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第43話 自分のスキルなのに、自分が一番事情を知らないという状況



『ロイド・ハイゼンフェルト殿。先日送付された高純度回復薬、疲労軽減薬、およびスライム粘液基材の再分析結果について、薬師会鑑定部と治療部門の合同検討を行いました。その結果、青ぷよ薬房の製法には、既存分類では回復効果として一括されていた、魔力循環保護作用が含まれている可能性が高いと判断します』


「魔力循環保護作用」


俺が読むのを止めると、アイスがすぐに説明した。


「魔力回路を直接回復させるのではなく、乱れた循環を安定させ、追加損傷を抑える作用です。以前から仮説はありましたが、再分析で分離できたのでしょう」


「続き読むぞ」


『現在、レスタルムおよび周辺地域では、魔法使い見習い、魔導具工房作業員、騎士団魔術補助員、薬師見習いなど、日常的に魔力を扱う者たちの間で、魔力枯渇後の頭痛、吐き気、手足の震え、集中力低下、魔力回路痛といった症状が一定数確認されています。既存のMP回復薬は魔力保有量を補充する目的では有効である一方、魔力回路が不安定な状態で急速な補充を行うと、循環の乱れを増幅させ、症状を悪化させる場合があります。高級な回路保護薬も存在しますが、希少素材を用いるため価格が高く、一般治療院や小規模工房において常備することは困難です』


そこまでは、俺にも何となく分かった。疲れ切った身体へ無理に飯を詰め込んだからといってすぐ元気になるとは限らず、胃が弱っていれば食べ物を受け付けないし、熱を出している時なら栄養を摂るどころか身体への負担が増えることさえあるのだから、魔力についても似たような話なのだろう。魔力が空になったからといって強力なMP回復薬を一気に飲めば解決するわけではなく、受け皿になる魔力回路のほうが傷んでいたり、魔力を巡らせる流れそのものが乱れていたりすれば、せっかく補充した魔力も上手く循環せず、むしろ内側から回路を押し広げるような形で余計な負荷をかけてしまう。たぶんそういう理屈なのだと思うし、実際のところ専門家が聞けば細かい部分は違うのかもしれないが、俺としてはその程度の理解で十分だった。こういう時の俺の理解はだいたい生活の比喩頼みで、専門家の難しい説明をそのまま飲み込もうとすると途中で喉に引っ掛かってしまうので、飯や水路や鍋や釜といった身近なものへ置き換えながら、「まあそういうことなんだろう」と無理やり頭の中で整理しているのである。


『そこで、青ぷよ薬房のスライム粘液基材と低負荷魔力保持技術を用い、魔力を直接補充するのではなく、魔力循環が自然に回復するまでの間、回路を保護し、症状を軽減する補助薬の共同開発を提案します』


「新しい薬か」


ミーナが手紙を覗き込んだ。


『仮称は〈魔力循環安定薬〉。目的はMPを回復させることではなく、枯渇後の魔力回路を休ませ、循環の乱れによる頭痛、吐き気、震え、過剰発熱を抑えることです。強制的な活動継続を目的とする薬ではなく、休息と自然回復を補助する薬として設計します。青ぷよ薬房の疲労軽減薬と同様、“無理を続けるためではなく、回復するために使う”ことを販売原則とします』


「これは、かなり店に合っていると思います」


確かに考え方は似ている。疲労軽減薬を「働くための薬」ではなく「休むための薬」として売るように、魔力循環安定薬も「さらに魔法を使うための薬」ではなく「魔力が戻るまで身体を守る薬」として使う。


「材料は何だ」


俺は先を読んだ。


『初期試作では、通常種スライム粘液の精製基材、低濃度の核膜抽出液、銀葉草、冷月花の根皮を候補とします』


「冷月花は高いぞ」


「根皮を少量なら、薬師会の試験在庫を使えると思います」


アイスが答える。


「新しい薬の話だけじゃないな」


手紙はまだ半分以上残っていた。


『本薬の開発にあたり、製法上の最大の未確定要素は、ロイド殿のスキル〈スライムキラー〉が素材採取および調合工程へ及ぼす影響です。これまでの結果から、同スキルは単純な対スライム攻撃補正ではなく、対象構造認識、核位置知覚、損傷回避、魔力膜分離、あるいはスライム由来魔力に対する安定化補正を含む可能性があります』


「安定化補正まで増えたぞ」


「可能性としては以前からありました」


彼女は平然とそう言う。


「聞いてない」


「確証がなかったので」


「今も可能性だろ」


「以前より根拠が増えました」


俺の知らないところで、俺のスキルに機能が追加されていく。


もちろん、本当に新しい機能が増えているわけではない。


昔からそこに存在していた性質や挙動に対して薬師会の人間たちが後からもっともらしい名前を付け、「これは○○作用です」「こちらは△△反応です」と学術的な顔で整理しているだけだ。


俺が普段何となく感覚でやっていたことや、「まあスライム素材だし、そういうものなんだろう」と深く考えずに流していた現象を、専門家たちが寄ってたかって分析し、分類し、検証し、立派な作用名や反応名を与え、分厚い報告書へ嬉々として書き込んでいるのである。


例えるなら、自分の家の古い床板を一枚剥がすたびに、「ここに地下室がありました」「さらに奥に隠し通路があります」「その先には謎の保管庫があります」と次々発見されていくような気分だった。


しかも困ったことに、その地下室や隠し通路について、持ち主である俺より薬師会の方が詳しくなり始めているのである。


ある日突然、「あなたの家の第三地下層にある左奥の小部屋ですが」と説明されても、こちらとしては「第三地下層?」と聞き返すしかない。


なかなか怖い話だ。


いや、かなり怖い。


自分のスキルなのに、自分が一番事情を知らないという状況は本来は笑えないはずなのだが、ここまで来ると逆に少し笑えてくる。


俺は少しだけ眉間を押さえ、「頼むからこれ以上地下施設を増やさないでくれ」と誰にともなく心の中で呟いてから、手紙の続きを読んだ。


『ついては、本人の同意を前提として、非侵襲的な技能反応観察を提案します。本観察は、身体への損傷、強制的な魔力枯渇、危険を伴うスキルの連続使用を含みません。また、本人は理由を問わず、いかなる段階においても観察の中止を申し出ることができます』


「非侵襲的って何だ」


聞き慣れない言葉が出てきた時点で、俺はまた読むのを止めた。


「切らない、刺さない、傷つけないという意味です」


アイスが即座に答える。


「最初からそう書いてくれ」


「薬師会の正式文書ですので」


「正式文書は人を安心させる気がないのか」


「安心させるために、身体への損傷を伴わないと明記されています」


「その前に言葉で不安にさせてないか…?」


ミーナが横で小さく苦笑しながら肩をすくめたが、たぶん客観的に見れば俺の反応の方が大げさなのだろうし、薬師会としても善意で説明しているだけなのだとは理解している。それでも手紙にわざわざ『身体への損傷はありません』と書かれているのを見ると、こちらとしては真っ先に身体への損傷が発生する可能性を想像してしまうし、『危険なスキル連続使用を伴いません』と続けば、そんな危険なスキル連続使用という案が会議のどこかで一度は検討され、「さすがにそれはやめておこう」という結論になったのではないかと余計な疑念まで湧いてくる。もちろん薬師会に悪意がないことは分かっているし、むしろ分かっているからこそ事故や誤解を避けるために安全確認の項目を細かく丁寧に列挙しているのだろうが、読み手が俺である以上、その過剰なまでに親切な説明は安心感より先に想像力を刺激してしまい、「そこまで説明する必要がある観察って本当に大丈夫なのか」という別方向の不安を呼び起こしてしまうのである。そして手紙には、その観察がどのような流れで行われるのかという具体的な手順まで抜かりなく記されていた。


第一段階は、素材識別試験と記されていた。状態の異なるスライム核を番号のみで管理し、採取時の損傷具合、成熟度、膜の残存状態を伏せたうえで、俺が外見、触感、匂い、魔力感覚といった複数の情報から、それぞれの核がどのような状態であるかを判別できるか確認するらしい。さらに評価者側も、どの番号の核がどの状態に該当するかを事前に知らされない形で試験を進め、観察する側と観察される側の両方から思い込みや先入観をできるだけ排除する、とある。


第二段階は、遮蔽核位置試験。光を通さない薄い容器の中へ、スライム粘液と核片を位置を変えて封入し、俺が容器の外側から核片の位置をどの程度識別できるかを調べる試験らしい。容器は手で持たず、机上へ固定した状態で距離を変え、視覚、匂い、振動、温度差といった余計な手掛かりの影響を分けて記録する、と細かく書かれている。要するに、俺が本当にスライム核そのものを感じ取っているのか、それとも無意識に別の手掛かりを拾っているだけなのかを切り分けたいのだろう。


第三段階は、採取工程観察。生体スライムを研究目的で無理に拘束したり、通常業務を超えて余分に狩ったりするのではなく、普段の採取へ薬師会観察員が同行し、俺の腕と胸元へ魔力脈動環を装着した状態で、接近、回避判断、核位置確認、外膜分離といった各段階において、俺の魔力回路のどこがどのように反応しているのかを測定するらしい。採取数はあくまで通常業務の範囲内に限定し、研究のためだけに余分な個体を狩らない、とわざわざ明記されていた。


第四段階は、比較調合試験。同じ種類で成熟度の近いスライム核を、俺が採取したもの、熟練冒険者が採取したもの、薬師会が保管しているものに分け、番号を伏せた状態で同一配合の少量試作を行う、とある。俺がどの素材を扱っているか知らない状態で、火入れの加減、粘液の馴染み具合、核を開放するタイミングの判断に差が出るかを観察し、完成品については人へ使用せず、魔力保持率、液相安定性、膜残留、保存中の変化のみを測定するらしい。


第五段階は、技能範囲確認。俺の能力が生きているスライムへの認識だけに限られるのか、分離後の核や粘液にも作用するのか、さらに調合中のスライム由来魔力へ継続して影響しているのかを整理し、技能としての範囲を過不足なく把握することが目的だと書かれていた。


観察期間は三日以内。


一日の実施時間は二刻まで。


結果は俺本人、青ぷよ薬房、レスタルム薬師会の三者で共有し、本人の許可なく氏名付きで外部発表しない。


研究結果を商業利用する場合は別途契約を結ぶ。


俺本人が望まない場合、技能名の再分類や公的登録変更を強制しない。


驚くほど具体的だった。


試験内容も、観察範囲も、時間制限も、情報共有の範囲も、外部発表の可否も、商業利用時の扱いも、断る権利も、途中でやめる権利も、細かすぎるほど丁寧に書かれている。


そして、驚くほど逃げ道まで用意されていた。


「セレーナさん、かなり慎重ですね」


ミーナが言った。


「ホワイトさんの件もありますし、スキルを持つ本人の権利について意識しているのだと思います」


アイスの声は真面目だった。


俺は手紙を机へ置いた。外では槌の音が続いている。新しい洗浄室の壁へ板が打たれ、一定の間隔で乾いた音が響いている。目の前には工房の図面があり、その上へセレーナの手紙が重なっている。一方は店の中身を分けるための線で、もう一方は俺の中にあるものを分けて確かめるための手順だった。


どちらも今まで俺が「見れば分かる」「慣れだ」「スライムだから」で済ませてきたものへ、名前と順番と境界をつけようとしている。


正直に言えば、気が進まなかった。


自分のスキルを調べられるというのは、自分の身体の内側を知らない人間に覗かれるような気持ちになるかりだ。何度も言っていることではあるが、俺は〈スライムキラー〉を誇りに思って生きてきたわけではない。むしろ長い間“外れ”だと思っていた。スライムしか相手にできない。冒険者として大成できない。狼にも勝てない。ゴブリン三匹で泥へ転がる。そういう自分の限界を示す札として、スキル名を受け止めてきた。


それが今になって、実は違う可能性があると言われている。


構造認識。


核位置知覚。


損傷回避。


魔力膜分離。


安定化補正。


立派な言葉を並べられるほど、自分のものではないように感じる。俺が何十年も「普通」と呼んできた手つきが、実はスキルに助けられていたのだとすれば、どこまでが俺の経験で、どこからが能力なのかも分からなくなる。もし、全部がスキルのおかげだったら。もし、俺自身の腕など大したことがなかったら。逆にスキルを理解したせいで、今まで自然にできていたことを意識しすぎ、できなくなったら。


考えれば考えるほど、嫌な方向へ進む。


「嫌ですか?」


ミーナが静かに聞いた。


「嫌というか……怖いな」


口にすると、思ったより素直な言葉が出た。


「自分のことなのに、知らないものが出てくるのがな。今まで何となくできていたことを、細かく分けられて、これはスキル、これは経験、これは勘って言われたら、前と同じように手が動くのか分からん」


アイスはすぐには反論しなかった。いつもの彼女なら、「理解によって技能が失われる根拠はありません」と言いそうなところなのに、少し考えてから言った。


「その懸念は、完全には否定できません。無意識技能を意識化した直後、一時的に動作が不安定になる例はあります。ただし、適切に整理すれば、最終的には安定する可能性が高いです」


「一時的には不安定になるのか」


「可能性です」


「その言葉、便利だな」


「便利ではなく、あくまで正確な“推測”です」


少しだけ、いつもの調子が戻った。


ミーナは手紙へ目を落とした。


「店主さんが調べたくないなら、断ってもいいと思います。セレーナさんも、断れるように書いています。でも、新しい薬を作るなら、分からないまま進めるのも怖いですよね」


「そうなんだよな」


そこが一番重かった。


自分一人だけで使う技術なら、仕組みを完全に理解していなくても何とかなるのかもしれない。


失敗したら自分で責任を取ればいい。


調合を間違えたなら自分で飲まなければいいし、効果が安定しなければ自分の中だけで試行錯誤を繰り返せば済む。


昔の俺なら、それで十分だった。


けれど今は違う。


俺が作った薬は村人たちの日常を支え、体調を崩した者や怪我を負った者の手に渡り、冒険者たちは危険な依頼へ向かう際に当然のように携帯し、騎士団は正式な納品物として受け取り任務へ持ち出し、さらには王都の治療院へ送る計画まで進んでいるほどで、薬を受け取る人間の数も薬が届く場所の範囲も、もう昔とは比べものにならないほど広がっていた。


そして店の中にも、今は俺以外の人間がいる。


ユナは洗浄を担当しながら素材や器具の状態を細かく管理し、ハルトは瓶や木箱、在庫の出入りを記録しながら保管業務を担い、ミーナは店頭を回して客への説明や販売を引き受け、アイスは品質の記録や調合結果の整理だけでなく薬師会とのやり取りまで支えている。


俺が工房で作業している間にも、それぞれが別の場所で自分の役割を果たし、店全体の仕事を前へ進めている。


つまり、俺の「何となく」で済ませていた判断や感覚は、もう俺一人の問題ではない。


俺が曖昧な理解のまま進めた工程を他の誰かが引き継ぎ、その曖昧さごと店の運営や製造工程へ組み込んでしまえば、間違うのは俺だけではなくなり、同じ誤解や見落としを抱えたまま店全体が同じ場所でつまずくことになる。


だからこそ、今まで感覚だけで済ませていた部分を整理し、何を理解していて何を理解していないのかを明確にしろと言われているのだろう。


新しい魔力循環安定薬の話もまさに同じで、その薬は単純に魔力を補充するための薬ではなく、傷んだ魔力回路へ無理やり魔力を流し込んで一時的な回復を演出するものでもなく、疲弊した魔力回路そのものを休ませながら自然な回復を促すための補助薬という位置付けだった。


もし本当に安定して作れるのであれば、訓練の失敗や無理な魔力操作によって魔力枯渇を起こし苦しんでいる見習いたちを助けられるかもしれないし、日常的に魔力を扱う魔導具工房の職人たちの負担軽減にも役立つかもしれない。さらに、これまで高価な回路保護薬を買えずに無理を重ねるしかなかった人々にも手が届く可能性があり、その社会的な価値は決して小さくないはずだった。実際、薬師会がわざわざ共同開発という形で話を持ちかけてきたのも、単なる興味ではなく、その先にある需要や将来性を見込んでいるからなのだろう。


だが問題は、その薬がなぜ上手く作れているのかを俺自身が説明できないことだった。


身体への負荷が少なく、服用後に魔力循環を乱しにくく、回復後に起こる頭痛や倦怠感といった不快症状も比較的少ないという結果は確かに出ている。しかし、それがなぜ実現できているのかと問われると答えられない。


理由が分からないままでも、たまたま成功することはあるかもしれない。だが、それは安全に作り続けられる保証にはならず、まして品質を維持したまま量産できる保証にもならないし、他人へ技術として教えることなど到底できない。


「この辺は感覚で」


そんな一言で済ませられる話ではなかった。


それで済むなら薬師会も苦労しない。


「ロイドさん」


アイスが静かに言った。


「あなたの技能を研究することと、あなたの技能を奪うことは同じではありません」


俺は手紙からゆっくりと視線を上げた。工房の改築が進む店内では、壁の向こうから断続的に木材を打つ音や職人たちの足音が聞こえてきており、その規則的な響きが妙に耳に残る。その音を聞きながらしばらくアイスの顔を見つめ、それから胸の奥に引っかかっていた疑問をそのまま口にした。


「知識にしたら、他の人間が真似できるようになるんじゃないのか」


率直な疑問だった。薬師会が調べ、理論として整理し、曖昧だった工程を言葉にして記録し、誰でも理解できる形へ落とし込んでいく。そうなれば今は俺しかできないと思っていることも、いつか誰かが再現できるようになるのではないか。俺が長い時間をかけて積み上げてきた経験や優位性も、研究が進めば少しずつ薄れていき、最終的には特別なものではなくなるのではないか。そんな考えが頭の中をよぎっていた。


「一部は可能になるかもしれません」


アイスはその懸念を否定しなかった。


「洗浄温度、膜の残し方、粘液を馴染ませる順番、核を開く条件。そのような工程は共有できますし、再現可能な部分を整理して誰でも同じ品質に近づけるようにすることには大きな意味があります」


そこで一度言葉を区切り、俺の反応を確かめるように視線を向ける。


「しかし、あなたが感じ取っている核位置の微妙なずれや外膜の張り具合、素材ごとの違和感までを、他の人が同じように認識できるとは限りません。研究の目的は、あなたを不要にすることではなく、あなたしかできない部分と、他の人でも安全かつ安定して行える部分を切り分けることです」


その説明は思っていた以上に腑に落ちた。


全部を真似するわけではない。


全部を共有するわけでもない。


曖昧なまま混ざっているものを、一つずつ分けて整理するのだ。


「俺しかできない部分が残るのか」


「残る可能性が高いです。スキルは手順書だけで再現できるものではありませんし、経験や感覚に依存する領域も必ずあります」


「それなら、余計に調べる意味があるのか?」


「あります」


アイスは一切迷わず答えた。


「あなたしかできない工程を特定できれば、その部分だけは無理に他人へ任せずに済みますし、その前後の作業は標準化して別の人間でも担当できるようになります。逆に今のままでは、どこまでが再現可能でどこからが特殊なのか分からないため、何もかもがあなたにしかできないように見えてしまいます。その状態は組織として非常に脆いのです」


その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中で今進めている工房改築の話と自然に重なった。


今までの工房は、洗浄も保管も調合も完成品の管理も、さらには人の出入りや素材の搬入まで、あらゆる作業が一つの部屋の中へ押し込まれていたため、どこで何が行われているのかを常に把握していなければならず、少しでも目を離せば作業同士が干渉し合って問題が起きるような状態だった。だから結局、全体の流れを理解している俺自身が見続けるしかなく、誰かに任せようとしても境界が曖昧なせいで責任の所在も判断基準もはっきりしなかった。


だが今回の改築では、その混ざり合った状態を解消しようとしている。汚れやすい素材を扱う場所は汚れる場所として分離し、清潔さを維持しなければならない工程は別室へ移し、実際に薬を調合する場所と完成品を保管する場所も切り離して、それぞれの役割を明確にすることで作業の流れそのものを整理しようとしていた。


そう考えると、スキル研究も同じなのかもしれない。


今まで一括りにしていたものの中には、長年の経験によって自然と身についた部分もあれば、その場の感覚で判断している部分もあり、理論や技術として説明できる部分もあれば、スキルだからこそ成立していて他人には再現できない部分もある。それらが曖昧なまま混ざっているから全体像が見えず、どこまで共有できてどこから共有できないのかも分からなくなっているのだ。


だから一つずつ切り分ける。何が再現できて、何が再現できないのかを明らかにする。誰でも扱える部分と、俺にしか扱えない部分を整理する。そうすることで無理に全部を抱え込まなくて済むようになり、誰かが欠けても全体が止まらない形へ近づいていく。


分けることで、それぞれの役割や責任の境界が見えるようになり、問題が起きても原因を追いやすくなり、誰か一人に負担や知識が集中しすぎる状態を避けられるようになる。つまり混ざり合っていたものを整理して構造を明確にすることで、全体をより壊れにくく、長く維持できる形へ変えていくということなのだろう。


工房もそうだ。作業場所を分けることで衛生管理がしやすくなり、事故や汚染のリスクを減らせる。仕事もそうだ。担当を整理することで引き継ぎが可能になり、誰かが休んでも止まりにくくなる。店そのものもそうだ。運営の仕組みを整えることで、一人の能力だけに依存しない安定した形へ近づいていく。そして俺自身の技術もまた同じで、感覚と理論、再現できる部分とできない部分を切り分けることで、初めて本当の意味で扱える知識になるのかもしれない。


たぶん、アイスたちが言いたかったのはそういうことなのだろうし、薬師会が研究を進めようとしている理由も、その延長線上にあるのだろう。


「ホワイトくんのこともあります」


ミーナが静かに口を開いた。


俺はそちらを見る。


「ホワイトくん、自分の能力を『雑魚に好かれるだけ』って思っていますよね」


確かにそうだった。


本人も何度かそう言っている。


変な魔物が寄ってくる。


小動物が懐く。


その程度の認識しか持っていない。


「でも、ちゃんと調べたら、本人が何をできて、何をしたくなくて、どういう条件なら使えるのか分かるかもしれません」


ミーナは窓際を見た。


ホワイトは相変わらず外を眺めている。


ミルは膝の上で丸まっていた。


「店主さんが先に、自分のスキルを調べる時の良い形を作れたら、あの子にも無理をさせずに済むと思います」


その言葉は、かなり効いた。


ホワイトは、自分の能力を見せることそのものに怯えているというよりも、その能力を知った人間たちがその後にどのような行動を取るのかを強く警戒しており、能力の内容そのものではなく、それによって自分の立場や周囲との関係が変わってしまうことを恐れているのかもしれない。


能力を知られた結果として、どこかへ売られてしまうのではないか、便利な道具のように利用されるのではないか、正式な契約も報酬の取り決めもないまま勝手に働かされるのではないか、そして気付いた時には能力の価値だけを見られ、一人の人間として扱われなくなるのではないか――あいつが抱えている不安は、まさにそういうものだった。


つまり能力そのものが怖いのではなく、その能力によって周囲の人間の態度や評価が変わり、自分の意思とは関係なく人生を左右されてしまうことへの恐怖だった。


だから俺はあいつに約束した。


変に利用しようとはしないし、働くのであれば必ず契約を結び、本人の意思を無視して何かを決めることもしない。嫌なら断っていいし、店にいる限りはその権利をきちんと守る。俺はそうはっきり伝えた。


もちろん、それを口約束だけで終わらせるつもりはない。実際に契約や立場の整理も進めているし、権利や責任の範囲についても少しずつ形にしている。


それが正しいと思ったからだ。


そして考えてみれば、それは俺自身にも当てはまる話なのかもしれない。


研究される側として、どこまでなら受け入れられて、どこから先は断るべきなのか。何を公開し、何を公開しないのか。どのような条件なら協力し、どのような条件なら席を立つのか。そうしたことは問題が起きてから慌てて決めるのではなく、最初の段階で整理しておくべきなのだろう。


何も考えずに拒絶するのではないし、何も考えずに差し出すのでもない。


受け入れる範囲を決め、記録の扱いを決め、権利の所在を決める。途中で嫌になったら止められるようにしておき、外へ出す情報は自分で選び、もし商売へ利用するのであれば別途契約を結ぶ。その線引きを曖昧なまま放置しないことが大切なのだ。


考えてみれば、工房改築もまったく同じだった。


人の流れを決め、物の流れを決め、水の流れを決め、混ざって困るものを分け、これまで曖昧だった境界を整理していく。結局のところ、やっていることはどれも似たようなもので、問題が起きる前に境界線を明確にし、それぞれが安全に動ける環境を整える作業なのだ。


結局のところ、今俺が工房でやっていることも、ホワイトの立場を整えるために進めていることも、これから受けるかもしれない研究協力について考えていることも、根っこの部分では全部同じなのだと思う。


正直に言えば、俺は昔から紙仕事が好きではない。契約書を読むのも面倒だし、署名をするために何度も内容を確認したり、細かい条件について説明を受けたりするのも苦手だった。昔の俺なら、そんなものがなくても生きていけるし、信頼できる相手なら口約束だけで十分だと本気で思っていた。


しかし自分が生まれ育った村で店を持ち、人を雇い、様々な立場の人間と関わるようになってから、その考えは少しずつ変わり始めた。


紙や契約というものは、人を縛り付けるためだけに存在しているわけではない。むしろ、自分の意思を守るための道具にもなり得るし、誰かに勝手な判断を押し付けられないようにするための盾にもなる。何をしてよくて何をしてはいけないのかを最初に決めておけば、後になって話を変えられたり、都合よく解釈されたりする危険も減らせる。


ホワイトの件もそうだが、契約とは相手を信用していないから結ぶものではなく、お互いが安心して関われるように境界線を形にするためのものであり、その境界線があるからこそ人は必要以上に怯えずに済むのだと最近になってようやく理解し始めていた。


「……受けるなら、条件をつける」


考えをまとめてからそう言うと、向かいに座るアイスの目がほんの少しだけ明るくなった。


研究者として嬉しいのか、薬師として安心したのか、その両方なのかは分からないが、あれは機嫌が良い時の顔だ。


「妥当です」


返答は短かった。


その短い返答の中に安堵が混じっている気がした。


「まず、店の仕事を止めないようにする」


俺は指を一本立てる。


「研究のために余分なスライムを狩らない。普段の仕事の範囲でやる」


「はい」


アイスは即座に頷いた。


「俺の体調が悪ければ中止」


「当然です」


「強制的に魔力を減らすようなことはしない」


「文書にも記載されています」


「採った素材で作った試作品は、人に飲ませる前に薬師会の安全確認を通す」


「それも妥当です」


ミーナも隣で頷いている。


俺はさらに続けた。


「ホワイトとミルは関係させない」


その言葉を口にした時だけ、少し強めの声になった。


窓際ではホワイトがまだ外を見ている。


こちらの会話は聞こえているだろう。


聞こえていても口を挟まない。


だからこそ先に線を引いておく。


「あいつらを調べる話は、本人が落ち着いて、正式な立場が決まって、本人が望んでからだ」


「当然です」


アイスの返答に迷いはなかった。


「研究結果を王都の商会へ勝手に渡さない」


俺はさらに条件を重ねる。


「新薬の製法を契約へ使うなら、青ぷよ薬房の名前と権利を残す」


共同開発という言葉は聞こえこそ良いが、その実態は契約内容次第でいくらでも姿を変えるもので、最初は対等な協力関係として始まったはずなのに、気付けば資金や販路を握っている側だけが利益と権利を確保し、実際に技術や発想を提供した側は名前だけ残されるか、ひどい場合にはその名前すら消えてしまうという話は珍しくないし、そうした事例はこの世界でも前の世界でもいくらでも存在していた。少なくとも俺はそういう商談や契約の揉め事を何件か見聞きしてきたし、クラウスからも商会同士の駆け引きや権利関係で失敗した話を何度となく聞かされている。だからこそ後になって解釈の違いだとか認識のずれだとか言われないように、誰が何を提供し、どの権利を持ち、利益が出た場合にどう分配するのかを最初の段階で明確にしておく必要がある。曖昧な善意や信頼だけに頼るつもりはないし、後から揉める原因になるような余地も残したくない。だからできる限り最初に決めて、曖昧なままにはしない。


「あと」


俺はここまで並べた条件を頭の中で点検し、「よし、たぶん大事なことは言ったな」と確認してから、最後にひとつだけ付け加えた。


半分は冗談、だが半分は本気だ。


「俺のスキル名を勝手に格好いい名前へ変えない」


その瞬間だった。


さっきまで契約だの権利だの研究倫理だのと真面目な話をしていた部屋の空気が、まるで誰かが時間停止魔法でも使ったかのように固まった。


ミーナはゆっくり瞬きを一回。


それから俺を見る。


アイスを見る。


もう一度俺を見る。


確認するようにもう一回見る。


そんなに変なこと言ったか?


対するアイスも、珍しく言葉に詰まっていた。


本当に珍しい。


薬学の難問を投げても即答するし、未知の素材を見せても目を輝かせながら解説を始める人間が、今だけは数秒ほど沈黙している。


どう返せばいいのか真剣に考えている顔だった。


その様子だけで、この条件が完全に想定外だったことはよく分かった。


研究内容や契約条件なら何十通りも準備していただろう。


だが、最後に飛び出したのが「スキル名の改名禁止条項」だったせいで、その準備が全部吹き飛んだらしい。


たぶんアイスの頭の中では今、「研究倫理規定第三条」とか「契約書第七項」とかが並んでいたところへ、突然「超究極ぷよぷよマスター」とかいう謎の単語が乱入してきたのだろう。気持ちは分かるぞ?俺だって嫌だ。そんな名前にされたら二度と名乗れないからな。


「最後の条件は、研究上必要ですか」


「必要だ。〈超高精度スライム構造解析〉とか、妙な名前にされたら困る」


「正式再分類には、本人同意が必要です」


「なら、〈スライムキラー〉のままでいい」


「世間評価が低い名称ですが」


「もう慣れてる」


アイスは納得していない顔だったが、手紙の余白へ条件を書き始めた。


ミーナは、少し安心したように笑った。


「新しいポーションの開発も受けるんですか?」


俺はセレーナの手紙をもう一度見た。


魔力循環安定薬。


魔力を足すのではなく、戻る道を整える薬。


強制的に動くためではなく、休んで回復するための薬。


「試作まではやる」


「販売は?」


「安全性と使い方がはっきりしてからだ。効果があるからって、すぐ棚には並べない」


「はい」


「あと、名前はもう少し分かりやすくしたい」


「魔力循環安定薬で十分分かりやすいと思います」


アイスが言った。


「客は疲れて頭が痛い時に来るんだぞ。そんな時に魔力循環安定薬って言われて、すぐ分かるか?」


「正式名称は必要です」


「正式名称は帳簿へ書け。棚には“魔力切れのあとに休む薬”とかでいい」


「長いです」


「お前に言われたくない」


外から、槌の音が三度響いた。


店の裏では新しい壁が組み上がり始めている。古い柱を外し、腐った部分を捨て、必要なところを残し、別の木材で支えていく。すべてを壊して新しくするのではない。今あるものの役割を見直しながら足りないところを補い、危険なところを分ける。


俺自身も、同じことをしなければならないのかもしれない。


今までのやり方を捨てる必要はない。感覚も、経験も、手の癖も、スライムを見る目も、俺が長年積み重ねてきたものだ。けれどそれが何をしているのかを知らないまま、店だけを大きくするのは危ない。知らないことを知るのは怖い。分かったせいで変わることもあるだろう。それでも、分からないまま他人へ薬を渡し続けるほうが、今はもっと怖かった。


俺は机へ紙を置き、セレーナへの返事を書き始めた。


文字は決して上手くはない。アイスのように整ってもいないし、クラウスの文書のように隙のない言葉も使えない。それでも、自分の意思だけは分かるようには書いたつもりだ。


研究提案を、条件つきで受けること。


新しい魔力循環安定薬の試作へ協力すること。


技能観察は三日以内、一日二刻まで。


身体を傷つける試験、強制的な魔力枯渇、過剰な連続使用は行わない。


通常業務以上のスライムを研究目的で狩らない。


結果の外部公表と商業利用には、改めて本人と青ぷよ薬房の同意を必要とする。


ホワイトとミルは対象外。


スキル名は、勝手に変更しない。


最後の一文を書いた時、アイスが横から覗き込んだ。


「本当にそこを入れるのですか」


「当たり前だろ」


「研究提案への返書として、やや異質です」


「大事なことは書いておけと言ったのは、お前たちだろ?」


「確かにそうですが」


「なら書く」


俺は署名した。


“ロイド・ハイゼンフェルト”


その下へ、青ぷよ薬房店主、と書いた。


昔なら、自分の名前だけで終わっていたが、今はちゃんと店の名前を添えるようにしている。俺個人のスキルを調べる話であっても、その結果は店と従業員と、薬を飲む人間へつながるからな。これはもう俺一人だけの話ではないのだ。


返書を封筒へ入れたあと、俺は改築図面とセレーナの手紙を並べた。


工房の図面には、人と素材と水がどこを通るかが描かれている。手紙には、俺の感覚とスキルと調合が、どこでつながっているかを調べる手順が書かれている。


どちらも線だらけだった。


どちらも面倒だった。


どちらも、今後壊れないために必要なのだろう。


「俺はただ、静かにポーションを作りたかっただけなんだけどな」


そうつぶやくと、ミーナが新しい洗浄室の方を見ながら言った。


「静かに作り続けるために、今、ちゃんと整えているんだと思います」


「最近、お前に正論を言われる回数が増えたな」


「店主さんが正論から逃げる回数が多いからです」


アイスが手紙の控えを作りながら、顔を上げずに付け加えた。


「学ぶと決めたのであれば、明日の基礎薬学講座は予定通り行います」


「今、少しだけいい話だっただろ。余韻を壊すな」


「新薬開発へ進むなら、魔力枯渇と回路損傷の基礎は必須です」


「題名は」


「魔力枯渇後症候群における循環不全と補助製剤設計」


「短く」


「魔力切れの後に、何を飲ませてよいかの話です」


「それなら聞く」


「正式名称も覚えてもらいます」


「そこは譲らないんだな」


「必要です」


外では新しい壁が、少しずつ形になっていた。


俺の知らなかった工房の問題が図面になり、費用になり、工事になっていく。俺の知らなかったポーションの働きが手紙になり、研究計画になり、新しい薬の可能性へ変わっていく。俺の知らなかったスキルの中身も近いうちに測られ、比べられ、名前をつけられるのかもしれない。


怖くないと言えば嘘になる。


面倒でないと言えば、もっと大きな嘘になる。


それでも、俺は自分の名前を書いた。


知らないまま作り続けるのではなく、知ったうえで、それでも自分の手で作るために。


工房の裏から聞こえる槌の音は、古い店を壊す音というより、これからも店を続けるための骨組みを組む音に聞こえた。


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