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第36話 朝から情報量が多い



あれから数週間が経った。


こう言うと、何か大きな事件が一段落し、青ぷよ薬房にもようやく平穏な日々が戻ってきたように聞こえるかもしれないが、実際のところ戻ってきたのは平穏ではなく、平穏に見えるよう努力している忙しさだった。朝になると店の前に並ぶ客は相変わらずいるし、騎士団納品分の木箱は相変わらず棚の奥に場所を取っているし、薬師会へ渡す研究用の小瓶はアイスの記録札つきでやたら厳重に保管されているし、村の婆さんは疲労軽減薬を買うたびに「休む前の一本ねえ」と言いながら、どう見ても翌朝さらに畑を広げる顔をしている。変わったことがあるとすれば、その忙しさの中に俺とミーナとアイスだけではない足音が混ざるようになったことだ。


青ぷよ薬房には、正式な従業員が二人増えた。


この一文だけ書くと、いかにも店が順調に発展しているように見える。実際、商業組合へ提出する事業報告書にそう書けば、クラウスあたりは「ようやく人員計画が形になってきた」と眼鏡を押し上げながら頷くかもしれない。けれど現場の俺からすると、人を増やすというのは店に便利な魔導具を置くような話ではまったくなかった。人が二人増えるということは椅子が二つ増えるだけではなく、寝床が二つ必要になり、食事の量が増え、湯を沸かす回数が増え、作業手順を言葉で説明しなければならなくなり、誰が何をどこまで触っていいのか札を増やす必要が生まれるということ。つまり休みの日をきちんと考え、給金の日を決して忘れず、体調が悪ければ代わりの配置を組まなければならないし、失敗した時に怒鳴るのではなく教え直しながらうまくできた時にはちゃんと褒めるという、俺が今までスライム相手には一度も考えたことのない仕事が山のように増えるということだった。


最初に採用したのは、ハルト・グレインだった。


四人いた最初の応募者の中で、誰を選ぶかは本当に悩んだ。ネリアは洗浄と衛生の感覚が良く、薬品を軽く扱わないところがかなり魅力だったし、リゼットは帳簿と在庫表の作り方が見事で、あのまま机に座らせたら三日で俺の帳簿が別人のようになる気配すらあったし、ボリスは工房の整備や納屋の修理、薪割り、周辺警戒には頼れそうだった。誰も悪くなかった。むしろ、全員どこかしら欲しかった。そこが一番困ったのだ。全員採るほどの部屋も金も俺の頭もなかったので、村長とギデオンとクラウスに相談し、ミーナとアイスとも何度も木板を挟んで話し合った結果、最初の正式な住み込み従業員は、瓶確認、梱包、棚管理、在庫補助に強いハルトに決めることにした。


理由は単純で、今の青ぷよ薬房で一番頻繁に詰まっていたのが瓶と棚と箱だったからだ。


ポーションは釜から勝手に瓶へ入らない。瓶は洗わなければならないし、乾かさなければならないし、口元の欠けを見なければならないし、栓の合いを確かめなければならない。ラベルを貼り、販売区分ごとに棚を分け、騎士団分は木箱へ詰め、研究提供分は番号札をつけてアイスの記録と照合し、村内生活用と外部冒険者向けを混ぜないようにする。俺は釜を見ることなら片手間にできる。ミーナは店頭を回すことならかなりできる。アイスは記録と分析なら、もう少し手加減を覚えてほしいくらいできる。けれど、その三人だけで瓶と箱と棚を全部見ると、誰かが必ず疲弊してしまう。主に俺の睡眠か、ミーナの笑顔か、アイスの機嫌のどれかが削れてしまうことになるだろう。最後の一つは削れてもいいのではないかと思う時もあるが、機嫌の悪いアイスは記録板の文字がいつもより細かくなるので、それはそれで後が怖いんだ。


ハルトは、その隙間にぴたりと入った。


朝、彼は工房の裏口横に置いた瓶箱を開け、乾いた布を机に敷き、光の入る窓際で一本ずつ瓶を回す。口の欠け、内側の水滴、栓の合い、底の歪み、瓶肌の細かな曇りを確認し、問題のないものを青札の箱へ、店内即日用なら使えるものを黄札の箱へ、薬用には回さないものを灰札の箱へ分ける。最初は動作が慎重すぎて時間がかかっていたが、二週間もすると瓶を持つ手つきが青ぷよ薬房の速度に馴染み始めた。肩に無理をさせないため重い木箱を一人で持たせないこと、棚の上段へ箱を上げないこと、騎士団用の納品箱は俺か村の若い衆と一緒に運ぶことを契約書に入れた。ギデオンからは「制限を書面にしたのは良い。現場で忘れるな」と釘を刺されたが、恐らく大丈夫だろう。イマイチ契約内容については小難しいことがつらつらと書き連ねれているので、その内容に目を通すたびに不安な気持ちになってしまうが、…まあそれはそれとして。


「店主、こちらの灰札箱ですが、瓶そのものは薬用に不向きですが、外用試験液や洗浄水の色見本なら使えると思います」


ハルトがある朝、そう言った。


「灰札は廃棄予定だったんだが、使えるか?」


「飲用や納品には避けるべきです。けれど、口欠けのないものもありますし、底が少し歪んでいるだけなら、工房内での見本瓶に回せるのではないでしょうか?廃棄の数も減らせますし」


「……なるほどな」


「廃棄数も記録しておきます。月末に瓶の仕入れ量を調整できるかもしれません」


俺はその時、ハルトを採ってよかったとかなり本気で思った。瓶の廃棄数から仕入れ量を考えるなど、以前の俺なら絶対にやらなかった。欠けた瓶を見て、「これは駄目だな」と横へ置き、そのまま忘れるのが当たり前だった。忘れた瓶が箱の底で増えていき、気づいた時には謎の瓶墓場ができていることが日常の景色の一部である。それが青ぷよ薬房の旧来の姿だったのだが、今では灰札箱に入った瓶まで用途と記録があり、店がまともになっているという実感を間近に感じるようになっていた。


もう一人の従業員は、応募が来た最初の四人からではなかった。


これも少し経緯がある。最初の応募者から一人だけを選び、残りの人たちへは職業斡旋局を通じて丁寧に返事をした。ネリアについては採用を見送ったものの、今後衛生補助や店頭聞き取り補助の枠が整えば改めて声をかけたいと伝えたし、リゼットには帳簿整理の短期依頼が出せる段階になったら相談したいと書いた。ボリスには正式従業員ではなく、納屋修理や薪割り、荷物運搬の短期作業依頼という形で別途お願いできないかと斡旋局へ相談した。全員を採らないことに最初はかなり罪悪感があったが、ギデオンに「採らない理由を記録し、今後の可能性を残すなら、それも誠実な対応だ」と言われ、少しだけ肩の荷が下りた。人を選ぶとは断ることも含めて責任なのだと、また一つ嫌な学びが増えたものだ。


二人目は、その後に追加で来た応募者の中から採用した。


名前はユナ・オルク。二十歳。レスタルム南門近くの共同洗濯場と短期の治療院清掃を経験したことがある女性で、職業斡旋局の紹介状には「丁寧な洗浄作業、黙々とした反復作業、住み込み希望、接客はやや不得手」と書かれていた。最初に面接した時、彼女は自分からほとんど喋らなかった。髪は暗い灰色で後ろに一つ結び、服装も実用本位、声は小さく、目立つことそのものが苦手そうで、正直なところ店頭に立つ姿はあまり想像できなかった。客が値段を聞き、冒険者が急ぎ、商人が品定めの目を向ける薬房の受付には向かないかもしれないと思ったのだ。けれど工房で布と瓶を洗わせた時、俺とミーナとアイスはほぼ同時に少し黙ることになった。


仕事が丁寧だったのである。


決して速いわけではないし、派手な技術があるわけでもない。だが瓶を水へ沈める時に余計な音を立てず、布を絞る時にも力を入れすぎず、栓の内側を洗う時には必要以上に擦らず、乾燥棚へ置く時には瓶同士の間隔まで自然に揃えていた。治療院で使う布や器具を扱った経験があるからだろうか、彼女は清潔と「綺麗に見えるだけ」の違いを理解していた。俺が昔よくやっていたような「見た目が綺麗だから大丈夫だろう」という雑な判断をしない。洗った瓶の内側に水滴が残れば保存性が落ちること、濾過布に洗剤の匂いが残れば薬液へ移ること、木栓を濡らしすぎれば後で膨らんで合いが悪くなること、そういった細かな話を説明すると、ユナは一度で覚えた。返事は「はい」か「分かりました」くらいしかないが、二度同じ注意をする機会が驚くほど少なかった。


アイスは彼女について、「工程安定性に価値があります」と言った。ロイド語に直すと、「地味だがかなり助かる」である。実際、その評価は的確だった。薬房という場所は薬を作る技術だけで成り立っているように見えて、その裏では瓶を洗い、布を乾かし、栓を傷めず、作業台を汚さないという、誰かが黙々と積み上げる地味な仕事に支えられている。ユナはその部分を任せられる人材だった。


そうして、青ぷよ薬房の正式従業員は、ハルトとユナの二名になった。


二人とも住み込みだ。ハルトには二階の物置を改装した部屋を使ってもらい、ユナには工房横の古い納屋を半分改修した部屋を使ってもらうことになった。納屋といっても、そのまま寝かせるわけにはいかないので、村の大工に傷んだ壁を直してもらい、床板を張り替え、内鍵をつけ、簡易の棚と寝台を置き、窓の隙間風対策もした。ギデオンからは「住み込み部屋は労働条件の一部だ。寝られればいいでは済まないぞ」と釘を刺され、クラウスからは「修繕費は事業経費として分けて記録しなさい。あとで混ざると面倒です」と淡々と言われ、俺はまた帳簿の項目を増やす羽目になった。建物修繕費、住居整備費、備品購入費。人を雇っただけなのに、紙の上では仕事が倍に増えていく。人が住む部屋にまで税と経費がついてくるのだから、世の中、本当に逃げ場がない。


二人が加入してからというもの、朝の青ぷよ薬房は以前とはまるで違う動きをするようになった。


夜明け前、まだ村のあちこちに灯りも少なく、空がようやく白み始める頃に俺が井戸水を汲んで工房へ入ると、ハルトはすでに作業を始めていることが多かった。といっても重い荷物を運んでいるわけではない。肩への負担を避けるため、水桶の運搬は俺か村の若い衆が担当することになっているので、ハルトは工房の作業台へ瓶確認用の布を広げ、前日に乾燥棚へ並べられた瓶を一本ずつ並べ直しながら、欠けや曇りがないかを確認する準備を整えている。最初の頃は動きにぎこちなさもあったが、数か月も経てば作業の順序が身体に染み込んだらしく、俺が工房へ入る頃にはすでに朝の仕事が始まっている状態になっていた。


ユナもまた早い。彼女はまず乾燥棚を確認し、前日に洗浄した瓶の内側へ水滴が残っていないかを光へ透かして調べ、木栓に余計な湿り気が残っていないか指先で確かめ、濾過布へ洗剤や保管臭が移っていないかまで確認してから、その日の最初の洗浄水を用意する。相変わらず口数は少ないが、作業に関しては驚くほど几帳面で、俺が気付く前に問題を見つけていることさえある。薬房という場所は薬を作る工程ばかりが目立つが、その前段階である洗浄や衛生管理が崩れると全部が台無しになるため、今では彼女の存在は完全に工程の一部になっていた。


ミーナは工房ではなく店側を担当している。朝になるとまず店頭札を確認し、その日の在庫数に合わせて掲示内容を書き換え、整理券の残数を数え、価格表を見直し、村内価格と外部価格の区分に間違いがないかを確認し、予約分の商品控えを整理したうえで釣銭箱の中身まで数えている。以前は俺が適当にやっていた部分だが、今思えばよくあれで問題が起きなかったものだ。ミーナが入ってからは金銭関係の混乱や予約品の渡し忘れが目に見えて減り、店としての安定感がかなり増した。


そしてアイスはというと、毎朝当然のように記録机の前へ陣取り、昨日の採取番号と仕込み番号を照合し、在庫記録と工程記録を確認し、何やら細かい数字を書き込んだあと、俺が釜へ向かおうとした絶妙なタイミングを見計らって口を開く。


「本日の優先工程を報告します。通常回復薬第三工程、粘液抽出液第二沈殿工程、高純度回復薬試験群――」


やめてほしい。


本当にやめてほしい。


朝一番から優先工程を読み上げられると、まるで俺の一日がすでに誰かによって予定表へ組み込まれ、管理され、監督されているような気分になる。もちろん内容そのものは間違っていないし、むしろ薬房としては非常に正しい行為なのだろう。だが俺は元々、一人で好き勝手に工房を回していた人間である。朝から「本日の優先工程」などという言葉を聞かされると、まだ釜へ火も入れていないのに仕事が終わった後の疲労感だけ先にやって来るのだ。


「本日は生活用回復薬二十、一般冒険者向け二十五、高純度回復薬十、うち騎士団納品六、店頭四、研究提供二。疲労軽減薬は在庫が六本残っていますので、追加仕込みは薄めを十本。解毒薬は緊急保管分を崩さず、店頭分三本のみ補充。ロイドさん、午前の釜は二回転までです。昨日の採取で粘液濃度が高かったので、加熱初期は弱めにしてください」


「朝から情報量が多い」


「必要情報です」


「せめて茶を飲んでからにしてくれ」


「茶の前に火入れ準備が必要です」


「お前は本当に朝からぶれないな」


アイスが相変わらず一切ぶれない一方で、ハルトのほうもこの毎朝のやり取りにはすっかり慣れてしまったらしい。最初の一週間ほどは、俺とアイスの会話を聞くたびに微妙な表情を浮かべ、「あの……店主と薬師会の方は、毎朝こういう会話をされるのですか」とかなり慎重な口調で尋ねてきたものだった。おそらく彼の中では、薬師と薬師会の関係について何か一般的な常識があり、その常識と目の前で繰り広げられている光景が噛み合わなかったのだろう。しかし人間というのは慣れる生き物である。今ではアイスが朝から工程管理を読み上げようが、俺が嫌そうな顔をしようが、その横で淡々と瓶を確認しながら作業を続けている。もはや気にするだけ無駄だと学習したらしい。


ユナに至ってはさらに動じなかった。


あの子は見た目によらず本当に逞しい。


口数は少ないし、自分から会話へ入ってくることもほとんどないが、その代わり青ぷよ薬房特有の妙な空気に対する耐性が異様に高い。普通の人間なら「それはどういう意味ですか」と聞き返すような場面でも、ごく自然に受け流すのである。


実際、ある日など、仕込み中の釜を見ながら俺が何気なく「この釜、今日は少し機嫌が悪いな」と呟いたことがあった。


もちろん俺としては比喩のつもりだった。


火力の通り方や薬液の反応が微妙に安定しない時、長年やっているとそういう表現が口をついて出ることがある。


ところがユナはその言葉を聞いても一切表情を変えず、


「では、予備の布を多めに出しておきます」


とだけ答えた。


説明を求めることもなければ、釜に機嫌などあるのかと疑問を呈することもない。


ただ、店主がそう言ったのなら工程が少し不安定なのだろうと判断し、自分にできる準備を増やしただけだった。


それ以来、俺が釜の機嫌だの薬液の癖だのを口にしても、誰も驚かなくなった。


ハルトは聞き流し、ユナは必要な対応を考え、アイスに至っては「機嫌ではなく熱効率の変動です」と訂正してくる。


店としてそれでいいのかは未だによく分からない。


分からないが、少なくとも仕事は問題なく回っているので、今のところはよしとしている。


ホワイトは、まだ正式な従業員ではない。


これは重要なことなので、俺自身も何度も確認している。


村長承認の短期滞在者。


職業斡旋局への相談中。


フロー家との確認待ち。


本人の安全確保を優先する客人。


現在の立場を整理するとそうなる。青ぷよ薬房で雇用しているわけではない。給金も支払っていないし、もちろん労働契約も結んでいない。業務命令も出していない。少なくとも書類の上では、そういうことになっている。


ただし、現実は少々曖昧だった。ホワイトは毎日のように工房の隅でミルと一緒に座っている。別に仕事をしているわけではない。本を読んでいることもあれば、窓の外を見ていることもあるし、ただ黙ってスライムを眺めていることもある。


だが、時々こちらがスライムの話をしていると、ぽつりと何かを言う。


その一言が妙に役立つことがある。


例えば店の裏に置いてある水桶へ小さな青スライムが入り込んでいた時もそうだった。


俺もミーナも気付いていなかったのだが、ホワイトだけが何気なく視線を向け、


「そこ、いる」


と短く言った。


見れば確かにいた。


水面と同じ色になって沈んでいた小型の青スライムが。


また別の日には、ミルが妙に落ち着かない様子を見せていた時、「あれ、近くに別のがいる」と言い、実際に店の裏から野生のスライムが見つかったこともあった。


これを手伝いと言うべきなのか。


それとも客人が偶然気付いた観察結果と言うべきなのか。


俺は未だに判断できていない。


おそらくギデオンに相談したら、「曖昧にするな。どちらかへ分類しろ」と即座に言われるだろう。


あの人はそういうところが徹底しているからな。


だから今のところ、ホワイトが何か有益な情報を教えてくれた場合は、記録上はすべて「情報提供」として処理している。


情報提供。


実に便利な言葉だ。


労働でもない。


雇用でもない。


業務でもない。


ただの情報提供である。


便利すぎて、少し怪しい気もするが。


フロー家の件は、時間が経った今でも完全に片づいたとは言い難かった。少なくとも俺の感覚では、ようやく事態が整理され始めた段階であり、解決にはまだ距離がある。現在は職業斡旋局と商業組合、それに薬師会の一部がそれぞれの立場から確認と調査を進めており、本人の意思を無視して無理やりフロー家へ戻すことは当面行わないという方向で話がまとまりつつあった。ただしその先の細かな手続きや法的な扱いになると、正直なところ俺の手には余る。薬を作ることなら分かるが、未成年保護や雇用関係、貴族家との権利関係となると専門外もいいところだった。


クラウスは「君は店主として、ホワイト君を雇うかどうか考える前に、まず本人の安全と法的立場を整えることへ協力しなさい」と言った。店の都合や人手不足の問題よりも先に、人間一人が安心して暮らせる状態を確保しろという意味だろう。セレーナは「未成年者が薬品倉庫でどのような扱いを受けていたのかについては、薬師会としても確認します」と静かな声で告げた。あの人は感情をあまり表に出さないが、逆に淡々としている時ほど本気で動く習性にある。そしてギデオンは、「保護と雇用を混ぜるな」と実に分かりやすく言った。余計な装飾も遠回しな表現もない。いつものギデオンである。三人とも言葉は違ったが、結論は同じだった。俺がホワイトを従業員として欲しいかどうかを考えるより先に、ホワイトが再び誰かの都合で使い潰される場所へ戻されないようにするための手続きが必要だということだ。


それでもホワイトとミルの存在は少しずつ、それこそ本人たちが意識しないうちに青ぷよ薬房の日常へ入り込み始めていた。


特にミルは、もはや半分ほどマスコットのような立場になりつつある。白い希少スライムという時点で本来なら大騒ぎになる存在なのだが、毎日見ていると人間の感覚というのは恐ろしいもので、その異常さより先に「いつもの光景」として認識され始めるらしい。工房の隅でぷるぷると揺れているだけでミーナは自然と目を細めるし、ハルトも最初こそ希少種という事実に緊張していたものの、今では普通に「ミルが通るので、この瓶箱は床へ置かないほうがいいですね」と言うようになった。注意している内容が完全に職場の安全管理である。ユナに至っては何も言わないまま、毎朝ミル用の小皿へ新しい水を入れ替えている。本人に聞いてもたぶん「必要だと思ったので」としか答えないだろう。


一方でホワイトは、「勝手に甘やかすな」と時々不機嫌そうな顔をする。するのだが、だからといって水皿を下げるわけでもなければ、ミルがその皿へ向かっても止めない。むしろミルが気持ちよさそうに水を吸っている時などは、本人も何も言わずに見ていることが多い。その辺りは非常に分かりやすかった。


もっとも、客にはまだ見せていない。


これは全員の意見が一致している。


見せたら間違いなく大騒ぎになる。


白い希少スライムが薬房にいるなどという話は、それだけで十分に人を呼び寄せる。


青ぷよ薬房の店頭に白い希少スライムがいます――そんな噂が広がれば、珍しいもの好きの商人が来るだろうし、研究熱心な薬師会の人間も来るだろう。場合によってはどこかの貴族が興味を示して使者を送ってくるかもしれない。希少種の保有権がどうこう、研究協力がどうこう、保護がどうこうと、面倒な話が次々に増殖していく未来が容易に想像できた。


…うん、見える。


ものすごく見える。


そして、そんな後継はできる限り見たくはない。


「ミルが看板の横にいたら人気出そうですけどね」


ある日、ミーナが冗談めかして言った。


「やめろ。店が見世物小屋になる」


「白ぷよ薬房になりますね」


「店名を増やすな」


ホワイトが小さく「ださい」と言った。


「おい、青ぷよ薬房の前でそれを言うな」


「ださい」


「二回言うな」


ミーナが笑い、ユナがほんの少しだけ口元を緩め、ハルトが瓶を落とさないように慎重に笑いを堪えていた。ホワイトは表情を変えなかったが、ミルはなぜか誇らしげにぷるぷるしていた。あいつは本当に何を考えているのか分からない。


事業所としての青ぷよ薬房は、少しずつ形になってきたとはいえ、まだまだよちよち歩きの段階だった。店として営業し、従業員を雇い、商品を継続的に販売し始めたことで以前よりはずっと組織らしくなったが、だからといって成熟した事業所になったわけではない。むしろ一人で好き勝手に薬を作っていた頃には存在しなかった問題が次々に現れ、そのたびに新しい仕組みや記録を作る必要に迫られていた。


商業組合からは、ほぼ毎週のように助言と確認が届く。売上台帳は適切に記録されているか。在庫台帳との数量差異はないか。契約納品の履歴は残しているか。研究提供品の控えは管理されているか。雇用契約書は保管しているか。住み込み従業員の食費はどの項目で処理しているか。消耗品費、修繕費、器具購入費の区分はどうなっているか。瓶の廃棄数は記録されているか。試作品や実験品は販売品と混在していないか。以前の俺なら、その一覧を見ただけで逃げ出したくなっていただろう。実際、最初に渡された時は半分ほど意味が分からなかった。


クラウスは「すべてを完璧にやれとは言わない。まず、何がどこに記録されているかを決めなさい」と言ってきた。その言葉自体は短かったが、俺にとっては十分すぎるほど重かった。なにしろ以前の青ぷよ薬房は、良く言えば柔軟、悪く言えばかなり場当たり的な運営だったのだ。薬草の在庫は頭の中に入っているし、仕込みの予定は釜の横に置いた紙切れへ走り書きしてあり、予約品のことはミーナが覚えている。多少の抜けやズレがあっても、その時々で何とかしてきた。しかし今は違う。従業員が増えた。商品区分が増えた。予約管理も増えた。外部との契約も増えた。薬師会や商業組合へ提出する書類まで増えた。誰か一人の記憶に依存するやり方では回らなくなっている。もし記録の場所を知っている人間が倒れたら、その瞬間に業務の一部が止まる。そう考えると、クラウスが言っていたことは驚くほど正しかった。何をどこへ記録するのか。誰が見ても追える状態になっているのか。そうした仕組みを整えること自体が経営なのだろう。わかりみが深すぎて、やはり胃に悪いのだが。


ギデオンからは、雇用に関する確認が来る。定期的に送られてくる確認書には、毎回きっちりと項目が並んでいた。勤務時間を守っているか。休憩時間を確保しているか。住み込み部屋に不備はないか。給金の支払い日を明文化したか。試用期間終了時の面談予定を設定したか。業務外の手伝いをさせていないか。危険作業へ従事させる範囲を守っているか。最初にそれを見た時の俺の感想は、正直なところ少し腹立たしかった。


「俺はそんなひどい雇い方をするつもりはないんだが」


思わずそう漏らしたくらいである。


別に従業員を酷使したいわけではないし、給金をごまかすつもりもない。休憩を取らせないつもりもなければ、危険な作業を押し付けるつもりもない。そんなことは最初から考えていない。


しかしその言葉を聞いたギデオンは一瞬も迷わず、


「つもりではなく、記録で示せ」


と一言。


実にギデオンらしい返答だった。


情緒も慰めもない。


だが反論もできない。


結局のところ、「そのつもりだった」は後からいくらでも言える。休憩を取らせたつもりだった。説明したつもりだった。配慮したつもりだった。人間は案外簡単にそう思い込む。しかし記録は違う。休憩時間を書けば残る。面談記録を書けば残る。給金の支払いを記録すれば残る。後から確認できる形になって初めて、それは事実になるのだ。


俺からすればかなり面倒ではあるが、必要なことは必要なこととしてしっかりと手順を踏まなければならないらしい。


店を守るという意味でも、人を守るという意味でも。


ミーナは、もはや完全に現場主任のようになっていた。本人は「私はまだ店主さんの補助です」と言うが、朝の店頭配置、販売本数、整理券、客への説明、ハルトとユナへの作業割り振り、ホワイトが店頭に出ないようにする導線、ミルが水皿から出て客に見つからないようにする工房内の配置まで、かなりの部分を見ている。俺が釜の前に立っている間、店の表はミーナが回していると言ってもいい。ある日、ハルトが「ミーナさん、本日の販売区分はこちらでよろしいでしょうか」と自然に確認を取りに行ったのを見て、俺は軽く衝撃を受けた。店主は俺のはずなのだが、現場の流れとしては悔しいが正しい。俺は釜にいて、ミーナは店頭にいる。現場の判断は現場にいる者が一番早いんだ。そう考えると少し寂しいような、かなり助かるような、何とも言えない気分になった。


「店主さん、顔が複雑ですよ」


ミーナがその時、笑って言った。


「俺、店主だよな」


「はい。だから釜に集中してください」


「それ、店主の扱いか?」


「店主さんにしかできないことをやってもらう扱いです」


「……そう言われると、反論しにくいな」


アイスは横で「役割分担が進んでいます」と言った。


「俺の寂しさを業務改善みたいに言うな」


「実際、業務改善です」


「本当に一言余計だな」


従業員が増えたことで、俺自身の仕事も変わった。


以前の俺は、採取、洗浄、調合、瓶詰め、販売、帳簿、掃除、客対応、全部を雑に一つの塊として抱えていた。今は、任せるものと任せないものを分けなければならない。ハルトには瓶確認と梱包を任せる。ユナには洗浄と乾燥棚管理を任せる。ミーナには店頭と販売記録を任せる。アイスには品質記録と工程数値化を任せる。俺はスライム核の下処理、魔導抽出、高純度品の仕上げ、採取判断、最終品質確認を担当する。言葉にすると立派だが、実際には毎朝「これは俺がやる」「これはハルトに頼む」「これはユナに教える」「これはまだ誰にも触らせない」と頭の中で何度も仕分けしているだけである。スライム核を分類するよりずっと疲れる。


それでも、店は少しずつ形を持ち始めていた。


棚には色札が並び、瓶には番号がつき、納品箱には担当者の確認印が押され、洗浄済みの布は日付ごとに分けられ、商品区分ごとに在庫表が作られ、店頭には注意書きが増えた。疲労軽減薬の札には「休む前の一本」と書かれ、解毒薬の横には「症状をお聞きします」と書かれ、高純度回復薬の棚には「本日店頭分、完売後追加なし」と大きく書かれている。俺は最初、この札を見て少し恥ずかしくなった。自分の店がやたら説明の多い店になってきた気がしたからだ。けれど客はむしろ安心するらしい。何に使う薬なのか、誰に聞けばいいのか、何本買えるのか、値段が違う理由は何か。それが分かるだけで、店の前の揉め事はかなり減った。


商売とは、売る前の説明で半分決まるらしい。


これも最近の学びである。


「ロイドさん」


ある日の昼前、アイスが工房の記録机から顔を上げた。


「何だ」


「高純度回復薬の魔力保持率が、ここ数回安定しています。ハルトさんの瓶確認とユナさんの乾燥管理による保存条件の改善が影響している可能性があります」


「つまり、俺の腕じゃなくて瓶と乾燥のおかげか」


「あなたの腕も前提です」


「前提って言われると、褒められてる気がしないな」


「褒めています。調合工程の安定に、周辺工程の整備が寄与しているという意味です」


俺は作業台の上に並ぶ瓶を見た。ハルトが確認し、ユナが洗い、ミーナがラベルを貼り、アイスが記録し、俺が中身を詰める。一本のポーションが以前より多くの手を通っている。昔の俺なら、それを怖がったかもしれない。他人の手が入ると品質が落ちるのではないか、俺が全部見なければ駄目なのではないか、そう考えたに違いない。実際、中核工程はいまも俺が見ている。けれど瓶が整い、布が整い、棚が整い、記録が整うことで、中身も安定するようになる。ポーションというのは釜の中だけで決まるのではない。採取、洗浄、下処理、調合、濾過、瓶詰め、保管、販売、そのすべてが繋がって初めて薬になるんだ。アイスに薬学を教えられた時にも聞いた話だが、今ようやく、現場の手触りとして分かってきた気がした。


「店って、一人で作るものじゃないんだな」


俺がつぶやくと、ハルトが瓶を拭く手を止め、ユナが乾燥棚の前でこちらを見た。ミーナは少し笑い、アイスは当然のように言った。


「事業所ですから」


「その言い方はまだ慣れない」


「慣れてください」


「最近そればっかりだな」


店。


工房。


薬房。


事業所。


同じ場所を指しているはずなのに、そのどれもが少しずつ違う意味を持ち、違う顔をこちらへ見せてくる。青ぷよ薬房は、もともと村人たちが困ったときに頼る便利屋のような存在だったはずなのに、いつの間にか正式な商店として扱われるようになり、研究対象として各所から注目され、さらには複数人を雇う事業所へと姿を変えつつあった。俺自身はいまだにその変化の速度へ気持ちが追いついておらず、気が付けば昨日までの感覚のまま今日を迎えていることが多い。だが、俺が追いついているかどうかなど関係なく、店は毎朝当然のように開く。客はやって来るし、従業員は働く。仕込まれたポーションは瓶へ詰められ、売れた分だけ補充が必要になり、給金の日は確実に近づいてくる。帳簿は「まだ心の準備ができていません」などという言い訳を聞いてはくれないし、釜もまた主人の都合など気にせず次の仕込みを要求してくる。そして工房の隅では、ホワイトとミルが何やら落ち着かない様子でぷるぷると震えている。


そのすべての中心に、どういうわけか俺がいるらしかった。


正直なところ、あまり信じたくはない。


だが信じる信じないに関係なく、どうやらそれは紛れもない事実だった。


「店主さん、そろそろ開店時間です」


店の扉の前に立ったミーナが、外の様子を確認しながら声をかけてくる。視線を向ければ、開店前だというのに今日もすでに客が集まり始めていた。顔なじみの村人たちに、装備を整えた冒険者、荷車を引いた商人らしい男、それから毎日のように顔を見せるいつもの婆さんまで見える。工房の中ではハルトが棚の商品配置を最後まで確認し、ユナが洗浄場の器具を手際よく片づけ、アイスは記録板を閉じて定位置へ戻していた。ホワイトはというと、ミルをそっと懐へ押し込み、客の目に触れにくい工房の奥へ移動している。


俺はゆっくりと深呼吸した。


鼻の奥へ流れ込んでくるのは乾燥させた薬草の青い香りであり、洗浄を終えた瓶のガラスが放つ乾いた匂いであり、朝に汲み上げたばかりの井戸水の冷たい気配だった。その中には青ぷよ由来のスライム粘液特有のわずかな匂いも混じっていて、さらに以前より人が増えた工房には、人の体温や生活の気配が積み重なった、どこか柔らかな温かさまで漂っている。


静かではない。


かつて俺が一人で薬を作っていた頃のような静寂は、もうここには残っていない。


いや、静かではないどころか、毎日のように誰かの声が響き、誰かが走り回り、誰かが新しい問題を持ち込んでくる。


それでも不思議と嫌ではなかった。


たぶん、これが今の青ぷよ薬房なのだ。


俺一人の工房ではなく、多くの人とスライムが集まり、働き、騒ぎ、少しずつ大きくなっていく場所としての、新しい日常なのだろう。


「よし、開けるか」


そう声をかけると、ミーナは待っていましたと言わんばかりに明るく笑い、そのまま扉へ手をかけた。


朝の光が開かれた扉の向こうから流れ込み、店内へまっすぐ差し込んでくる。その光を受けて棚に整然と並べられた青いポーション瓶が、一斉に淡い輝きを宿した。


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どんどん評価が高まる=どんどんやることが増えていく... 世間からの青ぷよ薬房の評価が見れるの全体が分かって良いと思います!!!
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