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第57話 伸びきっていた柄の一段



「一人!」


バルドの声が谷の岩壁へぶつかり、短く跳ね返った。


その言葉は、倒した人数を数えたものではない。俺が鉈を持った若い男を崩し、少なくとも数息のあいだ戦列から外したことをこちら側の全員へ知らせるための合図だった。


山や森での争いでは、同じ場所へ立っているからといって、全員が同じものを見ているとは限らない。木の幹一本、岩の出っ張り一つ、斜面の僅かな高低差だけで、人の姿も武器の軌道も簡単に隠れる。煙や砂が舞えばさらに悪く、目の前の相手へ意識を向けている間に、横から回り込んだ別の敵が視界の外へ消えることも珍しくない。


だから猟師や山慣れした冒険者は、長々と説明しない。


倒れた。


右へ回った。


矢が来る。


下がれ。


道がある。


必要な状態だけを、聞き間違えようのない短い言葉へ削って渡す。余計な説明を加えればそのぶん伝わるまでに時間がかかり、味方だけでなく相手にもこちらの考えを教えることになる。


バルドの「一人」は、俺へ向けた称賛ではなかった。


一人が崩れた。残りは三人。次が動く。


そういう意味だった。


実際、俺が鉈の男から手を離し、地面へ食い込んだ刃の位置を確かめるより早く、視界の右端で大柄な男の腕が動いた。


折り畳まれていた槍の柄が金属の留め具を噛ませる硬い音とともに伸びきり、その先についた穂が谷へ差し込む淡い光を細く反射する。


穂先は真っ直ぐ俺へ向いていた。


槍という武器は、正面から相手にした時点で厄介だ。


剣や鉈より長く、こちらの刃や拳が届かない位置から攻撃できる。穂先そのものは小さく見えても、長い柄の後ろから両腕と体重をまとめて押し込まれれば革鎧程度なら簡単に貫くし、刺さらなかったとしてもその衝撃だけで身体の軸を崩される。こちらが穂先を避けて前へ入ろうとしても槍使いは柄を引くだけで間合いを作り直し、突き、払い、石突による打撃へつなげられる。


長い武器は懐へ入れば弱い、とよく言われる。


間違いではない。


ただし、その懐へ入るまでが長いから槍は強いのだ。


しかも今いる場所は、槍使いを相手にするには都合が悪すぎた。


谷の左右には人が両腕を広げても届かないほどの間隔を空けて岩壁が迫り、足元には細かな黄色い鉱砂が積もっている。右へ大きく逃げれば、谷の中央から外れて斜面へ足を取られる。左へ寄れば岩壁との間に身体を挟まれ、槍の穂先を横へ外す余地がなくなる。後ろには倒れた若い男がいて、そのさらに向こうにはアイスとホワイト、バルドがいる。考えなしに退けば、自分が避けた穂先を後ろへ通すことになる。


広い場所なら横へ回れる。


木が多ければ幹を盾にできる。


段差があれば高さを変えて穂先を外す方法もある。


ここには、そのどれもなかった。


槍使いを相手にしてはいけない場所で、槍使いを相手にしている。


実に嫌な状況だった。


それでも、大柄な男は俺が想像していたより慎重だった。


仲間を倒された怒りに任せ、声を上げて突っ込んでくることはしない。折り畳み槍を完全に伸ばしたあともすぐには踏み込まず、俺との間へ一歩半ほどの距離を残したまま穂先だけを左右へ小さく動かしている。


右へ揺らす。


中央へ戻す。


僅かに下げる。


また右へ。


狙いを定められず迷っている動きではない。


俺がどちらへ避けるのか、その反応を探っている。


穂先が顔の高さへ上がれば、人は反射的に上半身を引く。胸へ向けば腕を閉じる。腿のあたりへ下がれば足を守ろうとして重心が後ろへ寄る。槍使いは実際に突かなくても、穂先の位置だけで相手の立ち方を変えられる。そうして逃げる方向を限定し、自分がもっとも突きやすい場所へ追い込んでから本命を出す。


少なくとも、腕力だけで槍を振り回してきた男ではない。


鉱殻猪のような、正面から受ければ人間の身体など簡単に跳ね飛ばす獣を相手にしてきたのだろう。踏み込む前に距離を保ち、獲物が逃げる方向を見てから刺す。その基本を知っている。


俺の戦闘能力は、世間が勝手に想像するほど高くない。


冒険者として十年以上生き残ったと言えば、それだけで多くの人間は俺が何体もの強敵を正面から倒し、血まみれになりながら死地を切り抜けてきたように思うらしい。


実際は逆だ。


危ない相手へは近づかなかった。


勝てない依頼は断った。


依頼を受ける前に地図を見て、逃げ道を確かめ、雨が降るなら足場がどう変わるかを考え、魔物より人間のほうが多い土地では余計な荷物を持たないようにした。道具と薬を惜しまず、少しでも嫌な予感がすれば引き返し、仲間が格好をつけて突っ込もうとすれば襟を掴んででも止めた。


強かったから生き残ったのではない。


死にそうな場所へ、できるだけ立たなかったから残った。


能力だけを一つずつ抜き出して比べるなら、目の前にいる連中より俺の方が上だなんて保証はどこにもない。純粋な腕力では、槍を構えた大柄な男にまず及ばないし、身のこなしにしたって若い頃ならまだしも、三十代も後半へ差しかかった今の身体で、日頃から命の取り合いをしている熟練の戦闘職と張り合えるとは思っちゃいない。朝から山道を登り続けた脚にはとっくに疲れが溜まり、呼吸を整えても太腿の奥へ残った重さまでは消えてくれず、正式に教わった戦闘技術も護身に毛が生えた程度の基礎ばかりで、《スライムキラー》に至っては相手が人間である以上、今日ばかりは何の役にも立たん。


あの槍を真正面から受ければ、穂先を逸らすより先に腕ごと胴へ押し込まれるし、柄へ両手でしがみついて力比べを始めれば先に足を浮かされて黄色い鉱砂へ転がされるのは間違いなく俺の方だ。キャットステップが埋めてくれるのはそういう筋力や体力の差じゃなく、目に入った動きを意味へ変え、取るべき行動を決め、実際に身体が動き出すまでの隙間だけでしかない。迫る穂先をどれだけ早く見つけられても左右を塞がれ、後ろにも退けずに足元まで崩されていれば刺されるし、正しい避け方を誰より早く選べたところでその一歩を置く地面が残っていなければ、頭の中で正解を抱えたまま腹へ穴を開けられる。


槍の厄介さは、穂先が速く伸びてくることだけじゃない。長い柄と広い間合いを使い、こちらが立てる場所、逃げられる向き、踏み込める距離をまとめて削り、自分の望む位置へ相手を追い込めるところにある。大柄な男は俺が鉈の男を崩した場所とその後ろにいるアイスたちの位置をひと目見ただけで、狭い道のどこを塞げば俺の選択肢がなくなるのかを理解したらしく、槍を急いで突き出すこともなくこちらが動けば届く距離を保ったまま穂先を据えていた。


それなら俺の方にもあいつが作ろうとしている形へ律儀に収まってやる理由はない。視線を槍から切らないまま足元へ倒れた鉈の男の様子だけを視界の端で確かめる。肩から地面へ落ちた衝撃で息を詰まらせて苦しそうに背を丸めてはいるものの、意識までは失っておらず、鉈を離した右手を胸元へ引き寄せながら左腕で砂を押して起き上がろうとしていた。こいつの脇腹を蹴り、大柄な男との間へ転がしてやれば、少なくとも一度くらいは槍の道を塞ぐ肉の壁になる。


人間を盾にすることへの立派な倫理を、こんな場所で語るつもりはない。使わなかった理由はもっと単純で、槍の男が仲間の身体ごと俺を貫かないという保証が、どこにも見当たらなかったからだ。乱暴者でも仲間だけは傷つけまいと考えるはずだ、なんて期待は、振られた刃がきっと加減されていると信じるのと変わらない。勢いの乗った突きを途中で止めきれなければ、穂先は倒れた若い男の背中から胸へ抜け、そのまま後ろにいる俺まで届くかもしれず、仲間を避けようとして槍の軌道を横へずらしたとしても蹴られた男が砂の上をどちらへ転がり、どの時点で射線を空けるのかまでは俺にも読めない。


自分の意思で動かせず、結果も予測できないものは、最初から戦術の勘定へ入れない方がいい。代わりに使えそうなのは若い男の手から離れた鉈だった。厚い刃は先ほど逸らした勢いのまま黄色い鉱砂へ斜めに食い込み、半ばまで埋もれた刃を支点にして木製の柄だけが俺の膝より少し低い高さへ突き出している。


俺は正面に据えられた槍の穂先から目を離さず、砂を擦らないよう右足を低く滑らせ、靴の甲を鉈の柄の下へそっと差し込んだ。蹴り上げるつもりだと分かるほど大きく脚を引けば予備動作を見た大柄な男は迷わず槍を伸ばしてくるはずなので、腰も肩も動かさず、膝から下だけを短く畳むように使い、靴の甲で柄を掬い上げるよう押し込んでから仕上げに足首を鋭く返した。


鉈が砂を巻き上げながら地面から抜け、重い刃を下へ向けたまま半回転して、大柄な男の穂先と俺の間へ飛び上がる。


武器として投げたわけではない。


刃先を相手へ当てる技量もなければ、その必要もなかった。


人間の目は自分へ向かってくる硬い物体を無視できない。


特に、それが刃物ならなおさらだ。


大柄な男の視線が、一瞬だけ鉈へ移る。


ほんの一瞬。


だが、槍の穂先もそれに引かれた。


飛んできた鉈を弾くためではない。刃が柄や腕へ当たるのを避けようとして両手が反射的に槍を持ち上げたのだ。穂先が俺の胸元から上へ逃げ、槍の下に僅かな空間が生まれる。


俺はその隙へ飛び込まなかった。


長い武器の内側へ入るなら、まっすぐ近づくのが一番早い。


そして、一番読まれやすい。


大柄な男は俺が鉈の男を崩すところを見ている。間合いの内側へ踏み込む戦い方をすることもすでに知っている。鉈へ視線を移したのが短かったのは、俺がその瞬間に前へ来ると警戒していたからだ。


俺は前ではなく、左へ踏んだ。


岩壁へ近づく側である。


逃げ道がなくなる場所へ自分から寄る動きに見えたはずだ。


男の目がすぐ俺へ戻り、持ち上がった穂先が鋭く下がる。


判断が速い。


胸を狙ったのではない。


俺の左腿へ向け、低い位置から真っ直ぐ突いてきた。


上半身なら岩壁へ身を寄せて避けられる。頭や胸を狙えば、外套を擦らせながら横へ逃げられる余地がある。腿を突けば、俺は足を引くか、跳ぶか、さらに壁へ寄るしかない。脚が止まれば次の突きから逃げられず、後ろにいる仲間を庇う位置にも戻れなくなる。


殺すより、動けなくするための一撃だった。


荒っぽいハンターであっても、薬師会の人間を同行させた一行のひとりを山中で殺せば、血の気の多い者同士の小競り合いや狩場を巡る揉め事などという言い訳では済まされないことくらいは理解しているらしい。俺の腿を刺して立ち上がるための支点を潰し、逃げることも追うこともできない状態にしてから脅しを成立させる。男が想定している落としどころは、おそらくその程度だった。


腿には大腿動脈と大腿静脈が走っている。表面の傷が浅く見えたとしても、穂先の角度がわずかに内側へ入り、鼠径部から膝へ向かう血管走行に刃が届けば、損傷の度合いは皮膚の裂け目だけでは判断できない。とくに動脈を掠めた場合、出血は傷口の大きさではなく血管内圧に従って外へ押し出される。HP――生命維持余力という言葉で表すなら、腿への刺突は単なる行動阻害ではなく、一定の深さを越えた瞬間に残量を継続的に奪う損傷へ変わる。刺した本人が殺すつもりではなかったと何度繰り返しても、裂けた血管はその意図に合わせて塞がってはくれない。


相手の意図は判断材料に留めつつも、信用には置かない。穂先は穂先であり、こちらの肉に届けば身体機能を奪い、運が悪ければ命まで削るものとして扱う。


俺は腿を大きく引かなかった。刺突の線から完全に逃げようとすれば、足を交差させて重心を縺れさせるか、岩壁へ背中を寄せて退路と体勢をまとめて捨てることになる。どちらを選んでも避けた直後の一拍で次の動きを失い、相手に槍を引き戻す余裕を与えてしまう。


代わりに、外套の左裾を穂先へ触れさせた。刃そのものへ布を巻きつけるような真似はしない。そんな受け方をすれば、布は防具ではなく押し込まれる楔になり、裂けた繊維ごと腿へ刃を導くことになる。狙うのは穂先の少し後ろ、鋭く磨かれた刃と木柄を繋ぐ境目に近い、力の向きがまだ一点に収束しきっていない部分だった。


腰から上を半歩ぶんだけ捻り、左肩を逃がすのではなく外套の重みだけを槍の軌道へ落とす。裾の端が穂先の側面を掠め、繊維が金属に噛みながら布が引かれた。


槍の突きは正面へ向けて力を集める武器であり、横からわずかな抵抗を掛けた程度で止まるものではない。それでも長い柄の先にある穂先は、根元で生じた小さな角度の変化を大きく増幅する。俺の脚を貫くはずだった穂は外套の裾を細く引き裂きながら、外側へ指二本ぶん流れた。


それで十分だった。


俺の腿の横を、冷たい風が通り過ぎる。


同時に、弦の鳴る音が一つ。


バルドは、俺が槍へ触れる前から矢をつがえていた。


俺を助けようとして、今になって慌てて狙ったのではない。


大柄な男が槍を伸ばした時点で、俺は穂先そのものではなく柄の重心と両腕の力の入り方を見ていた。槍は突き出された直後がいちばん強い。肩から肘、肘から手首へと押し出された力が真っ直ぐに穂先へ集まり、こちらの胸や喉を貫くための一本の線になる。俺が左へ身体をずらして外套の端だけを穂先にかすらせたのは、その線をわずかに外へ逃がすためだった。布を裂くほど深くは触れさせず、相手に命中したと錯覚させるほど近くもない、槍を握る腕が反射的に押し込みを続け、その力の向きだけがほんの少し横へ流れる距離。柄が正面への圧力を失いながら長い棒としての弱さを晒す、その薄い〈間合い〉を選んでいた。


——ヒュンッ


風が一瞬だけ、場違いな方向へ撫でた。砂の粒が頬に触れる角度が変わり、耳の奥で空気が擦れる細い音がほどける。視界の端で誰のものともつかない影がわずかに揺れ、光の筋が細く歪んだ。槍の線から外れたはずの空間に、別の直線が重なろうとしている気配だけが遅れて皮膚に届く。


飛んできたのは、人を射抜くための鋭い矢ではなかった。矢尻の先端を丸く潰し、獲物の肉を裂かずに衝撃だけで落とすための狩猟用の打ち矢。鳥の翼を折る、枝に掛かった道具を叩き落とす、骨までは砕かず相手の動きだけを止める。そんな用途のために作られた、殺すことよりも力を伝えることに重きを置いた矢だった。狙いは男の手ではない。槍を握る前手の、ほんの少し先。指を潰すには遠く、柄を弾くには近すぎないその一点へ、硬く丸い矢尻が横合いから打ち込まれた。


乾いた音が鳴った。木の柄を叩いた音でありながら、そこには骨に響くような鈍さが混じっていた。槍の柄が右へ跳ね、前へ押し込んでいた大柄な男の両腕が力の行き場を失って外へ開く。長い武器は、先端へ力を集められるからこそ強い。間合いの外から相手を縫い止め、踏み込む前に止め、近づく者の身体を線の上に置かせることができる。反対に柄の途中へ横から衝撃を受ければ、その長さはそのまま弱点になる。穂先へ向かっていた力がねじれ、握り込んだ手首から肘、肘から肩へ、持ち主自身を乱す反動として返ってくる。男は槍を落とさなかった。握力も、体幹も、並の兵とは比べものにならない。それでも穂先は俺の身体の外へ完全に逸れ、胸元から脇にかけて、さっきまで鋼の線に塞がれていた内側の道が開いた。


今度は迷わなかった。左足で鉱砂を浅く踏み、沈み込む前に右足を前へ滑らせる。走らない。跳ばない。足を高く上げれば、着地の瞬間に砂が崩れ、膝から下の力を奪われる。踏み込むのではなく、地面の表面を削るように進む。足裏で砂の抵抗を読み、重心を浮かせすぎず槍が引き戻されるより先に、最短の二歩で男の腕の内側へ入った。長物の外側にいれば、こちらは常に穂先を追わされる。内側へ入れば、相手は柄の長さを持て余す。そこまでわかっていても身体が遅れれば意味がない。俺は右手を下から差し込み、槍の柄を掴むのではなく押し上げた。穂先が俺たちの頭上へ向くよう角度だけを変える。左手で握りにいかなかったのは、両手を武器に奪われた瞬間、男の膝も肩も止められなくなるからだ。


そのまま左肩を男の胸へぶつけた。重かった。人間の胸に肩を入れた感触ではなく、地面からせり上がった岩盤へ自分の骨ごと叩きつけたような、硬く、冷たい反発が全身へ返ってきた。


肩から胸へ返ってきた衝撃が骨を通り、奥歯が小さく鳴る。男は一歩も退かない。後ろ足を谷底へ深く沈めながら腰を落とし、俺の体重を胸と脚で受け止めている。体格が大きいだけではない。荷を背負い、暴れる獣を押さえ、斜面で踏ん張る動きを繰り返してきた身体だった。


ストーンシェルを持ってくればよかった、と一瞬だけ思った。


鉱殻系スライムの外膜と細かな核粉を使って作った、自分用の衝撃分散薬である。飲めば筋肉が増えるわけではないが、皮膚の下へ薄い魔力の層を作り、打撃を一か所へ集中させず、周囲の筋繊維や骨格へ広く逃がしてくれる。丸太を運ぶ時や、崩れやすい岩場で作業する時には便利なので、地下の箱へ何本か置いてある。


丸太運び用の薬を、人間との押し合いの最中に思い出すことになるとは思わなかった。


持っていない物を数えても仕方がない。


俺の肩を受け止めた大柄な男は、槍を取り戻そうと柄を引かなかった。


近すぎると判断したのだろう。


両手の間隔を狭め、後ろ側の柄――石突を使うため、右腕を引いた。


長い武器は、穂先だけが武器ではない。


石突は本来、地面へ槍を立てたり柄の端を保護したりするための部分だが、至近距離では短い棍棒と同じになる。穂先ほど致命的ではなくとも、硬い金具を肋骨や脇腹へ叩き込まれれば骨が折れ、内臓を傷つけることがある。


男の右肘が、ほんのわずかに後方へ引かれた。


その動きに合わせて胸郭の前面が開き、肩甲骨の位置が変わり、槍の末端にある石突の軌道が横薙ぎに変わるのが見えた時には、すでにそれは俺の右脇腹へ向かって一直線に走り出していた。踏み込んで避けるには距離が足りない。後ろへ逃げれば姿勢が崩れる。半歩でも遅れれば肋骨の下へめり込み、横隔膜ごと呼吸を潰される位置だった。


俺は身体を左へ捻りながら右肘を落とし、脇腹と肘の隙間を潰すように肩を締めた。肘の先端で受ければ尺骨の突起に衝撃が集中し、骨を痛める。腹へ直接入れば、内臓を守る筋肉ごと圧迫されて息が止まる。だから前腕の外側から上腕、肩、背中の筋肉へ衝撃を逃がすために、腕全体を一枚の硬い板にするよう意識して石突の進行方向へ斜めに当てた。


鈍い音は外で“鳴った”というより、身体の内側で骨と肉が叩かれた音として響いた。


衝撃は前腕の皮膚の下で潰れ、肘関節を抜け、上腕の筋肉を強張らせながら肩まで一気に走った。喉の奥で息が詰まり、肺の中に残っていた空気が押し返される。折れた感触はない。肘は動く。肩も抜けていない。指も握れる。それでも受けた場所の筋肉には、熱を含んだ重い痛みがべったりと貼りつき、神経を撫でられたような痺れが指先まで細く流れていた。


今の一撃だけで〈HP〉が致命的に削られたわけではないのだろう。数値の上ではまだ動ける。立っていられるし、手も使える。とはいえ数値が残っていることと、身体が無事であることは同じ意味ではない。


身体は、確実に損傷している。


潰された筋繊維は細かく裂け、衝撃を受けた部分の毛細血管は切れ、時間が経てば皮膚の下に内出血が広がるだろう。痛みとは、単なる不快感ではない。これ以上その部位に負荷をかければ、修復できる範囲を越えて壊れると知らせる身体側からの警告だった。


ポーションを持っているから攻撃を受けても構わない、などという考え方は、薬を作る側として最もやってはいけない。回復薬は、傷ついた組織の修復を助けるものであって、壊れた事実そのものを最初から存在しなかったことにするものではない。出血を抑え、細胞の再生を促し、乱れた魔力循環を整えたとしても、損傷した身体が受け取った衝撃、消耗した体力、神経に刻まれた痛覚の記録まで消えるわけではない。痛みだけを無理に抑えれば、壊れた場所を壊れたまま使い続け、結果として傷はより深く、より治りにくいものになる。


今の一撃は、もう一度受けていいものではなかった。


男は俺が怯んだと判断したのか、槍を引き戻そうとして腕に力を込めた。柄を奪う選択肢はあった。右手で押し上げていた槍へ左手まで添え、相手と真正面から引き合えば、武器の所有を巡る単純な力比べに持ち込める。腕力、体重、踏ん張り、体幹の強さ。その全部で勝負が決まる形になる。


負ける。


分かりきっている勝負へ乗る必要はない。武器そのものを取り上げるのではなく、武器が機能する向きを奪えばいい。槍は長い。長いということは、穂先と石突の位置、柄の角度、握りの支点が揃って初めて強さを発揮するということでもある。相手の手から完全に奪えなくても、突けない角度、振れない高さ、引き戻しにくい位置へ押し込めば、武器としての自由度は一気に落ちる。


俺は槍の柄へかけていた右手を滑らせ、下向きに力を加えた。


穂先を高く保とうとする男の力へ逆らって、正面から押し下げるのではない。柄の側面へ体重をかけ、男の左手を支点にして、穂先が弧を描くよう地面へ近づける。


男が槍を守ろうとして、両手の指を柄へ食い込ませた。肩の筋肉が鎧の下で固まりながらも腰はわずかに沈み、踏み出していた前足へ体重が乗る。俺が見ていたのは槍先でも、男の目でもない。さっきからずっと、その足元だった。


黄色い鉱砂の上には、バウンティキャットが追い回された時に吐き散らした透明な粘液が、薄い膜のようにところどころへ広がっている。完全には乾いていない。砂だけなら靴底の溝に噛み込み、踏み込んだ力を地面へ逃がさず支えてくれる。粘液だけならぬめりを残しつつも粘着質の抵抗が足裏を一瞬引き留める。問題は、その二つが中途半端に混ざった場所だった。細かな鉱砂の粒が粘液の膜に浮き、押し潰された瞬間だけ粒と粒の間に薄い層を作るせいで、踏み込んだ力が下ではなく横へ逃げる。上から見ただけではただの濡れた砂にしか見えない。俺には砂の色がわずかに濃く沈んでいる場所と誰かに踏まれた表面が鈍く照り返す角度で、その境目が見えていた。


男の前足は、その粘液膜のすぐ手前にあった。あと半歩。押し勝とうとしてもう一度深く踏み込めば、靴底は確実にそこへ乗る。俺は槍の柄へかけていた力をわずかにずらし、相手の両腕が反射的に抵抗を強めるのに合わせて靴先で黄色い鉱砂を低く蹴り上げた。顔を狙った砂ではない。距離が近すぎれば目潰しにする前に自分の視界まで潰れるし、舞い上げた砂をまともに吸えば呼吸の間も乱れる。狙ったのは、男が次に体重を預ける一点、その靴底と地面の間に入る薄い層だった。


乾いた鉱砂が粘液膜の上へ散り、膜の表面に張りつく前に男の前足がそこへ落ちた。大柄な身体が俺を押し返すため、さらに一段深く沈む。靴底は本来なら砂を噛み、腰から肩へつながる力を槍の柄へ通すはずだった。代わりに粘液を含んだ表面だけが薄皮を剥がすように横へ流れ、男の膝が内側へ折れ、踏ん張りの線が足首から腰まで一気に歪んだ。槍に込められていた圧力の支点が消え、さっきまで岩のように重かった柄が握りの中で急に軽くなる。


俺は男を倒しにいかなかった。あれだけ大きな身体を完全に地面へ転がすには、こちらも重心を預けて巻き込まれる必要がある。背後にはまだグレンも女もいる。地面へ組みついたところを別の刃で狙われれば、どれだけ優勢に見えても終わりだ。必要なのは相手を沈めることではない。槍をまっすぐ使えなくすること。長い得物が一番強いのは、足腰が支点を保ち、穂先と柄と身体の軸が一本の線になっている時だけだ。その線を折れば、槍はただ長くて戻しにくい棒になる。


俺は柄から手を離し、膝を折った男の右脇を抜けた。押し退けるのではなく崩れた姿勢で開いた腕と胴の隙間へ肩を滑らせ、相手の力がまだ前へ残っているうちにその内側をすり抜ける。大柄な男は片膝をつきかけながら、それでも槍を手放さず、崩れた腰のまま俺の後ろ姿へ穂先を戻そうと腕を捻った。


その時には、バルドの二本目の打ち矢がすでに放たれていた。


狙いは一射目と同じく、男の握る折り畳み槍。けれど今度の矢筋は柄の途中を叩くためのものではなく、伸長した柄の節と節を噛み合わせ、その形状を一本の長柄武器として保っている金属製の留め具、その薄い縁へ向けられていた。戦闘の最中、動き続ける相手の武器に組み込まれた小さな部品だけを射抜くことなど、本来なら狙撃というより偶然に近い。留め具は指先ほどの幅しかなく、槍の角度、相手の手首の捻り、柄のしなり、射線上に入り込む俺の位置、そのどれか一つがわずかにずれただけで、打ち矢は金属を掠めることすらなく空を切っていたはずだった。


男は直前に足を滑らせていた。踏み込みの支点を失った体はわずかに外へ流れ、長い槍の柄は腕の力だけでは支えきれないまま斜めに沈み込み、突き出した姿勢のまま不自然な角度で止まっている。俺が横へ抜けたことで、男の胴と槍の間に重なっていた射線も開いていた。偶然に生まれた隙間ではない。バルドはその一拍を待っていたのだと思う。打ち矢の丸い先端は鋭く貫くのではなく、狙った一点へ衝撃を置くように飛び込み、留め具の縁を正確に叩いた。


キィン、と甲高い金属音が響いた。


音そのものは小さかった。刃と刃がぶつかるような派手さも、骨を砕くような鈍さもない。ただ、その短い音の中に、槍を槍として成立させていた固定機構がわずかに狂う感触が混じっていた。丸い打撃面から伝わった衝撃は留め具を完全に弾き飛ばすほど強くはなかったものの、噛み込んでいた縁を半分だけ浮かせるには十分だった。男は咄嗟に槍を戻そうとして柄を捻る。その動作が浮いた留め具を元へ押し込む力にはならず、固定を失いかけた継ぎ目へ横向きの負荷として流れ込んだ。


伸びきっていた柄の一段が、わずかに内側へ沈んだ。ほんの指一本にも満たない短い後退。見た目には些細なずれでしかない。けれど折り畳み槍の節は、正しい位置で噛み合っているからこそ長い一本の棒として力を伝えられる。浮いた留め具、ずれた継ぎ目、捻られた柄、その三つが重なったことで、穂先へ向かうはずだった力の通り道が途中で途切れた。槍は根元から折れたわけではない。金属も木材も完全には破断していない。それでも男が手元で支えている軸線と穂先が向かうべき直線は一致しなくなり、長柄武器の輪郭は途中から力を失ったように折れ曲がった。


 穂先が地面へ垂れる。


完全に壊れたわけではなかった。柄を短く持ち替えれば、男はまだ棒として振るうことができる。継ぎ目を押し戻し、留め具を噛ませ直せば、再び長槍として扱える可能性も残っている。けれどそのためには手元を見る余裕がいる。柄を整えるための間がいる。何より相手との距離を長い穂先で支配し、踏み込ませる前に真っ直ぐ突き返すという、槍の本質に近い動作が今この場では消えていた。少なくとも男はもう、長い間合いを保ったまま俺を押し返すことはできない。


槍という武器が持っていた最大の利点は失われた。


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