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第34話 スライムの基本生態



野生の青スライムが、ホワイトの足元へ向かって跳ねてきた。


それは、俺にとってかなり理解しがたい光景だった。なぜなら、俺が知っているスライムという魔物は、世間で最弱だの初心者向けだの棒でつつく相手だの散々な言われ方をしているわりに、素材として見れば意外と神経質で、近づく人間の気配や足音、地面を伝わる振動、湿度の変化、魔力の流れ、場合によっては視線の向きにまで反応するようなところがあるからだ。もちろん、あいつらに目があるわけではない。耳も鼻も、人間のような形では持っていない。丸くて、半透明で、ぷるぷる跳ねているだけの青い塊にしか見えない。世間の連中が雑に扱うのも分からなくはない。畑に出れば水路を詰まらせるし、納屋に入り込めば穀物袋を湿らせるし、子どもに見つかれば棒でつつかれるし、冒険者に見つかれば最初の討伐練習にされる。魔物としての危険度だけ見れば、たしかに低い。けれど、俺は長年スライムばかり相手にしてきたせいで、あの丸い体の内側にある細かな反応を少しばかり知っている。外膜の張り、粘液の寄り、核の沈み方、逃げる前に体の下側へ力を溜める癖、こちらの足音で跳ねる方向を変える動き、湿った苔へ逃げる個体と、岩陰へ潜る個体の違い。そういうものを知っているからこそ、今、目の前の青スライムが逃げるでも震えるでもなく、ホワイトの足元へ寄っていくという事実が、釜の中で泡が逆向きに沈んでいくのを見た時くらい気持ち悪く、同時に目を離せないほど奇妙だった。


ホワイトは、別に得意げではなかった。俺たちが驚いている横であいつは眠そうな目を少し細め、足元へ近づいてくる青スライムを見下ろしながら、まるで路地裏で顔なじみの猫に見つかった時みたいな面倒くさそうな顔をしていた。肩口から顔を出した白露スライムのミルは小さくぷるぷる揺れていて、青スライムが近づくのを拒む様子も、威嚇する様子もない。むしろ「来たな」くらいの調子で、ホワイトの襟元から半分体を出している。青スライムは湿った草の上をぽよ、ぽよ、と遅い間隔で跳ね、ホワイトの靴先から少し離れた場所で止まると、外膜をゆるく広げるようにして地面へ落ち着いた。俺が近づけば、普通はこの距離で核が奥へ沈み、逃走の準備を始める。ところが、今の個体は核を隠していない。むしろ体内の青白い核は中心より少し上の見やすい位置に浮かび、粘液の流れも荒れていなかった。


「……おい、ホワイト」


「何」


「あいつ、怖がってないのか」


「知らない」


「知らないって、明らかに寄ってきてるぞ」


「いつも、こんな感じ」


いつも。


その一言で、俺は頭の奥が少し重くなった。俺にとってスライムは、素材であり、生活の柱であり、世間的には無能スキルと言われた〈スライムキラー〉が唯一まともに働く相手であり、ついでに最近は薬師会や商業組合や騎士団まで巻き込む原因になっている存在である。俺はスライムを恐れさせる側だ。森に入ればスライムたちは俺の気配を拾って震える。ナイフを抜けば、さらに震える。俺としては生活のために素材をいただいているだけなのだが、向こうからすれば天敵か災害に見えているのかもしれない。そんな相手が、ホワイトには自分から近づいてくる。しかも、ホワイト本人はそれを大したことだと思っていない。俺が〈スライムキラー〉を外れだと思い込んでいたように、こいつも「雑魚に懐かれるだけ」と思っていたのだろう。


「ロイドさん、近づかないでください」


アイスの声が、いつもの冷静さより少しだけ鋭くなった。


「分かってる。俺が近づくと逃げるかもしれないからな」


「それだけではありません。今はホワイトさんの周囲に発生している反応を観察する必要があります。あなたのスライムキラー由来の威圧反応が入ると、条件が混ざってややこしいことになります」


「俺の存在が邪魔みたいに言うな」


「実験条件としては邪魔です」


「はっきり言うな」


アイスは俺の文句を流し、記録板へものすごい速度で書き込み始めた。羽ペンの音が朝の森に似合わないほど忙しい。彼女の視線は青スライム、ホワイト、ミル、水辺の位置、地面の湿り具合、俺との距離、バルドの立ち位置、ミーナの息を潜めている様子まで順番に拾っているようだった。あいつの頭の中では、今この場のすべてが項目になっているのだろう。俺には青スライムが少年に寄ってきたという一点だけで十分面倒なのに、アイスはそこから湿度、魔力反応、個体成熟度、敵対抑制、白露スライムの同伴効果、対象者の精神状態まで一気に分解しようとしている。天才というものは、見えている世界の情報量が多すぎて疲れないのかと時々思う。俺なら三項目目あたりで茶が欲しくなるのに。


「まず、スライムの基本生態から考えます」


アイスは半分独り言のように言った。


「スライムは低級魔物に分類されますが、完全な無知性の粘液塊ではありません。体表の外膜は周囲の湿度、温度、振動、魔力濃度を感知する感覚器官を兼ねており、中心核は魔力中枢であると同時に個体の反応制御を担うとされています。視覚器官や聴覚器官は確認されていませんが、外膜全体で環境変化を拾うため、むしろ一方向からの視線や足音より、面として接近を感知している可能性があります。通常個体は大型生物の接近に対して縮退、逃避、擬態のいずれかを示し、攻撃性は低いものの、追い詰められれば酸性粘液を吐くこともあります」


「うちの畑の水路にいるやつらは、婆さんに鍬で追われると一目散に逃げるな」


「それが通常です。人間はスライムにとって外敵です。採取者、冒険者、農民、子ども、いずれも接近すれば危険要因として認識されるはずです。ところがこの個体は、ホワイトさんに対して逃避ではなく接近を選んでいます」


アイスは記録板から目を上げ、青スライムの核を見つめた。


「仮説は三つあります。一つ目は、ホワイトさんの魔力層がスライムにとって同族、または無害な環境刺激として認識されている可能性。二つ目は、ホワイトさんの未鑑定スキルがスライムの敵対反応を抑制し、近接を許容させている可能性。三つ目は、ミル、つまり白露スライムの存在が媒介になり、周辺スライムへ安全信号のようなものを伝えている可能性です」


「つまり、ホワイト本人か、スキルか、ミルの影響か、まだ分からないってことだな」


「はい。現時点ではすべて仮説です。さらに言えば、その複合の可能性もあります」


「便利な言葉だな、複合」


「現実は単純ではありません」


それは本当にそうだ。税金も、雇用も、ポーションも、人間関係も、スライムの生態まで、全部思ったより単純ではなかった。昔の俺はスライムは倒すもの、素材は採るもの、ポーションは作るもの、店は売るものだと思っていた。今ではその一つ一つに制度や理論や責任がついてくる。人生というのは年を取るほど物事が分かりやすくなるのではなく、分かっていなかったことが増えていく仕組みなのかもしれない。もし仮にそうだとすれば、あまり嬉しくない成長ではあるが。


「ホワイト、手を出せるか」


俺がそう言うと、ホワイトは足元の青スライムを見下ろしたまま、少し嫌そうにした。


「何すんの」


「触れと言ってるんじゃない。手を近づけて、相手がどう反応するか見るんだ。嫌ならやらなくていい」


「……噛まない?」


「スライムは普通噛まない」


「でも物を溶かすよ」


「それはある」


ホワイトは静かにしゃがみ込んだが、青スライムは逃げなかった。ホワイトが手を近づけると、むしろ外膜を少し持ち上げるようにしてその指先のほうへぷるりと体を伸ばした。俺は思わず前に出そうになり、アイスに腕を軽くつかまれた。


「近づかないでください」


「…分かってるが、あれ、危なくないか?」


「今のところ攻撃反応はありません。外膜の張りも弱く、核の位置も安定しています」


「それはそうなんだが」


「あなたはスライムを見ると採取対象として認識する癖があります」


「人聞きの悪いやつだな」


「事実です」


ホワイトの指先が、青スライムの外膜へ触れた。


普通ならここでスライムは縮む反応を見せるはずだ。少なくとも、俺の知る限りではそうだ。外膜に触れた刺激は粘液全体へ伝わり、核が逃げようとする。ところが青スライムは、ホワイトの指を包むように外膜をほんの少しだけへこませた。酸性粘液を出す様子はない。粘液の濁りもない。むしろ、ホワイトの指先に合わせて体の形を変え、じっとしているみたいだった。まるで水に浮いた薄い布が、指の重さへ自然に沈むような反応である。


「……触れた」


ミーナが息をひそめて言った。


「触れてるな」


「スライムって、こんなふうに触れるんですか?」


「普通は触らないほうがいい。どんなに小さな個体でも酸はあるし、雑に触ると粘液が傷む。向こうも逃げるしな」


「でも、あの子は平気そうです」


「それが分からん」


ホワイトは、青スライムを軽く撫でるでもなく、指先を置いたままじっとしていた。ミルが肩口から出てきて、ホワイトの頬の横でぷるんと揺れる。青スライムはミルへ反応したのか、体の上側を少し持ち上げた。白露スライムと青スライムが、互いの外膜の揺れを見ているようにも見える。スライム同士に会話があるとは思わない。思わないが、外膜の振動や魔力の揺れで、何かを伝え合っている可能性はある。実際、スライムが集まる場所では、個体同士がぶつからないように跳ねることが多い。水路で大量発生した時など、気持ち悪いくらい一定の間隔でぷよぷよしている。あれをただの偶然だと思っていた昔の俺は、たぶん観察が足りなかったのだろう。


「アイス、スライム同士って何か信号を出してるのか」


「研究例はあります。確定した言語体系ではありませんが、外膜振動、粘液内魔力波、核光の明滅で周囲の個体へ危険や湿地情報を伝えている可能性が指摘されています。ただし低級スライムでは反応が弱く、観測が難しいため、まだ仮説段階です。白露スライムのような希少種が媒介になる場合、通常種より安定した緩衝信号を出している可能性もあります」


「つまり、ミルが“こいつ大丈夫”って言ってるかもしれないってことか」


「非常に粗い表現ですが、可能性はあります」


「俺のほうが分かりやすいだろ」


「精度は低いです」


「いつも一言余計だな」


ホワイトは俺たちのやり取りを聞いているのかいないのか、足元の青スライムへ小さく言った。


「もういい。戻れ」


青スライムは本当に言葉が分かったのか、しばらくその場でぷるぷるしたあと、小川のほうへぽよんと跳ねて戻っていった。俺はもう、驚くのにも疲れ始めていた。スライムが人の言葉を理解するわけではない。…ないはずだ。けれど今の反応は、少なくともホワイトの声や身振りに合わせて離れたように見えた。俺の中の常識が、鍋の底に焦げついた古い薬草みたいに剥がれ始めている。


「次の個体を見ましょう」


アイスが言った。


「やっぱり続けるのか」


「一例だけでは判断できません。個体差、場所、ミルの影響、ホワイトさんの精神状態、あなたとの距離、すべて変数です」


「森でここまで変数って言葉を聞くとは思わなかった」


「森は変数の塊です」


その後、俺たちは小川沿いを少し進み、別の青スライム、やや緑がかった水草スライム、まだ小さな未成熟の青スライムを順番に確認した。ホワイトは面倒くさそうにしながらも、逃げずに付き合った。最初の青スライムほどはっきり寄ってくる個体ばかりではなかったが、どれも俺が近づいた時のような強い逃避反応は示さなかった。水草スライムは少し警戒し、外膜を薄く広げて草に擬態しようとしたものの、ホワイトがしゃがむと完全には逃げず、距離を保ったまま核を隠さずにいた。未成熟の青スライムに至ってはホワイトの足元へ近づきすぎて、ミーナが思わず「踏まないでくださいね」と言ったほどだった。ホワイトは「踏まない」と短く答え、靴先を少し引いた。


俺は一歩離れた場所から、その一つ一つを見ていた。


スライムという生き物は、基本的に弱い。弱いからこそ、逃げるのが上手い。派手な足も翼もないのに、湿った場所では意外と速く跳ねる。外敵に見つかれば体を薄く伸ばして水溜まりや苔に紛れ、核を奥へ沈め、外膜を張る。攻撃されれば粘液を飛ばして相手を滑らせたり、弱い酸で皮膚を荒らしたりする。知性が高いわけではないが、生き残るための反応はしっかり持っている。生態として見れば、スライムは魔力の薄い水場や腐葉土、薬草の根元、鉱石の湿った割れ目などから微細な魔力と水分を吸収し、体内で粘液を維持する低級魔物だ。一定以上に成長すれば核が安定し、分裂することもあるらしい。詳しい繁殖形態は俺も知らないが、気づけば増えているような奴らだ。昔アイスに「それを知らないまま採取しているのですか」と言われたが、スライムの家庭事情に踏み込みたくないという俺の気持ちは今でも変わらない。


そのスライムたちが、ホワイトには怯えない。


完全に従っているわけではない。ホワイトが王様で、スライムたちが家来みたいに並ぶわけではない。そこまで都合のいい話ではなかった。けれど、警戒の浅さが違う。距離の詰まり方が違う。核の隠し方が違う。俺には、それがよく分かった。俺が見るスライムは、いつも俺を外敵として認識している。だからこそ逃げる前の癖も読みやすい。ホワイトの前にいるスライムは、外敵を見ているというより湿った倒木や小川の石を見るように、そこにあって害の少ないものとして認識しているようだった。


「ロイドさん、分かりますか」


アイスが聞いてきた。


「ああ。悔しいくらい分かる。俺相手の時との明らかな違いがな」


「具体的には」


「核が沈まないし、外膜が硬くならない。跳ねる準備の時に下側へ力を溜めない。粘液の流れも逃げる方向に寄ってない。あと、ホワイトが手を近づけても、体が横へ薄く逃げていない」


アイスが一瞬だけ、満足そうな顔をした。


「その観察は重要です」


「お前に褒められても、なんか複雑だな」


「褒めています」


「まさか、俺のスライム観察がこういう形で役に立つとはな」


ホワイトは少し離れたところで、未成熟の青スライムを足元から小川のほうへ戻していた。手で持ち上げるのではなく指先で軽く進行方向を示すようにすると、青スライムはぽよぽよとそちらへ跳ねる。本人はそれを能力だと思っていないのだろう。面倒そうに、当たり前みたいにやっている。俺が核の位置を無意識に見ていたのと同じで、こいつもスライムとの距離の取り方を無意識に覚えているのかもしれない。


「店主さん」


ミーナが、俺の隣へ来て小さく言った。


「ホワイトくんのことなんですけど」


「雇う話か?」


「それより前の話です。しばらく、部屋を貸してあげることはできませんか?」


俺はすぐに答えなかった。


ミーナは続けた。


「もちろん、勝手に長く置くのは駄目だと思います。未成年ですし、家のことも、職業斡旋局のこともあります。村長さんにも相談しないといけないですし、きちんと手続きしなきゃいけないのも分かります。でも、今すぐレスタルムへ戻したら、たぶんあの子、またどこかへ逃げてしまわないでしょうか?今度は馬車じゃなくて、一人でどこかへ行くかもしれません」


それは、俺も考えていた。


ホワイトは追い返されると判断したら、きっとどこかへ逃げてしまうんじゃないか?自分の身を守るために、人の見ていない場所へ消えてしまうんじゃないか?そんな言いようもない気配を、どこかに感じてしまう自分がいた。


レスタルムに戻せば安全というわけではない。家に戻れば本当に奉公という名の売買に近い扱いを受けるかもしれないし、路地へ逃げれば食うものも寝る場所も不安定になる。職業斡旋局へ直接連れていくとしても、その途中で逃げてしまうかもしれない。彼にとって大人に引き渡されるということは、またどこかへ所有されることに近いのだろう。


「客人として、ですよ」


ミーナは慎重に言葉を選んだ。


「従業員じゃなくて、住み込みでもなくて、保護という言い方が嫌なら、しばらくの客人として。もちろん村長さんと職業斡旋局に相談して、期限を決めて、店主さんが勝手に抱え込まない形で。部屋もちゃんと鍵と寝具を用意して。働かせるなら契約が必要ですけど、今はまだ働かせないで、まず落ち着いて話せる場所を作るというか……」


「ミーナ、お前、本当に大人だな」


「店主さんがすぐ背負いすぎるからです」


「それ、俺が子どもみたいに聞こえるぞ」


「少しだけ」


「少しだけか」


ミーナの提案は、感情だけではなかった。そこが俺の中でしっくり来たというか、腑に落ちる部分があった。可哀想だから置いてあげよう、ではない。従業員ではなく、客人として期限を決める。村長と斡旋局を通す。働かせるような業務上の話ではなく、契約なしの労働をさせないまま、安全な寝場所を用意する。本人が逃げないよう力で押さえるのではなく、逃げなくていい状態を作る。なるほど、現実的な提案だった。


アイスも近くへ来て、静かに言った。


「私も、短期滞在の形が妥当だと思います。研究的価値を抜きにしても、ホワイトさんは不安定な状況にあります。職業斡旋局へ連絡する前に逃げられると、本人の安全確認もできません。雇用候補として扱うのではなく、臨時保護対象、または村長承認の短期滞在者として記録するのがよいでしょう」


「記録か」


「必要です。記録があることで、後から“勝手に隠した”と言われる危険を減らせます」


「そこは重要だな」


「はい。特にフロー家が絡むなら、ロイドさんが少年を連れ去った形にされる危険があります。彼が自分の意思で来たこと、馬車に隠れて来たこと、店が即時雇用せず、村長と斡旋局に相談したこと、これらを記録しておくべきです」


冷静だった。


そして怖いほど現実的だった。


俺はホワイトを見た。彼は青スライムから少し離れ、ミルを懐に押し込みながら、こちらの会話を聞いていないふりをしていた。聞いているに決まっている。あの少年は、人の声の温度にかなり敏い。自分がどこへ運ばれるのか、自分をどう扱うつもりなのか、ずっと耳を澄ませているんだ。


「……そうだな」


俺はゆっくり言った。


「いきなり雇うのは無理だ。レスタルムへすぐ戻すのも危ないのもわかっている。村長と斡旋局に話を通した上で、期限つきで部屋を貸すのはアリかもしれなあい。アイツ自身が手伝いをしたいと言うなら、契約が整ってから。まずは、本人からもう少し詳しく事情を聞こう」


「はい」


ミーナが頷いた。


「本人が話す気になる形じゃないと駄目だがな」


俺はホワイトのほうへ歩いた。彼はすぐに気づき、こちらを見る。まだ、他人に対する警戒はある。けれど昨日よりは少しだけ逃げ腰ではなかった。足元のスライムたちがもう小川へ戻っているせいか、森にはいつもの静けさが戻りつつあった。バルドは少し離れた場所で弓を肩にかけたまま、何も言わずに見守っている。余計なことを聞かない大人というのは、こういう時ありがたい。


「ホワイト」


「何」


「スライムのことは見た。正直、かなり驚いた。君が言っていた“スライムを扱える”というのは、少なくとも嘘ではなさそうだ」


「……だから雇う?」


「まだ雇わない」


ホワイトの目が少し鋭くなった。


「聞け。雇うには手続きがいる。君の年齢、身元、家の事情、斡旋局への相談、村長の承認、全部必要だ。そこを変えることはできない。しかしすぐ追い返すこともしない。村長と職業斡旋局に話した上で、短い間だけ部屋を貸すことは考える。従業員としてではなく、客人としてだ」


ホワイトは黙った。


「ただし、そのためには、君がなぜ家を出たのかを正直に話してほしい。全部を今すぐ話せとは言わない。話したくないことを無理にえぐるつもりもない。君をここに置くなら、俺たちは何から君を守る必要があるのか知らなきゃならない。家から飛び出した理由、戻ったら何が起きるのか、それを話してくれたら、ここで働きたいという気持ちは少しは聞いてやらなくもない」


「少し?」


「少しだ。そこから先は、君の話と手続き次第だな」


ホワイトは俺を見上げた。


白い髪の隙間からのぞく目は、相変わらず悪い。疲れていて、疑っていて、大人の言葉をまだ半分も信用していない。それでも、その奥にほんの少しだけ迷いがあった。逃げるか、話すか。黙っているか、賭けるか。十五歳の少年が、そんな選択を何度してきたのかと思うと、少し腹が立った。誰に対してかはまだ分からない。彼の家族か、彼の取り巻く環境か、何も知らずに求人票を出した俺自身かもしれない。


ホワイトは、長い時間をかけて視線を落とした。


ミルが懐から少しだけ顔を出し、少年の胸元で小さく揺れた。


「……わかった」


小さな声だった。


「少しだけだけど」


「それでいい」


ホワイトは唇を結び、まるで何か痛むものを思い出すように、左の袖口を右手で握った。


「家のこと。俺のこと。……見たら、分かるかも」


そう言って、彼は一度だけ深く息を吸った。俺はその先を急かさなかった。森の小川の音だけが、俺たちの間に静かに流れていた。


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