第42話 セレーナからの手紙
解体初日、裏手の古い壁板を外したところで、誰も予定していなかった問題がひとつ見つかった。
柱だった。
見た目だけなら特に異常はない。
表面の木肌には多少の傷や色褪せこそあったものの、長年使われてきた建物としては十分に健全に見える状態で、少なくとも素人の俺には交換が必要なようには思えなかった。
ところが壁材が取り払われ、柱の根元まで見えるようになると状況は変わった。
地面に近い部分へ長い年月をかけて少しずつ水が入り込んでいたらしい。
木の表面はまだ形を保っている。
その内側が問題だった。
ゲン爺は腰を屈めると木槌で柱を数か所軽く叩き、返ってきた音を聞き比べた。乾いた音が返る場所もあれば、わずかに鈍く濁った音が返る場所もある。俺には違いがほとんど分からなかったが、ゲン爺の顔を見れば十分だった。
「ああ、駄目だな」
そう言いながら腰の小刀で表面を少し削る。
削れた木片の下から現れた部分は色が変わっており、指先で押されるとわずかに沈んだ。
芯の一部が柔らかくなっていたのである。
「交換だ」
判断は驚くほど早かった。ゲン爺は柱の根元を確認してから数十秒も経たないうちに結論を出し、補修で済むか、金具で補強できるか、しばらく様子を見るべきかといった選択肢を口にすることすらなかった。
「予備費から六百R」
「計算が早いな」
「腐った柱は値切っても丈夫にならん」
「分かってる」
分かっている。
理屈としては完全に理解できるし、建物の安全性を考えれば傷んだ柱を放置するという選択肢が存在しないことも頭では納得していたのだが、その理解と財布の中身が素直に受け入れてくれるかどうかはまったくの別問題なのである。
もし壁を開けるたびに六百R、七百Rと追加費用が顔を出すような状況になれば、いくら事前に予備費を積んでいたとしてもさすがに笑ってはいられない。
予備費というものは本来こうした想定外の事態に備えるための資金なのだろうが、帳簿の上で確保していた金額が実際に工事のたびに削られていき、数字として減っていく様子を目の当たりにすると、理性では必要経費だと分かっていても精神的な負担は想像以上に大きかった。
それでも幸いだったのは、その後に調べた柱の大半が交換必須というほど深刻な状態ではなかったことである。
湿気の影響を受けて変色している箇所や、わずかに傷みが進んでいる部分は見つかったものの、荷重のかかり方を計算したうえで補強材を追加し、力を分散させれば十分に現役で使える状態だとゲン爺が判断した。
最初の一本で交換宣告を受けた時には背中に冷たい汗が流れたが、そこから二本目、三本目と連続して交換対象が増えるような展開にはならず、最終的には予想よりずっと軽傷で済んだことでようやく胸を撫で下ろすことができた。
床板を剥がした際にも別の意味で発見があった。
正確には発見というより発掘と呼んだ方が近い。
長年の作業の中で床の隙間へ落ち込み、そのまま誰にも気付かれず蓄積していた薬草の切れ端や乾燥した葉、粉末化した根の欠片、さらには瓶詰め作業の最中に飛び散ったらしい乾いた粘液まで、ありとあらゆる作業の痕跡が床下から次々と姿を現した。
掃除していたつもりではあった。
実際、普段目に入る場所や手の届く範囲については定期的に掃除していたし、不衛生な状態を放置していたわけでもない。
ただ、床板の下だけはどうしても手が届かず、結果として数年分の作業記録とも言える堆積物が静かに積み重なり続けていたのである。
「うわ……」
床板を外した直後、黒ずんだ薬草の屑や乾燥した葉の塊が何層にも積もった床下を覗き込んだハルトが、鼻を押さえながら露骨に顔をしかめた。気持ちはよく分かる。俺も想像以上の量に思わず一歩引いたくらいだ。几帳面なユナが見れば、その場で卒倒してもおかしくない光景だったので、工事期間中は店頭側から近付かせないようにした。衛生管理に人一倍うるさい彼女なら、床下に数年分の作業残滓が堆積している現実を見ただけで精神的な大打撃を受けかねない。一方で、アイスの反応だけはまったく別方向だった。
「興味深いですね」
そう言いながら、なぜか小瓶を取り出していた。
「待て」
「数年間の沈殿物です」
「待て」
「環境変化による成分推移を――」
「待て」
完全に研究対象を見る学者の目になっており、床下から掘り出された正体不明の堆積物を前にしても嫌悪感より好奇心が勝っているあたり、薬師という職業の業の深さを感じずにはいられなかった。放置期間すら正確には分からない薬草屑や乾燥葉の混合物を見て目を輝かせる人間はそうそういないし、もしユナがその様子を見ていたら衛生面の観点から本気で説教を始めていたと思う。ゲン爺も俺とほぼ同じ感想だったらしく、アイスが小瓶片手に床下へ近付こうとした瞬間、「邪魔だ」の一言だけを短く告げ、そのまま首根っこを掴む勢いで工事区域の外へ追い出していた。
改築の成果が目に見える形になり始めたのは工事開始から四日目のことで、それまでの数日間は解体と補修ばかりが続いていたため、工房が便利になるどころか日に日に壊されていくようにしか見えず、正直なところ本当に完成するのか少し不安になるほどだったが、四日目を迎える頃には現場の風景が明らかに変わり始めていた。
新しい洗浄室には厚く加工された石床が据え付けられ、その上には二基の洗浄台が整然と設置され、さらに裏口から続く搬入経路には長い庇の骨組みが組まれ始めており、聞けば雨の日でも素材を濡らさずに運び込めるよう計算された構造らしく、実用性を重視した設計であることが一目で分かった。
特に感心したのは排水試験の日だった。
ゲン爺が大きな桶いっぱいに汲んだ水をためらいなく床へ撒くと、石床の上に大量の水が一気に広がった。
普通ならどこかに水溜まりができそうなものだったが、実際にはそうならない。
床全体へ薄く均一に広がった水は、目で見ただけではほとんど認識できないほど緩やかな傾斜に従って静かに動き始め、やがて細い流れとなって自然に排水溝へ集まり、そのまま沈殿槽へ吸い込まれていった。
その流れはあまりにも自然で、まるで最初から水が進むべき道筋を知っていたかのようだった。水は誰かに押されるわけでも、箒で掃き寄せられるわけでもなく、ただ床へ撒かれただけで勝手に正しい場所へ向かっていく。床そのものがそうなるよう緻密に作られているからこそ実現できる光景であり、一見すると何の変哲もない石床の下に職人の経験と計算が詰め込まれていることがよく分かった。
ユナはそんな様子を確認するためにしゃがみ込み、石床へ顔を近付けるようにしながら真剣な表情で観察を続けていた。一度水を流して確認し、次に場所を変えてもう一度流し、さらに別の位置からも試してみる。流れ方に不自然な点がないか、水が途中で滞留しないか、奥へ逆流する箇所がないかを細かく見て回り、最後には排水溝から離れた場所へわざと水を撒いて挙動を確かめていた。そして一通り確認を終えると、小さく頷いてから静かに言った。
「これなら奥へ水が戻りません」
その言葉を聞いた時のゲン爺は、職人が自分の仕事を正当に評価された時にだけ見せる独特の表情を浮かべていた。派手に喜ぶわけでもなく、大げさに胸を張るわけでもない。それでも口元はわずかに緩み、目元にも満足そうな色が浮かんでいて、自分の仕事が期待通りの結果を出したことを素直に喜んでいるのが伝わってきた。
工房側も大きく変わっていた。床は完全に水平へ直され、釜の周囲には灰色の耐火石が隙間なく敷き詰められているため見た目にも整然としており、以前よりずっと歩きやすそうに見える。
そのはずだった。
だが実際に立ってみると妙な違和感がある。
最初は理由が分からなかったが、何度か工房内を歩き回り、釜の前で立ち位置を変えながら確かめているうちにようやく原因に気付いた。これまで釜の前へ立つと右足側がほんのわずかに低くなっており、長年その状態で作業を続けていたせいで、俺の身体は無意識のうちに重心を左へ逃がして傾きを打ち消す立ち方を覚えてしまっていたのである。
ところが床が完全に水平へ修正されると、傾きそのものは消えたのに身体に染み付いた癖だけが残った。身体は以前と同じように傾きがあるつもりで立つ。しかし現実には床は真っ直ぐだ。その結果、今度は床ではなく自分の方がわずかに傾いてしまう。
俺は釜の前で何度も立ち位置を直しながら、長年積み重ねた慣れというものが思っていた以上に厄介で、環境が改善された後ですら簡単には抜けないのだということを改めて実感していた。
「慣れませんか」
釜の前で何度も足の位置を変えている俺を見ていたアイスが、記録用の石板を片手にしたままそう聞いてきた。
「床が真っ直ぐなのに、俺のほうが傾いてる感じがする」
自分でも妙なことを言っている自覚はあったが、実際にそうとしか表現できなかった。床を直し、時間をかけて水平を取り直した結果、工房の床面は以前のような微妙な傾きがなくなり、普通に考えればそれだけで作業環境は格段に改善されているはずだった。実際、物を置いても勝手に転がらないし、水をこぼしても不自然な方向へ流れていかないし、重い釜の足元も以前よりずっと安定している。それなのに、いざ自分が歩いたり立ち位置を調整したりすると、身体の感覚だけがどこか噛み合わず、まるで床ではなく自分自身のほうが傾いているような違和感を覚える。
「長年の姿勢補正です。腰への負担が減る可能性があります」
アイスは当然のように答えた。
「工房を直しただけで、俺の身体の癖まで暴かれるのか」
「環境と身体は相互に影響します。作業台へ手を伸ばす角度が数度変わるだけでも肩や腰の使い方は変化しますし、傾いた床で長時間立ち続ければ、無意識に片側へ体重を逃がす癖が身に付きます。さらに素材棚までの歩数や振り向く回数まで積み重なれば、一日の動作総量はかなりの差になります。そうした蓄積が数年単位で続けば、身体が環境に合わせて最適化されるのは自然な現象です」
非常にもっともらしい説明だった。
しかも、まだ序論が終わっただけで本題はこれからですと言わんばかりの口調だった。
このまま放っておけば、工房設計と身体負荷の関係から始まり、理想的な作業導線や疲労軽減のための設備配置にまで話が発展しそうだったので、俺は慌てて話題を切り上げた。
「分かった。つまり工房を直すと腰にもいい可能性がある」
「概ねその理解で問題ありません」
「よし、その話は終わりだ」
アイスはそれ以上説明を続ける機会を失ったことが少しだけ残念だったのか、ほんのわずかに口元を引き結んだようにも見えた。
もっとも、その変化は普段から表情の動きが少ない彼女だからこそ辛うじてそう見えただけで、本当に不満だったのか、それとも単なる気のせいだったのかは正直自信がない。
その日の昼過ぎ、改築工事が続く店の奥から槌で木材を打つ乾いた音や鉋で表面を削る規則的な音が絶え間なく響き、木屑の匂いが薄く漂う中で、レスタルムから一通の手紙が届いた。
配達人から受け取った封筒は手に持った瞬間に分かるほど妙に厚みがあり、単なる近況報告や事務的な連絡文にしては明らかに中身の紙が多そうだった。
表には薬師会を示す青銀印が押されている。
裏返すと、封蝋にはセレーナ・ヴァイス個人の印があった。
アイス宛ではない。
俺宛だった。
薬師会関連の書類でありながら名指しで俺に送られてきたという事実を確認した瞬間、胸の奥にじわりと嫌な予感が広がった。
セレーナから俺個人へ届く手紙は、これまでの経験を振り返る限り、平穏な日常や何事もない近況を知らせるためのものだった試しがほとんどない。
むしろ彼女がわざわざ俺宛に筆を執る時点で、何かしら面倒な話や予想外の報告が含まれている可能性が高く、その傾向は過去の実績によって十分すぎるほど証明されていた。
過去の経験から分類するなら、セレーナから届く手紙はだいたい三種類に分けられる。ひとつは「興味深い結果が出ました」という報告型で、一見すると学術的な成果報告に聞こえるのだが、その実態は俺が関わった何かが予想外の方向へ発展していたり、常識外れの結果を叩き出していたりすることが多く、読み終えた頃には大抵新しい問題が増えている。もうひとつは「確認が必要です」という調査型で、こちらはまだ結論が出ていないぶん厄介で、追加資料の提出や事情説明を求められたり、場合によっては現地へ来てほしいなどと言われたりする。そして最後が「あなたの普通は普通ではありません」という指摘型で、本人としてはいつも通りにやっただけのことを薬師会側が異常事例として扱い始める最悪の分類だった。
どの種類であっても穏やかな内容だった記憶はほとんどなく、結果として俺の日常に余計な波風を立てるという点だけは共通している。そして今回の封筒は、手に持った瞬間から分かるほど厚かった。経験則で言えば、薄い手紙なら単なる連絡事項や確認事項だけで済む可能性もあるが、厚い手紙は危険だ。厚いということは、それだけ多くの情報や報告書、補足資料、依頼文、あるいは読んだ瞬間に頭を抱えたくなるような面倒事が詰め込まれている可能性が高い。少なくとも、封筒の厚みが安心材料になったことは一度もない。
工事の槌音が絶えず響く店の奥を横目に見ながら、俺はミーナとアイスを呼び、舞い上がる木屑や埃で紙を汚さないよう作業場から少し離れた机へ移動して封を切ることにした。ハルトとユナはそれぞれ別の作業に取り掛かっていたためその場にはいなかったが、内容次第では工房の運営や改築後の管理体制に関わる話になる可能性もあるので、必要になれば後で共有すればいい。
ホワイトは窓際の椅子に腰掛け、膝の上にミルを乗せたまま外の景色を眺めていた。どうやら他人宛の手紙にはまったく興味がないらしく、こちらで封蝋を割る音がしても振り返る気配はない。反応したのはミルだけで、耳をぴくりと動かしたもののそれ以上の関心は示さず、目を開けることすら面倒だと言わんばかりに丸くなったままだった。
俺は封蝋を崩し、慎重に中の紙束を取り出した。手紙は実にセレーナらしい構成で、季節の挨拶や長々とした前置きはほとんどなく、最低限の礼儀だけを整えたあとすぐに本題へ入るようになっている。要点が早いのは彼女の長所でもあるのだが、残念ながら俺の経験上、要点へ到達するまでが短い手紙ほど、その先に待っている内容は重く、そして面倒であることが多かった。




