第35話 青ぷよ薬房は今日も営業する
森から戻る道で、ホワイトはほとんど喋らなかった。
もともと口数の多い少年ではないし、こちらも無理に言葉を引き出すつもりはなかった。小川沿いで野生の青スライムが彼の足元へ寄ってきた光景は、俺にとってもミーナにとっても、アイスにとっても、そしてたぶん遠巻きに見ていたバルドにとっても、かなり衝撃のあるものだった。俺はスライム相手にだけ妙に手が利く。世間から外れと笑われた〈スライムキラー〉が、薬師会に言わせれば核位置把握だの損傷制御だの微細観察だのと、やたら立派な言葉で飾られるようになってしまった男だ。そんな俺から見てもホワイトの周囲で起きていた現象はおかしかった。スライムは弱い生き物であり、弱いからこそ臆病だ。臆病だからこそ外敵への反応が早いんだ。俺が近づけば核は奥へ沈み、外膜は張り、粘液は逃走方向へ寄る。それがホワイトの足元では、まるで湿った石か水辺に落ちた葉を見るように、警戒の薄い状態で近づいていた。あれは芸ではないし、餌付けでもない。魔物が一時的に気まぐれを起こした、というには反応が安定しすぎていた。
「スライムが……あんなふうに寄るんだな」
帰り道の途中、バルドがぽつりと言った。猟師として山の獣には慣れている男でも、あの光景は奇妙だったらしい。彼は弓を肩にかけたまま、少し離れて歩くホワイトの背中を見ていた。ホワイトはその視線に気づいているのかいないのか、襟元から出かけるミルを片手で押さえながら、畑へ続く道を黙って歩いている。
「俺も初めて見た」
「お前がスライム相手に変なのは昔から知ってるが、あの子はあの子で変だな」
「変って言うな。……いや、変なんだけどな」
「村長には俺からも話しておく。外の子を置くなら、変な噂が先に走らんようにしたほうがいい」
「…ああ、そうだな。助かる」
バルドは「礼は酒でいい」と言った。こういう時の村の男は、妙に頼りになる。普段は山で熊と相撲を取れそうな顔をしているくせに、村の空気を読む時だけは意外と繊細だ。ホワイトのような外から来た子どもを村に置くなら、好奇心だけで覗きに来る連中を抑える大人が必要になる。村の連中に悪いやつは1人もいないし、むしろ面倒見がいい人たちばかりだが、面倒見のよさが相手にとって重いこともある。あの少年が初日から婆さんたちに囲まれて「どこの子だい」「ご飯は食べたかい」「髪が白いねえ」などと言われたら、たぶん二時間で森へ逃げることにもなりかねない。…俺だって、たまに逃げたいと思う時があるくらいだからな。
青ぷよ薬房へ戻る頃には、朝の霧はほとんど消えていた。店の看板に描かれた青いスライムは、相変わらず笑っているのか溶けているのか分からない顔でこちらを見下ろしている。今朝は開店を少し遅らせる札を出しておいたので、店先に客はまだ少なかった。とはいえ、完全にいないわけではない。村の婆さんが一人杖をつきながら看板の下で待っており、こちらを見るなり「あら、今日はずいぶん大所帯だねえ」と、のんびりした声で言った。俺は曖昧に笑ってごまかした。事情を説明し始めると朝の販売が昼になる可能性があったからだ。
工房へ入ると、まだ昨日の釜の匂いが少し残っていた。スライム粘液と銀葉草と青水花が混ざった、青くて少し甘い匂い。ホワイトはその匂いに反応し、ほんの少しだけ鼻を動かした。嫌がるというより、確かめているようだった。ミルは逆に、襟元から顔を出してぷるぷる揺れた。白露スライムにとってこの工房の匂いがどういうものなのかは分からない。落ち着くのか、薬草が気になるのか、単にホワイトの懐から出たいだけなのか。アイスなら「反応差を記録する必要があります」と言うところだろうが、今はまず朝飯である。
「先に食べましょう。皆さん朝から何も食べてませんし、ホワイトくんもちゃんと食べたほうがいいです」
ミーナの言葉に、ホワイトは少し身構えた。
「いらない」
「昨日の夜も半分しか食べてません。食べられる時に食べるのも大事です」
「……腹、減ってない」
腹が減っていない顔ではなかった。ホワイトの言葉は、必要ない、迷惑をかけない、借りを作らない、そういうものがまとめて一つになった拒否に聞こえた。俺は釜の横に置いてあった椅子を引き、少しわざとらしく腰を下ろした。
「いいか、よく聞け。青ぷよ薬房では、朝から森へ行った人間は何かしら腹に入れなきゃいけない。これは店の決まりだ」
「そんな決まり、昨日なかった」
「今できたんだよ」
「適当」
「店主権限だ」
「横暴」
「飯を食わせる横暴なら、まだましなほうだろ」
ホワイトは不満そうに俺を見たが、ミーナが出した薄い麦粥と焼き直した黒パン、小さく切った干し肉には、結局手を伸ばした。食べる動作は相変わらず慎重だったが、昨日よりは少し早い。ミルが麦粥の椀へ体を伸ばしそうになり、ホワイトが「お前は水」と小声で止めていた。ミーナが小皿に井戸水を入れて床へ置くと、ミルはぴょこりとそこへ降り、白い体の端だけを水に浸した。スライムが小皿で水を飲むという光景はなかなか奇妙だったが、もう朝からいろいろ見すぎて逆に驚く力が少し鈍っている気もする。
朝飯を口に運びながら、俺たちはそれぞれ店を開けるための準備も同時に進めていた。ミーナは店頭に出す札を一枚ずつ確認し、今日は通常回復薬の本数をいつもより少なめに抑えること、それから高純度回復薬については昨日決めた通り五本だけ並べることを、手慣れた字で木板に書きつけていく。アイスは昨夜使った簡易反応紙を布袋の奥へしまい込み、ホワイトの前ではそれ以上広げないようにしていたあたり、少なくとも多少は学習しているらしい。俺は俺で、釜の火床に残った灰の具合を確かめ、昨日洗って吊るしておいた濾過布がきちんと乾いているか指先で確かめてから、朝の仕込みに使う水を桶へ移した。工房が少しずつ動き始めると、不思議なことに、胸の奥のざわつきがいくらか静まっていく。人間の事情は複雑で、雇用契約という言葉はやたら重く、未成年の保護問題となると考えるだけで胃のあたりが痛くなる。けれど釜と水と瓶は、少なくともこちらがやるべきことを黙って教えてくれる。水は澄んでいるか。布は乾いているか。瓶の口は欠けていないか。薬草は湿りすぎていないか。そういう一つ一つは、面倒で、細かくて、決して簡単ではないが、こちらが向き合えば逃げずに答えを返してくれる。
「ホワイト」
麦粥を半分ほど食べ終え、匙を椀の縁に置いてから、俺はできるだけ声を荒げないように彼へ呼びかけた。
「言いたくないところまで無理に聞くつもりはないが、話せる範囲でいいから聞かせてくれないか?全部じゃなくていいから」
ホワイトはすぐには答えず、湯気の薄くなった椀の中をじっと見つめたまま黙っていた。小皿の縁をぺろりと舐めていたミルが、空気の変化を察したようにゆっくり戻ってきて、彼の足元に体を寄せるように丸くなる。ミーナは店頭札を持った手を途中で止め、アイスも記録板を開きかけた姿勢のまま、羽ペンには触れなかった。これを記録するかどうかは、慎重に考えるべき内容だ。少なくとも、本人の前で羽ペンを走らせるものではない。
「……フロー家」
ホワイトはずいぶん長く黙ってから、喉の奥に引っかかったものを押し出すようにそう言った。
椀を持つ指に力が入り、白くなった関節だけが、彼の平らな声に乗らなかった感情を代わりに示していた。視線は麦粥の表面に落ちたままで、こちらを見る気配はない。話したくないのではなく、どう話せばいいのか分からない。そんな不器用さが、短い沈黙のたびに滲んでいた。
「俺は、正妻の子じゃない」
そこで言葉が途切れる。
ホワイトは唇を結び、匙の柄を親指で一度だけ擦った。
「名前はある。でも、家の人間じゃない。客が来たら、奥に行けって言われる。食事も別。皿も別。部屋は……使用人区画の端」
淡々とした声だった。
感情を押し殺しているというより、最初から感情を乗せる習慣がないように聞こえる。
「父親は、あんまり見ない。奥様は……俺を見ると嫌な顔する」
それだけ言って、また黙る。
だが、それだけで十分だった。
客人の前には出さない。食卓にも着かせない。住む場所も分ける。
一つ一つは短い言葉なのに、その扱いがどういうものだったのかは嫌になるほど伝わってくる。
「薬品倉庫で働かされていたのか」
俺が尋ねると、ホワイトは小さく頷いた。
「瓶を運ぶ。棚を拭く。札を貼る」
ぽつり、ぽつりと単語を置いていく。
会話というより報告書に近い。
「古い薬を分ける。在庫を数える。薬草を運ぶ」
そこまで言ってから少しだけ考えるように視線を動かした。
「毒の棚は触るなって言われてた」
短く言ったあと、すぐに続ける。
「でも、誰もやらない時は俺がやる」
その言葉には不満も皮肉もなかった。
ただ事実を述べているだけだった。
「間違えると怒鳴られる。瓶を割ると殴られる。名前を覚えられないと怒鳴られる」
ホワイトの声は終始変わらない。
けれど、その一定の調子がかえって重かった。
慣れているのだ。
怒鳴られることも、殴られることも。
特別な出来事ではなく、日常として受け入れてしまっている。
「覚えたら?」
俺が聞くと、彼はようやく顔をわずかに上げた。
「もっとやらされる」
それだけだった。
「この瓶はお前が分かるだろって言われる。この札も読めるだろって言われる。倉庫の奥にあるやつも取ってこいって言われる。俺が覚えたら、俺の仕事になる」
無愛想な声は変わらない。
だが、そこに並んだ言葉は、子供が知識を得ていく喜びとはほど遠かった。
「教育じゃなかったんだな」
俺がそう言うとホワイトは少し黙り、眉間に浅く皺を寄せた。
その言葉の意味を考えているようにも、自分の中にあるものと照らし合わせているようにも見えた。
「……違う」
彼は短く答えた。
そしてまた少し間を置いてから、吐き捨てるほどの勢いもなく、ただ事実を置くように言った。
「雑用」
短い言葉だった。
だがその二文字の奥には、長い時間をかけて積み重なった扱われ方が沈んでいた。
教えるために倉庫へ入れたのではない。役に立つから置いた。覚えさせるために説明したのではない。間違えられると困るから怒鳴った。できるようになったから褒めたのではない。できると分かったから、さらに奥の棚まで押し込んだ。
薬品倉庫という本来なら知識と安全管理が必要な場所で、ホワイトは子供の頃から労働力として扱われていたのだろう。
だから彼が薬品名を覚えていることも、瓶の扱いに慣れていることも、毒物の札を見ただけで反応できることも、誰かに褒められながら身につけた知識ではない。
失敗すれば痛みが返ってくる環境で、生き残るために覚えた知識だった。だからこそ彼はポーションについても詳しいのだ。そして、そのことを誇る様子は少しもなかった。
ミーナの顔からは、さっきまで残っていた仕事中の気配がすっかり消えていた。血の気が引いたように青ざめた表情のまま、彼女は何も言えずに立ち尽くしている。アイスもまた珍しく口を閉ざしていた。いつもなら何かしら分析めいたことを挟むか、あるいは余計な一言を付け加えるところだが、今は違う。その静けさは落ち着いているというより、むしろ張り詰めていて、下手に触れれば切れてしまいそうなほどだった。
「……暴力は、日常的にあったのか」
俺はできるだけ感情を抑え、言葉を選びながら尋ねた。問い詰めるようには聞こえないように。それでいて、聞かなければならないことから目を逸らさないように。
ホワイトはすぐには答えなかった。
ただ、しばらく視線を落としたまま黙っていたあと、何かを決めたように左手を持ち上げ、袖口を少しだけまくった。
その下から現れたものを見た瞬間、俺は喉の奥がひどく渇くのを感じた。
細い腕には、古い痣が消えきらずに残した淡い色の跡がいくつも散らばっていた。擦り傷が治ったあとの白い線が幾重にも重なり、小さな火傷の痕のように色の変わった斑点もあちこちに見える。ひとつひとつは目立たない。だが、それらが集まることで、かえって異常さが際立っていた。新しい傷はほとんどない。それなのに、古い傷跡だけが幾層にも積み重なり、その腕がどれだけ長い時間をそうして過ごしてきたのかを物語っているようだった。
薬品によるものなのかもしれない。強く縛られた痕なのかもしれない。あるいは熱した器具に触れさせられたのかもしれない。
俺には正確なことは分からなかった。
分からなかったが、一つだけははっきりしていた。
少なくとも、普通に暮らし、普通に働き、普通に誰かに守られて生きていれば、こんな傷の重なり方はしない。
ホワイトは俺たちの反応を確かめようとはしなかった。
むしろ見ないようにしているようだった。
視線はずっと床へ落ちたままで、袖をまくった腕だけを静かに差し出している。
その手は震えていなかった。
怯えている様子もなかった。
それが、ひどく胸に刺さった。
傷そのものを見るよりも、その無反応さのほうがつらかった。
見せることに慣れているのだ。
見られることにも。
そしておそらく――その傷と共に生きることにも。
「もういい。下ろせ」
俺がそう言うと、ホワイトはすぐ袖を戻した。
ミーナが何か言いかけたがすぐに言葉を飲んだ。アイスは低い声で言った。
「治療が必要な新しい傷はありますか」
アイスの問いかけは静かだった。けれど、その静けさの奥には薬師としての緊張感が滲んでいる。感情ではなく事実を確認するための質問だ。
「ない」
ホワイトは短く答えた。
「痛みはありますか」
「別に」
「『別に』では判断できません」
アイスの声色は変わらない。
「痛みがないのか、痛みはあるが我慢できるのか、慢性的すぎて気にならないのか、それだけでは分かりません」
一瞬の沈黙。
ホワイトは少しだけ眉を寄せたが、やがて小さく言った。
「ない」
「分かりました」
アイスはそれ以上追及しなかった。
俺は思わずそちらを見た。
普段のアイスなら、もう少し掘り下げているところだろう。痛みの種類や継続期間、可動域への影響、睡眠への支障まで確認していてもおかしくない。それなのに今日はそこで止めた。
たぶん、それが最善だと判断したのだろう。
今必要なのは診察ではなく、話を聞くことだ。
これ以上問い詰めれば、せっかく開きかけた口がまた閉じてしまうかもしれない。
「商会へ奉公に出される話は、いつ聞いた」
俺がそう尋ねると、ホワイトは再び視線を椀へ落とした。
冷めかけた麦粥を見つめながら、ぽつりぽつりと言葉を落としていく。
「三日前」
「どこで聞いた」
「倉庫」
「誰から直接言われたわけじゃないのか」
「奥様と番頭が話してた」
その声には怒りも悲しみもなかった。
まるで昨日の天気を説明するような平坦さだった。
「俺を北の商会へ出すって」
「北の商会……」
「薬品扱えるから使えるって」
ホワイトはそこで少し間を置いた。
そして、視線を上げないまま続ける。
「家に置いても邪魔だって」
工房の空気がさらに重くなった気がした。
「契約金が入るって言ってた」
俺は無意識に奥歯を噛み締めていた。
「本人の意思は聞かれたのか」
ホワイトはわずかに肩をすくめた。
それは苦笑にも見えたし、呆れにも見えた。
「聞かれるわけない」
その一言が妙に重かった。
本人にとっては当たり前すぎて、疑問にすらならないのだろう。
だからこそ重い。
「契約書は見たか」
「見てない」
「内容も知らない?」
「知らない」
「それで逃げたのか」
少しだけ間が空いた。
ホワイトは椀の縁を見つめたまま、小さくうなずく。
「その夜」
話そのものは短かった。
驚くほど短く、説明も少ない。
けれど、それで十分だった。
フロー家の隠し子として表には出されず、使用人区画で暮らしながら危険な薬品倉庫の雑務を押し付けられ、暴力を受け、そして今度は奉公という名目で商会へ送られようとしていた。
恐らく、そういうことだ。
本人の同意はない。
契約内容の説明もない。
どこへ行くのかも詳しく知らない。
ただ「使えるから売る」と判断されただけだ。
逃げる理由としては十分だった。
いや、十分すぎた。
俺は額を押さえたくなる衝動をどうにか堪えた。
やはりこれはもう単純な求人の話ではない。
ホワイトを従業員として採用するかどうか、そんな段階はとっくに通り過ぎている。
未成年者の保護。
貴族家との関係。
労務契約の適法性。
薬品倉庫の安全管理。
そして状況次第では、人身売買に近い案件として扱われる可能性すらある。
ちっぽけな薬房の店主が一人で抱えていい話ではなかった。
クラウスには相談が必要だろう。
ギデオンにも話を通すべきだ。
村長にも改めて事情を共有しなければならない。
場合によってはセレーナや薬師会まで巻き込むことになるかもしれないが、だからといってこのままにしておくわけにもいかない。
考えれば考えるほど、話が大きくなっていく。
俺はただ従業員を一人増やそうとしていたはずなのに、どうしてここで没落貴族家の家庭内問題と希少スライムと未鑑定スキルが一緒に釜へ放り込まれるのか。そんな鍋、誰がかき混ぜても爆発するだろう。
俺はただ従業員を一人増やすかどうか考えていただけのはずだった。
どうしてそうなる。
…いや、本当に。
「話してくれて助かった」
「……雇う?」
「今すぐは無理だ」
ホワイトの目が冷えかけたので、慌てて俺は続けた。
「今すぐ雇うと言ったら、それは俺が君を利用することになるだろ?君のスライムの力を見たあとで、事情も整理せず契約もせず、働けと言うのはおかしい。まずは君が安全にいられる形を作るところからだ」
「……面倒」
「そうだな。面倒だ。でも必要なことだ」
ミーナはしばらく黙っていたが、やがて張り詰めていた表情をわずかに緩め、小さく息を吐くように笑った。その笑みは明るいものではなかったが、それでも先ほどまでの重苦しい空気をほんの少しだけ和らげるものだった。アイスも隣で静かに頷く。
以前、アイスが言っていたことを思い出す。
面倒であることと、必要であることは両立する、と。
そのときは薬品管理だの記録作業だの、そういう話だったはずだ。誰も好き好んで増やしたい仕事ではないが、だからといって省いていいものでもない。そんな意味だった。
まさかその言葉を、十五歳の少年の人生そのものに当てはめることになるとは思わなかった。
正直なところ、面倒だ。
未成年保護だの雇用契約だの、貴族家だの商会だの、考えるだけで頭が痛い。
だが、だからといって放り出していい話でもない。
世の中には本当に、知らないままでいたほうが楽だった知識が多すぎる。
知らなければ気楽に薬を作って暮らしていられたかもしれない。
知らなければ、「行き倒れの少年を拾った」で終わっていたかもしれない。
けれど一度知ってしまった以上、それをなかったことにはできないのだ。
朝食を終えると、俺は店のことをミーナとアイスに任せ、自分は村長の家へ向かうことにした。
ホワイトは店の奥で休ませている。
逃げ出す可能性がまったくないとは言えなかったが、少なくとも今の様子を見る限り、その心配はそれほど大きくないように思えた。ミルは水皿のそばで相変わらずぷるぷると揺れながら居座っていたし、ホワイト自身も昨夜からの疲労が抜けていないらしく、立ち上がるのさえ億劫そうだった。
何より大きかったのは、バルドが近くにいてくれることだ。
あの男は護衛を名乗るタイプではないが、店先で黙々と薪を割っているだけで妙な威圧感がある。少なくとも、不審者が近づけば真っ先に目につくだろうし、面倒事を起こそうと考える人間なら大抵は引き返す。
そういう意味では、辺境村における見張りとしては非常に優秀だった。
村長の家へ着くと、当人はすでに事情をある程度把握していたらしい。
俺の姿を認めた瞬間、村長は書類から目を上げ、心底疲れたような顔で長いため息を吐いた。
「ロイド、お前の店は本当に話題に困らんな」
呆れと諦めが半分ずつ混じった声だった。
「俺は困ってます」
即答すると、村長は「だろうな」と短く返しながら椅子を顎で示した。
「まあ、そうだろうな。座れ」
俺は勧められるまま腰を下ろし、昨夜よりもさらに詳しく事情を説明した。
ホワイトが語ったこと。
家を出た経緯。
本人が帰ることを望んでいないこと。
腕に残っていた傷のこと。
フロー家からどこかの商会へ出される予定だったらしい話。
スライムに対して異様なほど高い親和性を示したこと。
そして今朝、森で行った確認の結果まで。
話が進むにつれ、村長の表情は少しずつ険しくなっていった。
特にフロー家の名前が出たところで、露骨に眉間へ皺が寄る。
「フロー家か……」
低く漏らされた声には、歓迎していないという感情がはっきり滲んでいた。
どうやら村長も、その名をまったく知らないわけではなかったらしい。
辺境の小さな村とはいえ、薬品商いに関わる家の情報が完全に届かないわけではない。薬草の買い取りや薬品流通の関係で、フロー家の名前は何度か耳にしたことがあるという。
それも、あまり良い話ばかりではなかったようだ。
村長は机の上で指を組み、何か思い返すように視線を落とした。
古い薬草の買い付け価格でもめた話。
流通先との揉め事。
取引相手への強引な圧力。
噂の域を出ない話も多いが、同じような話が何度も別々の場所から聞こえてくる時点で、まったくの無関係とも思えなかった。
「その子を正式に村へ置くなら、斡旋局を通すしかないな」
「ええ。今日中にレスタルムへ連絡を出します。ギデオンへ直接」
「それがいい。少年の家族には勝手に知らせるな。先に斡旋局へ話し、場合によっては商業組合や薬師会も巻き込め。貴族家の内側に踏み込むなら、こちらも筋を通さねばならん」
「分かっています」
「今のところ、村としてはどう扱う?」
俺が聞くと、村長はしばらく考えた。
「短期滞在の客人だ。労働者ではないし、給金は発生しない。店の手伝いをさせるなら、遊び半分の手伝いも避けろ。後で“無契約で働かせた”と言われると厄介だからな。寝場所はお前の店の奥か、集会小屋の予備部屋を使えばいい。年齢と事情を考えると、一人で納屋へ寝かせるのは避けたほうがいいぞ?食事はお前の店で出すなら、村の短期滞在扶助として記録しておこう。あとで必要なら村の帳面にも残しておく」
「村長、意外と制度に強いですね」
「村長を何だと思っている。揉め事の帳尻を合わせるのが仕事だ」
「ギデオンみたいなことを言う」
「都会ほど紙は多くないが、村にも村の紙はある」
紙からは逃げられないらしい。
俺は思わず額を押さえた。問題は何ひとつ解決していないし、むしろ整理すればするほど厄介な要素が増えているような気さえしたが、それでも村長がホワイトの客人としての短期滞在を認めてくれたことで、少なくとも今夜から明日にかけて何をすべきかという道筋だけは見えてきていた。期限を明確に定める。職業斡旋局へ連絡を入れる。フロー家へ直接引き渡さない。店で働かせない。本人の証言を記録として残す。必要なら薬師会にも相談する。やるべきことは山ほどあるし、考えただけで胃が重くなるような内容ばかりだが、それでも順番が見えているだけ昨日の夜よりははるかにましだった。問題というものは、量そのものよりも、何から手を付ければいいか分からない状態のほうが人を疲れさせる。
「それで、従業員のほうはどうする」
村長が不意に話題を変えた。
「え?」
あまりにも自然な流れだったので、一瞬何の話か理解できなかった。
「昨日、面接だったのだろう。職業斡旋局から来た者たちだ」
村長は湯呑みを指先で回しながら続ける。
「誰を雇うか決めたのかと聞いている」
俺は答えなかった。
答えなかったというより、答えられなかった。
その沈黙だけで十分だったらしい。
村長の口元がゆっくりと吊り上がる。
「ほう」
嫌な笑い方だった。
「決めておらん顔だな」
「……決めかねています」
正直に認めると、村長は案の定という顔をした。
「候補は悪くなかったのか」
「悪くなかったから困っているんです」
俺は思わず深いため息を吐いた。
「瓶管理に向いた人がいる。衛生管理と受付に向いた人もいる。帳簿処理に強い人もいたし、力仕事なら任せられそうな人もいた。それぞれ長所が違うんです」
話しながら、自分でも昨日の面接を思い返す。
誰か一人が飛び抜けて優秀というわけではなかった。
その代わり、それぞれに店へ持ち込める価値があった。
だからこそ決められない。
「今の店に何が一番必要なのか考えれば考えるほど、逆に分からなくなるんですよ。どれも欲しいし、どれも足りない。結局、誰を選んでも別の何かを諦めることになる気がして」
「なるほどな」
村長は頷いた。
「初めての正式な従業員だから慎重になるのは分かる」
そう言って湯呑みを持ち上げると、ゆっくりと茶を口に含む。
急かすでもなく、慰めるでもなく、しばらく考える時間を与えるような間だった。
そして茶を飲み終えたあと、村長は静かに言った。
「ただな、ロイド」
「はい」
「慎重と臆病は近い」
その言葉に、俺は思わず顔をしかめた。
村長は構わず続ける。
「もちろん違うものだ。だがな、違うからこそ厄介なんだ。本人は慎重になっているつもりでも、気づけば臆病の側へ足を踏み入れていることがある」
「耳が痛いです」
「だろうな」
即答だった。
しかも妙に嬉しそうだった。
「お前は昔からそうだ。変なところで思い切りが悪い」
「変なところですか」
「変なところだ」
村長は断言した。
「新しい薬を試すときは妙に度胸がある。森へ入るときも迷わん。スライムを相手にしているときなど、こちらが止めたくなるくらい平然としておる」
「ちゃんと安全確認はしています」
「その安全確認のために危険地帯へ入るだろうが」
反論できなかった。
村長は肩を竦める。
「そのくせ、人間相手になると急に動けなくなる。相手の人生だの生活だのを考え始めて、自分が背負える範囲を超えたところまで抱え込もうとする」
「人間はスライムと違いますから」
「それは当然だ」
村長は即座に頷いた。
「だからこそ、最初から完璧な採用などできんのだ」
その言葉には妙な説得力があった。
「条件を決める。試用期間を設ける。教える。様子を見る。合わなければ職業斡旋局へ戻す。それも制度の一部だ」
村長は指を一本ずつ折りながら数えていく。
「雇うというのは、一生抱え込む契約を結ぶことではない。相手にも選ぶ権利があるし、お前にも判断する権利がある。働く側にとっても、ここが自分に合う職場か試す期間になるんだ」
俺は黙ってその言葉を聞いていた。
それはギデオンの言い方とは少し違っていた。
ギデオンは揉めないために条件を決めろと言った。
最初に線引きをしておけ。
期待値を揃えろ。
後から問題にならないようにしろ。
そういう実務的な助言だった。
一方で村長は、条件を整えたうえで前へ進めと言っている。
失敗しない方法を探すのではなく、失敗したときにやり直せる形を作れという考え方だった。
どちらも正しいのだろう。
そしておそらく、俺には後者が足りていなかった。
俺は採用というものを、どこか不可逆の魔導契約のように考えすぎていたのかもしれない。
一度結べば取り消せない。
失敗すれば取り返しがつかない。
そんなふうに。
もちろん軽々しく決めていい話ではない。
誰かの生活に関わる以上、責任はある。
だが、試用期間という制度は、まさにそのために存在しているのだ。
実際に働いてみる。
教える。
互いに合わせる。
問題があれば調整する。
それでも合わなければ別の道を選ぶ。
人間はスライム核のように、一度ひびが入ったら終わりというものではない。
いや、もちろん雑に扱っていいという話ではないのだが。
それでも、最初からすべてを見抜けると思い込むほうが、もしかすると傲慢なのかもしれなかった。
「店を大きくするなら、思い切りも必要だぞ」
村長は静かに言った。
「お前がずっと一人で釜を見ていたいのは知っている。けれど、もう村の便利屋では済まなくなっている。ミーナも頑張っている。外の客も来る。騎士団も薬師会も絡む。人を入れなければ、いずれお前かミーナが潰れる」
「分かっています」
「分かっているなら、決めろ。慎重に考えたうえで、最後は店主が決めるしかない」
店主。
その言葉は、いつまでたっても少し重い。
俺は青ぷよ薬房の店主だ。ふざけた名前の店の、スライムしか狩れないおっさん店主。けれど、その店で働きたいと言ってくれた人がいる。住み込みでもいいと言った人がいる。瓶を見られる人、衛生に気を配れる人、帳簿を整えられる人、力仕事をできる人。さらに予定外に、ホワイトのような少年まで来た。俺はもう、自分が静かに釜だけ見ていればいい段階にはいないのだろう。
「……今日、もう一度考えます。明日には斡旋局へ返事をします」
「それでいい。ホワイトの件も合わせてな」
「ええ」
村長は頷いた。
「それと、ロイド」
「はい」
「その子を助けたいなら、助ける形を間違えるな。可哀想だから置くのではなく、ここにいる理由と期限と責任を決めろ。人情だけでは、外の揉め事には勝てん」
「分かっています」
「ならよし。困ったら呼べ。村としても、子どもを夜道へ戻すつもりはない」
俺は深く頭を下げた。
青ぷよ薬房へ戻る道で、俺は村の空気を改めて見た。畑の畝、井戸の周りで話す婆さんたち、干された洗濯物、遠くの森、煙突から上がる細い煙。ここは俺にとって慣れた場所だ。静かで、狭くて、人の顔が見える場所。ホワイトにとっては、まだ何も知らない外の村だろう。もし少しの間だけでもここにいるなら、この村が彼にとって逃げ場所ではなく、息ができる場所になればいい。そう思ったが、同時にそれを俺が一人で抱え込んではいけないとも思った。
店へ戻ると、青ぷよ薬房はすでに開店直前の空気になっていた。朝の光が窓から差し込み、磨かれた瓶の表面で小さく反射している。工房の中には薬草の青い香りと湯を沸かしたあとの湿った熱気がわずかに残り、いつもの一日が始まろうとしていた。ミーナは店頭へ出す札を最終確認しながら並べ直しており、値段や在庫数に間違いがないか最後の点検をしている。アイスは工房の奥で朝の確認に使った水盤や器具を片づけており、金属と陶器が触れ合う小さな音が時折聞こえてきた。
そしてホワイトは、作業台の隅に置かれた椅子へ腰掛け、膝の上にミルを乗せたまま静かに座っていた。
何かをしているわけではない。
掃除をしているわけでもない。
薬草を仕分けているわけでもない。
働いているわけではない。
ただ客人として、朝の光が差し込む工房の隅に座り、時折ミルの柔らかな体を撫でているだけだった。
それでいい。
今は、それでいい。
何かを証明する必要もない。
役に立とうと無理をする必要もない。
少なくとも今日くらいは、そういうことを考えなくていいはずだ。
俺が戻ったことに気づいたのか、ホワイトが顔を上げた。
「……村長は?」
短い問いだったが、その声には結果を聞くのが怖いような警戒が混じっていた。
俺は近くの机へ荷物を置きながら答える。
「短い間なら、客人として置いてもいいことになった」
その言葉を聞いた瞬間、ホワイトの肩からわずかに力が抜けた気がした。
ほんの少しだったが、確かに見えた。
「職業斡旋局には今日連絡する。君を雇うかどうかの話はそのあとだ」
俺は続ける。
「だから今は働かなくていい。店の手伝いもまだしなくていい。飯はちゃんと食え。夜は寝ろ。余計なことは考えなくていい」
少し考えてから付け加えた。
「逃げるなら……できれば逃げる前に言ってくれ」
ホワイトの眉がぴくりと動く。
「逃げるって言ったら、止める?」
「止める」
俺は即答した。
「危ないからな」
森に飛び込む可能性もある。
追っ手に見つかる可能性もある。
行く当てもなく歩き回れば、最悪の場合は野垂れ死ぬ。
止めない理由がなかった。
ホワイトは小さく鼻を鳴らした。
「やっぱり」
「そこは諦めろ」
俺も肩を竦める。
「俺も一応は大人だからな」
するとホワイトは露骨に嫌そうな顔をした。
「大人、嫌い」
その一言に、ミーナが吹き出しそうになるのを慌てて堪えている。
俺は思わず苦笑した。
「そうか」
「嫌い」
「分かった分かった」
「信用できない」
「それはまあ、今までの話を聞く限り仕方ない気もするな」
ホワイトは少しだけ驚いたようにこちらを見た。
たぶん反論されると思っていたのだろう。
だが俺にも覚えはある。
若い頃――いや、今でも十分若いのだが、それでも年上の人間に対して理不尽さを感じたことくらいはある。
「俺も若い頃はそうだった」
そう言うと、ホワイトは何も返さなかった。
ただ黙ったままミルの頭を撫でる。
けれど椅子から立ち上がることもなければ、視線を逸らして閉じこもることもしなかった。
少なくとも、この場から逃げ出したいとは思っていないらしい。
それだけで十分だった。
ミーナは小さく笑みを浮かべると、店の入口へ向かい、扉を開ける準備を始めた。
外を見ると、すでに数人の客が待っている。
農具を担いだ男。
薬草を売りに来たらしい老婆。
いつもの腰痛持ちの猟師。
見慣れた顔ばかりだった。
今日もポーションは売れるだろう。
棚の瓶は減っていく。
釜は回り続ける。
薬草は消費される。
在庫表は書き換えられる。
そして俺の仕事も増える。
職業斡旋局への返事を書かなければならない。
ホワイトの件もある。
フロー家についても調べる必要がある。
村長とのやり取りは記録として整理しておかなければならない。
候補者たちの評価もまとめなければならないし、新しい従業員を誰にするかも決めなければならない。
考えるだけで頭が重くなる。
実際、少し痛かった。
問題は山積みだった。
…昨日より増えている気すらする。
それでも店は開く。
問題があるからといって客が待ってくれるわけではないし、薬が必要な人間は今日もいる。
青ぷよ薬房は今日も営業する。
棚には青い瓶が並び、工房では湯が沸き、スライムはぷるぷるし、誰かが薬を求めて扉を叩く。
それがこの店の日常だ。
そして俺は、その日常を回し続ける側の人間になった。
どうやら本当に。
もう見習いでも、一人の薬師でもなく。
事業者として次の一歩を踏み出さなければならないらしい。




