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第33話 雇う雇わない以前の問題である



ホワイト・フローという少年を前にして、俺が最初に考えたのは、採用するかどうかではなかった。


これはもう、雇う雇わない以前の問題である。十五歳の少年が、職業斡旋局の馬車に隠れてレスタルムからエルムホルン村まで来て、家には戻らないと言い、保護者はいないと言い、けれど探される可能性はあると言い、しかも肩には希少種らしい白いスライムを乗せている。普通の求人面接なら、この時点で職業斡旋局へ即座に連絡し、村長にも事情を話し、場合によってはレスタルム側の保護制度なり警備詰所なりに相談する案件だ。いや、普通の求人面接なら、そもそも応募者の懐から希少スライムがぴょこっと顔を出すことなどない。青ぷよ薬房は、どうしてこう一つ面倒事を片づけようとすると、別の面倒事が粘液みたいに床の隙間からにじんでくるのだろうか。


「……とりあえず、今夜どうするかだな」


俺がそう言うと、ホワイトは店の奥の椅子に浅く腰かけたまま、こちらを信用していない目で見た。座ったと言っても、落ち着いて座っているわけではない。いつでも立てるように片足をわずかに後ろへ引き、木杯を両手で持ちながらも中身を半分以上残し、ミルと呼ばれた白露スライムらしい小さな相棒を懐の内側に押し戻そうとして、何度も失敗していた。ミルは戻されるたびにぷるんと上着の隙間から出てきて、今では完全に少年の膝の上で丸くなっている。白い半透明の体が小さく上下する様子は、呼吸しているようにも、ただ粘液が揺れているだけにも見えた。スライムに呼吸があるのかどうかは知らない。知らないが、あいつはどう見てもくつろいでいた。


「村長には話したほうがいいですよね」


ミーナが小声で言った。彼女はホワイトを驚かせないように少し距離を置き、温め直した薄い豆のスープと黒パンを机の端に置いている。ホワイトは最初、食べ物にも手をつけなかった。毒を疑ったのか、代金を請求されると思ったのか、あるいは人から出されたものを素直に食べることに慣れていないのかは分からない。ミーナが「お金はいりません。今は食べてください」と言うと、ようやくパンを小さくちぎって口へ運んだ。十五の少年が、パンを食べるだけでここまで警戒するというのは、あまり見ていて気持ちのいいものではない。


「村に外の子を泊めるなら、村長を通さないわけにはいかない。明日、職業斡旋局にも連絡しようと思う。未成年で身元の問題がある以上、俺の判断だけで店に置くのは危ないからな」


「店主さんは、雇うつもりなんですか?」


ミーナの問いに、俺はすぐ答えられなかった。


ホワイトは、働きたいと言った。瓶も薬品も運べる、毒物の札も読める、倉庫の整理もできる、スライムも扱える、と短い言葉で並べた。実際、彼がフロー家の使用人区画や薬品倉庫で働かされていたなら、瓶の扱いや危険物の札を覚えている可能性はある。さらに、あの白露スライムと、簡易反応で見えたスライム親和性が本物なら、青ぷよ薬房にとってはこれ以上ないほど奇妙で、同時に魅力的な人材候補になるかもしれない。


けれど、採用となると話は別だ。


採用とは、面白いから拾うことではない。役に立ちそうだから抱え込むことでもない。まして、可哀想だから店に置くことでもない。俺が言うのもなんだが、雇用契約を結ぶということは、給金、仕事、休み、住む場所、安全、責任を決めるということだ。十五歳ならなおさら慎重にしなければならない。家の事情が絡んでいるなら、下手をすればこの小さな薬房がフロー家とかいう得体の知れない貴族と揉めることにもなる。没落貴族とはいえ貴族は貴族だ。こちらは辺境の小さなポーション屋である。俺の武器は採取ナイフと釜とスライムへの慣れくらいで、貴族相手に契約書で殴り合う準備などしていない。そういうのはクラウスやギデオンの領分だ。


「雇うつもりというより、まだ雇える段階じゃない。身元と保護の問題を整理して、本人の意思を確認して、斡旋局を通して、村長にも話して、それからだ。今のままなら従業員候補ではなく、まず保護対象に近い」


「保護対象」


ホワイトが小さく繰り返した。


その声には、嫌悪が混じっていた。誰かに守られることすら、彼にとっては所有されることに近いのかもしれない。俺はすぐに言い直した。


「閉じ込めるって意味じゃない。今夜、道端に放り出すわけにはいかないという意味だ。君をどこかへ戻すかどうかも、勝手には決めないさ。ただ、俺一人で判断できるような話じゃない。そこは分かってくれ」


ホワイトは返事をしなかった。膝の上のミルが、少年の指先へぷるりと体を寄せる。ホワイトはその白い体を指の腹で軽く押し戻そうとして、結局やめた。触り方が妙に慣れている。膜を傷つけないよう無理に力を入れようとはせず、嫌がるならそのままにしているような感じだ。スライムの扱い方としては、かなり自然だった。俺はその手元を見ながら、もしこの少年が本当にスライムに関わる能力を持っているなら、何が起きるのかと真剣に考えてしまった。考えてしまった時点で、すでに危ない方向に走っている気もするが。…俺はまた、面倒事の核へ自分から刃を入れようとしているのかもしれない。


アイスは腕を組み、少し離れたところで考え込んでいた。珍しく記録板は閉じている。あいつが記録板を閉じている時は、本当に頭の中で何かを組み立てている時だ。


「アイス、フロー家のことをもう少し聞いてもいいか」


俺がそう言うと、ホワイトの視線が鋭くなった。俺はその目を見て、少しだけ言葉を選んだ。


「もちろん、本人の前で話せないことなら、あとでいい。根掘り葉掘り聞くつもりはない。ただ、危険があるなら知っておく必要がある」


アイスはホワイトを一度見て、彼が拒絶しないことを確認するように少しだけ間を置いた。


「私が知っているのは、薬師会と商業記録に残る範囲です。フロー家はもともと、レスタルム周辺で医療物資、薬品保管、低級魔法薬の流通に関わっていた小貴族家です。現在は家格が落ち、財政難に陥っていると聞いています。薬品倉庫の管理不備、品質札の差し替え、期限切れ薬品の再流通疑惑、商会からの借入、使用人の入れ替わりの多さ。どれも噂や警告記録の断片であり、確定した犯罪として扱われているものではありません」


「十分嫌な話だな」


「はい。薬師会内部では、積極的に関わりたい家ではありません。特に、薬品倉庫で未成年を雑用に使っていたとすれば、安全管理上かなり問題があります」


ホワイトは無言だった。否定しない…というより、否定する気力もないように見えた。


「奉公に出されるとか、そういう話は聞いたことあるか?」


俺が聞くと、アイスは首を横に振った。


「具体的にはありません。ただ、借入のある家が親族や使用人を商会へ奉公に出すことは珍しくありません。表向きは職業修行、実態は借金の肩代わりに近い場合もあります。もちろん、すべてが悪質ではありません。契約が適正で、本人の将来につながるものもあります。問題は、本人の意思と契約内容が尊重されるかどうかです」


ホワイトの指が、ミルの体へわずかに沈んだ。ミルは嫌がらず、その指に合わせて形を変えていた。


「……売られる」


小さな声だった。


ミーナが息を止めた。


俺は、すぐに聞き返さなかった。ホワイトが言葉を続けるかどうか、少し待った。


「遠いとこに行くって言ってた。俺の意思は関係ないって」


「誰が言った」


「家のやつ」


「契約書は見たか」


「見てない。俺に見せるわけない」


その言葉を聞いて、アイスの顔が少しだけ冷えたような気がした。ミーナの目には、明らかに怒りが浮かんでいた。俺は腹の奥が重くなるのを感じた。その話が本当なら、単なる家族間の揉め事では済まない。貧しいから、身寄りがないから、子どもだから――そういう立場の弱さにつけ込んで進められる話はいくらでもある。だが本人が何も知らされず、自分の行き先すら選べないまま話が進んでいたのなら、それは保護ではなく都合のいい処分に近い。少なくとも俺には、そう聞こえた。


“未成年を本人の同意なくどこかへ奉公に出す”


表向きがどうであれ、契約内容が本人に開示されないなら、ギデオンが言っていた過去の搾取問題そのものだ。しかも貴族家の内側となると、外から見えにくい。ホワイトが馬車に隠れてでもレスタルムを出ようとした理由が、少し見えた気がした。


「分かった」


俺はそう言った。


「事情がどうあれ、村長には話す。フロー家へ直接連絡するかどうかは、斡旋局と相談してからにする。君を勝手に家へ戻すとは言わないが、君の身を守るにもきちんとした手順を踏む必要がある。嫌だろうが、わかってくれよ?」

ホワイトはしばらく黙っていた。


納得したわけではないのだろう。警戒も消えていない。けれど、さっきまでのようにすぐ反発する様子もなかった。膝の上で握っていた手が、ほんの少しだけ緩む。


「……また、どこかへ連れていかれる?」


小さな声だった。


怒りでも反抗でもなく、不安そのものみたいな声だった。俺は少しだけ間を置いてから答えた。


「勝手には連れていかせない。そのために話を通して、記録を残して、手順を踏むんだ」


ホワイトは唇を引き結び、それから小さくうなずいた。


「……紙は嫌い」


そう呟いた声には、少しだけ疲れが混じっていた。


「俺も嫌いだ」


ホワイトが初めて、ほんの少しだけ不思議そうな顔をした。


「嫌いでも必要な紙がある。雇用契約書、保護の記録、滞在の許可、給金の控え。そういう紙は人を縛るためにも使われるが、人を勝手に扱わせないためにも使える。それを最近、嫌というほど学んだ」


「……ほんとに嫌そう」


「本当に嫌なんだよ」


ミーナが小さく笑った。空気がほんの少しだけ緩んだような気もしたが、ホワイトはまだ笑わなかった。けれど、目の棘が少しだけ下がったようにも見えた。


その夜俺は村長の家へ行き、事情をかなり慎重に説明した。ホワイト本人の前で無理に話させるのは避け、俺、ミーナ、アイスで確認した範囲を伝えた。馬車に隠れて来たこと、未成年であること、フロー家の事情があるらしいこと、職業斡旋局へ連絡するつもりであること、今夜だけ外へ出すわけにはいかないこと。村長は最初こそ驚いていたが、俺が「雇うというより、まず保護と確認です」と言うと、難しい顔で頷いた。


「ロイド、お前の店は本当に騒がしくなったな」


「俺が一番そう思ってます」


「一晩なら、村の集会小屋の奥を使わせてもいい。ただし、一人では置くな。逃げるかもしれんし、追手が来るかもしれん。ミーナの家に泊めるのは年齢と事情を考えると避けたほうがいい。お前の店の二階もまだ片づいておらんだろう」


「ええ」


「なら、今夜は店の奥で休ませ、戸締まりをして、お前も近くにいろ。それから明日、職業斡旋局へ連絡しろ。村としても、外の揉め事を勝手に抱え込むわけにはいかん」


「分かっています」


村長はそう言ってから、少しだけ声を落とした。


「ただ、子どもを夜道へ戻す村でもない」


その一言で、俺は少しだけ救われた気がした。


店へ戻ると、ホワイトはスープを半分ほど食べ終えていた。ミルは空になった木皿の縁に乗り、スープの匂いを嗅いでいるようだった。スライムが豆のスープに興味を持つのかは知らないが、ミルはかなり興味深そうにぷるぷるしている。ホワイトが「食うな」と小声で言うと、ミルは少しだけ縮んだ。ちゃんと聞いている。少なくとも、ホワイトの声に反応しているようだ。


「村長には事情を説明した。とりあえず今夜は店の奥で休め。」


「……閉じ込める?」


「鍵をかけるのは外から来る誰かを避けるためだ。君を閉じ込めるためじゃない。必要なら夜中に起こせ。水も厠も案内してやるから。ミルは……逃げるなよ」


ミルがぷるんと跳ねた。


返事をしたのかもしれない。いや、さすがにそれは考えすぎか。けれど、スライムにしては反応がよすぎるよな…


その流れで、話題は自然とホワイトのスキルらしきものへ移った。ホワイトを寝かせる前に、俺たちは工房ではなく店の小部屋で、できるだけ刺激しないように静かに話した。きっとホワイト本人も気になっているのだろう。自分のことだから当然だ。アイスは記録板を開いたが、ホワイトが露骨に嫌そうな顔をしたので、表紙を閉じたまま膝の上に置いた。


「そもそも、スキルって何なんだ?」


俺が改めて聞いたのは、自分のためでもあった。


俺は十五の時に〈スライムキラー〉を授かった。教会の鑑定板にそう表示され、村の神父に「スライム相手ならすごいな」と言われ、若い頃はそれを外れスキルだと思い続けた。今でも、スライムしか狩れないという認識は根深く残っている。アイスや薬師会がどれほど異常だと言っても、自分の中ではやはり、狼にもゴブリン三匹にも勝てないおっさんであることは変わらない。


けれど、ホワイトの件を見ていると、スキルというものが単なる強い弱いの話ではないのかもしれないと思わざるを得なかった。


アイスは少し考え、いつもの講義口調より少しだけゆっくり話し始めた。


「まず、生命について説明する必要があります。この世界の生物は、肉体だけで動いているわけではありません。薬師会では、肉体層、精神層、魔力層の三つが重なって生命活動を支えていると考えています。これを三層生命理論と呼びます」


「肉体は分かる。骨とか筋肉とか内臓とかだろ」


「はい。肉体層は物理的な身体です。骨格、筋肉、神経、血液、臓器。傷を負えば損傷します。精神層は意識、感情、思考、記憶、意思を司ります。恐怖で体が動かなくなる、怒りで痛みを一時的に忘れる、集中で魔力制御が安定する。そういう現象は精神層が肉体層や魔力層へ影響する例です」


「魔力層は?」


「生命体の魔力循環、スキル発現、魔法使用、生命維持の補助を担う構造です。血管とは別に、魔力を巡らせる回路のようなものが全身にあります。薬師会では魔力循環器官と呼びます。目には見えませんが、魔力反応検査や解剖研究、治療術の反応から存在が確認されています」


ホワイトは黙って聞いていた。興味があるのかないのか分からない顔だったが、ミルは少年の膝の上で静かに揺れている。


「酒場で冒険者がよく言うHPとかMPってのは、それと関係あるのか?」


俺が聞くと、アイスは頷いた。


「あります。HPは一般に体力と誤解されますが、薬師会では生命維持余力と定義します。傷の数そのものではなく、肉体が生命活動を維持し、損傷を修復し、出血や衝撃に耐えるための余力です。同じ切り傷でも、若い冒険者と高齢者では消費するHPが違います。若者は修復能力が高く、老人は同じ傷でも生命維持への負担が大きい。だから、HPは傷の大きさと完全には一致しません」


「HPがゼロになると死ぬ、ってよく言うぞ」


「正確には、HPがゼロとは生命維持機構が崩壊した状態です。即死という意味ではありません。出血、臓器損傷、ショック、魔力枯渇などが重なり、肉体が生命活動を保てなくなる。そこから蘇生や高位治療が間に合えば助かる場合もありますが、死亡率は極めて高い。一般には分かりやすく死と結びつけられています」


「なるほどな。じゃあ、回復ポーションはHPを戻す薬なのか?」


「一部は正しいです。HP回復系ポーションは、肉体層の修復を助け、生命維持余力の消耗を抑え、失われた回復能力を補助します。ただし、単純に数値を戻す液体ではありません。傷の閉鎖、出血抑制、魔力循環の安定、痛みによる精神層の乱れの緩和、そういった複合効果で結果的にHPを回復させます」


「じゃあ、うちの回復薬もそういうことをしてるのか」


「はい。特にロイドさんのポーションは、スライム核由来の魔力循環安定と、粘液基材の身体負荷緩和が強く出ています。単に傷を強引に塞ぐのではなく、体が受け止めやすい形で回復を促している。だから効果に対して副作用が少ないのです」


言われると、また変な気分になる。


俺はただ、色を見て、泡を見て、匂いを嗅ぎ、釜の機嫌を見ながら作ってきただけだ。けれどアイスの言葉を聞くと、自分の釜の中でやっていることが急に生命だの魔力だの社会だのへつながっていく。青ぷよ薬房の小さな釜が、そんな大きな理論に接続されるのは、正直落ち着かない。


「MPは魔力の量だったな」


「はい。Mana Point、魔力保有量です。魔法、スキル、魔導具、ポーション精製、すべてMPを消費します。MPが枯渇すると、強い疲労、頭痛、吐き気、集中力低下、意識混濁が起きます。さらに無理をすると魔力回路損傷へ進みます。これは危険です。魔法使いや薬師、魔導具職人が過労で倒れる原因の一つです」


「疲労軽減薬を乱用すると危ないって話ともつながるな」


「はい。疲労は肉体層だけの問題ではありません。MPの低下、精神層の集中力低下、肉体層の損耗が重なります。疲労軽減薬は、使い方を間違えると、本来休むべき三層の警告を鈍らせることがあります」


ミーナが真剣に聞いていた。ホワイトも、少しだけ目を上げている。たぶん、MPやHPという言葉は聞いたことがあっても、こうして具体的に説明されたことはないのだろう。俺だって、冒険者時代の酒場では「HPがやばい」とか「MP切れだ」とか、軽い言葉として聞いていた。実際には、それは肉体と精神と魔力の余力をざっくりまとめた言い方だったわけだ。


「ステータスは?」


ミーナが聞いた。


「冒険者さんたちが、STRとかAGIとか言ってますよね」


「ステータスは生命体の能力値を数値化したものです。STRは筋力、VITは耐久、AGIは敏捷、INTは知力、MNDは精神、MAGは魔力、LUKは運勢。職業斡旋局や冒険者ギルドでは、適性を見るために簡易測定を行うことがあります。ただし、数値は絶対ではありません。体調、年齢、訓練、装備、精神状態、測定器の精度で変動します」


「俺のスライム採取はAGIなのか?」


「一部はAGI、特に反応速度と手先の精密動作に関わります。ただし、あなたの場合は観察能力とスキル補正が大きいため、単純なAGIでは説明できません。INTの分析ではなく、MNDを含む集中、MAG層のスライム反応、そして〈スライムキラー〉による対象特化の補助知覚が組み合わさっている可能性があります」


「俺、そんなにいろいろ使ってスライム狩ってたのか」


「無意識に」


「無意識って便利な言葉だな」


「あなたの場合、便利すぎて危険です」


また危険扱いされた。


ホワイトがほんの少しだけこちらを見た。自分のことを言われているわけではないのに、何か引っかかったような顔だった。スライムだけに関わる能力を、自分でも価値がないと思っていた者同士ということかもしれない。俺は少し苦くなった。


アイスは続けた。


「スキルとは、薬師会の現代理論では魔力回路の特殊変異と考えられています。才能、環境、経験、精神性が絡み、脳、精神層、魔力層が特定方向へ適応した結果、能力として固定化されたものです。完全な運ではなく、完全な努力でもありません。発現年齢は十二歳から十六歳が多いですが、遅れて現れる例や、本人が気づかないまま生活技能として発達する例もあります」


「人口の一割くらいだったか?」


「地域差はありますが、おおよそその程度です。有用スキルとなるとさらに少ない。戦闘系、生産系、探索系、支援系、生活系、特殊系と分類されますが、分類は便宜的なものです。世間で外れとされるスキルが、使い方次第で高い価値を持つこともあります」


「スライムキラーみたいにか」


「はい」


アイスが即答した。


「世間的には最低ランクに近い評価です。理由はスライムにしか作用しないからです。けれど実際には、ロイドさんの〈スライムキラー〉は、スライム構造理解、魔力核把握、微細観察、損傷制御、精製補正を内包している可能性があります。あなたがそれを“慣れ”で片づけてきただけです」


「何度聞いても心が落ち着かないな」


「慣れてください」


「慣れって言葉を俺以外が使うと腹立つな」


ミーナが少し笑った。ホワイトは笑わなかった。ミルはぷるぷるしていた。


「ホワイトさんの場合」


アイスは慎重に言った。


「仮説ですが、スライム系魔物への親和性、敵対反応の抑制、近接許容、場合によっては簡易誘導があるかもしれません。戦闘力としては評価されにくいでしょう。世間では“雑魚魔物に懐かれるだけ”と見られる可能性が高い。けれど、青ぷよ薬房にとってはまったく違います」


ホワイトは目を細めた。


「雑魚に好かれるだけだろ」


「スライムは、ロイドさんのポーションの基礎素材です」


アイスの声は冷静だった。


「採取前の個体を落ち着かせられる、逃走を抑えられる、未成熟個体と成熟個体の反応差を見られる、新種や希少種を発見できる、核を傷めずに近づける。もしそれが可能なら、単なる雑魚魔物への好かれ体質ではありません。素材採取体系を変える能力です」


ホワイトは何も言わなかった。


俺も何も言えなかった。


もし本当にそうなら、ホワイトは俺の真逆の場所にいる。俺はスライムを怖がらせる側だ。森に入ると、青スライムはぷるぷる震え、悪魔か鬼を見た時のように真っ先に逃げようとする。俺の〈スライムキラー〉は核の位置を読み、外膜を傷めず、綺麗に仕留める方向へ働く。ホワイトは逃げられないどころか、スライムのほうから寄ってくる可能性がある。狩る側と寄せる側。壊さず殺す者と、怖がらせず近づく者。組み合わせると何が起きるのか、考えたくないような、少し見てみたいような気持ちになった。


「近くの野生スライムにも効くと思うか?」


俺が聞くと、アイスはすぐ答えなかった。こういう時にアイスがすぐ答えないのは、かなり本気で考えている証拠だ。


「可能性はあります。ミルという白露スライムだけが特別に懐いているのなら、幼少期からの馴化と個体関係で説明できます。けれど、ホワイトさん本人が“昔からスライムだけ寄ってくる”と言っているなら、野生個体にも何らかの反応が出るかもしれません。明日、通常の青スライムが出る場所で確認する価値があります」


「確認って、森へ行くのか?」


「はい。ただし、安全を確保した上で、ロイドさん、私、ミーナさん、ホワイトさん、可能なら村の大人一名が近くにいる形が望ましいです。ホワイトさんに無理をさせず、スライムを捕獲させるのではなく、接近反応を見るだけにします」


「俺がいると、スライムが震えるぞ」


「そこが問題です。ロイドさんの〈スライムキラー〉による威圧反応と、ホワイトさんの親和反応が同時に発生した場合、どちらが優先されるかも確認できます」


「お前、楽しそうだな」


「非常に」


「ある程度隠した方がいいと思うぞ?」


「努力します」


ホワイトは露骨に嫌そうな顔をした。


「見世物?」


「違う」


俺はすぐに言った。


「君を見世物にするつもりはない。雇う雇わないを決める前に、君が言った“スライムを扱える”がどんなものか確認したい。できないならできないでいい。できたからといって、勝手に使うわけでもない。もし仮にそういう話になるなら、何か特別な条件を決めるためのヒントになるかもしれないからな」


「条件?」


「そうだ。たとえば君にしかできないことなら、それを普通の瓶洗いや荷運びと同じ扱いにはできない。仕事の範囲も、給金も、安全の決め方も変わるかもしれない。俺たちは今、人を雇う条件を一つずつ決めているところなんだ。君の力が本当に特別なら、その力をどう扱うかも最初に決めておく必要がある」


ホワイトはしばらく黙っていた。膝の上でミルが小さく跳ねる。少年はそれを手のひらで受け止めるように押さえ、低く言った。


「……明日だけ」


「明日だけでいい」


「ミルに触るな」


「分かった」


「変な薬、かけるな」


「かけない」


「縛るな」


「縛らない」


ホワイトの条件は短く、鋭く、そしてどれも過去の恐怖から来ているようだった。俺は一つずつ頷いた。ミーナも「約束します」と言った。アイスは「同意なく触れません」と、やや研究者らしい言い方で答えた。ホワイトはアイスを少し睨んだが、それ以上は何も言わなかった。


その夜、ホワイトは店の奥の空き部屋に薄い毛布を敷いて眠ることになった。鍵は外からかけなかった。店全体の戸締まりはしたが、ホワイトのいる部屋の戸は内側から開けられるようにした。ミルは当然のように彼の懐へ戻り、白い小さな体を丸めていた。寝る前、ミーナが「おやすみなさい」と声をかけると、ホワイトは返事をしなかった。けれど、扉を閉める直前、ほんの小さく「……水、ありがと」と言ったように聞こえたのは、きっと気のせいではない。


俺は言うと、正直言ってあまり眠れなかった。


店主として人を雇うというだけでもかなり重かった。そこへホワイトのような不確定因子が飛び込んできた。そういう言い方をするのは良くないのかもしれないが、少なくとももし彼のスキルが本物なら、青ぷよ薬房にとっては大きな転機になるかもしれない。スライム素材の採取方法自体が変わるかもしれない。希少スライムの発見、未成熟個体の保護、成熟個体の誘導、粘液採取の新しい方法、ロイド式の損傷制御と組み合わせた素材品質向上。考えれば考えるほど、可能性は広がっていく。


同時に、それは彼を利用する危険にもつながる。第一、彼がどんな立場の人間であれ、正式な手続きの外側にある未成年であることに変わりはない。


ギデオンからは嫌というほど聞かされていた。雇用には手順があるし、どんな状況にも適切な記録とルールがいる。善意だけでは人は守れないし、「助けたい」という気持ちだけで抱え込んでも駄目なのだと。


俺は寝台の上で天井を見ながら、小さく息を吐いた。


もし明日の確認で、本当にホワイトがスライムと特別な関係を持っていると分かったらどうなる。薬師会は興味を示すだろう。商業組合も無関心ではいられない。場合によっては貴族や商会の耳にも入るかもしれない。そうなれば、ホワイト本人が望む望まないに関わらず、周囲はその価値を計算し始める。


価値。


便利な言葉だ。


そして時々、人間を物みたいに扱う言葉でもある。


フロー家が彼を道具のように扱ったのなら、俺が同じことをするわけにはいかない。スライムに好かれるから欲しい、希少スキルだから囲いたい、そんな考えになった瞬間、俺は彼が逃げてきた相手と同じ場所に立つことになるだろう。俺はただの商売人だ。原則としてまずは店を守らなければならない。けれど、人を素材みたいに扱う店にはしたくない。青ぷよ薬房というふざけた名前の店にも、それくらいの線はある。


翌朝、まだ霧が村の畑に白く残っている時間に、俺たちは森へ向かった。


同行したのは、俺、アイス、ミーナ、ホワイト、それから村長に頼まれてついてきた猟師のバルドだった。バルドは「外の子が森へ行くなら一応見ておく」と言って、弓を肩にかけていた。ホワイトはその存在を嫌がるかと思ったが、バルドが余計なことを聞かず、少し離れて歩いているせいか、特に文句は言わなかった。ミルはホワイトの上着の内側にいる。時々、襟元から白い体の端が見える。


森へ向かう道は、いつも通り静かだった。畑の端を抜け、小川沿いの道へ入り、湿った土と若い草の匂いが近づいてくる。俺にとっては慣れた道だ。けれど、ホワイトは周囲をかなり警戒していた。村の道より、森のほうが落ち着くのか、少し歩き方が軽くなっている。人の多いレスタルムより、こういう場所のほうが息がしやすいのかもしれない。その気持ちは痛いほど分かる。紙と石畳より、土と水のほうがまだ信用できることはあるからな。


「この先、小川の近くに青スライムが出る」


俺は声を落とした。


「ホワイト、最初は何もしなくていい。ただ立って、様子を見るだけだ。俺は少し離れて歩くことにしよう。俺が近いとスライムが逃げるかもしれない…というより、確実に嫌がられるからな」


「……おっさん、嫌われてるの」


「嫌われてるというか、天敵扱いだな」


ホワイトは少しだけ俺を見た。


「スライム、かわいそう」


「生活のためなんだよ」


「言い訳」


「十五の少年に刺されるとは思わなかった」


ミーナが小さく笑い、アイスは真剣な顔で記録板を構えた。今日の彼女は本当に楽しそうである。楽しそうというより、長年探していた研究材料が自分から歩いてきたような狂人じみた研究者の顔だ。頼むから、ホワイト本人の前でその顔を出しすぎないでほしいんだが。



小川の音が近づいてきた。


森の奥からさらさらと流れる水音が聞こえ、湿った土の匂いと、朝露を含んだ草の冷たい匂いが鼻に届く。苔むした倒木の向こう、低く垂れた枝の隙間から差し込む朝の光の中で、青いスライムが一匹、草の上をぷよんと跳ねていた。見慣れた光景だ。俺にとっては、井戸で顔を洗うことや、薬草を刻むことと同じくらい、日常に近い光景である。青い粘液、丸い体、中央に沈んだ核、跳ねるたびにわずかに揺れる外膜。素材として見れば、悪くない。むしろ、朝露のついた場所に出るスライムは粘液の濁りが少ないので、採取には向いている。


俺は足を止めた。


ホワイトも、俺の横で静かに足を止めた。


ミルが、ホワイトの襟元からぴょこっと顔を出す。あの小さな動きだけを見れば、ただの森歩きの途中で珍しいものを見つけた子どもと小動物、という平和な絵面で済んだのだろう。実際、普通ならそういう場面だった。森の中でスライムを見つけた。危険は少ない。距離もある。慌てるほどのことではない。少なくとも、俺以外の人間にとっては。


その時、青スライムの動きが止まった。


俺は無意識に、腰の採取ナイフへ意識を向けた。いつもなら、俺の気配に気づいたスライムは、そこでぷるぷると震え始める。核が体の奥へ沈み、外膜がきゅっと張り、粘液全体が逃げる準備をするように縮む。あいつらにどれほどの知能があるのかは知らないが、俺を見た時の反応だけははっきりしている。天敵。災害。もしくは、朝から出会いたくないおっさん。そのどれかだろう。俺としては生活のために素材をいただいているだけなのだが、スライム側からすれば、たぶん言い分は違う。


だから今回も、そうなると思っていた。


俺が一歩近づけば震え、二歩近づけば逃げ腰になり、三歩目でナイフを抜けば、いつものように採取の流れへ入る。核を割らず、粘液を濁らせず、できるだけ綺麗に仕留める。それだけだ。俺にとっては慣れた作業であり、スライムにとってはたぶん理不尽な災難である。


ところが、その青スライムは逃げなかった。


震えもしなかった。


むしろ、ぽよ、と小さく跳ねて、こちら――いや、俺ではなく、ホワイトのほうへ体を向けるように動いた。


俺は思わず息を止めた。


スライムが俺から逃げない、というだけでも珍しい。だが、それ以上におかしかったのは、その動きに怯えがなかったことだ。核は沈んでいない。外膜も張っていない。粘液も縮んでいない。警戒しているというより、何かを確かめるような、近づいてもよい相手を見つけたような、そんな妙に穏やかな揺れ方だった。スライムの揺れに穏やかも何もあるかと言われれば困るが、あるのだ。少なくとも、俺にはそう見えた。


アイスの羽ペンが、紙の上で止まった。


あいつのことだから、普段ならこの時点で「野生個体の行動変化」「対象認識反応」「ホワイト氏接近時における粘液緊張低下」などと書き始めていただろう。だが、そのアイスですら、一瞬だけ記録を忘れたように手を止めていた。珍しいものを見た時、人は言葉より先に沈黙するらしい。薬師会の記録係でも、そこは普通の人間と同じだった。


ホワイトは、眠そうな目のまま、ぼそりと言った。


「……ほら」


それは自慢ではなかった。


自分の力を誇る声でもなければ、驚いてほしいという声でもない。むしろ、やっぱりこうなるのかと受け入れているような、少しだけ諦めに近い短い声だった。何度も同じことを経験してきた人間の声である。俺はその声音を聞いて、妙に嫌な納得をした。本人にとっては、これは特別な奇跡でも珍しい事件でもなく、昔からずっとついて回っている面倒な性質なのだろう。


俺たちは、朝の森の中で、野生の青スライムが少年の足元へ向かってゆっくり跳ねてくるのを、ただ黙って見ていた。


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― 新着の感想 ―
まさかのホワイトくんの方が強いとは!?スライムキラーもスライムテーマには勝てないということか〜
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