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第60話 この男、ただのポーション屋ではない



膝を入れられたグレンは、凍りついた左手を地面から引き剥がそうとして肩を捻る。ロイドは膝を引く代わりに胸当ての下縁へ当てた圧力を斜め上へずらし、呼吸を止められたグレンの上体を仰け反らせると同時に、地面へ凍りついた左手と体幹との間に生まれたねじれを利用して彼の肩関節を無理な角度へ追い込んだ。


骨が外れる手前で、グレンの顔から血の気が引いた。冷気を扱う本人の頬が、冷域の霜より白く見えた。左手を地面へ固定されたまま胸を押し上げられれば、肩から脇にかけての筋が引き伸ばされ、短剣を持つ右腕で斬り返すための腰の回転も奪われる。グレンは右手を振ろうとしたが、刃はロイドの首ではなく無理にでも距離を取るための浅い払いとして走った。ロイドは首を引かず、短剣の刃先が届く前に自分の額をグレンの顎へ最小限の動作で叩きつけた。


グレンの顎が鳴り、短剣を持つ右手の軌道が落ちる。ロイドはその手を掴まず、落ちた手首の外側へ自分の前腕を当て、肘の内側を押し込むことで刃の向きを地面へ向けさせた。掴めば氷結掌が流れる。握れば凍る。面で触れれば冷気が食いつく。ロイドの判断はそんな理屈を言葉として並べるより先に終わっており、接触を点と線へ削り、グレンの関節の弱い方向だけを使って短剣を落とさせた。刃が鉱砂へ沈むより早くロイドの足先が柄を踏み、踏んだ力は靴底から凍った砂へ逃げるのではなく、覚醒薬で無理やり固められた足裏の魔力層を通じて柄そのものへ集中した。


短剣の木柄に小さな亀裂が入るなかで、グレンの目に初めて明確な焦りが浮かんでいた。左手を地面から引き剥がすのを諦め、手袋ごと脱ぎ捨てる判断へ即座に移る。革の留め具を歯で噛み切るか、右手で裂くか、そのどちらかを選べば左手は氷と地面に残っても身体だけは動ける。狩人としては正しい選択だった。今執着すべきは手袋ではなく距離であり、視界であり、次の罠を置くための余白だった。グレンはそう判断したはずだった。


ロイドはその判断が動作へ移るより早く、グレンの凍りついた左手と革手袋の留め具の間へ靴先を滑らせながら踵をわずかに落とした。押し潰すほどの力は入れていない。革と氷の間に生まれていた小さな隙間を、靴底の端で塞いだだけだった。手袋を脱ぐためには隙間が要る。関節を抜くにも、布や革を滑らせるにも、ほんの僅かに逃げる場所が要る。その隙間を失ったグレンの左腕は地面に縫い止められた杭となり、彼の体幹へつながる鎖となった。


「離せ……!」


グレンの声は、さっきまで谷へ響いていた笑い声とは別物だった。喉を潰され、横隔膜を押し込まれ、呼吸の底を叩かれたせいで声は低く濁り、白い息に混ざって細かく震えていた。ロイドは返事をしなかった。覚醒薬の暴力的な流れに呑まれたロイドの中で、そんな感情的な“ゆとり”はひどく遠くへ押しやられていた。


目の前の障害を処理する。


ただその強かな行動選択だけが、ロイドの内側で熱を失った金属片のように残っていた。



〈力〉というものには、いくつかの顔がある。


腕を太くし骨を軋ませ、筋肉の奥へ熱を灯すような分かりやすい力。

剣を振れば岩を断ち、拳を握れば鉄板を歪ませるような、誰の目にも明らかな力。

そういうものを、人は強さと呼びたがる。


覚醒薬――オーバーチャージがロイドへ与えたものも、たしかに〈力〉だった。


ただしそれは、身体の外側へ派手に膨れ上がるような力ではない。

筋肉が鎧のように隆起するわけでも、骨が鋼へ置き換わるわけでも、足の裏から炎が噴き出して地面を砕くわけでもない。

むしろ見た目だけなら、ロイドの身体はほとんど変わっていなかった。山道を歩き回ってくたびれた中年の身体。薬草と粘液と古い革の匂いが染みついた袖。汗と鉱砂で汚れたシャツ。外套を失った肩。右前腕には石突を受けた鈍い痛みが残り、左足首はさきほど凍った青糊を無理に割ったせいで、関節の奥へ細かな硝子片を噛ませたような軋みを抱えている。


それでも、内部は別物だった。


胸の奥に押し込まれていた魔力が、釜の底へ沈殿していた重い薬液を強火で一気に沸かしたように泡立ち、血管、神経、筋肉、腱、骨膜の隙間へまで細く荒い流れとなって叩き込まれていく。キャットステップが削った反応の遅れ、リフトアンプルが短く握った薬効の手綱、その両方の上へ、オーバーチャージは力という名の暴れ馬を容赦なく乗せた。


心臓が一度打つたびに、血だけでなく魔力が肋骨の裏から四肢の末端へ押し出される。指の腱が自分のものとは思えない密度で張り、足裏の筋が鉱砂の粒一つひとつを掴む。首を動かさなくても、肩甲骨の開きと脇腹へ触れる風だけで背後の距離が測れた。汗が冷域に触れて霜へ変わる前の温度差さえ、皮膚の上へ細い線として浮かび上がる。


力は、腕を振るためだけにあるのではなかった。


立つ。沈む。止まる。跳ねる。捻る。踏む。離す。掴まない。押さない。壊す。


その全部の行為へ、通常なら身体が安全のために制限している出力が流れ込む。人間の身体は、いつも全力で動いているわけではない。腱が切れないように、関節が外れないように、骨が耐えられる範囲へ筋肉の収縮を抑え、痛みや疲労や恐怖という信号で無理を止めている。オーバーチャージはその制限へ乱暴に爪を立てる薬だった。


開けるべきではない扉を開ける。

使わせてはいけない力を引きずり出す。

壊れる前に止めるための仕組みを、壊れた後でも動けるようにねじ伏せる。


ロイドの左足首が、きしりと小さく鳴った。


それでも今のロイドは、足首に走った熱と痛みを退くための理由としてではなく、まだ立てるか、踏み込めるか、蹴り出せるかを見極めるための材料として受け取っていた。骨が砕けていないなら重心は乗るし、腱が切れていないなら地面は蹴れる。まだ使える以上は使うべきで、損傷の度合いを測る知識は彼を止める命令ではなく、どこまで無理を押し通せるかを見定めるための目盛りでしかなかった。


凍りついた左手首を捨てる判断を諦めるとグレンは肩を落とし、上体の重さをあえて地面へ預けながら右膝を外側へ開いた。ロイドに胸を押し上げられたまま抗うのではなく、身体を低く沈めることで膝の圧力を逃がすと同時に腰の後ろに吊っていた二つ目の小球へ右手を伸ばす。


冷気玉ではない。

黒い斑点のある灰色の球。表面に刻まれている紋は氷属性ではなく、鉱石獣の骨粉を混ぜた衝撃拡散用のものに似ている。割れば鋭い破片をばら撒き、近距離の相手を目潰しと裂傷で離すための逃げ道作りだろう。

よく考えている。近距離で組みつかれた時の保険。自分の手が片方封じられても、利き手だけで使える位置。破片が自分へ返ってこない角度。最初から、こういう状況になる可能性をグレンは用意していた。


普段のロイドなら、グレンの手に握られたその球を見た時点で、ほんの一拍だけでも思考を挟んでいたはずだった。道具なのか魔道具なのか、投げつけるためのものなのか、それとも握り潰すことで中身を撒き散らす類のものなのか。煙か、粉か、破片か、毒か、あるいは逃走経路を作るための目眩ましか。どの方向へ逃げるつもりでどれだけの被害を許容し、そのうえで何を切り捨てようとしているのか。そうして可能性を並べ、危険度の低いものから消し、最後に残った選択肢へ最短で対処する。


けれどオーバーチャージを飲んだ今のロイドには、その〈一拍〉さえ存在しなかった。


ロイドの戦闘力は決して高くはない。それは本人も周りも認めているところであり、生まれ持った冒険者としての才覚は彼のスキル〈スライムキラー〉以外の部分においては、特段際立った要素はほとんど無いと言っても差し支えないだろう。しかしそれはあくまで彼自身の〈素〉の部分を【戦闘力】という数値上に切り取った時の話であり、ポーションの効果によって底上げされた魔力や身体能力の数値に置き換えられた状態を加味していない。


彼は自分自身でも気づいていないことがある。自ら精製したポーションがもたらす効能が、自らの身体とどれほどの親和性があり、どれほどの効果をもたらすものであるかを。そして彼自身の体内にある魔力の核とポーションによって抽出されたスライム核との結合が、どれほどの相乗効果を生み出すものであるかを。


ロイドの表情はさきほどまでとは別人のように変質し、水色に逆立った髪はまるで彼自身が人型の魔物に変貌したかのように異様な気配を纏わりつけていた。


山の谷底に立っていたのは、薬房の店主でも、ぼやきながら規格瓶へ薬液を注ぐ中年でも、面倒だから帰りたいと口では言いながら結局最後まで付き合う男でもなかった。そこにあったのは、何百、何千というスライムの核を割り、外膜を剥ぎ、粘液を煮詰め、素材の癖を指先と舌と鼻と魔力の手触りで覚え、そのすべてを自分の体内へ流し込む薬として組み替えてきた男の、本人すら正しく把握していなかったもう一つの姿だった。


グレンの右手が逃走用の小球を握り込むより早く、ロイドの足裏が凍った鉱砂を踏み砕き、青糊と血と粘液が凍りついた汚れた地面にひび割れた薄氷の花が無数に広がった。


それは跳躍ではなかった。


人間の脚で地面を蹴って前へ飛び込むという、見慣れた運動ですらなかった。


足裏から押し込まれた魔力が凍った青糊の膜を砕き、砕けた膜の下にある湿った鉱砂をさらに押し固め、押し固めた一点から返ってきた反発だけを膝、腰、背中、肩へ一息で通した結果、ロイドの姿はグレンの懐へ“移った”ように見えた。目で追える速度ではあったはずなのに、動き出す前の溜めも、重心を移すための揺れも、踏み込みへ移るための予備動作も、周囲が理解できる形ではほとんど残らなかった。


グレンが握った小球は、投げられなかった。


ロイドの右足が短剣の柄を踏み砕いた姿勢のまま、左手の指先がグレンの手首へ絡み、掌で掴むのではなく骨と腱の間へ二本の指を差し込むようにして角度だけを奪う。


小球がグレンの指からこぼれた。


落ちる途中で割れるより前に、ロイドの膝がそれを下から叩いた。蹴り上げられた灰色の球は弧を描いて上へ逃げるはずだったが、ロイドは視線さえ向けずに空いた右手で腰袋の口を裂くように開き、中に残っていた白露スライム由来の希釈液の小瓶を親指で弾き出した。瓶は空中で小球へぶつかりながらガラスが割れ、乳白色の液が薄い膜となって球の表面を包み込む。逃走用の破片玉は内側から破裂しかけたものの白露の希釈液が衝撃を外へ散らし、青スライムの粘着膜が破片の広がりを押さえ込んだことで爆ぜたはずの道具は谷を裂く散弾ではなく、粘った白い塊となってロイドの足元へ落ちた。


グレンの目が見開かれた。


自分の道具を無力化されたことへの驚きではない。ロイドがそれを“見てから対処した”ように見えなかったからだ。薬瓶を選び、栓を弾き、投げる角度を決め、割れる位置を合わせるという一連の動作が、まるで戦闘中に考えられたものではなく初めから調合台の上へ並べられていた手順を順番どおりなぞっただけのように滑らかだったからだ。


ロイドはグレンを見ていなかった。


正確には、グレンという人間を見ていなかった。


凍りついた左手、呼吸を潰された胸、逃げ道を探す肩、短剣を失った右手、腰に残る球袋、冷域を維持している骨札、足元に広がる青糊と血と鉱砂の凍膜、それらすべてが一つの構造物としてロイドの視界へ組み上げられており、そこにあるべきなのは対話ではなく、機能停止までの淀みのない手順だった。


「やめ――」


グレンが言いかけた声は、ロイドの掌に押し潰された。


掌底が顎を打ったのではない。喉を潰したのでもない。ロイドはグレンの胸当ての下縁へ入れていた膝をさらに深く押し込み、息を吐くための筋肉が縮む位置へ圧を重ね、声を出すために残されていた空気の逃げ道を奪った。グレンは氷結掌を使ってロイドの足首を凍らせようとしたが、ロイドはその左手を地面へ縫い止めたまま革手袋の甲へ靴底を沈めるように置き、氷と革と骨の間にあるわずかな可動域を踏み潰した。


白い霜がロイドの靴へ這い上がる。


ロイドは動かなかった。


凍りつく靴底をそのまま支点として使った。


冷気で足を拘束されているのではない。固定された足場を得ている。グレンがロイドを縫い止めるために流した氷の魔力は、オーバーチャージで跳ね上がったロイドの出力を受け止める杭へ変えられた。谷底の誰もがその異常な転換を理解するより前に、ロイドは凍った靴底を軸にして上体をひねり、グレンの肩関節へ逃げ場のないねじれを送り込んだ。


骨が外れる寸前の音が、谷の冷たい空気に細く鳴った。


グレンの声にならない呻きが白く漏れ、彼の右肩から力が抜けた。


そこから先は、ロイドの独壇場だった。


他の三人は、ロイドの動きを止めるための連携と配置を即座に組み直している。弓使いの女は無防備に見えるロイドへの射線を直線上に取り、引き絞った矢を力強く解き放った。


背後から迫る若い男の気配にも、迫り来る矢の気配にも反応しなかったわけじゃない。傍から見れば無気力な脱力状態にさえ見える〈それ〉は、先ほどまで戦場の二手三手先を読み取ろうとする計算高い男の“立ち姿”には微塵も見えなかった。


この場にいる誰もが、彼の状態の変化に追いついていない。


形容としてはそれがもっとも適切でありながら、同時にもっとも異質なフェーズへと移行していることに、目の前に相対するグレン自身でさえ気づいていない。


その〈理解〉に世界が追いついたのは、ロイドへと解き放たれた一本の矢が、その鋭い先端が対象に届く前に突如“空中で静止”したからであった。


いや、それが“静止した”という表現自体、見る視点によっては適切ではないかもしれない。


ロイドは向かってくる矢に対して視線を動かすこともなく、難なくそれを右手で受け止めた。その動作は滑らかな脱力状態の延長線上にありながら、受け止めるという行為自体に何ら焦りも淀みも差し込まなかった。


ただ“受け止めた”。


それがどれほどの異常性を運び得る事態であるかを報せるのに、さほど時間はかからなかった。


背後まで迫っていた若い男が、巨大な物体に吹き飛ばされるように空中へと“浮き上がる”までは——


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