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第54話 北西鉱山道



「黄電系」


「何だそれ」


俺が思わず聞き返すと、アイスは資料箱から顔を上げ、こちらが理解していないことなど最初から織り込み済みだと言わんばかりに落ち着いた調子で説明を始めた。


「暫定分類名です。黄色系統の外見を持ち、なおかつ魔力伝達速度が高い個体群と考えられます。黄電系スライム。資料上の正式名が失われている以上、調査と記録を続けるためには便宜的な分類名が必要です」


「今ここでつけるな」


俺は即座に止めた。こういう時のアイスは止めないとそのまま分類表を作り、注釈を増やし、気づけば薬師会へ提出できる形の仮報告書まで仕上げかねない。


「俗称バウンティキャットも併記します」


「もう決めてるだろ」


…止めた意味はほとんどなかった。アイスは返事を待つ気もない様子で紙の余白へ細い字を走らせ、黄電系だの俗称だの、後で俺が見たら頭を抱えそうな言葉をきっちり書き込んでいく。それから筆先を止め、まっすぐこちらを見た。


「採取地へ案内してください」


「嫌だ」


俺は考える前に答えた。考えたら負ける類の話だった。


「王都向け試験品の品質確認が終わった後で構いません」


「時期の問題じゃない」


「危険だからですか」


「危険というより面倒なんだよ。古い鉱山道はあちこち崩れてるし、道も半分埋まってる。雨の後なんか足場がぬかるんで、荷物を背負って歩くだけでも嫌になる。おまけにあいつらは普通のスライムと違って、同じ水場や洞穴にずっといるわけじゃない。数年前に見た場所へ行ったところで、今もそこにいる保証なんざどこにもない」


俺がそう言うと、アイスは少しも引かず、むしろ話の輪郭が見えてきたとでも言いたげに目を細めた。


「見つけた場合、採取は可能ですか」


「見つけても、普通の青スライムみたいに簡単にはいかん。黄色いやつは動きが妙に速いし、近づくとぱちっと来る。こっちの手元や採取針に反応して逃げるし、下手に追うと足場の悪い方へ誘われる。捕まえるだけならまだしも、核や粘液を素材として使える状態で採るとなると、道具も手順も選ぶ必要がある」


「あなたなら採れるのですね」


「採れるかどうかは、実物を見ないと分からん」


「採取経験はある」


「……ある」


言わされたような形になって、俺は少し顔をしかめた。


「素材利用経験もある」


俺は答えなかった。


答えなかったことが、ほとんど答えになった。


アイスの目に、あの嫌な光が宿る。


新しい研究対象を見つけた時の光だ。


古い資料と、俺の曖昧な経験と、今ここにないはずの黄色いスライムが、あいつの頭の中ではもう一本の線でつながっているのだろう。まだ何も話していないのに、俺があまり掘り返されたくない昔の採取話や素材を使った時の失敗やら成功やらが、いずれ紙の上へ引きずり出され、分類され、見出しをつけられ、「ロイド氏の経験則」とかいう逃げ場のない題名を与えられる未来が見えた。


「ロイドさん」


「何だ」


「工房の保管庫を、あとで確認します」


「駄目だ」


返事は早かったと思う。自分でも驚くくらい早かった。


「なぜですか」


「私物がある」


「スライム素材ですか」


「私物だ」


「薬品ですか」


「個人用だ」


「存在するのですね」


しまった、と思った時にはもう遅い。


完全に失言だった。


横で聞いていたミーナが「あ」と小さく声を漏らし、ハルトは見なかったことにするみたいに規格瓶へ視線を落とし、ユナはやたら手際よく瓶籠を抱えて洗浄室へ逃げていった。ホワイトだけは遠慮というものを知らない顔で俺を見て、「隠してる」と一言だけ言う。


「隠してない。保管してるだけだ」


「どこに」


「言わない」


「危険物ですか」


「危険じゃない。俺が昔から使ってるだけだ」


「どのような薬ですか」


「今は関係ない」


「黄色いスライム由来ですか」


「関係ないと言ってるだろ」


「否定していません」


こういう時のアイスは本当に厄介だ。声を荒らげるわけでも、無理に詰め寄るわけでもない。淡々と質問を積み重ねて、逃げ道だけを一つずつ塞いでくる。こっちが年上だろうが店主だろうが関係ない。あのまま工房にいたら、保管庫の棚だけじゃなく床板まで剥がされ、ついでに俺の昔の失敗まで分類札を付けて並べられそうだった。


結局、採取へ行くことになった。


王都向け試験納入の初回製造が終わり、品質確認用の試料が三日目の検査を無事に通過した二日後、俺とアイス、ホワイト、それから村の猟師バルドの四人で北西鉱山道へ向かうことになった。ミーナは店頭と製造予定の調整があるから留守番、ハルトとユナも工房を止めないため同行なしだ。俺としては、アイス一人が付いてくるだけでも十分面倒だった。資料だの記録だの確認だのと言われる未来が見えていたからな。そこへホワイトまで連れていく気なんぞ、最初はまったくなかった。


話が変わったのは、バウンティキャットの性質を説明した時だ。


あいつらは人間の接近に妙に敏感で、特に俺の〈スライムキラー〉みたいな気配を察知すると、かなり早い段階で姿を消す可能性がある。俺がそう言ったところで、アイスが「ホワイトさんの親和性を利用できるのではありませんか」と言い出した。


「利用って言い方をするな」


俺がそう言うと、アイスは少しも反発せず、まるで用語の誤りを指摘された帳簿係みたいに、すぐさま言い直した。


「本人の同意が得られるなら、協力を依頼できる可能性があります」


言い方は少し柔らかくなった。中身はほとんど変わっていない。こういうところがアイスである。


ホワイトはその話を一通り聞いたあと、しばらく黙っていた。腕を組み、視線だけを横へ流し、行くか行かないかを考えているのか、それともただ面倒くさがっているのか分からない顔をしていた。


「黄色いの、見たい」


やがて出てきた答えは、それだけだった。


「危ない場所だぞ」


「おっさんがいる」


「俺を安全道具みたいに言うな」


「違うの?」


「違わない部分もあるけどな」


言ってから、自分で少し嫌になった。


面倒である。


非常に面倒である。


話を聞いたホワイトが行きたいと言い、アイスは記録を取りたがり、俺は危険を承知で付き添う羽目になる。こういう流れになると分かっていたのに、止め切れなかった時点で、たぶん俺の負けだった。


出発は夜明け前になった。


北西鉱山道は、エルムホルン村から歩いて半日ほどの場所にある。昔は小規模な銅鉱脈や魔石の採掘場が山肌に点々とあり、荷を運ぶための細い荷車道も通されていたらしい。今となっては鉱脈が細り、何度か崩落事故も起きたせいで大半の坑道は放棄されている。人の手が離れた場所というのは厄介なもので、道は荒れ、支柱は腐り、獣や魔物が入り込み、昔の地図がそのまま役に立つとは限らない。


それでも完全に誰も近寄らない場所になったわけじゃない。


今もなお完全に忘れ去られたわけではなく、崩れかけた坑道の奥や風雨に削られて露出した岩場の周辺には、魔力を帯びた鉱石を体内や体表に取り込んで生きる特殊な魔物――いわゆる鉱石獣が出没するため、それを狙ったハンターや冒険者たちが危険を承知で足を踏み入れることがある。鉱石獣というのは一括りにされがちだが、その実態は多種多様で、例えば全身を硬質な鉱殻で覆った鉱殻猪は突進力と防御力に優れ、鉄のように硬い爪を持つ鉄爪鼠は狭い坑道内を自在に駆け回り、さらに晶角山羊のように頭部から結晶状の角を生やした個体は魔力を帯びた突進で岩壁すら砕くといった具合に、それぞれが厄介な特性を持っている。肉に関しては鉱石成分が混じっているせいで筋繊維が異様に硬く、焼こうが煮ようがまともに食える代物ではないとされているが、その代わりに殻や角、爪といった部位には純度の高い鉱石成分が含まれており、魔導具工房や武具職人にとっては貴重な素材となるため、一定の需要が絶えない。


さらに最近では、王都周辺で防具や魔導具に用いる魔鉱材の供給が滞っているという話が広まり、それに伴ってグラム地方で採れる鉱石獣素材の買い取り価格もじわじわと上昇しているらしい。こうなると話は単純で、普段ならもっと安全で効率の良い獲物を追っているような連中まで、「今なら稼げる」とばかりに山へ入り込むようになる。人が増えれば当然ながら獲物は減り、獲物が減れば効率を求めて罠の数が増え、罠が増えれば本来狙っていない魔物や、時には人間までも巻き込む危険が高まる。そうして山の中は次第に荒れ、均衡が崩れ、結果として誰にとっても居心地の悪い場所へと変わっていく――そんな悪循環が、静かに、しかし確実に進んでいるのが現状だった。


俺がバウンティキャットを見つけたのは、鉱山道をかなり登った先だった。山肌を削るように流れた雨水が、黄色く砕けた鉱砂を筋状に引きずり下ろし、その名残が浅い谷の底へ幾重にも積もっている場所だ。乾いた岩場と湿った鉱砂がまだらに混じり合い、足を置くたび靴底の感触が変わる。鉱夫ですら頻繁には近寄らない、鉱脈の気配だけが濃く残る斜面だった。


普通のスライムというのは案外しぶとい生き物でな。水と魔力、それに多少なりとも食える有機物さえあれば、だいたいどこでも生きていける。青スライムなら湿り気の多い森や水路沿いを好むし、沼スライムは腐葉土が厚く積もったじめじめした場所へ居着く。赤熱系ともなれば地熱の上がる岩場や火山帯の縁にまで現れる。ところがバウンティキャットは少々事情が違う。あいつらが棲みつくには、地中を走る鉱脈由来の細い魔力線と、身体を大きく跳ね上げられる開けた斜面、その両方が必要らしい。


地中から滲み上がる魔力を核へ取り込み、溜め込み、限界まで圧縮したところで全身へ一気に流し込む。あの異様な跳躍力は、その瞬間に生まれるものだ。だから魔力の濃さだけで言えばもっと条件の良い坑道奥へは潜らない。鉱脈が地表近くへ浮き出た岩の裂け目や、黄色い鉱砂が風に吹かれて溜まる崖棚あたりを選ぶ。朝になれば岩肌へ付いた露を舐めるように吸い、雨上がりには石の隙間を流れる糸のような水を取り込む。警戒心も強く、人や魔物の気配を拾えば斜面を縦横無尽に飛び回り、身体の色味を周囲の岩へ溶け込ませるように変える。追い詰められた個体は耳のような突起を左右別々の形へ変形させることがあり、その作用で空中姿勢を捻り、落下先すら途中で変えてしまうような器用なスライムだった。


世間でスライムが弱いと言われるのは、単純に攻撃力が低いからだ。


だからといって捕まえやすいかと聞かれれば、そんな話にはならない。


特にバウンティキャットはその典型だ。戦うだけなら弱いし、こちらへ食らいつく牙もなければ、刃を弾く殻もない。毒を撒くわけでもなく、力任せに押し潰してくることもない。ところが依頼品として傷ひとつ付けず確保しろとなった途端、面倒さが一気に跳ね上がる。剣を振れば核まで割れることがあり、矢を撃てば体ごと岩へ叩きつける。網を被せたところで、柔らかい身体を細く変形させて編み目から抜け出してしまう。火で炙っても駄目だし、冷気で固めても駄目だ。核へ繋がる繊細な魔力線が崩れた時点で素材としての価値は消えてしまう。


結局のところ必要になるのは力じゃない。生きたまま近づき、逃げる方向を先に読み、跳躍の癖を見抜き、着地するほんの一瞬へ自分の身体を滑り込ませることだ。外膜だけを切り開き、核には指一本触れずに分離する。口で言うのは簡単なんだがな。


つまり、面倒なのである。


「今の説明を、なぜ薬師会へ報告していないのですか」


山肌へ沿う細い道を登りながら、アイスが真面目な声でそう言った。足元には昨夜の雨で流された小石が散らばり、踏むたびに乾いた音が転がっていく。


「誰に聞かせるつもりもなかったからだ」


「生息環境、移動特性、核構造、捕獲時の劣化条件まで把握しています。薬師会の記録庫にある一般資料より詳細です」


「追い回されたら嫌でも覚える」


「普通の人間は追い回されても覚えません」


「忘れたら飯が食えなくなるからな」


「十年間、ほぼ毎日スライムを採取し続け、その過程で環境差による個体差を観察し、捕獲成功率を上げるために方法を改良し、採取後の素材利用まで体系化している人間がいます」


「へえ」


「その人を実地研究者と呼びます」


「知らんな」


「あなたです」


「研究じゃない。生活だ」


俺は肩をすくめた。


研究者ってのは、机に向かって難しい顔で紙を埋める連中だろう。俺がやってるのは、朝一で山に入って湿り気の違う場所を回り、核が締まってる個体だけを選んで捕まえて、劣化しないうちに処理してポーションに仕立てて売る、それだけだ。


「生活の中で継続観察を行い、条件差を把握し、採取法を改善し、素材の利用価値まで検証しているのであれば、研究との差はほとんどありません」


「ある」


「何ですか」


「俺は金のためにやってる」


「研究者も予算のためにやっています」


「嫌な返しをするな」


アイスは即答だった。


若いくせに変なところだけ妙に世慣れている。


「論文を書いてない」


「書いていないことが問題なのです」


「問題にするな」


「知識は共有されるべきです」


「共有した結果、面倒事が増える」


「薬師会は感謝します」


「感謝で飯は食えん」


「報酬制度があります」


「その制度の説明が始まるから嫌なんだ」


話が長くなる予感しかしない。


アイスはなおも何か言いたそうな顔をしていたが、その前に手帳へ視線を落とし、小さな文字を走らせ始めた。


山道で記録するなとさっき言ったばかりなんだが、本人は聞いていないらしい。


細い鉛筆を器用に動かしながら歩き続け、視線は紙の上からほとんど離れない。


その状態で歩けるのが不思議だった。


感心はしないし、むしろ先に目につくのは危なっかしさだ。つま先が突き出た石に引っかかり、身体が前へ傾いた瞬間、後ろから伸びた大きな手が肩を掴んで引き戻す。それでも何事もなかったようにアイスはまた書き始める。数十歩も行かないうちに別の石を踏み損ねて今度は横へよろけ、やはり後ろから腕を掴まれる。見ているこっちがひやひやするし、助けている本人のほうがよほど疲れそうだった。


「嬢ちゃん、紙より崖を見ろ」


バルドが呆れ混じりに言った。


「見ています」


「見てる人間は今の石を踏まん」


「記録が必要です」


「落ちたら記録ごと谷底だぞ」


「その可能性は認識しています」


「認識だけで避けられるなら猟師はいらねえ」


肺の底に溜まっていた面倒事までまとめて吐き出すような、聞いているこっちまで肩が重くなるほど深いため息を落とすと、バルドは無精髭の生えた顎をひと撫でし、俺たちがきちんとついてきているか確かめるように一度だけ振り返ってから、何事もなかったような顔で再び一行の先頭へ戻っていった。


四十代も半ばに差しかかった猟師であるバルドにとって、この辺りの山は他人の土地というより、朝起きて井戸へ水を汲みに行くのと大差ない、自分の家の庭みたいなものらしい。


村の連中なら古びた地図を地面へ広げ、こっちの尾根だ、いや沢沿いのほうが近い、などと額を寄せ合って相談しなければ先へ進めないような場所でも、バルドは立ち止まって周囲の木立や地面の傾き、枝の伸び方なんぞをひと通り眺めるだけで、迷う素振りすら見せず進むべき方角を決めてしまう。


本人から直接聞いたわけではないものの、鉱山がまだ大勢の坑夫を抱え、山の奥から掘り出された鉱石を載せた荷車が毎日のように村へ下りていた頃には、仕留めた獣の肉や干し肉、なめす前の毛皮を荷台いっぱいに積み込み、何度もこの道を出入りしていたらしい。


道中、前を歩くバルドが昔を懐かしむようにぽつぽつ話してくれたところによれば、当時の道は今よりずっと幅が広く、荷車同士が行き違う場所まで用意されていて、車輪が沈まないよう石を敷いた箇所もあったそうだ。


鉱山が閉じ、荷を運ぶ者も道を直す者も、わざわざ山奥まで様子を見に来る物好きもいなくなってしまえば、人間が作った道なんぞ長くは保たない。


雨に削られた斜面が崩れ落ち、土砂や岩に呑み込まれた場所へ草が根を張り、その上から若木が伸び、落ち葉と腐葉土が石畳の名残を覆い隠した結果、いまでは獣くらいしか通らない、道と呼ぶのも少々ためらわれる細い筋だけが山腹に残っている。


実際、俺たちが足を置いているのも、かつて荷車が往来した道そのものではなかった。


崩落して谷側がごっそり消えている場所を避けるため、ときには本来の道筋から大きく山側へ入り込み、苔の生えた岩を跨ぎ、地表へ蛇のように這い出した木の根を踏まないよう足を運び、鹿か猪が通って固めたらしい獣道を縫いながら進んでいる。


目印らしい目印もなく、俺には似たような木と岩が延々並んでいるようにしか見えない場所で、それでも迷わず安全そうな足場を拾っていくバルドを見ていると、年季だの経験だのというものは、やっぱり馬鹿にできん。


ホワイトは俺の斜め後ろ、何かあればすぐ手を伸ばせる程度の距離を保ちながら、黙々と坂を登っていた。


きっちり留めた襟元の内側ではミルが柔らかな布へ埋もれるように丸くなっており、ときおり隙間から白くて小さな頭だけをひょいと覗かせては、揺れる枝葉や木漏れ日を落ち着きなく眺めている。


周囲に危険がないか自分なりに警戒しているのか、それとも外の景色が気になって仕方ないだけなのか、あいつの丸い顔を見たところでその辺りの区別はさっぱりつかん。


ホワイトは街育ちの少年にしては歩く音が小さく、足元へ積もった乾いた落ち葉を踏んでも耳障りな音を立てず、進路を塞ぐ細枝へ裾を引っかけることも、爪先で石を蹴飛ばして斜面の下へ転がすこともなかった。


山歩きに慣れているはずはないのに、前を歩く俺やバルドの足運びを見て真似しているのか、重心の置き方や足場の選び方には妙な慎重さがあり、歩き方だけを眺めるなら思っていたほど悪くない。


悪くはないが、歩き方と体力は残念ながら別の話だった。


緩やかだった坂が次第に角度を増し、息を整えられる平坦な場所もなくなってくると、背後から聞こえるホワイトの呼吸は少しずつ浅く、速くなり、荷物を背負った肩も息に合わせて目に見えるほど大きく上下し始めた。


こめかみの近くでは髪が汗で肌へ張りつき、白い額には細かな汗の粒が浮かび、普段は血色の薄い頬までうっすら赤く染まっている。


その状態でも本人は一言も弱音を吐かず、足を止めるどころか俺と距離が開きそうになるたび意地でも追いつこうとして歩幅を広げていた。


休むか、と振り返って聞けば、返ってくるのは決まって「平気です」の一言だ。


声だけはなるべく普段どおりに聞こえるよう取り繕っているものの、息が切れて語尾が頼りなく揺れている時点で、説得力なんぞ欠片もない。


何より問題なのは、当人の顔がどう贔屓目に見ても、まったく平気そうには見えないことだった。


こういう真面目で頑固な手合いは、自分から疲れたと言い出すのを負けか何かだと思っているのか、足が動かなくなるぎりぎりまで平然とした顔を作り、限界を越えてからようやく倒れる。


倒れた人間を背負って山を下りる羽目になるくらいなら、倒れる前にこちらの都合で止めてしまったほうが手間も少なければ話も早い。


俺は歩調を緩めながら腰の水筒へ手を伸ばし、背後のホワイトへ聞かせるというより、一行全体へ決定事項を伝えるような声で告げた。


「十分休むぞ」


「俺は平気」


間髪を入れず返ってきた言葉に振り向けば、ホワイトは額に汗を浮かべたまま、いかにも心外そうな顔で俺を見ていた。


「俺が休みたいんだよ」


「おっさん」


「四十前の男が延々と坂を歩いたら休む。普通のことだ。年寄り扱いするなら、せめて四十を越えてからにしろ」


隣を歩いていたバルドが、腹の底で転がすような低い声を漏らして笑った。


余計なことを言うなと睨んでやろうかとも思ったものの、こちらから事情を説明すればするほど、ホワイトに気を遣っていると白状するようなものだし、四十にもなっていない男が子供一人を休ませるためにわざわざ自分が疲れたふりをしたと知られるのも妙に癪だったので、好きなだけ笑わせておくことにした。


そもそも実際のところ、俺は水筒へ手を伸ばして休憩を取らなければならないほど疲れていたわけではない。


呼吸は普段とほとんど変わっていなかったし、脚にもまだ十分な余裕があり、額へ浮かんだ汗も長い坂道を登ったせいというより、木々の間へ籠もった湿気と、背中へ張りつく荷物のせいだろう。


昔から長い距離を歩くこと自体はそれほど嫌いじゃない。


同じ姿勢で調合台へ向かい、細かな粉末を量ったり、煮詰まる薬液の色を何時間も睨んだりしているより、外へ出て自分の足で歩いているほうが、少なくとも腰や肩の凝りはましになる。


薬草や鉱石、魔物の素材なんかを採取しに出る日には、空が白み始める前に工房を出て、朝露に濡れた草を掻き分けながら山へ入り、昼飯も岩へ腰を下ろして適当に済ませ、そのまま日が西へ傾くまで歩き回ることも珍しくなかった。


採取場所を一か所見て終わり、なんて都合のいい話は滅多になく、目当ての薬草が獣に食われていたり、鉱脈が土砂で埋まっていたり、せっかく見つけた素材が採取時期を外して使い物にならなかったりするせいで、結局は山を一つ越える羽目になる。


そういう日々を何年も繰り返していれば、嫌でも脚だけは鍛えられるというものだ。


以前、その話を何気なくアイスへしたところ、あいつは手元の作業を止め、俺の身体を頭の先から爪先までじっくり眺めたあと、冗談を言うときでさえ滅多に崩れない真顔のまま、「その持久力は、年齢および日頃の生活習慣を考慮すると不自然です」と、まるで調合結果の異常値でも報告するような口調で言い放った。


年齢についてはともかく、日頃の生活習慣という部分には言いたいことが山ほどある。


たしかに工房へ何日も籠もることはあるし、作業が立て込めば飯を片手で済ませることもあるし、睡眠時間が少々不規則になることもある。


それでも工房へ籠もりがちな人間は全員日光を浴びただけで灰になり、五分歩いただけで膝へ手をついて息を切らすとでも思っているのか。


あいつの中で俺がどういう生き物として分類されているのか、一度きちんと問い詰めたほうがいいのかもしれんが、聞いたところでろくでもない分析結果が返ってくるのは目に見えている。


まったくもって余計なお世話である。


もっとも今日に限っていえば、多少の無理が利くよう準備をしていなかったわけでもない。


今朝、工房を出る前に地下収納へ寄り、薬瓶を並べた棚の奥から一本だけ持ち出した薄灰色の小瓶が、誰にも見つからないよう腰袋の底へ押し込んである。


掌へ収まる程度の小さな瓶で、表面には中身を示す札も貼っておらず、栓の部分には液漏れを防ぐための蝋を薄く巻いていた。


歩くたび腰袋の中で微かな硬い感触が伝わってくるので、落としたり割れたりしていないことは分かる。


今のところは、それで十分だった。


わざわざ皆へ話さなかったのは、隠しておきたいほど危険な薬だからではない。


持ってきたと知られれば、バルドには用心深すぎると笑われるだろうし、ホワイトには何に使う薬なのかと聞かれるだろうし、ミルに至っては瓶へ興味を示して腰袋へ潜り込もうとするかもしれない。


説明するのが面倒だった、というのが一番大きい。


目当てである黄色い個体を探し出し、巣か縄張りかは知らんが居場所だけを確かめ、余計な刺激を与えず村へ戻るだけなら、小瓶の中身へ頼るような事態にはならないと思っていた。


危険な魔物を討伐しに来たわけでも、山奥の巣へ踏み込んで根こそぎ素材を持ち帰ろうとしているわけでもない。


見つけて、確かめて、帰る。


本来なら、それだけで済む話だった。


少なくとも、工房を出発した時点では俺もそう考えていた。


山の中腹へ差しかかり、背後の村を木々の隙間からも見通せなくなった頃、獣道の周辺には自然についたとは考えにくい、不揃いで生々しい傷跡が目立つようになった。


最初に見つけたのは、人の腕ほどの太さしかない若木の幹へ刻まれた深い切り傷だった。


枝を払うための鉈を使ったにしては位置が低く、薪を取る目的なら幹を途中まで傷つけて放置する理由もない。


刃先を斜め上から力任せに叩きつけたらしく、樹皮は大きく裂けて白っぽい木肌が抉れるように露出しており、傷の縁には細かな木屑がささくれ立ったまま残っていた。


そこから数歩進めば、足元で分厚く育っていた苔が広い範囲にわたって削り取られ、靴底か何かに何度も踏みにじられた湿った黒土が獣道の両脇へ飛び散るように剥き出しになっている。


足跡と呼べるほどきれいな形は残っていないものの、ただ歩いて通り過ぎただけにしては荒れ方がひどい。


踏ん張ったのか転んだのか、何かに引きずられたのか。


どれにせよ、落ち着いて山道を歩いていた者が残す痕跡ではなかった。


さらに少し離れた場所では、獣を捕らえる罠を固定するために地面へ打ち込まれていたらしい鉄杭が抜かれ、周囲の土を根こそぎ掘り返したような穴が残されていた。


杭そのものは見当たらず、穴の縁からは千切れた細い根が何本も覗き、湿った土が新しいまま盛り上がっている。


手で丁寧に抜いた様子ではない。


かなりの力で横へ揺さぶり、地面を抉りながら無理やり引き抜いたように見えた。


どの痕跡も古いものではなかった。


若木の傷から覗く木肌はまだ瑞々しく、染み出した樹液も完全には固まっていない。


踏み荒らされた土の輪郭はくっきりと残り、昨日降った雨に打たれて崩れた様子もなければ落ち葉が積もって隠された形跡もない。


遠くても数日、近ければ今日か昨日についた傷だろう。


俺たちは自然と口数を減らし、先ほどまでより足元や周囲の木立へ注意を払いながら痕跡の続く獣道を進んだ。


そこからしばらく登った先、岩の間を縫うように細い沢が流れている場所で、一匹の青スライムが地面へ押し潰されたまま泥と枯れ葉の中へ半ば埋もれ、乾きかけているのが見つかった。


水辺を好む青スライムなら、この辺りに棲みついていても不思議ではない。


問題は、その死に方だった。


本来なら水を含んだゼリーのように滑らかで陽の光を受ければ淡く透けるはずの身体は、ひどく水分を失って濁り、沢に近い側だけが辛うじて青い色を残していた。


泥へ押しつけられた部分は平たく広がりながら身体の端は薄い皮のように乾いて地面へ張りつき、上から踏みつけられたのか、中央には深く潰れた跡まで残されている。


近づいて確かめるまでもなく、まともな倒され方ではない。


半透明の身体の中心には素材として使える核が抜き取られずに残っていた。


周囲の地面にも刃物で身体を切り開いた形跡はなく、瓶や容器へ粘液を掬い取った跡も、価値のある部位だけを持ち去った様子も見当たらない。


素材を集める目的で倒したのなら、核を残していくはずがない。


青スライムの核は珍しいものではないしたいした金額にもならんが、取り出す手間など知れている。


それさえ放置したということは、倒した者にとってこの一匹は獲物ですらなかったのだろう。


歩いている最中に足元へいることに気づかず、そのまま踏み潰したか。


別の獲物を追い回し、邪魔な枝でも払うつもりで振るった刃へ巻き込まれ、拾う価値もないと判断されて捨て置かれたか。


若木の傷や荒らされた苔、引き抜かれた鉄杭まで含めて考えれば後者のほうがまだ筋は通る。


どちらにしても、倒した本人が周囲へ気を配っていなかったことだけは確かだった。


俺の後ろを歩いていたホワイトも、沢の脇へ残された青い残骸に気づいたらしく、それまで一定だった足音を止めた。


ホワイトの襟元へ収まっていたミルが布の隙間から白い頭を出し、続いて柔らかな上半身までゆっくりと乗り出すと、乾きかけた青スライムのほうへ向かって丸い身体を精いっぱい長く伸ばした。


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記録帳持ちながら歩くのは本当に危ないってぇ〜そして黄色いスライムはどんな感じなんだろう
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