど、あの頃の俺には、それがやけに狭く感じられた。


空の向こうに、もっと大きな世界が広がっているように思えたのだ。知らない町、知らない人間、見たことのない景色。そこへ行けば、自分は今とは違う何かになれるんじゃないかと、本気で思っていた。


そのきっかけは、酒場に来る冒険者たちの話だった。


魔物を倒した武勇伝。


遺跡で宝を見つけた話。


仲間と肩を組んで笑い合い、報酬で酒を飲み、受付嬢に名前を覚えられる、そんな話。


どれも大げさに盛られていると分かっていても、あの頃の俺には眩しかった。


自分もいつか剣を持ち、依頼票を剥がし、危険な道へ踏み出すのだと、疑いもなく思っていた。思い込んでいたと言ってもいい。


若さというのは、根拠のない自信に燃料を注ぐ魔法みたいなものだ。


スキル鑑定の日、俺は本気で期待していた。


教会の石床に立ち、水晶に手をかざす。


あの瞬間、胸の奥が熱くなっていたのを覚えている。


剣聖。


火炎術師。


獣王の加護。


せめて、俊足とか、怪力とか、夜目とか。


何か一つでも、冒険者としてやっていける理由がほしかった。


神父が水晶を覗き込み、ほんのわずかに間を置いた。


その一瞬が、やけに長く感じられた。


そして告げられた。


「ロイド、お前のスキルは〈スライムキラー〉だ」


その場の空気は、今でもはっきり覚えている。


周りにいた大人たちの微妙な沈黙。誰かが咳払いをして、誰かが気まずそうに視線を逸らした。


祝福の鐘が鳴るはずだった俺の人生に、代わりに「ぷるん」とした音が落ちてきたような気がした。


スライムキラー。


スライムに強い。


以上。


それ以上でも、それ以下でもない。


俺はそれでも諦めきれず、冒険者登録をした。


村で燻っているよりは、外に出たほうが何か変わるんじゃないか――そんな、よくある理由だ。特別な夢があったわけでもない。ただ、このまま何もできないまま年を取るのが、なんとなく嫌だった。


最初の依頼は、村外れの畑に出たスライム退治だった。


拍子抜けするほど簡単だった。


朝露の残る畑の端で、青いスライムが三匹、ぷるぷると動いている。農作物の根を溶かす厄介者ではあるが、脅威としては低い。俺は棒の先に付けた刃で一匹ずつ突き、核を潰し、粘液を回収した。


作業としては、ほとんど採取に近い。


依頼主の農家の親父は何度も礼を言ってくれたし、報酬の銅貨もちゃんと出た。帰り道、腰の袋に入った粘液瓶がちゃぷちゃぷ鳴るのを聞きながら、「あれ、これならやっていけるんじゃないか」と本気で思った。


自分でも驚くほど簡単だったのだ。


――その勘違いは、二つ目の依頼で綺麗に叩き割られた。


二つ目は、森に出た角兎の討伐。


角兎は見た目こそ小さいが、あの角で突進してくる。油断すると脛をえぐられる。分かってはいたつもりだった。


実際にやられるまでは。


茂みから飛び出してきた白い影を、俺はうまく捉えきれなかった。避けたつもりが半拍遅れ、鋭い痛みが走る。気づいた時には、足から血が滲んでいた。


逃げ帰るしかなかった。


討伐どころか、報酬も出ない。治療費でむしろ赤字だ。


三つ目は、ゴブリンの偵察。


森の奥、木々の隙間から見えたのは、粗末な武器を持った小さな影が何体も動き回る光景だった。笑い声のような、不快な声も聞こえる。


その時点で、体が固まった。


「あ、無理だな」


そう思って、静かに引き返した。


戦ってすらいない。


四つ目は、薬草採取。


これはうまくいった。


むしろ、妙にしっくりきた。


湿った土の匂いを嗅ぎ分け、葉の形を確かめ、根を傷つけないように抜く。黙々と手を動かす作業は嫌いじゃなかったし、危険も少ない。持ち帰った薬草を並べた時の満足感は、戦闘で勝つのとは違う種類のものだった。


「こういうのでいいんじゃないか」


その時、少しだけ思った。


だが、五つ目の依頼で、その甘えも吹き飛んだ。


若い冒険者仲間に誘われて、灰狼の群れを追うことになったのだ。


断る理由も見つからず、見栄もあって頷いてしまった。


森の奥で見つけた灰狼は、三匹。


いや、三匹“も”いた。


低く唸る声、地面を踏む足音、じっとこちらを測る黄色い目。距離はまだあるのに、あちらのほうが明らかに優位に立っているのが分かる。


その瞬間、足が止まった。


いや、止まったというより、動かなくなった。


頭では「構えろ」「退くな」と分かっているのに、体が言うことを聞かない。喉が乾き、視界が狭くなる。


仲間は違った。


前に出た。


剣を抜き、声を上げ、狼を引きつける。


勇敢だった。


俺は、ただ立ち尽くしていた。


結局、戦闘が始まった途端に俺は一歩も動けず、位置取りを誤り、横から回り込まれた。気づいた時には、背後に気配があった。


あのままなら、やられていた。


間違いなく。


仲間の一人が無理やり割って入り、俺を突き飛ばしてくれたおかげで助かった。


情けない話だ。


依頼は成功したが、俺の中では完全な敗北だった。


その夜、安宿の狭い部屋で、俺はベッドの上に座り込んだまま動けなかった。


膝を抱え、じっと床を見ていた。


頭の中で、何度も同じ場面が繰り返される。


足が動かなかった瞬間。


仲間の声。


狼の目。


「……向いてないな」


ぽつりと呟いた。


誰もいない部屋で、自分に向けて。


俺は冒険者に向いていない。


情けなかった。


悔しかった。


だが、それ以上に。


怖かった。


あのまま死んでいてもおかしくなかった、という事実が。


それでも――死ぬよりはましだった。


結局、俺はそれからしばらく、戦闘系の依頼を避けるようになった。


代わりに受けたのは、素材採取ばかりだ。


薬草を集め、スライムを狩り、きのこを採り、時には小動物の素材を持ち帰る。地味で、危険は少なく、報酬もそこそこ。目立たないが、確実にこなせる仕事。


そうして集めた素材を、村の薬師に売った。


あの爺さんだ。


白髪で、いつも背中を丸めていて、無愛想な顔をしているくせに、薬のことになると妙に饒舌になるあの人。


俺がスライム素材を持ち込むたびに、爺さんは決まってそれを手に取り、じっと眺めてから首をかしげた。


「お前さんの採ってくる粘液は、妙に澄んどるな」


「スライムキラーだからですかね」


「知らん。スライムキラーの知り合いなんぞ、おらんからな」


「普通はいませんよね」


「まあ、普通は名乗りたくなかろう」


昔からひどい爺さんだったが、嫌いではなかった。


爺さんはポーション作りを見せてくれた。


教える、というほど丁寧なものではなかったが。


「そこに立つな、邪魔だ」

「泡を取れ」

「火を強くするな、焦げる」

「瓶は洗え、前の匂いが残る」

「鼻を使え。匂いで分かるようになれ」


そんな調子だ。


手順を順番に説明してくれるわけでもなければ、理屈を語ってくれるわけでもない。素材の性質だの魔力の流れだの、そういう話はほとんど出てこない。ただ、目の前で鍋をかき混ぜ、時々俺に短い指示を飛ばすだけだった。


それでも俺は、言われるままに手を動かした。


薬草を刻み、スライムの粘液を濾し、浮いてきた泡をすくい取り、火加減を見て、瓶を何度も何度も洗った。最初の頃は手際も悪く、泡を取り損ねては爺さんに無言で鍋の中身を捨てられ、火を強くしすぎては焦がし、瓶を洗い残しては「やり直しだ」と言われた。


怒鳴られることは少なかった。


むしろ淡々とやり直しを命じられるほうが、妙にこたえた。


それでもめげずに通ったのは、他にやることがなかったからだ。


冒険者としての夢がしぼみ、剣の腕も中途半端で、強い魔物には歯が立たず、依頼もまともにこなせず、「自分は何をやっているんだろうな」と考える時間だけが増えていた頃だった。


そんな時に、鍋をかき混ぜるという単純な作業は、妙に心が楽だった。


考えなくていい。


言われた通りに手を動かせば、少なくとも「何もしていない時間」にはならない。


火を見て、泡を取り、匂いを確かめる。


それだけで、一日が過ぎていく。


少なくとも、空を見上げてため息をついているよりはましだった。


初めて自分一人で作らせてもらったポーションは、ひどい出来だった。


色は薄く、少し濁っていて、瓶の底には細かい沈殿が残っていた。匂いも青臭く、飲めば苦味が舌に残る。効きも弱く、回復したのかどうか分かりにくい代物だった。


爺さんは味見をして、一言だけ言った。


「まあ、飲めなくはないな」


褒められてはいないが、完全な失敗でもないらしい。


その時点で、少しだけほっとしたのを覚えている。


そのポーションを、たまたま店に来た村の子どもに渡した。


畑仕事の手伝いをしていて、手のひらをざっくり切っていた。泣きながら母親の後ろに隠れていたその子に、「ほら、これ飲め」と半ば押しつけるように渡したのだ。


正直、効くかどうか自信はなかった。


それでも、その子は少しだけ顔をしかめながら飲んで、しばらくすると泣き止んだ。


完全に痛みが消えたわけではない。


ところがさっきまでの泣き方とは違って、ぐずぐずと鼻を鳴らす程度になった。


傷もほんの少しだが、早く塞がっているように見えた。


母親がその手を見て、ほっとした顔をした。


そして俺のほうを向いて言った。


「助かったよ」


たったそれだけの言葉だった。


大げさな礼でもないし、金貨を積まれたわけでもない。


ただ、日常の延長みたいな、素朴な一言。


たぶん、その一言が始まりだった。


冒険者になって名を上げることはできなかった。


強い魔物は倒せない。


剣で誰かを守ることも、遠い遺跡から宝を持ち帰ることもできない。


そういうことは、最初から分かっていたわけではないが、やっていくうちに嫌でも理解した。


だが、その代わりに。


誰かの痛みを少し減らすことなら、できるかもしれないと思った。


スライムしか狩れない俺でも、スライムを素材にして薬を作れば、誰かの役に立てるかもしれない。


大げさなことじゃなくていい。


命を救うとか、国を守るとか、そんな話じゃなくていい。


ただ、目の前で困っている誰かが、少し楽になる。


それだけでいい。


今思えば、俺がポーション作りを続けている理由は、本当にそれだけだった。


大きな志なんてない。


世界を救う気もない。


商売で名を上げるつもりもなかった。


自分にできることで、目の前の人間が少し楽になるなら


――少なくとも、その時までは、本気でそう思っていた。


「……それがどうして行列になるんだかな」


祠の前で俺がつぶやくと、モカが鼻を鳴らした。


まるで「知らん」と言っているようだった。


俺も知らん。


俺は祠の石段に腰を下ろし、手の中の水筒を軽く振った。


中身はまだ半分くらい残っている。朝に汲んだやつだ。ぬるくなってはいるが、飲めないほどじゃない。口をつけて一口飲みながら、空を見上げる。


いい天気だ。


こういう日は、だいたい面倒なことが起きる。


いや、逆か。


面倒なことが起きた日だけ、妙に天気がいい気がするのかもしれない。


「……平和に暮らしたいだけなんだがな」


誰に言うでもなく呟くと、モカが今度は小さく耳を揺らした。


慰めているのか、ただ虫でも追っているのかは分からない。


どちらでもいい。


しばらくそのままぼんやりしてから、俺は立ち上がった。


座っていても、何も解決しない。


行列は消えないし、ポーションは勝手に増えないし、税も待ってはくれない。


だったら、せめてやることをやるしかない。


「行くか」


モカの手綱を軽く引くと、素直に歩き出す。


静かな祠を後にして、俺は街道へ戻った。


やることは単純だ。


情報を集める。


値段を知る。


それから、たぶんまた悩む。


……まあ、それはその時考えればいい。


とりあえず今は、前に進むしかない。


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