第55話 黄色いやつの足薬
「見るな」
余計なものを目へ焼きつける必要はないと思って声をかけたのに、ホワイトは俺の言葉へ従うどころか、沢の脇にへばりついた青い残骸へ一歩、もう一歩と近づき、泥で裾を汚さないよう膝を折って静かにしゃがみ込むと、乾燥して薄皮みたいになった外膜へ手を触れない距離を保ったまま、その中心に残された核をじっと見つめた。普段と変わらない無表情に見えるし、嫌悪や恐怖を露骨に顔へ出しているわけでもないものの、背中から肩にかけて僅かに力が入り、襟元で身を乗り出しているミルを庇うように身体を固くしているあたり、何も感じていないはずはなかった。
「核、ある」
「残ってはいるが、割れてる。あれじゃ薬にも魔道具にも使えんし、持って帰ったところで一銭にもならん」
ホワイトは俺の説明を聞きながら、潰れた身体の中央でひび割れている青黒い核を見つめ続け、少し考えるように間を置いてから、納得できないものを一つずつ確かめるような口調で言った。
「取らないのに、殺した」
「この辺りで獲物を追っていた連中が、進む邪魔になると思ったんだろうよ。わざわざ狙ったのか、刃を振り回した拍子に巻き込んだのかまでは分からんが、少なくとも倒したあとに拾う気はなかったらしい」
「雑魚だから?」
その問いには、すぐ返す言葉が見つからなかった。
たぶん、そういうことなんだろう。
戦うほどの価値もなく、持ち帰って金に換えるほどの素材価値もないと判断したから、目についた若木へ刃を叩き込み、足元の苔を踏み荒らし、進路を塞いだ小さな魔物を斬るなり踏むなりして、そのまま振り返りもしなかった。魔物の中でもスライムはもっとも弱い部類に入る。山にも森にも湿地にもいる。繁殖も早く、一匹や二匹いなくなったところで誰も数えやしないし、討伐の記録すら残らないことがほとんどだ。村の畑へ入り込めば害獣同然に駆除されるし、子供でも棒を持てば追い払える程度の相手だから、死骸が道端へ転がっていたところでわざわざ足を止める人間のほうが珍しい。
俺だって、生活のためにスライムを狩っている。
核は薬の触媒に使えるし、外膜は処理すれば接着剤や保湿剤の材料になる。種類によっては体液そのものに薬効があり、捕まえた個体を解体して、使える部位を取り出すために殺すことも少なくない。自分の手を汚さず飯を食ってきたわけでもない以上、他人の行いだけを指して命を粗末にするなと聖人みたいな顔で説教できる立場ではなかった。
それでも、何のためにも使わず、ただ邪魔だからという理由で壊して捨てることと、自分たちが生きるために必要な分だけを採り、取った素材をできる限り余さず使うことは同じじゃないと、俺はそう思っている。
命を奪われる側からすれば、そんな区別は人間の身勝手な理屈にしか聞こえんだろうし、殺される結果が変わらないなら何を偉そうに、と言われれば返す言葉もない。それでも、せめて自分が何を奪い、何に使ったのかくらいは覚えておくべきだし、必要もないのに壊す行為まで仕方のないこととして片づけたくはなかった。
そんな話をホワイトへ一から説明したところで、今は余計に気分を沈ませるだけだと思い、俺は喉まで出かかった言葉を飲み込んで立ち上がると、青い残骸から意識を引き離させるように少し強めの声をかけた。
「この辺りからは、足元だけじゃなく左右の枝にも気をつけろ。さっき罠を固定していたらしい杭が抜かれていたし、ほかにも仕掛けが残ってるかもしれん。獣を捕まえるための罠でも、人間がまともに食らえば足の骨くらい簡単に折れるぞ」
「分かった」
ホワイトは短く答えて立ち上がり、襟元から身を乗り出していたミルを片手でそっと押し戻すと、今度は地面だけではなく、腰の高さに伸びた枝や草の陰へも視線を向けながら歩き始めた。
バルドも青スライムの死骸から目を離し、鼻を鳴らしながら周囲をゆっくり見回すと、獣道から少し外れた場所に生えている低木へ近づき、葉を揺らさないよう枝の隙間へ太い指を差し入れた。そこには光の加減次第では蜘蛛の糸と見間違えそうなほど細い鉄線が張られており、片端は低木の幹へ巻きつけられ、もう一方は落ち葉に隠された地面の中へ延び、その先で獲物の脚を絡め取って宙へ吊り上げる跳ね上げ罠へつながっていた。
目立つ布切れもなければ、近くの木へ括りつけるはずの所有者札もない。
正式に組合へ登録しているハンターや猟師が罠を置く場合、誰が設置したものなのか分かるよう所属と氏名を記し、いつ仕掛けたのか、何を対象にしているのかまで刻んだ木札を、見落とされない位置へ取りつける決まりになっている。獲物に気づかれないよう罠そのものを隠すのは当然としても、人間にまで存在を隠していいわけではなく、札も目印もなければ仕掛けた本人以外には誰の罠なのか判断できず、同じ山へ入った別の猟師や、何も知らず通りかかった旅人まで危険に晒される。
「雑だな」
低木の前へしゃがみ込んだバルドは、獣道すれすれに張られた鉄線を日に焼けた指先で軽く弾き、その振動が落ち葉の下に隠された仕掛けまで伝わるのを確かめていた。腰の鉈を抜いて切断することはせず、周囲から拾い集めた白っぽい木片を鉄線へ触れない位置へ一本ずつ突き立て、知らずに近づいた人間でも不自然な囲いへ気づけるよう罠の位置だけを目立たせる。
「鉱殻猪を狙った跳ね刃だな。踏み板へ脚を乗せれば、地面に伏せてある刃が跳ね上がって腹か喉を裂く仕掛けだ。鉱殻猪は身体が重いうえに皮も硬いから、この程度の鉄線じゃ脚を吊り上げられんし、罠にかかったまま暴れられたら周りの木までへし折られる。だから刃で動きを止めるわけだが、いくら獣が通る跡を狙うにしても、こいつは人の使う道へ寄せすぎてる。帰りにギルドへ位置を報告して、回収できる者を寄越してもらうしかないな」
「最近、この山へ入ってきた連中の仕業か」
俺が落ち葉の下へ隠された踏み板を眺めながら尋ねると、バルドは木片の一本が倒れないよう土へ深く差し込み、立ち上がりざまに腰へついた泥を手の甲で払った。
「たぶんな。昔からこの辺りを使ってる山師や猟師なら、こんな置き方はせん。獲物を捕る前に、顔見知りの足を切り落としちまうからな」
そこから先へ進むにつれ、山の荒れ方は見間違いでは済ませられないほど露骨になり、獣道の両脇には鉱石獣を岩穴や茂みから追い出すために焚かれた煙草の燃え殻が黒く固まり、湿った土へ半ば埋もれた灰の中には、刺激を強めるため混ぜたらしい薬草の繊維や鉱粉まで残っていた。煙で出てこなかった相手には別の手を使ったらしく、岩穴の奥へ投げ込まれた刺激粉が黄色くこびりつき、風に煽られて舞い戻った細かな粉が周囲の苔や草を白茶けさせ、その近くでは鉱脈を探したのか、逃げ込んだ獣を掘り出そうとしたのか、斜面の土が木の根ごと乱暴に掘り返されていた。
さらに奥では、頭部から晶質の角だけを切り取られた晶角山羊が、腹を横へ向けた格好で斜面へ転がされており、肉も内臓も皮も手つかずのまま残され、傷口へ集まった羽虫が低い音を立てながら黒い塊になって蠢いている。晶角山羊の肉は筋が多くて処理に手間はかかるものの、干し肉にすれば十分食えるし、内臓からは薬の材料が取れ、皮だって厚手の手袋や靴底へ使える。それを角だけ切って捨てたということは、重くて値の低い部位を持ち帰る手間を惜しみ、高く売れるものだけを欲しがったんだろう。
珍しいやり方ではない。冒険者だろうが猟師だろうが、荷物へ詰められる量には限りがあるし、値段のつかん物まで抱えて山を下りろと言うつもりもない。それにしたって限度というものがある。薬草は必要な葉だけを摘まず根ごと引き抜かれ、地表を覆っていた苔は泥のついた靴で何度も踏みにじられ、小型魔物が枯れ枝や落ち葉を集めて作った巣まで、何か使える物が隠れていないか確かめるように蹴り崩されていた。自分たちが目当てにしている素材さえ手に入れば、その場に残る草木が枯れようが、獣が棲み処を失おうが、後から山へ入る連中が何も採れなくなろうが知ったことではない、そんな考えが足跡の一つ一つから透けて見えるような荒らし方だった。
バウンティキャットが棲みついている浅い谷は、この獣道をさらに登り、崩れた岩壁を回り込んだ先にある。
歩いたところで、まだそれほど距離は残っていない。それなのに木々の隙間から吹き下ろしてくる冷たい風を頬へ受けたあたりから、腹の奥へ小さな石を押し込まれたような、どうにも落ち着かない嫌な予感が離れなくなった。
「戻りますか」
少し後ろを歩いていたアイスが、踏み荒らされた薬草の群生を一度見回してから、感情の読みにくい声で尋ねてきた。
「今ここで引き返したところで、誰かが山を荒らしてるってことしか分からん。バウンティキャットの生息地までは行って、谷の様子だけ確認する。そこにいなけりゃ、足跡を追ったり、奥の巣を探したりはしない」
「採取は行いますか」
「谷の状態を見てから決める。以前と同じだけの数がいて、縄張りにも余裕があるなら予定どおり採る。個体が減ってるようなら、見つけても手は出さん」
「研究対象を保全するためですか」
「そんな立派な話じゃない。目の前の素材を全部持って帰って商品そのものを絶やしたら、来年も再来年も採れなくなるからだ。今日一度だけ稼いで終わるより、必要な分だけ取って長く稼げたほうが商売になる」
「その考え方も保全です」
「商売だ」
「両立します」
どこかで聞いた覚えのある言い方だった。たしか、面倒であることと必要であることは両立する、だったか。最近の俺の周りでは、互いに関係なさそうなものを一つの箱へ押し込み、涼しい顔で両立すると言い切るのが流行っているらしく、とうとう金を稼ぐための商売と、山や魔物を守るための保全まで仲よく同じ箱へ収められてしまった。こちらとしては将来の商品を残しているだけで、自然を愛する善良な薬師を名乗るつもりなんぞ欠片もないのに、アイスへ説明したところで、目的が違っても結果が一致するなら両立しますと真顔で返されるのが目に見えている。まったく、便利な言葉を覚えたものだ。
浅い谷へ近づくにつれ、足元を形作る岩の色はそれまで続いていた暗い灰色から少しずつ変わり始め、乾いた地面には細い黄色の筋が血管のように幾重も走り、左右に迫った崖の割れ目や窪みには、岩から剥がれ落ちた薄い鉱砂が吹き溜まりのように積もっていた。谷の間を風が通り抜けるたび、その細かな砂粒がふわりと舞い上がって木漏れ日を反射し、灰色の地面の一部だけが淡い黄金色に瞬いては光を失って静かに落ちていく。何年か前に訪れたときと同じ岩の形も同じ場所を流れる細い水筋も残っており、遠目だけで見れば山の奥にはまだ昔の景色がそのまま取り残されているようにも思えた。
それでも谷の入口へ目を向ければ、柔らかな鉱砂の上には底の形も大きさも異なる新しい靴跡が複数重なり、その脇には袋か獲物か、相当に重いものを地面へ擦りつけながら引きずった太い跡が続き、さらに犬か狼型魔物と思われる爪の深い足跡と黒ずんで乾いた血の跡が、谷の奥へ向かって途切れ途切れに残されていた。
俺は片手を上げ、全員を止めた。
谷の奥から聞こえてきたのは、岩の隙間を抜ける風や獣の足音ではなく、間違いなく人間の声だった。
何人かが声を上げて笑っている。酒場でくだらん冗談でも聞いたときのような、周囲へ気を配る必要などないと思い込んでいる連中特有の、遠慮も緊張もない笑い方だ。その合間へ硬い金属を岩へ力任せに打ちつける甲高い音が何度も混じり、乾いた谷壁にぶつかってはこちらへ跳ね返ってくる。少し遅れて何か小さな生き物が喉を絞られたような短い鳴き声を上げたものの、声は途中で不自然に途切れ、それ以降は聞こえなくなった。
先頭にいたバルドはこちらを振り返りもせず左手を背負った弓へ添え、弦や金具が鳴らないよう慎重に身体をずらしながら、谷の入口近くに突き出している大岩の陰へ身を寄せた。俺たちも声を出さずに従い、ホワイトとアイスを岩壁側へ入れてできるだけ身体の輪郭を晒さないよう腰を落とすと、こちらの臭いが谷の奥へ流れない風下から、黄色い鉱砂の積もった谷底を覗き込んだ。
淡い黄褐色の岩棚が庇のように張り出している下に、四人の人間がいた。
三人は男、一人は女で、全員が厚手の革へ金属板を縫いつけた山岳用の防具を身につけており、岩へ身体を擦った程度では破れない上着、足首まで締められる長靴、滑落を防ぐための鉤縄まで一通り揃えている。腰や背中には藪を払うための幅広い鉈、狭い場所でも扱える短弓、獣の脚へ絡める投網、柄を縮めて携行できる折り畳み槍が下げられ、見た目だけなら山へ入る準備を怠らない、経験のあるハンター一行に見えなくもない。
岩壁へ立てかけられた荷袋には、ハンターギルドへ正式に登録された品であることを示す焼き印が押されていたので、山賊や素人が装備を拾って使っているわけではなさそうだった。問題は、その四人が肩へつけている木製の認識札で、氏名や等級を示す刻印の上へ赤い顔料を塗り込んだ斜線が二本、誰の目にも分かるよう深く刻まれている。
あれは依頼内容を無視して指定外の獲物へ手を出した者、あるいは届け出のない場所へ罠を仕掛け、別の猟師や旅人を危険に晒した者へつけられる注意印だ。一度なら事情次第で厳重注意として済まされる場合もあるものの、二本も並べられているとなれば、偶然や勘違いではなく、警告を受けたあとも同じような真似を繰り返した可能性が高い。ギルドから除名されていない以上、仕事そのものは禁止されていないらしいが、まともな依頼主なら肩札を見た時点で別のハンターを探すし、同業者からもなるべく近づきたくない連中として扱われる。
四人の中央には、まだ成獣になりきっていない鉱殻猪の子どもが、横倒しになったまま動かなくなっていた。
成長した鉱殻猪なら、背中から脇腹にかけて分厚い鉱石の殻が幾重にも重なり、半端な刃物では傷一つつけられないほど硬くなる。倒れている個体は身体も小さく、背中へ生え始めた鉱石板も掌ほどの大きさしかなくて、柔らかな皮膚の上に不揃いな板が数枚並び始めた程度だった。後ろ脚には内側へ鋭い歯のついた鉄の輪罠が深々と食い込み、逃げようとして暴れたのか、周囲の地面には蹄で鉱砂を掻き散らした跡と細く途切れた血の筋が幾つも残っている。
首元はすでに刃物で切り開かれており、身体から流れ出た血が岩の窪みへ黒赤く溜まっていた。値のつく背中の鉱石板だけは皮ごと乱暴に剥ぎ取られ、筋肉や脂の付着した部分が荷袋の脇へ積まれている一方、肉も牙も内臓も残された胴体は、歩く邪魔になる荷物でも退けるように谷の端へ蹴りやられていた。親から離れたばかりの子ども一頭を輪罠で捕らえ、欲しい部分だけ取って残りを捨てる、それを見ながら笑える連中らしい。
鉱殻猪の死骸から少し離れた場所では、肩札に赤い斜線をつけた男の一人が岩壁の下へ細長い棒を突っ込み、奥に潜んでいる何かを無理やり追い出そうとしていた。棒の先には小さな鉤がついており、男が腕を捻るたび岩の内側を引っ掻く嫌な音が鳴り、周囲にいた仲間たちは逃げ道を塞ぐように投網を広げたり短弓へ矢をつがえたりしながら、獲物が飛び出すのを待っている。
岩の割れ目の奥で砂が擦れる音がしたかと思うと、淡い黄色を帯びた小さな何かが、押し込まれた棒を避けるように勢いよく外へ跳ね出した。
そいつは飛び出した勢いを殺しきれず、一度は向かい側の岩壁へ柔らかな身体をぶつけたものの潰れて落ちることもなく、表面を大きく歪ませて衝撃を受け流すと、壁を蹴るように身体の一部を縮め、空中で横向きへ進路を変えて頭上に張り出した一段高い岩棚へ飛び移った。丸みを帯びた身体の上には猫の耳を思わせる二つの突起がぴんと立ち、半透明の内部へ浮かぶ核の周囲からは細く淡い光の筋が幾本も伸び、それらは脈打つように明滅しながら身体の端まで一気に広がっていく。
バウンティキャットだった。
「いた」
俺のすぐ後ろで谷を覗いていたアイスが口をほとんど動かさず、吐いた息へ紛れ込ませるような小さな声で呟いた。その声には探していた研究対象をようやく自分の目で確認できた喜びが、本人なりに抑えているつもりでも隠しきれず滲んでいる。こんな状況で嬉しそうにするんじゃないと言ってやりたくなったものの岩陰の向こうには武器を持ったハンターが四人もいて、こちらの存在へ気づかれれば話し合いで済む保証もない以上、わざわざ声を出して注意するほどの余裕はなかった。
岩の割れ目から追い出された黄色いスライムは、丸い身体を大きく弾ませながら頭上の岩棚へ逃れようとしていた。しかしその進行方向には、岩と岩の間へ渡すように張られた細い捕獲網が待ち構えていた。網糸は黄色い岩肌へ紛れる色へ染められ、近くで注意深く見なければ気づけない程度には巧妙に隠されていたので、普通のスライムなら勢いのまま突っ込み、柔らかな身体を絡め取られていただろう。
バウンティキャットの反応は、そこらの個体とは明らかに違っていた。
網へ触れるか触れないかという距離まで迫ったところで、頭の上へ伸びた二つの耳状突起が周囲の空気の流れでも探るように左右へ大きく傾き、丸く膨らんでいた身体の片側だけが急激に縮むと空中にいるにもかかわらず進行方向が僅かにずれた。身体全体を雑巾みたいに捻り、網の端へ表面を薄く擦らせながらすり抜け、そのまま下方に突き出していた別の岩へぶつかるように着地すると、潰れた形をすぐ元へ戻し、捕まえ損ねた人間たちから距離を取るよう岩陰へ跳ねた。
「また逃げたぞ!」
割れ目へ棒を突っ込んでいた男が思いどおりに動かない獲物へ腹を立てたらしく、手にしていた棒の先を岩へ叩きつけながら怒鳴った。
「冷気玉を使え!動きを止めりゃ、あんなもんすぐ掴めるだろうが!」
「核まで凍るって言っただろ。黄色いのは見たことがねえし、形も妙だ。生かしたまま持って帰れば、商会が珍品として買うかもしれねえんだぞ。値打ちが分からんうちから潰すな」
「それなら網を増やせ。逃げ道を一つずつ塞いで、崖ごと囲っちまえばいい」
少し離れた場所で投網を構えていた別の男が、面倒そうに舌打ちしながら足元の荷袋を開き、中から折り畳んだ鉄線網を引きずり出した。細い鉄線を編み合わせ、縁へ小さな重りを取りつけた網は獣の突進を止めるための代物で、柔らかなスライムへ使えば勢い次第では身体の奥まで食い込んで外膜を裂きかねない。相手の性質を調べて道具を選んだ様子はなく、ただ捕まえられそうな物を手当たり次第に持ち出しているだけに見えた。
あいつらは、バウンティキャットの捕まえ方を知らない。
跳ぶ方向を読む方法も、核の光り方と行動の関係も、耳に見える突起が周囲の振動を感じ取る器官だということも、おそらく何一つ理解していない。それでも見慣れない黄色をしているから、どこかの商人や物好きな貴族へ持ち込めば金になるかもしれないと考え、壊さず捕らえようとしているらしい。
あいつらにとって本命は、背中の鉱石板や角へ確実な値段がつく鉱石獣で、黄色いスライムは山へ入ったついでに見つけた、値がつけば儲けものという程度の拾い物なんだろう。うまく捕まえられれば袋へ押し込んで売り、網で裂けるか、冷気玉で核まで壊れるかして使い物にならなくなれば、その辺へ放り捨てて次の獲物を探す。口ぶりと手つきを見る限り、こいつ一匹をどう扱うかについて、考えているのはせいぜいその程度だった。
バウンティキャットは追加の網を広げようとする男たちの動きを察したらしく、身体の輪郭を一度だけ淡く光らせると、黄色い鉱砂を跳ね飛ばして岩と岩の隙間へ潜り込み、こちらからも姿が見えない奥の陰へ消えた。
割れ目へ棒を突っ込んでいた男は、逃げた先を確かめる間も惜しいとばかりに後を追い、足元へいた小さな青スライムへ気づきもしないまま重い山靴でその身体を踏みつぶした。水袋を地面へ投げ落としたような鈍い音が岩壁の間へ小さく響き、靴底の脇から青い身体が平たく押し出されたものの、男は視線を落とすことさえせず邪魔な泥を踏んだ程度の足取りでそのまま先へ進んでいった。
すぐ後ろから聞こえていたホワイトの呼吸が、そこで僅かに変わった。
声を上げたわけでも身じろぎをしたわけでもない。ただ一定の間隔で繰り返されていた静かな息が一度だけ止まり、そのあと肺の奥へ冷たい空気を押し込むような細く硬い吸気へ変わった。
俺は岩陰から顔を出しすぎないよう注意しながら振り返り、余計な音を立てるな、ここで動くなという意味を込めて掌を地面へ向けたままゆっくり下げてみせた。ホワイトは俺の合図を見ても頷かず、武器へ手を伸ばすこともなく、姿勢さえ先ほどから何一つ変えていない。
それでも谷の奥にいる男を見つめる目だけが、冬の水底みたいに冷えきっていた。
襟元へ収まっていたミルも普段なら気になるものを見つけるたび隙間から頭を出すはずなのに、今は白い身体を布の奥へ沈め、押し潰された青スライムから自分を守るように、いつもより小さく、硬く丸まっている。
「出るぞ」
俺は小さく言った。
バルドが俺を見た。
「話で済む連中に見えるか」
「済ませる。少なくとも最初はな」
俺たちは岩陰から谷へ出た。
最初に気づいたのは女だった。短弓を持ち、髪を短く刈り、右目の下に古い傷がある。彼女は俺たちを見ると即座に弓を上げかけ、バルドの胸元にある猟師札を確認して動きを止めた。
「何だ、地元の猟師か」
「バルドだ。この辺りはエルムホルン村の共同採取域にかかってる。札のない罠を道沿いへ置いたのは、お前たちか」
「知らねえな。山に罠なんていくらでもある」
中央の男が答えた。四人の中では年長に見える。三十代後半、顎に短い髭、左耳が半分欠け、胸当てには鉱石獣の牙がいくつも縫いつけられている。腰のギルド札へ刻まれた名前は、グレン・ヴァーグ。赤い斜線が二本。俺も昔、冒険者ギルドの掲示板で名前を見たことがある。依頼の獲物を取る腕はあるが、指定区域を越え、他人の罠を壊し、獲物の所有権で揉めることが多い。ハンターギルドへ移ったあとも、似たようなことをしているらしい。
「そっちの黄色いスライムを追ってたな」
俺が言うと、グレンは目を細めた。
「見てたのか」
「ここはあいつらの生息地だ。鉱砂の棚を崩すと、戻らなくなる。煙粉も使うな。浅い魔力線が乱れる」
グレンの横にいた若い男が笑った。鼻が曲がり、前歯が一本欠けている。
「スライムの巣を守れって? 地元の薬屋は変なこと言うな」
俺は腰へ下げた採取箱と青ぷよ薬房の印を見られたらしい。
「守れとは言ってない。採るなら採り方がある。目についたものを潰して回るな。黄色いのは核が壊れやすい。冷気玉や鉄網じゃ、捕まえても素材にならない」
「素材になるかどうか、何でお前が決める」
「採ったことがあるからだ」
アイスの視線が横から刺さった。今はそこへ反応しないでほしい。
グレンは少しだけ興味を示したように、俺の腰袋と採取箱を見た。
「黄色いのに値がつくのか」
「お前たちが今やってる捕まえ方なら、つかない」
「なら、やり方を教えろよ」
「嫌だ」
「地元の共同採取域って言ったよな。山は村の私有地じゃない。ギルド許可区域で獲物を取るのは、こっちの権利だ」
「鉱石獣の許可区域だろ。無差別捕獲と無札罠まで許可されてない」
バルドが、谷底にいる連中へ聞かせるというより俺たちへ余計な動きをするなと念を押すような低い声で言うと、それまで互いの出方を窺いながら辛うじて保たれていた空気が、目には見えない細い糸を限界まで引き絞ったようにほんの僅かに張り詰めた。向こうもこちらの声色から何かを感じ取ったらしく、女が手にしている短弓は矢先こそ地面へ向いたままなものの腕から力が抜けておらず、指も弦の近くへ残されている。先ほど鉄線網を取り出していた若い男は親指を腰の鉈の鍔へ引っかけ、いつでも鞘から抜けるよう身体を半歩だけ斜めに構え直していた。もう一人の首が胴へそのまま埋まったような大柄な男に至っては、背中から外した折り畳み槍の留め具を一つずつ外し、短く畳まれていた柄を金属音が鳴らないよう静かに引き伸ばし始めている。誰一人として刃先や矢をこちらへ向けてはいないし、表向きには武器の手入れでもしていると言い張れる程度の動きへ抑えているものの、話し合いだけで穏便に済ませたい人間がわざわざ相手の目の前で武器を使える状態へ整える理由なんぞない。
連中の中心に立つグレンは、こちらが何を言うか考えているというより、力ずくで押した場合に誰から崩れるか確かめるような目つきで俺たち四人を端から順番に眺めた。最初に視線を止めたバルドは、古びてはいるものの手入れの行き届いた弓を持ち、足場の悪い山でも身体の軸がまったく揺れない、見る者が見ればそれなりに場数を踏んでいると分かる地元の猟師。隣にいる俺は腰へ薬瓶をぶら下げ、背中には武器より採取箱を背負い、着古した外套の袖口へ薬草の染みまで残した、どこからどう見ても戦闘向きには見えない少々くたびれた薬屋のおっさん。ホワイトは細い手足と幼さの残る顔立ちをした十五歳の少年で、武器らしい武器を目立つ位置へ持っているわけでもなく、山へ入るには頼りない旅装へ身を包んでいる。最後のアイスは、陽の光を受けて淡く輝く白銀の髪と、土埃一つついていないように見える整った外套を身につけており、荒れた谷や血の臭いより、薬師会の書庫か貴族の屋敷にでも立っているほうがよほど似合う若い女だった。
グレンの視線は、俺たちの装備を確かめるたびに少しずつ軽くなっていった。バルド一人は多少厄介そうに見えるものの、残りは薬屋と子供と山歩きに不慣れそうな女で、こちらは四人、しかも全員が獣を仕留めるための武器を持っている。大声で脅し、少し刃を見せれば面倒を嫌って尻尾を巻く。おそらく、頭の中ではそんな勘定をしていたんだろう。人間、相手を値踏みするときは自分が見たいものしか見なくなるらしく、アイスの外套が汚れていないのは山歩きへ不慣れだからではなく、そもそも汚れを寄せつけにくい処理が施されているからだとか、ホワイトが細い身体でここまで息を切らしながらも歩いてきたことだとか、俺の採取箱の中身次第では武器より面倒な代物が幾つも出てくることだとか、そういう都合の悪い部分までは考えが回っていないらしい。
「そっちの嬢ちゃんは何だ」
グレンは相手の名前を尋ねる礼儀すら面倒だと言わんばかりに顎をアイスのほうへ突き出し、品物の中身でも確認するような口調で問いかけた。
「薬師会の研究協力者です」
俺が先に答えると、グレンは露骨に眉を寄せ、こちらへ顔だけを向けた。
「本人に聞いてる。薬屋のおっさんは黙ってろ」
わざわざ喧嘩を売るような言い方をせんでも話くらいできるだろうに、どうもこの手の連中は、最初に相手を下へ置かなければ口を開けないらしい。俺としてはアイスが余計なことまで正直に話す前に、研究のため山へ来ただけだと適当に濁しておきたかったんだが、本人へ聞くと言われてしまえば、こちらから口を挟み続けるほうが不自然になる。嫌な予感を覚えながら横へ目を向けると、アイスはグレンの威圧的な態度にも、周囲で武器を整えている三人にも気圧された様子を一切見せず、背筋を伸ばしたまま一歩も動かなかった。
「レスタルム薬師会所属、アイス・レインフォードです。現在、この生息地における魔物の分布状況、および黄色変異スライムの生態について観察を行っています。道中で確認した所有者札のない跳ね刃式罠、指定対象外と思われる魔物の放置死体、岩穴へ投入された刺激粉と、それに伴う周辺植生への影響については、位置と状態を記録しました。調査上必要と判断した場合、ハンターギルドおよび地方管理所へ報告します」
こういう場面になると、アイスは本当に容赦というものがない。相手の機嫌を損ねないよう言葉を丸めるとか、今は刺激せず無事に山を下りてから報告するとか、普通の人間なら無意識に挟むはずの柔らかな部分を一切入れず、確認した事実、抵触している規則、これから取り得る手続きを、調査記録でも読み上げるように真っ直ぐ相手の前へ並べてしまう。内容は何一つ間違っていないし、むしろこちらが黙って見逃す必要などないので、言っていること自体は完全に正しい。正しいんだが、山の奥、それも人目の届かない谷で、依頼違反か罠規則違反の注意印を二本も刻まれたハンター四人へ告げる言葉としては、少々どころか相当に硬すぎる。規則を守らない連中が規則を示されたからといって素直に反省するなら、そもそも肩札へ赤い線を二本も増やしてはいない。
鉄線網の近くに立っていた若い男はアイスの言葉を最後まで聞くと、呆れたように鼻から息を漏らし、それから仲間へ聞かせるような乾いた笑い声を上げ、腰の鉈へ手を置いたままアイスとの距離を詰めるように一歩近づいた。
「薬師会のお嬢さんが、こんな山奥まで来て何の真似だよ。机と本に囲まれてりゃ満足な連中が、珍しく外へ出て、紙に草や獣の絵でも描きに来たのか?」
若い男はアイスの整った外套と白銀の髪を上から下まで遠慮なく眺め、山へ入る人間ではなく、見物に来た世間知らずでもからかうように口の端を吊り上げた。声には相手を笑わせるような明るさが混じっていたものの目だけはまるで笑っておらず、腰の鉈へ置いた手も離そうとしない。
「生態観察と、採取可能な素材が持つ特性の確認です。あなた方の行為そのものは当初の観察対象に含まれていませんが、生息環境へ及ぼした影響については、調査結果の一部として記録される可能性があります」
「ずいぶん言葉が多いな。こっちは何をしてるのか聞いただけだぞ」
アイスの返答が気に入らなかったのか、それとも難しい言い回しをされたせいで馬鹿にされたとでも思ったのか、若い男は鼻の付け根へ皺を寄せ、鉈へ手をかけたままさらに一歩こちらへ近づこうとした。
俺はそいつとアイスの間へ身体を滑り込ませるように一歩進み、男の視線を自分のところで止めた。
不思議なことに、腹は立っていなかった。
アイスへ馴れ馴れしく近づいたことにも、薬師を紙へ絵を描くだけの連中みたいに扱ったことにも多少は思うところがあったはずなのに、胸の中は自分でも驚くほど静かで、調合台の上へ並べた素材の状態を確かめるときと同じように、男の足の位置、肩の高さ、呼吸の速さ、鉈へ添えた指の曲がり方を一つずつ冷静に眺めていた。
冒険者をしていた頃、山道や洞窟の入口で、ほかの一行と揉めたことは一度や二度ではない。
仕留めた獲物をどちらが先に追っていたのか、素材を何割ずつ分けるのか、少ない水場をどちらが先に使うのか、雨を凌げる岩陰へ誰が野営するのか、依頼書へ記された区域の境目がどこなのか、道端に落ちていた荷物を誰が拾ったのか、酒を飲んだ席でどちらが先に肩をぶつけたのか、今となっては思い出す価値もないような理由で、人間は簡単に刃物へ手を伸ばす。
剣を抜くつもりの人間は、柄へ触れるより前に視線が相手の喉や腕へ動き、肩へ余計な力が入り、鞘を邪魔しないよう腰を僅かに引く。殴りかかるつもりの人間は言葉で威勢を張るより先に踏ん張れる幅まで足を開き、利き腕と反対側の肩を前へ出す。威勢のいいことを口へしながら逃げる機会を探している者は、こちらの顔ではなく、仲間の位置や来た道、障害物の少ない方角へ何度も目を向ける。
目の前にいる若い男は、そのどれとも少し違っていた。
こいつは本気で俺を斬りたいわけではないし、この場から逃げたいわけでもない。くたびれた薬屋のおっさんを一発殴るか、鉈を抜いて鼻先へ突きつけてみせれば、後ろにいる仲間が笑い、アイスとホワイトが怯み、バルドも多勢に無勢と判断して引き下がる、その程度の軽い見世物として考えている。
自分が強いと証明したいのではなく、相手が弱いと確かめたいだけの目だった。
そんな考えが手に取るように分かる程度には、俺も長いこと、油断した人間から順に死んでいく場所で生きてきた。
「それ以上、近づくな」
声を荒らげる必要はなかったので、相手だけでなく後ろの連中にも聞こえる程度の低さで告げると、若い男は足を止めたものの、引き下がる代わりに顎を突き出し、俺の外套と採取箱を改めて見回した。
「何だよ、薬屋。お嬢さんの前だからって、格好つけたいのか?」
「話をしたいだけなら、その距離で十分だ。お前の息が何を食ったか分かるところまで近づかれんでも、声くらい聞こえる」
「嫌だと言ったら?」
「別に何もせん。バルドは帰りに、無札の罠とここで見たものをハンターギルドへ報告する。アイスは薬師会へ調査記録を提出して、必要なら地方管理所へ同じ内容を送る。俺は黄色いスライムが逃げた方角と、生息地の荒れ具合だけを確認して、今日は村へ帰る。それで終わりだ」
殴り合いをするとも、罠を壊すとも、獲物を取り上げるとも言っていない。こちらは見たことを所定の場所へ伝え、必要な確認だけ済ませて山を下りる、それ以上でも以下でもない話なのに、若い男は俺の返答を脅しと受け取ったらしく、口元に浮かべていた薄笑いを消した。
「お前らが、無事に帰れるならな」
若い男の指がゆっくり動き、腰へ下げた鉈の柄を包むようにかかった。
後ろに立つグレンは、仲間を止めなかった。
注意する声も出さず、好きにしろと命じることもなく、腕を組んだまま僅かに目を細め、若い男がどこまでやるのかではなく、それに対して俺やバルドがどう動くのかを観察している。自分から命令を出さなければ何か起きても若い男が勝手にやったと言い逃れられるし、こちらが怯めばそのまま押し切れる。随分と都合のいい立ち位置を選んだものだ。
谷の上方では淡い黄色の影が一度だけ岩陰から飛び出し、短く弧を描いて別の棚へ移ったあと、すぐに見えなくなった。あの動きを見る限り、バウンティキャットは岩棚の向こうまで逃げ切ったわけではなく、追ってくる人間の声と谷底へ満ちた殺気に挟まれ、狭い割れ目か岩の裏へ身を潜めたまま、どちらへ跳べばいいのか決められずにいるらしい。
ここで俺たちまで武器を抜き、怒鳴り声や金属音を谷中へ響かせれば、追い立てられたあいつは安全な道を選ぶ余裕を失い、さらに奥の細い亀裂へ潜り込むか高さも確かめず岩棚から飛ぶことになる。運が悪ければ崖下へ落ちるし、外傷を負わずに済んだとしても強い恐怖で核の魔力が乱れれば、自分の身体を形作っている外膜さえ維持できなくなる。
面倒だった。
若い馬鹿が格好をつけたいだけの揉め事も、それを利用してこちらの力量を測ろうとするグレンの態度も、正しいことを一切曲げずに口へ出すアイスも、怒りを表へ出さないまま冷えきった目をしているホワイトも、岩陰で怯えて動けなくなっているバウンティキャットも、全部まとめて俺が何とかしなければならない流れになっているのが、本当に、どうしようもなく面倒だった。
だから来たくなかったのである。
「ロイドさん」
背後から、アイスが周囲の空気を揺らさないよう抑えた声で俺の名を呼んだ。その声音に怯えや取り乱した様子はなく、相手の人数、武器の種類、俺と若い男の距離、岩棚へ隠れたバウンティキャットの位置まで一つずつ測り、このまま会話を続けるべきか、それとも別の手段へ切り替えるべきか、判断に必要な材料を集めているように聞こえた。
「お前は下がってろ。ホワイトも、バルドの後ろへ行け」
「おっさん」
「今は聞け」
ホワイトは冷えきった目を谷底の連中へ向けたまま何か言い返そうと唇を僅かに開いたものの、襟元で硬く丸まっているミルの存在を思い出したらしく、白い身体を外から包み込むように片手を添えると、不満を飲み込んで半歩だけ後ろへ下がった。完全に納得した顔ではないし、俺が危なくなれば飛び出すつもりなのも丸分かりだったが、今はそれでいい。少なくとも、最初の一撃が届く場所からは外れた。
バルドは弓を正面へ構えず、左手を弓柄へ添え、右手を背負った矢筒のすぐ脇へ置いたまま俺とホワイトの両方を庇える位置へ静かに足を運んだ。こちらから先に矢を放つつもりはなく、相手が武器を振り上げるかアイスたちへ近づこうとした場合だけ、動きを止められる距離を保っている。狩りに慣れた人間らしい立ち方で、余計な威嚇はせず、それでいて向こうが一線を越えれば矢をつがえてから狙うまでに一息もかからんだろう。
俺は若い男から目を離さないまま、腰へ下げた袋の口へ右手を差し入れた。
薬草を包んだ紙、予備の栓、糸を巻いた小さな木片、その奥へ指を滑らせると、硬く冷たい細瓶の感触が指先へ触れた。
掌へ隠せるほど小さな、薄い琥珀色の瓶だった。中には淡い黄色の液体が半分より少し多く入っており、陽の光へ透かして見れば、透明な薬液の中を髪より細い光の筋が何本も走り、瓶そのものを傾けるより早く中身だけが行き先を知っているように流れる。
何年も前から、必要になるたび自分の分だけ調合してきた薬だった。
店へ並べたことは一度もない。注文を受けたこともなければ、効能や材料を帳簿へ記したこともなく、在庫表にすら載せていない。工房の棚へ置くときも、誰かが間違えて使わないよう奥へ隠し、アイスが薬品の整理を手伝うようになってからは地下収納の鍵つき箱へ移していた。当然、あいつへ瓶そのものを見せたこともない。
正式な名前さえ決めていなかった頃、俺はこいつを「黄色いやつの足薬」と呼んでいた。
黄色い変異スライムの動きを観察し、採取した微量の外膜と核の欠片を調べ、何度も配合を変えながら作った薬だったから、その呼び方で十分通じたし、自分しか使わない物へ立派な名前をつける必要も感じていなかった。あとになって、名前がないと保管するときに面倒だというひどく実務的な理由から、小さな瓶札へ〈キャットステップ〉と書いた。
崖道で足を滑らせたとき、流れの速い川へ並んだ飛び石を渡るとき、人間の目では追い切れないほど素早く跳ね回るスライムを捕まえるとき、身体を無理やり大きくしたり、筋力を何倍にも引き上げたりする薬ではない。
目で捉えたものを頭が判断し、その命令を手足へ伝え、実際に身体が動き始めるまでにはどれほど鍛えた人間にも僅かな遅れがある。その隙間を可能な限り削り、見えた動きへ身体が遅れずついていけるよう神経と筋肉の噛み合わせを一時的に整える、それだけの薬だ。
効き目だけ聞けば便利に思えるだろうが、使いどころを誤れば身体のほうが先に動き、本人の理解があとから追いつく。足場を見誤ったまま踏み込めば転ぶ速度まで上がるし、避ける方向を間違えればわざわざ刃へ近づくことにもなる。だから売らなかったし、誰かへ気軽に勧めるつもりもなかった。
本音を言えば、今日も使わずに済ませたかった。
珍しい黄色のスライムが生きているかどうか確かめに来ただけなのに、昔その黄色いスライムを参考にして作った薬を飲み、今度は人間相手に揉める羽目になるとは、話が丸く収まるどころか最初から角ばった石ばかり増えているようなものだ。
できることなら瓶を袋へ戻し、互いに悪態の一つでも吐いて別れたかった。
若い男が、とうとう腰の鉈を鞘から抜いた。
幅の広い刃が擦れる音を立てながら外へ現れ、谷へ差し込む光を鈍く反射する。その動きへ合わせるように大柄な男も折り畳み槍の最後の留め具を固定し、短かった柄を完全な長さまで伸ばした。弓を持つ女は矢先を地面から持ち上げ、狙いを俺ではなくこちらで最も厄介だと見ているらしいバルドへ向ける。
グレンは最後まで、仲間へ止めろとは言わなかった。
若い男を嗜めるでもなく、武器を収めろと命じるでもなく、自分だけは少し離れた場所へ立ち、俺たちのどちらが先に動くか見物するように目を細めている。こちらが怯めば脅しが成功し、反撃すれば正当防衛を主張できるとでも考えているのか知らんが、随分と安い計算だった。
俺は腰袋の中で細瓶を握り、親指を蝋で固めた栓へかけた。
その動きを見逃さなかったらしく、アイスの視線が若い男から俺の手元へ落ち、琥珀色の瓶を認めたところでほんの僅かに目が細められた。
「ロイドさん、それは何ですか」
「あとで説明する」
「見たことがありません」
「見せてないからな」
「何の薬ですか」
今から人が斬りかかってこようとしているときまで、未知の薬を見つければ効能を確認せずにはいられんらしい。いかにもアイスらしいと言えばそれまでだが、説明書を読み上げている時間なんぞあるはずもなく、俺が返事をするより早く、鉈を構えた若い男が地面を強く蹴った。
靴底が鉱砂を後ろへ撒き散らし、開いていた距離が一気に縮まる。
俺は親指で栓を弾くように抜き、細瓶の口を唇へ当てると、淡い黄色の液体を一息で喉へ流し込んだ。
舌へ触れた味は何度飲んでも慣れんほど苦い。煮詰めすぎた薬草へ錆びた鉄を混ぜたような渋みが口いっぱいに広がり、飲み下した直後には舌の奥から喉へかけて針先でなぞられたような細い痺れが走った。
胸の内側が燃えるように熱くなるわけでも、腕や脚の筋肉が目に見えて膨れ上がるわけでもない。周囲の動きが急に遅くなり、相手が水の中でも歩いているように見える、なんて都合のいい変化も起こらない。
世界はこれまでと同じ速さで動いている。
変わるのは、目から入った情報を頭が理解し、身体へ動けと命じるまでの間にあった、普段なら意識することさえない僅かな隙間だった。
それが、薄い膜を剥がされるように消えていく。
鉈を持つ若い男の右肩が上がった。
走る勢いへ任せて斬りつけるなら、肩はもっと前へ出る。今の上がり方は刃の重さを横へ運ぶための動きだ。
踏み込んだ右足の爪先が僅かに内側へ入り、腰が左へ捻られている。
刃は上からではなく、俺の脇腹を狙って横から来る。
大柄な男は槍先をこちらへ向けていない。俺が若い男を避けた場合に備えているのではなく、バルドが弓を引くのを警戒し、射線から外れながら距離を詰めるため左側へ回ろうとしている。
女の指は弦へかかったままで、まだ放してはいない。狙いはバルドの胸ではなく、弓を持つ腕だ。殺すつもりはなく、射てなくするつもりらしい。
グレンは腰の短剣へ指先だけ触れながら、仲間ではなく俺の足と肩を見ている。若い男が押し切れば動かず、俺が予想外の反応を見せたときだけ、自分も刃を抜くつもりなんだろう。
全部、見えた。
今まで見えなかったものが現れたわけではない。相手の動きも、視線も、重心の偏りも、最初から目の前にあった。ただ、それらを一つずつ頭の中で言葉へ直し、どう動くべきか考えるために必要だった時間が、薬の作用によって限りなく薄くなっている。
身体の奥から派手な力が湧き上がる感覚はない。
刃物を向けられた恐怖が消えたわけでもなければ、自分だけは絶対に勝てるという根拠のない自信が生まれたわけでもない。
肩へ入っていた余計な力、動く前に迷う時間、必要以上に大きく避けようとする癖、そういう無駄だけが、息を吐くたび静かに身体から抜けていった。
俺は飲み終えた細瓶を割れないよう腰袋の底へ戻し、横薙ぎに振られる鉈が最も力を持つ位置へ届くより先に、その間合いの内側へ半歩踏み込んだ。
戦いが始まった。




