第58話 魔力増幅剤
*
「横へ回る!」
バルドの声が、岩場にこびりついた乾いた熱気と黄色い鉱砂が薄く舞うざらついた空気を裂いた直後だった。
弦が鳴る。
短く、鋭く、乾いた音だった。
女の弓から放たれた矢は、迷いのない一直線を描いて、ロイドではなくバルドの胸元へと走っていた。狙いは明らかだった。彼女は最初から、この場で唯一まともな遠距離武器を扱える射手を優先して潰すつもりで動いている。ロイドを倒すことでも、大柄な男を助けることでもない。戦場の中で最も厄介な「線」を持っている相手を、先に沈める。それが彼女の選択だった。
判断としては、正しい。
弓使い同士の戦いでは、最初に相手の射線を奪った側が距離を支配する。距離を支配した側は、相手の足運びも、避ける方向も、次に使える遮蔽物の候補も、ほとんど同時に狭めることができる。剣と剣の間合いのように、踏み込み一つで逆転できる距離ではない。矢が飛ぶ距離において、射手が一度「狙われる側」に回れば、次の一手はどうしても守りから始まる。
バルドは、矢を放った直後だった。
引き絞った弓を戻し、次の矢へ手を伸ばす、そのほんの短い切れ目。彼の左足は岩肌と鉱砂の境目を踏み、右足はやや後ろへ残っている。腰は撃ち終えた姿勢のまま半分だけ開き、肩の線も完全には戻っていない。弓使いとしては無駄のない動きだが、回避へ移る姿勢ではなかった。
射手が射た直後に最も弱くなることを、女は知っている。
バルドも知っている。
けれど、知っていることと、間に合うことは別だった。
その矢がバルドの胸を貫くよりも先に、アイスが小瓶を地面へ叩きつけた。
透明な瓶が岩肌へぶつかり、乾いた音を立てて砕ける。中に詰められていた薬液は、割れた硝子片の隙間から勢いよく漏れ出すと、空気に触れた瞬間に白く濁り、次の瞬間には泡立つように膨れ上がった。液体というより、粉を含んだ粘性の霧が一瞬で膜の形を取ったように見えた。
白い泡が、バルドの前方へ薄く広がる。
それは盾ではなかった。
硬い壁でもない。
金属や木板のように矢を受け止めるものではなく、弾力を持った泡の層が、空気中へ無理やり浮かび上がっただけの代物だった。
矢はその膜へ突き刺さった。
先端は、止まらない。
鏃は白い泡を裂き、そのまま奥へ抜けようとした。しかし矢羽へ絡みついた泡が一瞬だけ回転を奪った。矢は飛んでいる間、まっすぐ進んでいるように見えて、実際には軸の安定を矢羽の働きに頼っている。矢羽が空気を噛み、後端の揺れを抑え、鏃を進行方向へ向け続けることで、矢は「線」になる。
その後端が、乱された。
泡が矢羽の片側に絡み、さらに矢軸へまとわりついた粘性が左右の抵抗を不均等にする。軌道そのものを強引に曲げるほどの力はないが、矢の姿勢を崩すには、それだけで足りた。
バルドの肩口を狙っていた矢は、勢いを残したままわずかに沈み、胸でも肩でもなく彼の足元の地面へ斜めに刺さった。鏃が岩の割れ目に食い込み、矢軸がびんと震えたあと、遅れて矢羽に残った白い泡がちぎれて鉱砂の上へ落ちる。
「何だ、それ!」
ロイドが思わず声を飛ばす。
岩陰に身を沈めたアイスは、割れた瓶の残骸と広がった白い泡の状態を一瞥しながら答えた。声は早口だったが、混乱しているわけではない。薬師として、今その薬がどのように作用し、どこまで使えるのかを確認している声音だった。
「薬液飛散事故用の緊急凝着泡です! 本来は漏れた試薬を包むものです!」
「戦闘用じゃないのか!」
「違います!」
「投げ慣れてるように見えたぞ!」
「薬師会では事故訓練があります!」
戦闘の最中に初めて知る薬師会の実務情報が多すぎる、とロイドは一瞬だけ思った。
緊急凝着泡。
おそらく、空気中の水分と反応して急速に膨張し、こぼれた液体や散った粉末を包み込み、周囲への飛散や吸引被害を抑えるためのものだ。毒性試薬や揮発性の高い素材を扱う薬師にとっては、刃物よりも身近な安全器具なのだろう。床へこぼれた薬液を固め、粉塵を閉じ込め、触れたものに粘着して拡散を抑える。
ただし、盾ではない。
防具でもない。
矢を正面から止めたわけではなく、今回防げたのは放たれた矢が獣の肉を深く裂く幅広の狩猟矢ではなく、細身で速度を重視した牽制矢だったこと、さらに泡が偶然ではなく計算された位置で矢羽へ絡み、飛翔姿勢を崩したことが重なった結果に過ぎない。
同じ手がもう一度通じる保証はなかった。
女も、それを見抜いたのだろう。
二本目の矢は、ためらいなくアイスへ向けられた。
「伏せろ!」
ロイドが叫ぶより早く、ホワイトがアイスの外套を後ろへ引いた。
矢は、アイスの頭上すれすれを抜けていった。空気を裂く音が耳のすぐ上を通り過ぎ、背後の岩へ食い込んで、乾いた破裂音に似た音を立てて折れる。切られた白い髪が数本、空気の流れに遅れてふわりと舞い、アイスは膝をついた姿勢のまま、自分を引いたホワイトを見上げた。
「助かりました」
「前、見る」
「はい」
ホワイトの声は、低く、短く、震えてはいなかった。
ただ、顔色だけがひどく白い。
人間同士が明確な殺意を持って武器を向け合う場所へ、十五歳の少年を連れてきた。その事実が、ロイドの胸の奥へ沈殿するように重く溜まっていく。本人が来たいと言った。必要な書類も通した。危険時にはすぐ退くと決めていた。バルドもいる。アイスもいる。ロイド自身も、戦えないわけではない。
しかし実際に矢が飛び、髪を裂き、岩を砕く音がすぐそばで響けば、紙の上に書かれた同意など薄い皮膜のようなものだった。
穴が開けば、一瞬で意味を失う。
「ホワイト、アイスを連れて岩の裏へ回れ! 谷の出口側だ!」
「おっさん」
「聞け」
ホワイトはロイドへ何かを言い返しかけた。
けれど、胸元にいるミルを守るように襟へ手を添え、喉元まで出かかった言葉を噛み殺すように半歩だけ後ろへ下がる。少年の目はロイドを見ていた。逃げたい目ではない。逃げたくない目だった。だからこそ、余計に危うい。
バルドは弓を引き絞らなかった。
矢筒へ手を伸ばせばいつでも抜ける位置に立ち、相手の射線と足運びを同時に見ている。こちらから先に撃つつもりはない。相手が一歩でも踏み込めば、その動きだけを止めるための距離。殺すためではなく、踏み込ませないための矢。それが今のバルドの構えだった。
ロイドは腰袋へ手を入れた。
革袋の底で指先に触れたのは、すでに飲み干した〈キャットステップ〉の空瓶ではなかった。さらに細く、親指ほどの長さしかない小瓶。硝子は琥珀色で、衝撃から守るために薄い獣革で巻かれている。中に入っている液体は、キャットステップのような淡い黄色ではなく、薄く青みを帯びた透明な色をしていた。
光へ透かせば、液の中心にだけ銀色の筋が浮かんでいる。
瓶を傾けるより先に、その筋だけが細い尾を引いて揺れた。
〈リフトアンプル〉。
それはキャットステップと同じく、ロイドが自分用にだけ調合していた魔力増幅剤だった。
単体で身体を強くする薬ではない。筋肉を膨らませるものでも、骨を硬くするものでも、痛みを消して無理やり動かす興奮剤でもない。体内に残っている別の薬効へ魔力を噛ませ、その反応の深さと速度だけを無理やり一段引き上げるための触媒に近い。
すでにロイドの身体には〈キャットステップ〉が回っている。
黄色いスライム由来の薬効。視界に入ったものへ、手足の反応が遅れずについてくる。足裏から伝わる地面の傾き、膝へ返ってくる反発、指先が掴む重さ、肩甲骨の開き、首の向き。そうした身体の末端から届く情報と、目で捉えた情報との間にあるわずかな遅れを、薬が薄く埋めている。
そこへ〈リフトアンプル〉を重ねる。
筋力そのものを増やすのではない。
視線、重心、足裏、指先へ伝わる命令の通り道をさらに細く、速く、鋭くする。普段なら判断と動作の間に挟まるわずかな迷いを削り、身体が動き出すまでの空白を短くする。簡単に言えば、身体の反応が一段速くなる。
ただし、代償もある。
薬効を一段引き上げるということは、身体が本来なら安全のために残している余白まで削るということだ。目に入った情報を判断へ変え、その判断を手足へ伝える道筋が速くなるのは確かだが、速くなった命令を受け取る筋肉や関節が同じ速度で丈夫になるわけではない。
頭と身体の間にある遅れを取り払えば、身体は迷わず動く。
だが、動いた先で靭帯が耐えられるか、腱が切れないか、踏み込んだ足場が持つか、着地した瞬間に膝が内側へ抜けないかまでは、薬が面倒を見てくれない。
リフトアンプルは、言ってしまえば薬効の手綱を短く持つための薬だった。
馬そのものが強くなるわけではない。
乗り手の合図が鋭くなり、手綱を引く力が直接伝わるようになるだけだ。
そのぶん合図を間違えれば、馬ごと谷へ落ちる。
ロイドはそれを知っていた。知っているからこそ、普段は使わなかった。採取で崖道を渡る時も、湿った岩場で足を滑らせた時も、夜目の利かない洞穴で獣の気配を聞いた時も、キャットステップだけで足りるなら、それ以上は重ねない。
薬というものは、効けば効くほどよいものではない。
効きすぎる薬は、時として毒より扱いづらい。
それでも、今は使うしかなかった。
女の射線は谷の右側から伸びている。
バルドは左後方。
アイスとホワイトは出口側の岩裏へ移ろうとしている途中。
大柄な男はロイドの正面右。折り畳み槍の留め具を狂わされ、片膝をつきかけながらも、まだ武器を手放していない。穂先の制御は落ちているが、長柄の質量そのものは残っている。振り回されれば、槍ではなく棍棒として十分に脅威だ。
最初に崩した若い男はロイドの左後方。黄色い鉱砂へ肩を落とした姿勢から、まだ立ち上がる途中だった。鉈は弾かれたが、腰には短い解体ナイフが見えている。武器を失ったわけではない。長い得物を失い、間合いを変えざるを得なくなっただけだ。
グレンは、そのさらに奥。
鉱殻猪の死骸と荷袋の間に立ち、まだ短剣を抜いていない。
しかし、動いていないわけではなかった。
腰の向きが変わっている。
左足が半歩だけ谷の中央へ入っている。
視線はロイドではなく、アイスとホワイトが下がろうとしている岩裏の通路へ向いていた。
あの男は、ロイドを倒すことだけを考えていない。
逃げ道を潰すつもりだ。
ロイドはリフトアンプルの栓を歯で抜いた。
「ロイドさん」
アイスの声が、岩に反射して細く届く。
警告ではない。
確認だった。
それを飲んでよい状態なのか。
すでにキャットステップが体内で作用しているところへ、さらに薬効を重ねてよいのか。
使用後、どの程度の反動が出るのか。
神経系への負荷はどうか。
足場の悪い岩場で使って、関節を壊さずに済むのか。
アイスの頭の中では、そうした質問が一瞬で並んだはずだ。薬師であれば当然の疑問であり、まともな薬師であれば止めるべき使用法でもある。
けれど、それを口にする時間がないことも理解しているのだろう。
彼女は、それ以上を言わなかった。
ロイドは小瓶を傾けた。
薄く青みを帯びた液体が舌に落ちる。
味はほとんどない。
キャットステップのような苦みも、喉を刺す渋みもない。ただ、飲み下した瞬間、胸の奥に細い冷たさが流れ込んだ。胃へ落ちたはずの液体が腹ではなく背骨の内側を撫で上げ、首の後ろから頭蓋の奥へと薄く広がっていく。
世界が遅くなることはない。
音も光も、人の動きも、そのままだった。
矢が遅く見えるわけでもない。
岩場に舞う砂粒が止まるわけでもない。
ただ、ばらばらだったものが、線になった。
女の指先が弦へかかる角度。
矢筒の残数。
バルドの左足が鉱砂を踏む深さ。
ホワイトの外套の裾が岩に擦れる位置。
アイスの右手が次の瓶を探すため、腰の薬包へ伸びかけていること。
大柄な男が片膝をつきながらも、柄の短くなった槍を棍棒として使うため、両手の幅を詰め直していること。
若い男が起き上がるために地面へ置いた左手の親指が、さっきの転倒で軽く捻れていること。
グレンの右手が短剣ではなく、腰の後ろに吊った小さな球袋へ伸びていること。
その全部が、順番に見えたのではなかった。
同時に入ってきた。
いや、正確には、同時に入ってきた情報を、同時に意味へ変換できた。
視界が広がったのではない。
余計なものが消えたのでもない。
ただ、目に入ったものを「使える情報」として拾い上げるまでの時間が、極端に短くなっていた。
ロイドは息を吐いた。
吸うよりも先に、吐いた。
身体の中に残っていた余計な力を、一度外へ出すためだ。
リフトアンプルを重ねた直後は、些細な刺激にも身体が反応しすぎる。頬へ触れた砂粒へさえ手が動きかけ、背後で石が転がっただけで足が跳ねそうになる。便利どころか、制御できなければ自分で自分を壊す薬だ。
だから、まず吐く。
息を吐いて、胸を落とす。
肩を下げる。
踵を砂へ沈めすぎず、足裏の外側だけで地面を読む。
指先を開き、握らない。
掴もうとすれば、速く掴みすぎる。
力を込めようとすれば、必要以上に込める。
今のロイドがしなければならないのは、身体を速く動かすことではない。
速く動ける身体を、余計に動かさないことだった。
女が三本目の矢をつがえた。
狙いはバルドではない。
アイスでもない。
ホワイトだった。
その矢の線を見た瞬間、ロイドの中でいくつもの選択肢が消えた。
女はバルドを射てくると思わせている。弓の向きも、肩の開きも、顔の角度もバルドへ寄せていた。矢を構えた姿勢だけを見れば、誰もが次の狙いはバルドだと判断するだろう。実際、バルド自身もそこへ意識を置かざるを得ない。
だが、足が違う。
彼女の右足は谷の壁側へ半歩だけ流れており、弓を引き切った瞬間に腰を捻れば、矢の軌道は出口側の岩裏へ下がるホワイトへ向く。上半身でバルドを示し、下半身で本当の射線を作っている。バルドが自分を狙われていると思って反応すれば、その一拍だけホワイトの前が空く。
狙いは少年。
殺すためではない。
脚か肩を射て、人質に近い形へ持ち込むため。
あの女は、戦いの勝ち筋をよく分かっている。
ロイドは前へ出なかった。
女までは遠い。まっすぐ走れば、大柄な男とグレンに横を取られる。回り込もうにも谷は狭く、黄色い鉱砂が足を殺す。矢より先に女へ届くことはできない。
なら、矢の線を消す。
ロイドは腰袋から小さな薄板を抜いた。
薬瓶ではない。
瓶を保護するための、青スライム外膜を乾かして何層にも重ねた緩衝板だ。普段はガラス瓶同士がぶつかって割れないよう、採取箱の中へ挟むだけのものだった。濡らせば柔らかくなり、乾けば軽く弾力のある板になる。盾と呼べるほど硬くはないし、矢を真正面から受ければ貫通する。
だが、矢を止める必要はなかった。
矢というものは、前へ進む力だけで飛んでいるわけではない。鏃の向き、矢軸の撓み、矢羽が受ける空気、放たれた瞬間の回転、その全てが噛み合ってようやく、一本の直線になる。真正面から止められないものでも、後ろの羽を少し乱せば、矢はほんのわずかに身体を逸らす。
人間の肩を外すには、そのわずかで十分だ。
ロイドは薄板を指の間に挟み、足元の鉱砂を一歩ぶんだけ蹴った。
砂は大きく舞わない。
低く、薄く、女の射線へ滑るように広がった。
その直後、ロイドは薄板を投げた。
投げると言っても、相手へぶつけるためではない。砂の膜の上を滑らせ、空気を切る角度で回転させる。乾いた青膜板は軽い。風に弱い。狙いを外せば、ただの屑だ。しかし谷の中には今、右から左へ抜ける風がある。岩壁と岩壁の間を通る細い空気の流れが、黄色い鉱砂を低く運んでいる。
女の矢が走る線。
砂が流れる線。
青膜板が横切る線。
その三つが交わる場所は、ロイドの目にはすでに一点として見えていた。
弦が鳴った。
女の矢が放たれる。
矢は最初、バルドへ向かうように見えた。そこから腰の捻りに合わせ、矢先だけがわずかに出口側へ振れながらホワイトへ向く。
バルドの視線が動く。
遅い。
間に合わない。
しかし、矢がホワイトへ向かう直前、低く舞った鉱砂が矢羽へ薄く触れた。砂そのものに矢を曲げるほどの力はないが、青膜板がそのすぐ後ろから横切った。矢羽の片側が板の縁を掠め、回転の均衡が崩れる。
矢は折れなかった。
速度もほとんど落ちていない。
ただ、姿勢が乱れた。
本来ならホワイトの肩口へ向かうはずだった矢は、矢羽を振られたことで横へ寝るようにぶれ、岩壁に斜めからぶつかった。鏃は硬い岩に弾かれ、軸が割れ、破片だけがホワイトの外套へぱらぱらと当たる。
ホワイトは動かなかった。
動けなかったのではない。
動けばアイスの前が空くと分かっていたから、その場に立ち続けていた。
「外れた!」
バルドが叫ぶ。
その声に、女の顔がわずかに歪んだ。
彼女は今の防ぎ方を理解できていない。泡で止められたわけでも、盾で防がれたわけでもない。射線へ何かを投げ込まれたのは分かっただろうが、なぜ矢があの角度で逸れたのかまでは読みきれていない。
その一瞬が、バルドには十分だった。
バルドは射たなかった。
いや、女自身を射たなかった。
射たら終わりではないからだ。
女は岩棚の右下にいて、胸から上だけを出している。殺すつもりで矢を放つなら狙える。しかしバルドが使っているのは打ち矢で、相手を殺さず動きを止めるためのものだ。正面から胸へ当てても、革と金属板に吸われてしまう。腕を狙えば避けられる。弓を狙えば、岩棚の縁に弾かれる可能性が高い。
だから、バルドは女ではなく、女の足場を射た。
矢は女の膝元の岩棚、その手前へ突き立った。
打ち矢の丸い先端は岩を割れないが、岩棚には黄色い鉱砂と、鉱殻猪の血が薄く流れ込んで固まりかけた場所があった。血は乾き始めており、表面だけが膜のように固まっている。その上に細かい鉱砂が乗れば、見た目は乾いた足場でも、下はまだわずかに滑る。
そこへ衝撃が入る。
丸い矢尻が岩面を叩き、乾ききっていない血の膜を剥がした。膜の上に乗っていた砂が、一気に薄く滑る。
女の足が半歩ずれた。
ただ、それだけ。
だが、射手にとっては十分に大きな乱れだった。
足がずれれば腰が遅れる。腰が遅れれば肩が遅れる。肩が遅れれば弓を引く角度が半拍ずれる。半拍ずれれば、次の矢は戦場の流れに置いていかれる。
「くそっ!」
女が短く吐いた。
その声の直後、グレンが動いた。
速かった。
ロイドの真正面へ来るのではない。大柄な男の右側、鉱殻猪の死骸を迂回し、谷の中央を通らず、岩壁の影へ身体を寄せながら出口側へ向かう。地面の悪さを知っている走り方だった。深く踏まない。鉱砂の表面を削るように足裏の外側で触れ、すぐ次の岩へ重心を移していく。
手にしているのは短剣ではない。
球袋から取り出した、灰色の小球だった。
冷気玉。
さっき連中が口にしていた道具だ。
使えばバウンティキャットの核まで壊れると言っていた。つまり、捕獲には向かない。獲物の価値を守るための道具ではなく、場を壊すための道具。冷気で一時的に動きを止め、岩や粘液や荷を凍らせ、相手の退路と足場をまとめて奪う類のものだろう。
アイスとホワイトが下がろうとしている岩裏の入口へ投げ込めば、冷気と破片で退路を塞げる。
あるいは、ロイドの足元へ投げ込めば、黄色い鉱砂と粘液の混じった地面が凍りつき、ただでさえ不安定な足場はさらに読みづらくなる。大柄な男や若い男の動きが多少巻き込まれたとしても、ロイドの機動を止められるなら十分に釣り合うと考えているのだろう。
グレンがどちらを狙っているのか。
ロイドには、一瞬で分かった。
どちらでもいいのだ。
アイスたちが動けば、退路。
ロイドが止めに入れば、足元。
バルドが射れば、その瞬間に女がバルドを射る。
グレンは、そういう位置へ動いていた。
大柄な男は、まだ戦える。
槍は長柄として壊れているが、短く持てば棍になる。ロイドの正面で身体を壁にし、彼がグレンへ向かう道を塞ぐだけなら十分だった。若い男も立ち上がりかけている。鉈は失っているが、腰には短い解体ナイフがある。
二人は倒れたわけではない。
武器を損傷し、姿勢を崩されただけだ。
ここでロイドがグレンを追えば、大柄な男に背を向ける。女の射線も戻る。若い男が後ろから掴みかかる。アイスとホワイトはまだ完全な遮蔽へ入っていない。
戦況はこちらが押しているように見えて、実際にはまだ薄い板の上に乗っていた。
その板は、強く踏めば割れてしまうものだろう。
急げば滑る。
止まれば射抜かれる。
ロイドは二本目の小瓶を抜いた。
今度は飲まない。
瓶の中には濃い青色の薬液が入っている。青スライム粘液を高濃度に煮詰め、白露スライムの外膜粉を混ぜて粘度を調整したものだ。傷口へ塗るための薬ではない。採取中、岩場で滑りやすい素材を一時的に固定するために使う、いわば粘着補助液だった。
名はない。
ロイドの頭の中では「青糊」と呼んでいた。
店に並べるつもりもない道具へ立派な名前をつける習慣は、彼にはなかった。
ロイドは、その瓶を大柄な男へ投げなかった。
グレンにも投げない。
自分の足元へ叩きつけた。
瓶が割れる。
濃い青の薬液が黄色い鉱砂へ落ち、砂を飲み込みながら一瞬で粘りを帯びた薄膜へ変わる。範囲は狭く、せいぜいロイドの足二歩ぶん。敵を捕まえる罠としては小さすぎる。
けれど、ロイドが欲しかったのは罠ではなかった。
足場だ。
バウンティキャットの粘液と鉱砂が混ざった地面は、敵だけでなくロイドにとっても不安定だった。踏み込めば滑る。止まろうとすれば沈む。力を横へ逃がされる。その不確かさを、青糊が一瞬だけまとめた。
地面というものは、ただ下にあるだけでは意味がない。
踏んだ力が返ってこなければ、身体は前へ進まない。
蹴った瞬間に砂が崩れれば、速度は横へ流れる。
止まろうとした時に靴底が滑れば、次の動きは遅れる。
足場を制するということは、そのまま身体の出力を制することだった。
ロイドの右足が青い薄膜を踏む。
靴底が吸いつく。
滑らない。
沈みすぎない。
蹴れば、地面が応える。
大柄な男が目を見開いた。
ロイドの重心が低くなったからだ。
それまで砂を読むように浅く動いていたロイドが、初めて地面を強く踏んだ。足音は大きくないが、空気が変わった。逃げる足ではなく、入る足。避ける足ではなく、崩す足。
大柄な男は反射的に柄を構え直す。
穂先はもう使えない。ならば短く持ち、棍のように横から叩く。彼の選択は正しい。長さを失った武器を無理に槍として扱うより、質量と腕力を使って面で潰す方が、今の距離では有効だった。
正しいが、すでに遅い。
リフトアンプルで引き上げられたキャットステップは、ロイドに答えを与えているわけではない。見たことのない動きを勝手に生み出すわけでもなければ、戦士の勘を授けるわけでもない。けれど、ロイドがすでに知っている答えを、身体へ渡す時間だけは極限まで削っていた。
大柄な男が柄を横へ振る前に、ロイドは青糊の上で身体を沈めた。
膝を深く曲げたわけではない。
足裏から腰までを一本のバネのように畳む。
靴底の縁が青い薄膜を噛んだ。
それは踏むというより、地面の側から靴底へ食いついてくる感覚に近かった。黄色い鉱砂だけなら踏み込んだ力を横へ逃がし、バウンティキャットの粘液だけならぬめりを残して足裏を滑らせる。けれど青糊がその二つを薄くまとめたことで、足場は一瞬だけ別物になっていた。
沈まない。
滑らない。
蹴れば、返ってくる。
ロイドはその反発を待っていた。
大柄な男が短く持ち替えた槍の柄を、棍棒のように横から振ってくる。壊れかけた長柄武器であっても、体格のある男が両腕で振れば十分に重い。まともに受ければ、先ほどの石突きよりもさらに深く腕を痛める。頭へ入れば終わり、肩でも骨が割れる。腹へ入れば息が詰まり、足が止まる。
しかし、その一撃はもう「槍」ではなかった。
長い間合いを支配する武器ではなく、ただ長く、重く、戻しにくい棒だった。
ロイドは青糊の上で身体を沈めたまま、振られる柄の下へ入った。大柄な男の腕が伸び、柄の中央が唸るように通過する。その風が髪を揺らし、外套の肩口を叩いた。
柄はロイドの身体には届かない。ロイドは男の右膝の外側へ低く入り込み、右手では武器を掴まず、左手でも男の腕を押さえなかった。
狙ったのは、男の足だった。
大柄な男の前足は、さっき粘液膜で滑り、完全には踏み直せていない。膝は内側へ入ったまま、腰だけが武器を振るため外へ開いていた。上半身は攻撃を続けようとしているのに、下半身はまだ姿勢を取り戻しきっていない。
そこへロイドは、青糊で得た一歩を使って、自分の左足を男の踵のすぐ後ろへ滑り込ませた。
足を払ったわけではない。
蹴ったわけでもない。
戻る場所を塞いだだけだ。
大柄な男が柄を振り抜き、その反動を使って次の動きへ移ろうとした瞬間、後ろへ逃がすはずだった踵がロイドの足に当たった。ほんの小さな衝突。戦場の外であれば、ただ足が触れた程度の感触に過ぎなかったかもしれない。
だが、すでに膝が内側へ折れ、腰の向きが崩れていた男にとってその小さな引っかかりは十分だった。
上半身が残る。
腰が戻れない。
前足は粘液を含んだ鉱砂に沈み、後ろ足は塞がれる。
長い柄を振った勢いだけが、行き場を失って男自身へ返っていった。
「ぐっ――!」
大柄な男の重心が落ちる。
倒れはしない。
さすがに体幹が強い。膝をつきかけながらも柄を地面へ突き立て、身体を支えようとした。しかし、その判断こそがロイドの待っていたものだった。
壊れかけた折り畳み槍の柄は、もう真っ直ぐに力を伝えられない。
節の留め具が浮き、途中の一段がわずかに沈んでいる。そこへ体重を預ければ、支えになる前に柄の内部で力が逃げる。折り畳み武器は、各節が正しく噛み合っている間だけ一本の棒として機能する。逆に言えば、その噛み合わせが一箇所でも狂えば、そこは力を受け流す「折れ目」になる。
ロイドは男が柄を突いた瞬間、右手に握っていた小さな栓を親指で弾いた。
それは薬瓶ではない。
採取箱の中で瓶口を塞ぐための、青スライム外膜を乾かして作った柔らかな栓だった。ロイドはそれを男の槍の継ぎ目へ押し込んだ。叩き込むほどの力は使っていない。ただ、浮いた留め具と沈んだ節の間へ、柔らかい栓を噛ませただけだ。
本来なら何の役にも立たない。
武器を破壊する道具ではないし、金属を止める強度もない。
だが、今の槍は違った。留め具がわずかに浮き、柄の節が完全には噛み合っていない。そこへ柔らかい異物が挟まれば、男が力を込めれば込めるほど、継ぎ目は正しい位置へ戻れなくなる。
大柄な男が地面を突いた。
柄が沈む。
支えになるはずだった軸が、途中でぐにゃりと力を失った。
男の肩が落ちる。
ロイドはその内側へ入り、男の腕ではなく胸当ての下縁へ掌を当てた。押すのではない。男が前へ崩れようとする流れに、ほんの少し横の向きを加えた。
巨体が傾いた。
大柄な男は膝から鉱砂へ落ちた。倒れ込む直前、なおも片手を伸ばしてロイドの外套を掴もうとしたが、ロイドはその手首へ絡めるように外套の裾を巻きつけ、身体ごと半歩引いた。
布が手首へ絡む。
大柄な男は握った。
握った瞬間、裾の内側に染み込ませていた青糊の残りが、革手袋と布の間で薄く伸びた。
完全に固定できるほどの量ではない。
けれど、一息分だけ動きを鈍らせるには足りた。
大柄な男は片膝をつき、壊れた槍の柄とロイドの外套を同時に掴んだまま、動きを止められた。
外套を諦めたロイドは肩の留め具を外し、布だけを大柄な男の手元へ残す。外套が引き剥がされる感覚と同時に、女の弓がこちらへ向く。
バルドではない。
今度はロイドだった。
大柄な男の身体が射線の一部を塞いでいるが、完全ではない。女は岩棚の右側へ足をずらし、膝を落とし、男の肩越しにロイドの脇腹を狙える角度を探している。弓を引く腕は乱れていない。さっき足場を崩されたにもかかわらず、もう立て直している。
厄介な女だった。
射るべき相手を間違えない。
味方が崩れた瞬間、その味方の身体すら遮蔽物として計算に入れる。
動揺しても、狙いは捨てない。
ロイドは走らなかった。
走れば矢は動く先を読む。止まれば射抜かれる。ならば、女に「撃てる」と思わせる位置へ、撃った瞬間にはそこにいない姿勢で立つしかない。
キャットステップとリフトアンプルが重なった状態では、身体が勝手に矢を避けようとする。弦が鳴る前から肩が動き、矢先が向く前から足が逃げたがる。だが、早すぎる回避は弓手に次の修正を与えるだけだ。
弓手は、動き出した相手を射る。
だから、動き出してはいけない。
射手が「そこにいる」と決めた瞬間まで、そこにいなければならない。
ロイドは動きを殺した。
呼吸を落とし、膝の力だけを抜く。
女の指が弦を離す。
その瞬間、ロイドは避けなかった。
落ちた。
立っていた位置から、その場で膝だけを抜く。横へ逃げず、後ろへ退かず、地面へ吸い込まれるように身体を沈める。矢はロイドがいた胸の高さを通過し、大柄な男の壊れた槍の柄を掠め、背後の岩壁へ突き刺さった。




