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第59話 禁断の一手



矢が頭上を抜けた音を聞いた時、ロイドは自分が避けたという事実を、身体よりも先に足裏で理解していた。膝を抜いて落ちたことで胸の高さにあった線は消え、矢は背後の岩へ食い込み、削れた石粉と木片が首筋の近くへ細かく散った。弦の戻る音、岩に突き立った矢軸が震える音、大柄な男が壊れかけの槍を握り直す革手袋の擦れる音、女弓手が舌打ちを飲み込む微かな息、その全部がひとまとめにロイドの耳へ届き、リフトアンプルで薄く研がれた感覚の中では、それぞれが同時に別々の意味を持っていた。


低く沈んだ姿勢のまま動けば、普通なら次の動作へ移るために膝へ力を戻し、足裏を踏み替え、腰を起こすだけの間が必要になる。キャットステップが埋めてくれるのはその“立ち上がりの遅れ”ではない。見えたものを動作へ変える遅れを削る薬であり、足場が悪ければ滑るし、膝に負荷を掛ければ痛むし、重心を誤れば転ぶ。ロイドはそれを忘れないよう歯の裏で舌を軽く押した。痛みと味覚は速くなりすぎた身体に「お前はまだ人間だ」と言い聞かせるための、小さな杭のようなものだった。


ロイドが沈んだ姿勢から左手を地面へ添え、膝に戻す力を最小限に抑えながら身体を横へ滑らせた時、グレンはすでに冷気玉を握ったまま走り出していた。革袋から抜き取られた灰色の小球は掌に収まるほど小さく、表面には氷属性の魔石粉を焼き固めた細かな紋が走っており、内側から滲む冷気のせいで周囲の空気だけが薄く白く曇って見えた。氷属性の道具は、見た目ほど単純なものではない。火属性の爆裂玉が熱と圧力を外へ放つ道具だとすれば、冷気玉は周囲から熱を奪い取るための道具であり、割れた殻の内部から氷の魔力が広がると、その場の水分、粘液、血、湿った土、金属表面へ付着した薄い水膜までが一斉に凍り、空気中に浮いた水分は白い霜の粒へ変わり、皮膚へ直接触れれば表面の熱を強引に引き剥がして感覚を鈍らせる。氷の刃を飛ばす派手な魔道具とは違う。冷気玉の本質は、温度を奪い、流動するものを固め、柔らかいものを脆くし、足場と呼吸と関節の動きを一息で奪うことにあった。


グレンの足は、冷気玉を投げるために走っている者の足ではなかった。肩が前へ出すぎていない。肘も高く上がっていない。球を遠くへ放るなら、腕はもっと大きく振られるし、腰は投げる方向へ開く。いまのグレンは、冷気玉を握った腕を身体の近くへ残したまま、谷の出口側へ向かう線とロイドの足元へ向かう線、その両方をいつでも選べる位置へ自分を運んでいる。投げるために走っているのではない。選ばせるために走っている。ロイドがアイスとホワイトの退路を守ろうとすれば足元を凍らせ、ロイドが自分の足を守ろうとすれば出口を塞ぐ。どちらを選んでも、もう一方が傷になる位置へグレンは自分の身体を置いていた。


ロイドは沈んだ姿勢のまま、右手を鉱砂へついた。掌に触れた地面は冷気玉がまだ割れていないにもかかわらず、先ほどよりわずかに硬かった。恐怖や緊張でそう感じたわけではない。黄色い鉱砂の粒の間へ、すでに霜に似た薄い魔力の膜が入り込んでいる。グレンが握っている冷気玉から漏れた冷気だけでは足りない。谷の空気そのものが、獲物を追い込むための形へ変わり始めていた。ロイドはそこで初めて、グレンの本当の仕込みが冷気玉ではないことに気づいた。


灰色の小球から漏れ出している白い気配は、グレンがこれから使うための道具というより、すでに敷かれた何かへ火を入れるための導火線に近かった。ロイドの足裏が感じ取った硬さは、鉱砂の粒が冷えただけのものではない。地面の表面へ薄く、目にはほとんど見えないほど細い霜の筋が張り、その筋がロイドの過去の足運びをなぞるように散っている。最初に鉈の男の懐へ踏み込んだ場所。大柄な男の槍の内側へ入るために蹴った場所。青糊を割り、足場を作った場所。その一つ一つに、冷気が置かれている。置かれてから凍ったのではない。ロイドが踏み、蹴り、重心を乗せたあとに残った熱と魔力の跡へ、あとから霜が染み込んでいる。


グレンは冷気玉を投げる相手を探しているのではなく、すでにロイドが残した足跡を、凍らせる順番へ並べ替えていた。


「気づいたか」


グレンは走る速度を落とさず、口の端だけをわずかに引き上げた。声には勝ちを確信した者の大きな余裕ではなく、獲物が罠の存在へ気づいた時にこそ狩りが面白くなる、とでも言いたげな薄い熱が混じっていた。彼の右手には冷気玉。左手は短剣ではなく、腰の前へ吊られた小さな骨札へ触れている。その骨札は鉱石獣の牙を薄く削ったものらしく、表面には幾つもの短い線が刻まれ、その線の谷に白い霜が溜まっていた。


骨札へ触れたグレンの指が、ひどく静かに動いた。力を込めた様子はない。魔法を撃つ術者のように大きく構えることも、呪文を唱えることもない。ただ、親指の腹で刻線を一つなぞり、掌の中にある冷気玉を握り潰すでも投げるでもなく、まるで狩場の土を確かめる猟師のようにその冷たさを自分の手の内へ馴染ませている。その仕草を見たロイドは、グレンが単なる道具使いではないことを確信した。冷気玉は発動の起点であって、主役ではない。グレンの内側にある魔力が冷気玉の中へ封じられた氷属性の魔石粉を通じて谷の空気へ染み出し、それが骨札に刻まれた細い魔力線と噛み合うことで、彼の周囲に温度を奪うための道が作られている。


グレンのスキルは、そこにあった。


「《霜喰い》」


その名を耳にした時、ロイドの中で最初に動いたのは恐怖ではなく、薬師としての分類癖に近いものだった。スキルという言葉は、魔法とも薬効とも違う。火を起こす、氷を作る、体を強くする、そんな単純な現象名だけで片づけられるものではなく、持ち主の身体、精神、魔力層、経験、癖、執着、その全部が一つの形へ押し固められた結果として外へ現れる。ロイドの〈スライムキラー〉が、スライムという対象へ異様なほど深く作用する一方で、人間相手にはほとんど役に立たないように、スキルは強いから便利なのではなく、便利に見えるほど狭く、狭いからこそ深い構造になっている。グレンの《霜喰い》もおそらく同じだ。氷を出す力ではない。温度を下げるだけでもない。相手の熱と魔力の流れを見つけ、そこへ牙を立てるように冷気を食い込ませ、動きやすいものを動きにくくし、流れているものを固め、柔らかいものを割れやすくする。凍らせるという結果だけを見れば単純に思える能力が、実際には何を凍らせるか、どこから凍らせるか、どの順番で奪うかによって、戦いの形そのものを変える性質を持っていた。


グレンは冷気玉を握ったまま、まだそれを投げなかった。掌の中で灰色の小球に薄い霜が浮かび、その霜が彼の指の皺へ入り込み、革手袋の縫い目を白く染めながら、逆に彼自身の肌へは凍傷一つ残さず馴染んでいく。通常なら冷気を封じた魔道具は、使う者にも相応の危険を伴う。雑に握れば皮膚が張りつき、魔力の通し方を誤れば指先の感覚を奪われる。それをグレンは、石ころでも拾い上げたような自然さで扱っていた。ロイドが見ていたのは、冷気玉そのものではない。冷気がどちらへ向かっているかだった。小球から漏れた白い気配は空気中へ均等に広がらず、グレンの左手が触れている骨札へ一度吸い寄せられ、そこから谷底の鉱砂、血の跡、青糊の薄膜、バウンティキャットの粘液、ロイドが踏み込んだ足跡へ、細い根のように分かれて伸びていく。霜が降りるのではない。冷気が場所を選んでいる。グレンの能力は、ただ周囲を冷やす力ではなく、あらかじめ熱や魔力の痕跡を拾い、その痕跡を道として冷気を走らせる性質を持っている。


ロイドの右足が、ほんの僅かに動きを鈍らせた。青糊で固めたはずの足場が、表面だけ白く濁っている。青スライム粘液を煮詰めた粘着補助液は、湿った岩場や滑る素材を一時的に固定するには便利だったものの、その本質は水分と魔力を多く含む柔らかな膜であり、グレンの《霜喰い》にとっては熱を奪いやすく、なおかつ凍らせれば足を縫い止めやすい格好の餌だった。ロイドが踏み込むために作った足場が、今は足枷へ変わろうとしている。靴底の端で粘着していた薄膜が硬くなり、剥がそうとすれば一緒に鉱砂ごとめくれ、強引に蹴れば膝へ変な角度の負荷が返ってくる。リフトアンプルで鋭くなった感覚は、危険を早く教えてくれるかわりに、その危険がどれほど細かく身体へ入り込んでいるかまで余さず伝えてきた。


「動きが速い奴は、足跡もよく残る」


グレンはそう言い、ようやく冷気玉を放った。投げたというより、手首だけで低く滑らせたと言った方が近い。灰色の小球は真っ直ぐロイドへ向かわず、足元の鉱砂をかすめるように転がりながら、ロイドとアイスたちの退路の中間へ落ちた。割れた音は小さかった。爆発のような衝撃はなく、殻の継ぎ目から白い霧が噴き出し、地面を這うように低く広がった。霧は上へ上がらない。黄色い鉱砂の隙間、血の膜、青糊の縁、スライム粘液の跡へ吸い込まれ、そこから一斉に白い線を生やす。冷域展開。言葉にすればそれだけの現象に見えて、実際には範囲内を均等に冷やしているわけではなかった。グレンの冷気は、流れやすいものから食っていく。水気の多い粘液。血。呼気に含まれる水分。金属表面の湿り。薬液。人間の皮膚に浮いた汗。冷気はそれらへ優先して絡みつき、足場を固め、指を鈍らせ、瓶の中身を眠らせるように温度を奪っていった。


ロイドは息を止めなかった。冷気が肺へ入ることを恐れて呼吸を止めれば、キャットステップとリフトアンプルに押し上げられた神経系の流れは、行き場をなくした水のように体内で跳ね返り、視界と手足のつながりを余計に荒らす。だから浅く吸い、細く吐き、喉の奥で凍りつきそうになる空気を身体の内側へ深く入れないよう、舌の位置と顎の角度だけで呼吸の道を絞りながら足裏へまとわりつく白い霜の重さを確かめていた。青糊が作った一瞬の足場は、グレンの《霜喰い》にとってはよほど都合のいい餌だったらしく、靴底へ吸いついていた粘着膜は凍り始めたことで硬さを持ち、固定から拘束へと性質を変えている。踏み込むために作ったものが、足を縫い止める枷になる。薬師として考えれば当然の変化で、粘性の高い液体は冷やされれば流動性を失い、含んだ水分が凍れば膨張し、表面の滑らかさを失った膜は不規則に割れて鋭い縁を作る。戦闘中にそれを自分の足元で味わうことになるとは、調合台の前で想像していたよりずっと腹立たしい話だった。


グレンはその変化を見逃さない。冷気玉の殻が割れてから、彼は大きく踏み込んでこなかった。ロイドの足がどこまで動くのか、青糊の膜がどの角度で靴底を噛むのか、冷気がどの程度まで薬液を食い、どこから身体そのものへ食い込めるのかを、狩りの対象を観察するように見ている。彼の左手は骨札から離れ、腰の短剣へ移った。抜かれた刃は長くない。山中で獲物を解体するための実用的な刃に近く、幅も厚みも控えめで、剣というよりよく研がれた作業道具に見える。ところがグレンが柄を握ると、その刃の表面に白い薄膜が這い上がり、鉄の色が一段暗く沈んだ。霜が刃を覆ったわけではない。冷気が金属の表面へまとわりつき、刃の輪郭だけを鈍く滲ませている。凍刃。触れたものを切り裂くためではなく、触れた部位から感覚を奪い、筋肉の反応を鈍らせるための刃だった。


ロイドの右腕には、先ほど石突を受けた重い痛みが残っていた。筋繊維が潰れ、皮膚の下で血が滲み、時間が経てば紫色の痕になるだろう場所だ。そこへ凍刃が入れば、痛みは消えるかもしれない。けれど痛みが消えることは治ったことと同じではない。冷気で神経が鈍れば、腕がどれだけ壊れているのか分からなくなり、動かしてはいけない角度まで平然と使ってしまう。回復薬を作る者にとって、それは単なる負傷より事態が悪い。壊れていることを教える声を、外から黙らせる行為だからだ。


グレンは短剣を構えたまま、真正面からロイドへ来なかった。右へ半歩、左へ一歩、冷域の縁へ沿うように位置を変え、ロイドの背後にいるホワイトとアイスの退路、バルドの射線、大柄な男が片膝をついて塞いでいる中央の隙間を、少しずつ結び直していく。彼の戦い方は、刃を振る前に相手の逃げる先を凍らせるものだった。スキルそのものは単純に見える。触れれば凍り、冷気を広げれば足場が悪くなる。刃へ冷気をまとわせれば相手の動きが鈍る。その一つ一つは、氷属性の魔法や道具を知る者なら珍しい現象ではない。魅力があるのは、グレンがその単純な性質を「いつ、どこへ、何のために置くか」を熟知しているところだった。


彼は最初からロイドだけを見ていたわけではない。若い男に鉈を振らせ、槍使いに間合いを支配させ、女弓手に射線を作らせることで、ロイドへ何度も足を使わせた。ロイドが青糊を割り、足場を作り、外套を捨て、瓶や薄板や栓を使うたびに、薬液と粘液と汗と血と呼気が谷の中へ散っていく。グレンの《霜喰い》は、それらを冷気の道にする。ロイドが身軽に動けば動くほど、ロイドの足跡は増える。ロイドが薬師として道具を使えば使うほど、凍らせやすい媒体が増える。戦いの序盤でロイドが稼いだ有利が、そのまま冷域の中でグレンの材料へ変わっていた。


「薬屋の戦い方だな」


グレンは短剣の刃先を下げたまま、低く言った。


「瓶、粘液、布、栓、板。手元にあるものを全部使う。悪くねえ。山で長く生きた人間の動きだ。けどな、そういう細かい道具ほど凍ると脆いんだよ」


ロイドは答えなかった。返事をすれば吐いた息が白く広がり、そこへ冷気が絡むからだ。グレンの言葉が挑発であっても、同時に情報でもあることは分かっている。冷気は水分へ食いつく。息も、汗も、薬液も、スライム粘液も、血も、凍らせやすい。逆に乾いた岩、魔力の通りにくい木片、熱の動きが鈍い古い革には食いつきが悪い。冷域展開が谷全体を均等に凍らせていない理由はそこにあった。グレンのスキルは強力でも無制限ではない。冷気は道を選び、食えるものを食っていく。食いにくいものを凍らせるには、触れるか自分の魔力を直接流す必要があった。


その直後、ロイドの左足首に白い線が巻きついた。


氷の蔓ではない。足首の周囲に付着していた青糊と鉱砂の膜が、グレンの冷域に食われて硬化し、靴と地面の間へ細い鎖のように張りついたのだ。ロイドが足を引こうとすれば、膜は靴底だけでなく足首の革紐へまで食い込み、強く動かせば足を捻ることにもなる。リフトアンプルで鋭くなった感覚が、その危険を一息より早く伝えてきた。左足を無理に抜けば、足首の外側へ負荷が集中する。膝を庇って腰を逃がせば、右腕の痛む側へ体重が乗る。そこへ凍刃が来る。答えは見えており、身体も動ける状態にあった。しかし足場だけがそれを許さない。


グレンが来た。


短剣を上段へ振りかぶるでもなく、低い位置から斜めに差し込むような動きだった。狙いは喉でも胸でもない。右腕、先ほど石突を受けた前腕の外側。そこを凍刃で掠め、感覚を奪い、薬瓶を扱う手を鈍らせるつもりらしい。殺さずに動きだけを削る。人質を取るでもなく、派手に傷を負わせるでもなく、相手が一つずつ選択肢を失う形へ落としていく。グレンの戦い方は粗暴に見える山荒らしのそれではなく、獲物を長く追い、疲れさせ、足跡を読み、息の上がったところで仕留める狩りそのものだった。


ロイドは右腕を引けなかった。引けば短剣は外れるが、左足首の凍った膜が軸を持っていかれる。右腕を残せば凍刃が入る。後ろにはアイスとホワイトへ伸びる退路がある。バルドは女弓手を見ている。大柄な男は片膝をつきながらもまだ体を起こそうとしている。若い男は解体ナイフを抜きかけている。全てが同時に動いていた。


ロイドは右腕を引かず、逆に前へ出した。


刃を受けるためではない。腕の外側に巻いていた古い革紐の端を、指先だけで弾いた。採取箱を背負う時に袖口が邪魔にならないよう留めているだけの、何の変哲もない革紐だった。長年薬液と油を吸って硬くなり、ところどころ白く粉を吹いている。グレンの凍刃がそこへ触れた。革紐の表面が一瞬で白く変わり、硬化し、ぱきりと割れる。冷気は革の中に含まれた古い油分と薬液の残りへ食いつき、ロイドの皮膚へ届く前に薄い破片となって散った。完全には防げない。刃先が革紐の隙間を掠め、右前腕へ冷たい線を一本刻んだ。痛みではなく、感覚が薄く消えていく種類の不快感が肘へ向かって伸びる。指先が一瞬、遠くなった。


グレンの目が細くなった。ロイドが革紐を犠牲にしたことに驚いたのではない。腕を引けない状態で、引かずに被害を浅くする選択をしたことを見ている。短剣を返してもう一度入る。そう判断したグレンの肩が、ほんのわずかに下がった。


その下がり方を、バルドは見逃さなかった。


弦が鳴る。打ち矢はグレンの身体ではなく、彼の足元へ刺さった。正確には、グレンの右足が次に置かれるはずだった鉱砂の濃い場所へ落ち、丸い矢尻が凍りかけた表面を叩いた。薄い霜の膜が割れ、下の乾いた砂が露出する。グレンの足はその上へ降りた。冷域の中で自分が支配していると思っていた足場が、たった一射で別の性質へ変えられる。そのわずかな違和感が、グレンの踏み込みを半拍だけ鈍らせた。


ロイドはその半拍へ左手を伸ばし、自分の足首を縫っていた凍った青糊の膜を、指で掴もうとはしなかった。掴めば指先が凍る。代わりに腰袋から薄い木札を抜き、氷と靴の間へ差し込む。王都向けの試料札として使っていた、表面に薄く油を塗った木札だった。油を含んだ木は冷気の通りが鈍い。氷の膜は木札へすぐには食いつけず、ロイドはそれを楔のように使って、靴底と凍った膜の間へほんのわずかな隙間を作った。足首を引き抜くのではなく、足裏の外側だけをずらす。骨を守る角度を残しながら、革紐へ絡んでいた白い線を切る。地味で、遅く、見栄えのしない解放だった。命を繋ぐ動きは大抵そういうものだ。


グレンは二度目の凍刃を入れようとしていた。刃は右腕ではなく、今度はロイドの左膝へ向かっていた。膝を鈍らせれば終わる。足場が悪く、冷域の中で逃げ道が少ない状態で膝を殺されれば、キャットステップもリフトアンプルも意味を失う。判断が速くても、動くための関節が凍れば身体はただの荷物になる。


ロイドはそこで、とうとう腰袋の奥へ残していた薄灰色の小瓶へ手を入れた。


その瓶は、キャットステップでもリフトアンプルでもない。青糊のような採取補助でもない。


覚醒薬オーバーチャージ


その瓶へ手を伸ばした時点で、ロイドは自分の中に残っていた最後の言い訳が、薄い氷の上へ落とした薬液みたいにひび割れていくのを理解していた。キャットステップは危険な薬であり、リフトアンプルを重ねる時点ですでにまともな薬師なら止める使用法だった。そこへさらに覚醒薬を入れるなど、調合台の前なら「絶対にやるな」と赤札を貼り、弟子が真似をしないよう瓶ごと鍵付きの箱へ押し込む類の行為である。人体は釜ではない。薬効を足せばそのぶん強く煮詰まるような単純な器でもない。薬と薬は体内でぶつかり、反応し、流れを変え、時には互いの効能を押し潰し、時には思いもよらない場所で火を噴く。まして覚醒薬は、身体が本来なら使わせないよう奥へ押し込めている魔力と筋力の余白へ、外から乱暴に手を突っ込み、封を剥がして表へ引きずり出す劇薬だった。


ロイドがその小瓶を持ってきた理由は、戦うためではない。例えば北西鉱山道の崩れた斜面で誰かが落ち、岩の下敷きになり、普通の力では救い出せない状況になった時のために、最悪の保険として忍ばせていただけだった。使うとすれば一息だけ。岩を動かす。荷を持ち上げる。凍った縄を引きちぎる。そういう、命を拾うための力仕事へ限って使うつもりだった。人間相手の戦闘へ飲む薬ではない。敵を倒すための薬ではない。ましてキャットステップとリフトアンプルで神経系の魔力経路が鋭く張り詰めている身体へ流し込むなど、糸を引き切るためにさらに重りを吊るすようなものだった。


それでも、グレンの凍刃が左膝へ向かってくる線を見た時、ロイドは瓶を抜いた。


アイスは声を出しかけた。止めるための言葉は、おそらく喉の奥まで来ていた。ロイドの手の中にある薄灰色の小瓶を見た瞬間、彼女はそれが通常の補助薬でも採取道具でもないことを理解したはずだった。瓶の中身は灰に近い透明色で、底にはごく細かな銀黒い沈殿が漂い、薬液の表面には油のような薄膜が張っている。安全な薬は、あんな沈み方をしない。安定した薬液は、揺らした時に中の魔力があんなふうに遅れて尾を引かない。調合師なら一目で分かる。あれは効かせるために整えた薬ではなく、崩れる寸前の力を無理やり瓶の中へ押し込めている危険物だった。


「ロイドさん、それは――」


アイスの声が届くより早く、ロイドは歯で栓を抜いた。封蝋が裂け、古い獣革の巻きが剥がれ、灰色の薬液が瓶口へ上がる。匂いはほとんどない。強い薬草の臭気も、魔石粉の焼けた匂いも、金属味を含んだ刺激臭もない。その無臭さこそが不気味だった。劇薬というものは、必ずしも鼻を刺すとは限らない。身体に入るまで何も主張せず、入ったあとで逃げ道を塞ぐ薬ほど厄介だと、ロイドはよく知っていた。


彼はそれを飲んだ。


喉を通った液体は冷たくも熱くもなかった。ただ重かった。水のように流れず、蜂蜜のように舌へ残らず、飲み下したはずなのに胃へ落ちる感触もない。薬液は喉を過ぎたところで体内へほどけ、胸の中央、背骨の内側、肩甲骨の裏、肘、手首、股関節、膝、足首へ、同時に細い針を立てるように広がった。キャットステップが作っていた細い橋、リフトアンプルが短く握り込んだ手綱、その両方の上へ、覚醒薬は遠慮なく黒い水を流し込んでいく。


ロイドの身体が、一度だけ大きく震えた。


震えは寒さのせいではなかった。グレンの冷域が皮膚を撫で、吐く息を白くし、青糊の膜や血の跡を凍らせている最中であるにもかかわらず、ロイドの首筋からこめかみにかけて細い血管が浮き上がり、その下を流れるものが血だけではないことを示すように、淡い黄色と灰色の光が短く明滅した。目の奥の黒が薄く広がり、虹彩の縁へスライムの核に似た透ける光が走る。肌の色そのものが変わったわけではない。顔の骨格が変形したわけでもない。けれど、頬から表情の柔らかさだけが削り落とされ、普段なら面倒くさそうに細められる目が、調合台の上で使い終えた器具を見下ろす時のような、感情の少ない冷えた視線へ変わっていた。


ホワイトが息を呑んだ。


「おっさん……?」


その呼び方へ返ってくるはずの、いつもの皮肉も、呆れた返事もなかった。ロイドはホワイトを見なかった。見ればそちらへ動く。今の身体は、音や気配へ反応しすぎる。少年の声へ振り向くという、普段なら何でもない動作さえ、今は首の腱へ余計な負荷を掛け、視線を外した半拍でグレンの刃を通す原因になりかねない。ロイドの中で、守るべきものと見てはならないものの境界が、薬効によって無機質に並び替えられていた。ホワイトは守る対象。アイスも守る対象。バルドは戦力。グレンは障害。女弓手は射線。大柄な男は質量。若い男は接近の芽。分類はあまりに速く、あまりに冷たく、人間を人間のまま見ている時の迷いをほとんど残していなかった。


アイスの顔色が変わったのは、ロイドの表情を見たからではない。覚醒薬が体内で暴れる時に出るはずの拒絶反応が、想定より遅いことへ気づいたからだった。普通の人間なら、魔力層へこれほど乱暴な増幅が入れば、まず呼吸が乱れ、筋肉が勝手に硬直し、眼球の焦点が泳ぎ、手足の末端に痙攣が走る。ロイドの身体にも異常は出ている。血管は浮き、瞳の色は変わり、首筋の皮膚の下で魔力が不自然な筋を描いている。にもかかわらず、彼は立っていた。崩れず、吐かず、発作的に暴れもせず、薬の奔流を体内で一度受け止めている。どうして可能なのか、アイスはその理由をまだ言葉にできない。今この場で口にすべきでもない。ただ、ロイドの身体がスライム由来の薬効を拒みにくいという、これまで断片的にしか見えていなかった事実が、彼女の記憶の奥で鋭く光った。


グレンの凍刃が、ロイドの左膝へ入る。


入るはずだった。


ロイドの足を縫っていた凍った青糊が、彼の足首の周りで砕けた。力任せに引きちぎったのではない。足首の角度を、氷が最も薄く割れる方向へほんの少しだけ捻り、同時に足裏から魔力を押し出して、凍った粘膜の内側へ細い亀裂を走らせたのだ。覚醒薬によって底上げされた魔力は、魔法として外へ撃つための形を持たない。ロイドは攻撃魔法を使っているわけではない。体内に巡る魔力圧が増し、筋肉が収縮する力、関節を支える魔力層の張り、足裏で地面を掴む出力が、危険なほど強くなっているだけだった。普段なら足を痛める角度でも、今だけは靭帯と筋肉を押し固める魔力が支え、凍った膜の方を先に壊した。


左膝へ向かっていたグレンの短剣は、ロイドの膝ではなく空を斬った。回避の幅は小さい。身体一つ分も動いていない。ロイドは刃の線から膝だけを外し、左足を氷の割れ目へ滑らせたまま、グレンの腕の内側へ入っていた。覚醒薬の効果でロイドが矢より速くなったわけではない。人間の目に映らない動きをしたわけでもない。刃が膝へ届くまでに必要な距離、その間にグレンの手首がどこを通り、肘がどれだけ開き、肩がどの位置へ残るのかを、ロイドの身体が判断より先に掴んでいた。キャットステップとリフトアンプルで細く整えられた経路へ、覚醒薬が無理やり大量の魔力を流し込んだ結果、反応と出力が同時に跳ね上がっている。


代わりに、ロイドの左足首から嫌な音がした。


ぱきり、と氷が割れた音に混じって、関節の奥が悲鳴を上げるような鈍い軋みが響く。足首は無事ではない。捻ってはいけない角度へ、力で押し通した。痛みが来るはずだった。身体が止まるほどの鋭い痛みが、外くるぶしから膝へ走るはずだった。覚醒薬はそれを完全に消しはしない。消すのではなく、痛みが意思へ届く前に動作の命令を先に通す危険な薬だった。身体の警告を無視して動けてしまう。壊れている場所を、壊れていないものとして扱えてしまう。


ロイドの右手が、グレンの短剣を握る手首へ届いた。


触れた瞬間、グレンは笑った。触れれば凍る性質を持つ〈氷結掌〉。自分の魔力を流した対象、または直接触れたものを凍らせる彼のスキルは、接近戦でこそ本領を発揮する。グレンは短剣を囮にしていた。刃を避け、腕を押さえようとする相手へ、自分の手から冷気を流し込むための算段だ。握った手を凍らせ、指を鈍らせ、腕の感覚を奪うため。ロイドが手首を掴んだ時点で、グレンの左掌はすでに冷気を帯びていた。


白い霜がロイドの指へ走った。


ロイドは掴まなかった。


手首を包むのではなく、親指の付け根と手首の骨が出ている部分へ、自分の中指と薬指だけを差し込み、手全体で握らずに角度を変えた。氷結掌の冷気が最も流れやすいのは、面で触れた場所だ。掌で掴めば手全体へ食い込む。指先だけなら凍りつく危険は減る一方で、普通なら力が足りず相手の腕を制御できない。覚醒薬は、その足りない力を危険な形で補った。ロイドの二本の指が、グレンの手首の骨の隙間へ楔のように入り、筋肉ではなく関節の角度を奪う。


グレンの短剣が下がった。


ロイドは手首を折ろうとはしなかった。そんなことをすればグレンは反射的に身体を固め、氷結掌の効果を強める接触時間が増える。ロイドがしたのはグレンの冷気が流れている左手を、自分へではなく足元へ向けることだった。そこには割れた青糊、鉱砂、血の薄膜、バウンティキャットの粘液、冷気玉の霧が混じり合った、凍りやすく張りつきやすく、ひどく質の悪い濡れた地面がある。グレンの氷結掌が、そこへ落ちた。


グレン自身の冷気が、地面を食った。


青糊の残滓と血の膜が一瞬で白く固まり、鉱砂を巻き込みながらグレンの革手袋へ貼りついた。グレンはすぐに手を剥がそうとしたものの、自分で流し込んだ魔力が、接触面をさらに凍らせる。氷結掌は触れたものを凍らせる力である。凍らせる対象を、本人が瞬時に切り替えられなければ、その力は便利な武器ではなく、自分を縫い止める杭にもなる。


ロイドの膝が、グレンの胸当ての下縁へ入った。


派手な蹴りではない。足を大きく振り上げる余裕も、軸足にそんな負担を掛ける余裕もなかった。ロイドは自分の身体を前へ送る流れの中で、折り畳むように膝を差し込み、グレンの胸骨の下、呼吸を支える筋肉が集まる位置へ、覚醒薬で底上げされた体重移動を叩き込んだ。硬い胸当てがあっても、衝撃は完全には消えない。金属板は刃を止めるためのものであり、押し込まれる圧力を肺や横隔膜から完全に守るものではない。グレンの息が詰まった。口から白い息が漏れ、凍る前に砕ける。


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