第53話 真顔で言うな
王都向けの試験納入に回す品の品質確認が本格的に動き出し、工房の空気が朝からどこか張り詰めてきた頃のことだ。外ではまだ草に朝露が残り、ひんやりとした気配が漂っている時間帯に、アイスは薬師会から届いた古びた資料箱を固定記録台へそっと置いた。そして、まるで壊れやすい宝物でも扱うかのように箱の中の紙束を一枚ずつ丁寧にめくっていく。底の方から現れた数枚は長年の湿気を吸って端が波打ち、色もすっかりくすんだ黄色に変わっていた。指でつまめばそのまま崩れてしまいそうなほど脆く、俺なら触るのもためらう代物だ。それでもアイスは顔色一つ変えず、紙の端ではなく余白の中央にそっと指を添え、慣れた手つきで内容を確かめていた。
青ぷよ薬房の新しい工房では、朝の製造がひと段落する頃になると、自然と決まった光景が広がるようになっていた。固定記録台の上には、その日の試料瓶や魔力測定紙、ロット帳に王都向けの規格瓶、さらに確認用の木札までが、まるで儀式の準備でもするかのように整然と並べられている。以前の俺ならそんな几帳面さとは無縁で、釜の脇に空いた場所へ適当に試料を置き、「まあこれは二番釜のやつだろう」と曖昧な記憶に頼って済ませていたはずだが、今はどの試料がどの目的で採取されたのか、どのロットに属するのか、いつまで保管し、どのタイミングで状態を確認するのか――そうした情報がすべて、小さな木札に細かく書き込まれている。最初のうちは正直うんざりした。札が増えるたびに作業台はまるで木札の森みたいになり、薬を作っているのか札を育てているのか分からなくなる始末だ。それでも、後になって「あれは何だったか」と頭を抱えることがなくなったのも確かで、結局のところ、このやり方の有用さは認めざるを得なかった。
王都へ送る予定の一般冒険者向け回復薬二十本と高純度回復薬十本についても、単に出来の良さそうな三十本を選んで箱へ詰めれば終わり、という話にはならなかった。アイスの説明では、素材群を最低でも二つ以上に分け、同じ日に同じ条件で作った品だけに偏らないようにし、保管初日、三日後、七日後で色、濁り、沈殿、魔力保持率、封蝋の浮き、栓の緩みまで確認する必要があるらしい。マルセル商会へ渡すのは三十本だけなのに、実際には品質確認用、予備、輸送事故が起きた時の比較用まで含めて四十本近く作ることになった。そこで俺は当然の権利として「少量納入って言葉の意味を、誰か辞書で調べ直してくれ」と文句を言ったわけだが、ミーナからは「売り物ではなく確認用も必要です」と静かに返され、ハルトにはもう瓶数を帳簿へ組み込まれ、ユナは規格瓶用の乾燥棚を空け始めていた。ここまで周りが動いていると、店主の文句なんざ、釜の湯気より役に立たない。俺に残されたのは、せいぜい「分かったよ」と言いながら充填管を洗うことくらいだった。
問題の資料は、薬師会が王都試験枠に関連して送ってきた、スライム素材の過去記録をまとめた箱の中に入っていた。箱の大半は青スライム、沼スライム、赤熱スライム、洞窟粘体といった、今でも分類が残っている種類についての記録で、古いものだと百年以上前まで遡るらしい。年代が古いせいか、記録方法は本当にばらばらだった。素材重量を銀貨換算で書いているものもあれば、核の大きさを「親指ほど」「小鳥の卵ほど」「小柄な女の握り拳ほど」なんて具合に表しているものもある。薬効の欄に至ってはもっとひどくて、「たぶん熱に良い」「飲ませた兵が翌日歩いた」「味は悪いが効いた気がする」みたいな、酒場の噂話と資料の境目に立っているような紙まで混じっていた。
アイスはそういう曖昧な記録を見るたびに眉間へ皺を寄せ、「これを資料と呼んだ当時の薬師へ説明を求めたい」と真顔で言っていた。百年以上前の薬師に説明を求めたところで、相手も墓の下で困るだけだろう。俺は俺で、以前「泡が角ばる」と言っただけでアイスに記録不能扱いされたことを思い出し、昔の薬師たちへ少しだけ親近感を覚えていた。たぶん、あいつらも当時は真面目に見たままを書いたんだろう。後世の几帳面な若い女に眉をひそめられるなんて、夢にも思っていなかったに違いない。
その日の午後、俺は王都向けの規格瓶へ通常品を充填する試験をしていて、ようやく細い銀管の扱いにも慣れてきたところだった。最初のうちは、こんな細っこい管で本当に薬液が入るのかと思っていたし、少し傾ければ瓶口へ当たり、角度を間違えれば内壁に沿わせる前に雫が跳ねる。普段使っている瓶なら多少雑に注いでもどうにかなるのに、王都規格瓶は口が狭いせいで、こちらの手元の癖をいちいち咎めてくるような面倒くささがあった。それでも何本か試しているうちに、管の先を瓶の内側へ軽く沿わせ、薬液を真下へ落とさず壁伝いに流し込む加減が分かってくる。液面の上がり方も見慣れてきて、規格線の少し手前で一度手を止め、最後に数滴だけ足すくらいの余裕が出てきた頃、記録台の方から聞こえていた紙の擦れる音がふっと止まった。
アイスは本を読む時も記録を取る時も、常に何かしら小さな音を立てている。紙をめくる音、ペン先が走る音、木札を並べ替える音、測定紙を指で押さえる音。静かにしているように見えて、実際には工房の片隅で細かな作業音を絶えず刻んでいる女だ。その音が止まる時は、大抵二つに一つだ。読んでいる資料の内容が理解不能で、当時の記録者に対して無言の怒りを向けている時か、自分の知識へ新しい穴を開けるくらい興味深い記述を見つけた時。前者なら眉間にきっちり皺が寄る。後者なら、あまり表情は変わらないくせに、目だけがほんの少し大きくなる。今回は後者だった。
「ロイドさん」
「今、瓶の線を見てる。急ぎじゃなければ待ってくれ」
俺は銀管の角度を崩さないようにしながら返事をした。ここで手を揺らすと、せっかく泡を立てずに入れた薬液が瓶口へ触れて、拭き取りからやり直しになる。薬液そのものより、そういう余計な手間の方が気力を削るんだ。
「黄色いスライムを知っていますか」
その一言で、銀管の先が瓶の内側へかすかに触れた。
こつん、と小さな音がした。
俺は薬液をこぼさなかった。
それだけでも、今日の俺は十分偉いと思う。
「黄色いのは何種類かいるだろ。砂地に出るやつとか、硫黄泉の近くにいるやつとか」
俺はなるべく何でもない調子で答えた。黄色いスライムと一口に言っても、色だけで分類できるほど単純な連中じゃない。生息地で性質は変わるし、食うものでも変わる。水気の少ない砂地に出るやつは表面が乾きやすく、硫黄泉の近くにいるやつは薬液に使う前の下処理が厄介だ。見た目が似ているだけで、素材としてはまるで別物ということも珍しくない。
「猫の耳に似た突起があり、連続して跳躍し、捕獲時に核が崩壊しやすい個体です」
その説明を聞いた瞬間、俺は充填を止めた。
手元の規格瓶を作業台へ置き、栓をする前にまず液面を確認する。規格線までの量は合っている。気泡も見えない。瓶口に薬液は付いていない。よし、少なくとも今やっていた仕事は失敗していない。
本当なら、栓をして、札を添えて、試験用の列へ置いて、それから返事をするつもりだった。
つもりだったんだが、アイスはもう俺の沈黙そのものを答えとして受け取った顔をしていた。
ああいうところだけ、妙に勘がいい。
「知っていますね」
「……似たようなやつを見たことはある」
「どこで」
「山」
「山のどこですか」
「黄色いやつがいるところ」
「説明になっていません」
「なら、知らないということでいいだろ」
「よくありません」
アイスは古い紙を持ったまま、記録台からこちらへ歩いてきた。紙は端が欠け、何かの薬液をこぼしたような薄茶色の染みがある。文字も半分ほど消え、残っているのは簡単な輪郭図と、数行の記述だけだった。輪郭図には丸いスライムの上へ二つの尖りが描かれており、たしかに猫の耳のように見えなくもない。ただし絵を描いた者の腕が怪しいため、山羊の角や、単に跳ねた粘液を表した可能性もある。
「旧グラム北西鉱脈調査記録、推定百三十年前。正式分類名は欠落しています。現存する記述は、『黄色変異個体。接触前に複数回跳躍。核は薄片化しやすく、討伐素材として不適。魔力伝達速度に特異な反応を示す』。これだけです」
「それだけなら、探しに行くほどじゃないな」
「魔力伝達速度に特異な反応を示す、とあります」
「読めば分かる」
「現在のスライム素材研究では、伝達速度へ特異に作用する素材はほとんど確認されていません。回復量を増やす、魔力保持を安定させる、熱を抑える、毒素を吸着する、といった性質はあります。しかし神経系に近い魔力伝達の速度へ影響するのであれば、薬学的価値は非常に高い可能性があります」
「可能性な」
「はい。だから確認します」
「行きたくない」
俺が即答すると、アイスの目が細くなった。
「なぜですか」
「面倒だからだ」
「生息地を知っているのですね」
「どうしてそうなる」
「未知の希少種について聞かれた人間は、普通、興味を持つか、知らないと答えるか、危険性を尋ねます。あなたは説明を聞く前から行きたくないと言いました」
「昔、似たようなのを見た時に面倒だっただけだ」
「どのように面倒でしたか」
「速い。すぐ逃げる。追うと高いところへ行く。足場の悪い場所ばかり選ぶ。やっと捕まえても、雑に触ると核が割れる。粘液は乾くと靴底へくっつく。あと、耳みたいな突起で方向を変えるから、跳ぶ先が読みにくい」
工房の中が、妙に静かになった。
さっきまで耳に入っていたのは、瓶同士が触れ合うかすかな音とか、ハルトが帳簿をめくる乾いた紙音とか、洗浄室の方から細く流れてくる水の音くらいのもんだった。普段ならそれぞれの作業音が重なって、工房全体にほどよい忙しさが漂っているんだが、今はその小さな音まで急に遠のいたように感じる。
ユナは洗浄室から運んできた瓶籠を両腕で抱えたまま、その場でぴたりと止まっている。
ハルトは規格瓶の箱へ番号札を結び付ける途中で手を止めていた。
ミーナも店頭帳を胸の前へ抱えたまま、こちらへ視線を向けている。
窓際ではホワイトまで顔を上げていた。
こういう話に興味があるのかないのか、普段はよく分からないやつなんだが、少なくとも今は聞く気になっているらしい。
工房の中で普段通りだったのはミルだけだった。
あいつは人間の空気なんぞ気にしない。
水皿の中へ半分身体を沈め、ぷよりと形を崩したまま揺れている。
平和なもんだ。
アイスは手元の紙と俺の顔を何度も往復するように視線を動かした。
指先で紙の端を軽く押さえながら書かれている内容を確かめるように目を細め、次の瞬間には俺の表情を探るようにじっと見据えてくる。
あれは資料を確認している時の目だ。
ただ文字を追っているだけじゃない。頭の中で情報を組み立てて、足りない部分を補おうとしている時のあの妙に鋭い“視線”だ。
面白い虫でも見つけた学者みたいな顔をしている。
珍しい標本を前にして、どうやって捕まえるか、どうやって解剖するかを考えているような、そんな落ち着き払った好奇心がにじんでいる。
嫌な予感しかしない。
「そこまで具体的に知っていて、見たことがある程度と表現したのですか」
「見たことはあるだろ」
俺はなるべく平然と答えた。
知っていることと、わざわざ話したいことは別だ。
世の中には、掘り返さなくていい昔話というものがある。
大抵の場合、掘り返したがるのは本人以外だ。
「採取したこともありますね」
「昔の話だ」
「素材を何に使いましたか」
「今は黄色いスライムを探す話だろ。話を広げるな」
「広げているのではなく、中心へ近づいています」
真顔で言うな。
そういう理屈を平然と出してくるから怖いんだ、この女は。
質問を投げる時の声は静かなのに、一度食いつくと獲物を放さない猟犬みたいなところがある。
俺はため息を一つ吐いてから、手元の規格瓶へ栓を差し込んだ。
栓が浮いていないかを横から確認し、瓶口の汚れも見て作業台の端に置く。
封蝋前の列へ移動。
本当ならそのまま次の瓶へ手を伸ばし、仕事に戻ったふりをして話を終わらせたかった。
作業中なんだから作業を優先する。
立派な理由だ。
誰にも文句は言えない。
ところがアイスは資料を引っ込める気配がない。
ミーナは困ったような顔をしているくせに、目だけは明らかに面白がっている。
ハルトもユナも作業へ戻ろうとしているように見えるんだが、耳だけは完全にこっちへ向いている。
分かるんだよ。
そういうのは長く生きていると分かる。
聞いていないふりをしている時の空気と、本当に聞いていない時の空気は違う。
今は全員聞いている。
「昔、冒険者をしてた頃に、北の古い鉱山道で何度か見た」
結局、俺が折れた。
こうなったら、こちらからある程度まとめて話してしまった方が手っ取り早い。
ここで口を閉ざしても、アイスは資料を片手に質問を重ねてくるだろうし、横で聞き耳を立てている連中も納得するまで引き下がらない。結局、細切れに答える羽目になって、余計に時間を食うのが目に見えている。
それなら最初から要点だけでも出してしまった方が、仕事に戻れる分まだましだ。
「ハンター連中は、バウンティキャットって呼んでたな」
「バウンティキャット」
アイスのペン先が、まるで待ち構えていたかのように紙の上を走り出した。
さらさらと乾いた音が静かな工房に響く。
一度聞いた単語を逃さず書き留めるあたり、さすがというべきか、執念深いというべきか。
こういう反応の速さは素直に感心する。
……するんだが、同時に背筋が少し寒くなるのも事実だ。
「見つけると賞金でも出たのですか」
「逆だ」
俺は鼻を鳴らした。
「捕まえようとした連中の方が損をすることが多かった」
北の鉱山道は崖が多くて、足場も悪い。古い採掘道は崩れかけているし、石は浮いているし、雨の後なんか滑る場所だらけだ。そんなところを跳ね回るあの黄色い連中を追いかけるのは、酔っ払いを捕まえるよりよっぽど面倒だった。
「崖から落ちるやつがいる。罠を壊されるやつもいる。荷物を引っ掛けられて谷底へ落とすやつもいた。装備を失くした連中もいたな。討伐報酬より修理代の方が高くつくことも珍しくなかった」
昔を思い出すだけで頭が痛くなる。
「あれを追い回して得したって話より、損したって話の方がよく聞いた。だから賞金首みたいに人を振り回すって意味で、バウンティキャットなんて呼ばれてたんだろうよ」
「猫っぽい耳もありますしね」
「まあな」
実際、見た目だけなら猫を連想する。
頭の上にちょこんと付いた突起が耳みたいに見えるんだ。
本人たちにそのつもりがあるかは知らん。
「雷属性ですか」
アイスが資料へ目を落としながら尋ねた。
「違う」
俺は即座に首を振った。
「あれを見たことがないやつは勘違いするんだがな。確かに光る」
核の周囲へ細い筋みたいな光が走ることがある。
初めて見ると放電しているようにも見える。
「光ることはあるけど、雷を撃つわけじゃない」
あれはもっと別の感じだ。
魔力が身体の中を走る様子が外から見えているような。
そんな妙な光り方だった。
「たぶん身体の中の魔力循環が異常に速いんだと思う。驚いた時なんか核の周りへ薄い筋が走って、それが身体の端まで一気に広がる」
思い返してみても、あの黄色い個体は普段見慣れているスライムとは明らかに性質が違っていた。
まず、動き出すまでの予兆が極端に短い。いや、短いというよりほとんど存在しないと言っていい。
「跳ねる前の溜めがほとんどない」
通常のスライムであれば、跳躍の前に必ず身体をぐっと縮める。水袋を押し潰すように一度沈み込み、内部の圧を溜めてから弾けるように跳ねる。その一連の動きにはわずかな間があり、慣れていればその“溜め”を見て次の動きを予測できる。
だが、あの黄色い連中は違った。
視界の端で地面に張り付いていたはずの塊が、次の瞬間にはもう別の岩の上にいる。縮む様子も、力を溜める気配もほとんど感じられないまま、まるで瞬間移動でもしたかのように位置を変える。
一歩踏み出したと思ったら、もう背後に回り込まれているような、そんな錯覚すら覚える動き方だ。
だから捕まえにくい。
狙いを定めても、その時にはもうそこにいない。罠を仕掛けても、発動する前にすり抜けられる。追いかければ追いかけるほど、こちらの足場や体勢の方が崩れていく。
だから面倒だった。
そして、だからこそ今でも覚えている。




