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第32話 スライムテイマー…だと?



予定外の人間というものは、なぜこうも扉の向こうから来るのだろう。


青ぷよ薬房の小さな店内へ入ってきた少年――ホワイト・フローは、まるで初めて入る家の空気を信用していない野良猫みたいに、戸口から数歩だけ進んだところで足を止めた。外套というには薄く、作業着というには妙に布地の質がよかった上着はところどころ擦り切れていたものの、完全な路地裏のぼろ着ではない。首元の留め具は片方だけなくなっていて、袖口は手の甲を少し覆うほど長く、そこからのぞく指は細く白い。白銀に近い髪は夕方の光を受けると少しだけ青みを帯び、前髪の隙間からこちらを見る目は眠そうで、不機嫌で、こちらの言葉を最初から半分くらい疑っているようだった。


俺はその顔を見ながら、店の扉を閉めた。


閉めてから、少しだけ後悔した。逃げ道を塞いだように見えたかもしれない。こういう子どもは、出口が見えないだけで急に牙を剥くことがある。俺は若い頃、冒険者ギルドの裏手でパンを盗んだ小僧を大人三人が取り囲んでいる場面を見たことがある。その小僧は追い詰められた狐みたいな目をしていて、手に持った錆びたナイフを震わせながら、誰も近づけないようにしていた。あれ以来、事情の分からない子どもを相手にする時は、まず逃げ道を意識するようになった。俺は強い人間ではない。スライム相手ならともかく、人間の子どもの心まで上手に扱える自信がなかったからだ。


「座るか?」


俺が店の奥の小部屋を指すと、ホワイトはその方向へ目を向け、次に俺、ミーナ、アイスを順に見た。


「……立ってる」


「長くなるかもしれないぞ」


「平気」


「こっちが落ち着かない。椅子に座れとは言わないから、壁際でもいい。とりあえず戸口の真ん中に立たれると、もし客が来た時に全員で困る」


そう言うと、ホワイトはほんの少しだけ眉を動かし、店内の壁際へ移動した。言われたから従うというより、言葉の中に罠がないか確かめてから、損にならない範囲で動いたという感じだった。ミーナはすぐに水の入った木杯を持ってきたが、ホワイトはそれを受け取るまでに少し間を置いた。毒を疑ったのかもしれない。薬房で出される水を警戒されるというのも妙な話だが、少年の目を見ていると笑う気にはなれなかった。


「飲んでいいぞ。井戸水だ。何も入れてない」


「……」


ホワイトは木杯を受け取り、匂いを嗅いでから一口だけ飲んだ。飲み方も慎重だった。喉が渇いているのは明らかなのに、一気には飲まない。何かを我慢する癖がついているのだろう。そういう細かいところが、こちらの心に引っかかった。


「まず確認するが、君は職業斡旋局を通していない。今日の面接の応募者でもない。馬車に隠れてここまで来た。ここまでは合ってるか?」


ホワイトは目を逸らしたまま、短く答えた。


「合ってる」


「斡旋局の馬車に勝手に乗るっていうのが悪いことだっていうのはわかるか?向こうにも迷惑がかかるし、事故があったら誰の責任か分からくなるだろう?隠れて村まで来た理由があるのは分かる。…ただな、だからといってはいそうですかと雇うわけにはいかないんだ」


「……働く」


「働きたい気持ちは聞く。採用するかどうかは別の話だ」


「雑用でいい」


「雑用という仕事はない。瓶洗いなら瓶洗い、棚整理なら棚整理、掃除なら掃除、危険がある作業なら危険作業として分ける。給金も決めるし、休みの日も決める。住むなら寝床も決めないといけない。言ってることはわかるか?」


ホワイトの視線が少しだけこちらへ戻った。


「……なんとなく」


「なんとなくじゃダメだ。俺は慈善事業者じゃないんだぞ」


「じぜんじぎょうしゃ?」


「わからないんならいい」


ミーナが横で小さく笑いそうになり、すぐに口元を押さえた。アイスは黙ってホワイトを見ている。その目は研究対象を見る時のものにも近いが、今はもう少し慎重だった。アイスは人の空気に鈍いところがあるものの、危険な素材や不安定な反応を見る目は確かである。生憎ホワイトという少年は素材ではない。けれど、何かに強く圧をかけられた状態の小さな核みたいな危うさを持っていた。乱暴に触れば割れるのではなく、こちらへ刃を向ける類の危うさだ。


俺は椅子に座らず、ホワイトと同じ高さに近い棚の横へ軽く腰を預けた。相手だけ立たせて、こちらが机の向こうに座ると、どうしても尋問みたいになるからな。面接としては机を挟むのが正しいのかもしれないが、今この少年に対してそれをやると、ますます口を閉ざす気がした。


「ホワイト・フロー。十五歳。求人を見て、エルムホルン村に行きたいと思った。おおかた親には黙って出てきたんだろう?ここまでで何か間違っているか?」


ホワイトは少しだけ唇を結んだ。


「……黙って出てきたわけじゃない」


「違うのか」


「もう戻らない」


言葉はひどく短かった。


短いのに、その奥だけ妙に硬かった。家に帰りたくない子どもの言葉ではなく、戻れば自分が何かにされると分かっている人間の言い方だった。ミーナの表情が少し曇る。アイスは眉をわずかに動かした。俺は踏み込みすぎないよう、少しだけ声を落とした。


「家の人間は、君がここへ来たことを知っているのか」


「知らない」


「探される可能性は?」


「ある」


「それを隠して、うちで働きたいと言っているわけか」


「……」


黙った。


答えられないのか、答えたくないのか、もしかしたらその両方かもしれない。俺は深く息を吐きたいのを咄嗟にこらえた。うーむ、控えめに言ってかなりまずくないか…?年齢は十五。未成年だ。職業斡旋局を通していないし、保護者の同意もない。あくまで憶測の域を出ないが、家から逃げてきた可能性がある。事情によっては保護が必要かもしれないし、場合によってはこの子の家の側と揉めてしまう可能性もある。俺は薬房の店主であって、孤児院でも救護所でもない。困っている子どもを放っておけない気持ちはあるが、あるからこそ危ないんだ。情だけで受け入れれば、あとでこの子も店も村も全部巻き込むことになるしな。


「ホワイト」


俺はなるべく真っ直ぐ言った。


「正直に言うが、今のままでは従業員として雇うのはもちろん、お前をここに置いておくこと自体かなり難しい。理由は、君が若いからだけじゃない。斡旋局を通していないし、住む場所の扱いも決められない。君を探す人間がいるかもしれない。契約には本人の意思だけじゃなく、年齢や身元の確認が必要になる。働きたいという言葉だけで、すぐ採用はできない」


ホワイトの目が、少し冷えた。


「……結局、無理ってこと」


「今すぐ雇うのは無理だと言っている。話を聞かないとは言ってない」


「同じだよね」


「同じじゃない」


「大人はみんなそう言う」


その言葉はかなり鋭かった。俺に向けているというより、これまで何度も聞かされてきた言葉へ返しているようだった。事情を聞こう、考えよう、悪いようにはしない、そういう言葉の後で、結局何も変わらなかった経験があるのだろう。俺は反論しかけて、やめた。俺が今「俺は違う」と言ったところで、きっとこの少年には届かない。口で言うだけなら誰でもできるが、信じるかどうかを決めるのは聞いた側だ。しかも、何度も裏切られた後ならなおさらである。今ここで「大丈夫だ」と重ねたところで、薄い板を何枚も重ねるようなものだろう。必要なのは言葉の数ではなく、少なくとも一度くらいは「本当にそうだった」と思える出来事のほうなのだ。


ミーナがそっと聞いた。


「働きたい理由を、もう少し話せますか? お金が必要なのか、住む場所が必要なのか、薬房の仕事がしたいのか、それによって考え方が変わると思うんです」


ホワイトはミーナを見た。警戒はしているけれど、俺に向ける目より少しだけ棘が少ない。ミーナの声には、相手の逃げ道を礼儀正しく残す柔らかさがある。俺やアイスには、たぶん足りないものだ。


「……家を出たい」


「うん」


「レスタルムにいると、悪い奴らに見つかるから」


「うん」


「ここはレスタルムからは遠い。スライムの店って書かれてる求人があった。住み込みって書いてあった」


「だから来たんですね」


ホワイトは頷いた。


「きっと働ける。瓶のことも分かる。薬品も少し分かる。倉庫もやってた」


「どこの倉庫で?」


ホワイトの目がまた冷えた。


「言いたくない」


「言いたくない理由があるんですね」


ミーナがそう言うと、ホワイトは答えなかった。けれど、完全に黙ってしまったわけでもない。木杯を持つ指が少しだけ強くなったくらいだ。


アイスが静かに口を開いた。


「フローという姓に、心当たりがあります」


ホワイトの肩が、ほんのわずかに跳ねた。


「レスタルムに、フロー家という没落した小貴族家があります。古くは薬品保管と医療物資の管理で領主側と関係を持っていた家系ですが、現在は商会からの借入が多く、家格も実態もかなり落ちているはずです。数年前に薬品倉庫の管理不備で、薬師会から警告を受けた記録がありました」


ホワイトの目が、アイスへ向いた。


殺気というほどではない。けれど、明らかに踏み込むなという目だった。


「お前、何」


「薬師会研究生です」


「……うざ」


「よく言われます」


「認めるな」


俺は思わず間に入った。ホワイトはアイスを睨んでいる。アイスは平然としている。コイツらきっと相性が悪いな…。いや、相性が悪いというより、アイスは相手の傷口を見つけると、研究者の癖で位置を確認してしまうところがあるんだ。悪意がないから、余計に危ない時があるんだよな。


「アイス、今はそこまででいい」


「分かりました」


珍しくすぐ引いた。アイスも、ホワイトが危ういところにいるのは理解したらしい。


俺はホワイトへ視線を戻した。


「言いたくないことは、今は無理に聞かない。ただ、俺が君を雇うか、住まわせるかを考えるなら、最低限、危険が店に来るかどうかは知る必要がある。君を探している家の人間が、ここへ来る可能性はあるのか」


「……たぶん」


「たぶんか」


「すぐじゃない。俺、いつもいないこと多いから。路地とか、倉庫とか」


「家出に気づくのが遅れるかもしれないってことか」


ホワイトは頷かなかった。けれど、否定もしなかった。


俺の中で、採用はさらに遠のいた。どう考えても無理だ。今のままでは採用できる余地がない。身元確認もなく、家から追われる可能性があり、未成年で職業斡旋局を通しておらず、働きたい理由もうまく話せない。可哀想だから採る、という選択をした瞬間、ギデオンが紙束を持って殴りに来るだろう。いや、実際には殴らないだろうが、きっと書類で思いっきり殴られるに違いない。クラウスも眉間を押さえるだろうな。セレーナに至っては安全面を確認するところから始まるだろう。アイスは記録を取り、ミーナは心配する。村長は事情を聞きに来て、最終的に俺は胃薬を作る羽目になる。


「ホワイト、今日はここまでにしよう」


俺がそう言うと、ホワイトの顔から表情が消えた。


「追い返す?」


「今夜いきなり外へ出すとは言ってない。けれど、雇うかどうかをこの場で決めるのは無理だ。職業斡旋局に連絡して、君の扱いを相談する。未成年で事情がありそうで、馬車に隠れてここまで来た。そのことをこの店だけで判断はできないからな」


「斡旋局に言ったら、きっと戻される」


「戻されるかもしれない。戻さない方法を探せるかもしれない。なんにせよ、そこは相談しないと分からない」


「相談なんか、意味ない」


「意味がある形にするために、契約があるんだろ」


ホワイトは黙った。


さっき「契約、ちゃんとする?」と聞いた時と同じように、目の奥がほんの少し揺れた。契約という言葉に、何かを見ている。縛られることへの恐怖か、縛られずに働けるかもしれないというわずかな期待か、その両方かもしれない。


俺は続けようとした。


「少なくとも、君を誰かの持ち物みたいに扱うつもりは――」


その時、ホワイトの胸元が、もぞりと動いた。


最初は布の下に何か小動物でもいるのかと思った。ホワイトは反射的に手で懐を押さえたが、すでに遅かった。擦り切れた上着の合わせ目から、白くて丸い何かがぴょこっと顔を出した。いや、顔と言っていいのかは分からない。スライムに顔はない。ないはずなのに、その小さな白い塊は、どう見てもこちらを覗き込むように半透明の体をぷるんと伸ばしていた。


「……出てくるなよ」


ホワイトが、今までで一番焦った小声を出した。


その声は完全に年相応だった。さっきまでの刺々しさも、斜に構えた態度も少し消えて、ただ隠していたものが出てきてしまった少年の声だった。


俺は硬直した。


ミーナも目を丸くした。


アイスは驚きのあまり、記録板を落としかけた。


ホワイトの懐から出てきたのは、手のひらに乗るくらいの小さなスライムだった。色は青ではない。乳白色に近く、光の当たり方によって薄い銀色がふわりと走る。表面は普通の青スライムよりなめらかで、粘液の密度も違う。中心にはごく小さな核があり、青白いというより、月明かりを水に溶かしたような淡い光を含んでいる。体の縁はやわらかく、動くたびにぷるぷると震え、ホワイトの上着の襟を押し上げながら、こちらを恐れる様子もなく見ていた。


「……そのスライム、どうした?」


俺はやっと声を出した。


ホワイトは明らかにしまったという顔をした。しまったという顔ができるなら、最初からもう少し愛想も出せるのではないかと思ったが、今はそれどころではない。


「別に」


「普通懐からスライムは出てこないぞ」


「こいつが勝手に」


「勝手に懐へ入っていたのか」


「いつもいる」


「いつも?」


ホワイトは口を閉じた。


小さな白いスライムは、そんなホワイトの焦りをまったく気にせず、上着の合わせ目からさらに体を出し、ぷるん、と軽く跳ねて少年の肩のあたりに乗った。普通のスライムなら、そんな場所に安定して乗ることはほとんどない。体を支えるために粘液を広げるか、ずるりと落ちる。けれどその白いスライムは、ホワイトの肩口にぴたりと張りつくように乗り、細い髪の毛に触れないよう体の形を少し変えていた。


「……ありえません」


アイスが低く言った。


俺は白いスライムから目を離せなかった。


「何がだ」


「その個体、おそらく白露スライムです。低温水脈や魔力の薄い湧水地にごく稀に発生するとされる希少種で、記録上は非常に臆病で、外界刺激に弱く、捕獲しても短期間で粘液構造が崩れるため、安定した飼育例はほとんどありません。薬師会でも実物を見た研究者は限られます」


「希少種……?」


「はい。粘液の浄化性と魔力緩衝能力が高いとされ、古い文献では、強すぎる薬効を和らげる補助素材として記述があります。ただし、通常は人間に近づきません。むしろ気配だけで逃げます」


アイスはそこまで言って、ホワイトの肩に乗る白いスライムを凝視した。


「それが、人の懐から出てきて、肩に乗っている」


「そんなに珍しいのか」


「珍しいという言葉では足りません。異常です」


「また異常か」


今回ばかりは、俺も否定できなかった。


ホワイトは気まずそうにスライムを懐へ戻そうとしたが、白いスライムはぷるんと体を揺らし、戻るのを嫌がるように少年の肩から反対側へ移動した。ホワイトが小声で「ミル、やめろ」と言う。ミル。名前があるらしい。相棒というより、かなり長い付き合いのある存在の呼び方だった。


ミーナが恐る恐る近づいた。


「かわいい……」


白いスライム――ミルは、ミーナの声に反応したのか、ぷるりと体を震わせた。逃げない。少し警戒しているようにも見えるが、ホワイトの肩から降りようとはしない。ミーナは手を伸ばしかけて、すぐに止めた。


「触ってもいいですか?」


ホワイトは即答した。


「駄目」


「はい。ごめんなさい」


ミーナはすぐに手を引いた。ホワイトの目が少しだけ和らいだ。勝手に触られない。それだけで、彼にとっては少し信頼につながるのかもしれない。


俺はホワイトへ聞いた。


「そのミルとは、いつから一緒なんだ」


「……小さい頃」


「小さい頃って、どのくらいだ」


「覚えてない。…確か、排水路にいた。その時かなり弱ってた。それで拾ったんだ」


「拾った白露スライムが、そのまま懐いたのか?」


「知らない。気づいたら、そばにいた」


「飼ってたのか」


「飼ってない。勝手についてきた。ご飯を少し分けた。水も。いつ間にか一緒になってたんだ」


ホワイトの説明は相変わらず短く、内容が乏しい。けれどさっきよりは言葉が出ている。ミルの存在が出てしまったことで、隠す意味が薄れたのかもしれない。白いスライムはホワイトの肩で小さく揺れていた。見れば見るほど、普通のスライムとは違う感じがした。粘液の透明度が高く、体内の核が傷んでいない。長く人の近くにいたなら、普通はもっと濁るか、弱るはずだ。ところがミルは、小さいながらも状態がいい。少なくとも、怯えて崩れかけているようには見えなかった。


アイスの目が鋭くなった。


「あなたは、昔からスライムに懐かれるのですか」


ホワイトは嫌そうな顔をした。


「……別に」


「質問に答えてください」


「うざ」


「重要です」


「知らない。路地にいるやつが勝手に寄ってくる。排水の青いやつとか、小さい透明なのとか。餌持ってなくても来る」


「接触しても攻撃されませんか」


「されない」


「素手で触れますか」


「普通に」


「普通ではありません」


アイスの声が少し熱を帯びた。


「ロイドさん、これはかなり重要です。スライムは低知能とされますが、完全な無反応生物ではありません。湿度、魔力、振動、外敵気配に反応します。人間の接近には通常、逃避か縮退反応を示します。ホワイトさんの周囲で逃げず、むしろ寄ってくるなら、何らかの誘引要因、あるいはスキルによる反応制御がある可能性があります」


「スキル?」


俺はホワイトを見た。


「君、自分のスキルは知っているのか」


ホワイトは目を逸らした。


「知らない」


「鑑定を受けたことは?」


「ない」


「教会の鑑定板とか、斡旋局の職業適性鑑定とか」


「ない」


「貴族の血筋なら、子どもの時に鑑定くらい受けさせそうなものだが」


アイスがそう言うと、ホワイトの目がまた冷えた。


「俺は、跡取りとして扱われる子どもじゃなかった」


部屋の空気が少し重くなった。


ミーナが息を飲んだ。アイスもさすがに、それ以上すぐには踏み込まなかった。俺は少年の言葉を頭の中でゆっくり置いた。跡取りとして扱われる子どもではない。正妻の子ではないのか、認知はされていても家の表には出されなかったのか、そのあたりまでは分からない。だが少なくとも、フロー家という貴族の名を背負って育てられた子ではないのだろう。名前はあるけれど、家の食卓にも、客前にも、祝いの席にも出されない。隠され、使われ、倉庫や使用人区画で働かされていた。さっきの「瓶も薬品も運べる。毒物の札も読める」という言葉が、少し違う意味を持ち始める。教育ではなく、雑用として叩き込まれた知識。才能ではなく、道具として使われた記憶。


「……そうか」


俺はそれだけ言った。


気の利いた言葉など出ない。出せる立場でもない。俺がここで同情を言葉にしたら、ホワイトはたぶんまた口を閉ざすに違いない。必要なのは慰めではなく、今どうするかだ。


「スキル鑑定について説明します」


アイスが慎重に言った。


「一般的な教会の鑑定板は、神授スキルや主要適性を表示しますが、すべてを完全に読み取れるわけではありません。特に未成熟なスキル、生活の中で変質した技能、本人が認識していない補助系能力は、簡易鑑定では名称が出ないこともあります。薬師会や職業斡旋局では、職業適性を測るための簡易魔力反応検査があります。これは正式な神授鑑定とは違い、特定の素材や作業に対する反応を調べるものです」


「つまり、ここで完全な鑑定はできないが、スライムへの反応を見る簡易確認ならできるってことか」


「はい。ただし、本人の同意が必要です。強制すべきではありません」


アイスがホワイトを見た。


「あなたが嫌なら、今はしません」


ホワイトは黙った。


ミルが肩の上で小さく揺れた。まるで返事を促すように、少年の首元へぷるりと体を寄せる。ホワイトはその白いスライムを横目で見て、ほんの少しだけ苦い顔をした。


「……痛い?」


「痛くはありません。手のひらを水盤の上にかざしてもらい、スライム粘液と核片に対する魔力反応を見るだけです。血を取る必要もありません」


「縛らない?」


「縛りません」


「記録、どこかに出す?」


アイスは少し考えた。


「あなたの許可なく、個人名つきで薬師会や斡旋局へ提出しません。ただし、未成年で身元問題があるため、保護や雇用相談に必要な範囲ではロイドさんと共有します」


ホワイトは俺を見た。


「勝手に売らない?」


その言葉に、俺の胸の奥が少し冷えた。


売らないか。


十五の少年が、自分のスキルや体質について最初に心配するのが、誰かに売られないかどうか。そういう世界にいたのだろう。


俺ははっきり答えた。


「売らない。君のスキルが何であっても、君は素材じゃないし、商品でもない。働くなら契約を結ぶ。保護が必要なら、職業斡旋局か村長か、必要なところと相談する。勝手にどこかへ渡すようなことはしない」


ホワイトはしばらく俺を見ていた。


信用している目ではなかった。


けれど、完全に拒絶する目でもなくなっていた。


「……少しなら」


「分かった」


アイスはすぐに工房から小さな水盤、薄いスライム粘液を入れた透明皿、通常の青スライム核の欠片、そして魔力反応紙を持ってきた。反応紙は薬師会で使われる簡易なもので、対象者の魔力が素材にどう触れるかを色のにじみで見る道具らしい。正式鑑定板ほどの権威はないが、素材適性の傾向を見るには使えるという。俺も薬師会で何度か見たことがある。紙に色が出るだけなので地味だ。地味だが、アイスが扱うと急に怖い道具に見える。


「水盤の上へ手をかざしてください。触れなくて構いません」


ホワイトは警戒しながら手を出した。指は細く、ところどころ小さな傷があった。薬品倉庫で働かされていたというなら、瓶や木箱で切ったのかもしれない。ミルは肩の上でじっとしている。普通のスライムなら、薬師会の反応紙や核片に近づくと、逃げるか縮む。ミルは逃げなかった。むしろホワイトの手元を見ているようだった。


アイスが青スライム粘液を水盤へほんの一滴落とした。


粘液は水面に触れると、普通なら薄く広がって消える。ところが、ホワイトの手が近くにあるだけで、粘液は水の中で小さな丸みを保ち、ゆっくりと少年の手の影の下へ寄るように動いた。


「……動いた?」


ミーナが小声で言った。


俺も見た。


動いた。


水の流れではない。水盤は静かだった。アイスの手も止まっている。粘液そのものが、ホワイトの手の下へ集まるように、ほんのわずかに流れたのだ。


アイスの目が鋭くなる。


「もう一つ」


今度は青スライム核の小片を、水盤の端へ入れる。小片なので生きたスライムではない。普通なら、反応はほとんどない。けれど核片から出た淡い青い光が、ホワイトの手の下でふわりと揺れ、反応紙の端に薄い緑がかった銀色がにじんだ。


アイスが息を止めた。


「これは……誘引系、いえ、親和系反応です。敵対抑制と集合反応が同時に出ています。スライム素材が、ホワイトさんの魔力を外敵ではなく、近接許容対象として認識している可能性があります」


「分かるように言ってくれ」


「スライムが、彼を怖がりにくい。むしろ近づきやすい性質を持っている」


「そんなことがあるのか…?」


「通常はありません」


「通常って言葉、最近本当に頼りにならないな」


アイスは反応紙を見つめながら、低い声で言った。


「名称を仮に置くなら、《スライムテイマー》、あるいは《スライムフレンド》に近い未鑑定スキルです。ただし、正式名称は教会鑑定か職業斡旋局の適性検査を通す必要があります。現時点で言えるのは、ホワイトさんがスライム系魔物に対して、異常な親和性を持っているということです」


ホワイトは、あまり嬉しそうではなかった。


むしろ、少し嫌そうだった。


「……雑魚に好かれるだけ」


その言葉は、以前どこかで聞いた気がした。


スライム相手ならすごいな。


十五の頃、俺もそんなふうに言われた。笑われて、慰められて、外れスキルだと思った。スライムにだけ強い。そんな能力に価値などないと思っていた。目の前の少年は、たぶん逆だ。スライムにだけ好かれる。人間は信用できず、家では道具のように扱われ、逃げ出した先で自分の奇妙な体質を「役立たず」だと思っている。


俺はホワイトの肩に乗る白いスライムを見た。


どこにでもいるただのポーション屋のおっさんは、スライムを壊さず狩る。


ホワイト・フローは、スライムに逃げられず近づける。


奇妙な話だった。


…うん。奇妙すぎる。


「ホワイト」


俺はゆっくり言った。


「とりあえず今日はこれで終わりだ。なんにせよ君の事情も、身元も、斡旋局への相談も必要だ。そこは変わらない」


ホワイトの目が、少し暗くなった。


「ただし、あとでまたじっくり話を聞かせてもらうことにする」


ホワイトは俺をじっと見た。


「……雇うの?」


「まだだ。まずはじっくり話を聞く。突然のことすぎてこっちも困ってるんだ」


「追い返さない?」


「今夜はな」


ホワイトは何か言い返そうとして、結局黙った。


肩の上で、ミルがぷるんと小さく跳ねた。まるでそれでいいと言っているみたいだった。ホワイトはその白いスライムをちらりと見て、小さく舌打ちした。


「お前、ほんと出てくるなよ……」


ミルは気にしていなかった。


むしろ、少し誇らしげに見えた。


俺はその白い小さな塊を見ながら、心の中で深くため息をついた。


応募者は四人だったはずだ。


そこから一人を選ぶはずだった。


人材育成と管理の章が始まったと思ったら、最初の面接日の終わりに、馬車に隠れてきた少年と希少スライムと未鑑定スキルが店の中にいる。


「……俺はただ、従業員を一人増やしたかっただけなんだがな」


誰に聞かせるでもなくつぶやくと、アイスが真顔で答えた。


「結果的に、非常に興味深い人材候補が追加されました」


「追加するな。俺の胃を」


ミーナは困ったように笑い、ホワイトは意味が分からないという顔をし、ミルはぷるぷる揺れていた。


青ぷよ薬房は、また面倒な方向へ一歩進んだらしい。


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