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第61話 矢が届く距離とタイミング



若い男は、ロイドの背へ刃を届かせるつもりで走っていた。


鉈はもう手元にない。最初に砂へ転がされた拍子に手放し、今は腰から引き抜いた解体ナイフだけを握っている。獣の皮を裂いて関節の隙間へ差し込む、肉を骨から剥がすための短い刃。人間を相手に振るうには間合いが近すぎるが、怒りで視界の狭くなった男にとってそんな不利を数える余裕は残っていなかった。


顔には黄色い鉱砂がこびりついていた。頬の皮膚は擦り剥け、口元は屈辱と怒りで歪み、唇の端には噛み切ったのか血が滲んでいる。目だけが妙にぎらついていた。さっきまで薬屋のおっさんだと見下していた相手に真正面から崩され、地面へ叩きつけられた。その事実を受け入れられないまま、彼はただ一つの答えへしがみついている。


足音は荒い。


呼吸は浅い。


肩には余計な力が入り、腕は必要以上に振れている。冷域に広がる白い霜が靴底へ絡み、踏むたびに足場はわずかに滑った。それでも若い男は構わず踏み抜いた。滑るなら力でねじ伏せればいい。霜が噛むなら、そのまま砕けばいい。そう言わんばかりの、若さと腕力に任せた強引な走りだった。


ロイドの右肩が、ほんのわずかに落ちた。


それは避ける動きではなかった。迎え撃つ構えにも見えなかった。むしろ立つことをやめる前兆に近く、足から力が抜け、身体そのものが地面へ沈み込むように見えた。


背後の若い男は、その“脱力”を隙だと見た。


ロイドの肩から力が抜け、視線も向けず、矢を受け止めた右手だけがだらりと下がっている。戦いを終えた人間の姿に見えたのだろう。あるいは、今なら背中を取れると判断したのかもしれない。


ナイフを握った右腕が、低く前へ伸びた。


狙いは背中の中央ではない。脇腹の下。肋骨の終わりと腰骨の間。


防具の薄い、柔らかい場所だった。


刃の入り方次第では、筋肉を裂くだけでは済まない。角度がわずかに深くなれば内側の臓器へ届く。若い男にそこまで計算する意思があったかどうかは分からない。浅く刺して動きを止め、膝をつかせる。その程度のつもりだった可能性もある。


ロイドは振り返らなかった。


右手に残っていた矢を、自分の背後へ放る。


いや、投げたのではない。


肩も回さず、肘も大きくは使わない。手首だけを返し、指の中で矢軸を滑らせる。女弓手が放ったはずの矢は攻撃を返すための武器ではなく、ただ一本の細い棒として若い男の足元へ置かれた。


踏み出した右足の内側。


そこへ、矢軸の末端が差し込まれる。


若い男の右足は、すでに大きく前へ踏み出されていた。


解体ナイフをロイドの脇腹へ突き込むための一歩。つま先はロイドの身体をまっすぐ捉え、膝は前へ沈みかけている。しかし踵だけはまだ完全に地面を噛んでいなかった。


体重が、足裏へ落ちる直前。


そのわずかな隙間へ、矢が滑り込んだ。


鏃ではない。肉を裂くための鋭い矢ではなく、軌道を変えるために放たれた一本だった。


矢は若い男の足首の内側をかすめるように叩いた。強くはない。骨を砕くほどでも、足を弾き飛ばすほどでもない。


ただ右足の向きだけを、ほんの指一本ぶん外へずらした。


踏み込みは止まらなかった。


止まらなかったからこそ、体勢が崩れた。


上半身はまだ前へ進もうとしている。肩は突き出され、右腕はナイフの刃先をロイドの脇へ届かせようと伸びる。腰もその動きに引かれ、勢いのまま前へ流れていた。


土台になっているはずの右足だけが、別の方向を向かされている。


身体の上と下が、そこで噛み合わなくなった。


ぱきり、と乾いた音が鳴る。


折れたのは足首ではない。足元へ入った矢軸だった。


その時にはもう十分だった。若い男の膝は内側へ落ち、浮いていた踵は鉱砂と霜の混じった不安定な地面を掴み損ねる。前へ押し出すはずだった力は足裏へ抜けず、逆に膝と腰の内側へ嫌な角度で返っていった。


ナイフの刃先は、ロイドの身体へ届かない。


届く前に、男の姿勢そのものが崩れていた。


そこへ、ロイドの左肘が背後へ沈む。


殴るためではない。


若い男の胸を砕くための一撃でも、骨を折るための打撃でもなかった。前のめりに突っ込んでくる身体の中心へほんのわずか下から差し込み、その勢いの行き先を横ではなく上へずらしただけだ。


ただ、それだけで十分だった。


若い男の身体が、ふっと浮いた。


自分で作った突進の速度。踏み外しかけた足場。凍りかけた鉱砂の滑り。そして、ロイドの肘が添えたわずかな上向きの力。


それらが一瞬だけ噛み合い、男の重心を地面から引き剥がした。


「……がはッ…!」


その浮き上がり方は、殴られた人間のものではなかった。


拳を受けて吹き飛ばされたわけでも胸を蹴り抜かれて弾かれたわけでもない。若い男の身体は、まるで足元に残っていたはずの地面と自分を前へ運んでいたはずの勢いを同時に奪われ、戦いという流れの外側へ身体だけ放り出されたかのように黄色い鉱砂を蹴散らしながら不自然な角度で宙へ浮いた。


女弓手は、その光景を最後まで見届けなかった。


若い男の背中が鉱砂から離れ、肩と腰の向きがばらばらになったまま空中へ押し上げられた瞬間には、彼女の指はすでに次の矢へ伸びていた。仲間が崩れたことへの驚きも、ロイドが何をしたのかを確かめるための遅れもそこにはない。彼女の目が追っていたのは宙に浮いた仲間の姿ではなく、その向こうでまだ地面へ足を残しているロイドの身体が次にどの位置へ落ちるのか、その“一点”だけだった。


弓手の行動としては正しい。


倒れた仲間を見ている暇があるなら、次に動く敵を射るべきだろう。驚くより先に矢を選び、怯むより先に弦を引くための最適な一歩。相手がこちらへ届く前に相手の動ける線を一本ずつ潰す。彼女はそういう戦い方を知っている人間だった。


しかし女弓手が二本目を放つより早く、ロイドは動いていた。


いや、動いたと呼ぶには、あまりにも前触れがない流れの中に身を置いていた。


誰の目にも彼が走り出したと理解できるような〈形〉ではなかった。通常であり肩が沈み、腰が捻れるだろう。足が地面を蹴る動作であったり、次の行動に対する意識的な力へのベクトルが“初期動作”という形で前面に出るはずだ。静から動、点から線へ移動する時には必ずどこかへ現れるはずの段取りが、今のロイドからはほとんど読み取れない。わずかな視覚のブレの隙間を覆うように、気づいた時には立っていた場所から次の場所へ、“身体の位置”だけが一段進んでいた。


女弓手との距離は、谷の右側、岩棚の下を斜めに横切って十数歩。


普通なら全力で駆けても数拍はかかる距離である。しかもその途中には様々な障害物があった。ロイドと女弓手の間に横たわった純粋な距離には、直線上では結べないいくつかの余白がある。それは例えば些細な地面の凹凸一つ取ってもそうである。そこには明白な空間の奥行きがあり、単純な線では結びきれないほつれのような糸の綻びがあった。


真っ直ぐ行けば、足を取られる箇所が存在する。


迂回すれば、矢が来る距離を広げてしまう。


止まれば、相手に一拍を与える余地を生む。


いずれにしても主導権を握るのは射線を通した遠距離に位置する弓手の方であり、これだけの距離と範囲があれば常に遠距離を主導とした先手を打てるタイミングを作ることができる。本来であれば、有利に立つ足場を持つには十分だったのだ。バルドの牽制があるとは言え、すでに遮蔽物の後ろに隠れるだけのゆとりがあった。相手が一歩を選ぶたびにこちらは矢の角度を変えられる距離にいる。行動範囲と距離を広げられる間合いの縁に立ちながら、常に相手との直線的な距離を測ることができる。


しかしロイドは、その〈距離〉を歩数で見ていなかった。


足場の返り。


谷を抜ける風の向き。


矢が届く距離とタイミングの繋ぎ目。


それらは今のロイドにとって障害ではなかった。


自分の立ち位置や行動できる選択肢の触肢が限定的な狭い視野の中に押さえられている状況にあることは、対弓使いに対する一つの広い空間の中では自明である。本来であれば足を向ける位置や角度でさえ次の行動選択の“障害”になりかねない。時間の運びは素早くなだらかでありながら、明白な〈壁〉がそこにあるはずだった。


——ズッ


ロイドの右足が、凍った青糊の膜を踏み抜いた。


グレンの冷気によって硬くなったそれは、少し前までロイドの足を縫い止める枷だった。粘着補助液として作ったはずの膜が凍って深い溝を持つ靴底へ絡みつき、動こうとすれば足首の角度を狂わせる厄介な足場に変わっていた。


生半可な力でどうこうできる代物ではない。


斜めに移行する重力の中心点。


体重移動に移行するまでの小さな余白に落ちるわずかな軋み。


力を入れるという観点においては一つの動作に閉じ込めるだけの〈起点〉がそこにあった。問題はその動作の運びの中で何が次の“支点”に切り替わる軸を持つかだったが、今のロイドにとって全ての地面は継ぎ目のない足場そのものであった。


オーバーチャージで無理やり押し出された魔力が足裏へ集まり、靴底と凍膜の間へ叩き込まれる。凍った青糊は柔らかな泥のように力を逃がさなかった。乾いた岩のように素直な反発も返さない柔らかな表面を持ちながら、弦を引っ張るときのようなしなやかな張りを持つ。


踏み出した右足が膜を押し込むように回転し、黄色い鉱砂を巻き込みながら地面の内側を穿つ。白く濁った氷の下で青糊が花のようにひび割れ、ロイドの足から伝わる重力が低く波打った。砕けた破片は外へ逃げず、踏み込まれた魔力に押されて一瞬だけ固まり、ロイドの足裏へ不自然なほど鋭い反発を返した。


その反発を膝で殺さないようにやさしく包む。


押すのではなく掴むのに近い。


蝋燭の火をそっと指先で摘むように浅く地面の上背を撫でながら、前へと進む推進力の溝を掴む。


沈んだ重心の奥で生まれた返りを腰で逃がさないよう、垂直方向へ深く引いた。


背中へ通しながら肩へ流し、次の足へ渡す。


ロイドの身体は、地面を蹴ったというより凍った足場が砕ける瞬間に生まれたわずかな反発を拾い、それを自分の移動へ変えていた。


その〈跳躍〉は、大きな動作がほとんど無い姿勢から繰り出される動きの延長線上にあるものではなかった。ただ単純に地面の表面を蹴ったのではなく、踏み抜いた凍膜の奥で圧縮された反発を足裏で拾い上げ、その返りによって“空間”ごと身体が地面から弾き出されたように見えた。


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