第2話 店を広げる前に、俺の常識を広げる必要があるらしい
こうなったら、人を増やすしかないかもしれない。
いや、それしかないだろう。
いわゆる人海戦術というやつだ。
人手が増えれば、瓶を洗う者がいる。薬草を刻む者がいる。棚に並べる者がいる。客をさばく者がいる。帳簿をつける者がいる。俺は森でスライムを狩り、素材を精製し、肝心の調合に集中できる。そうすれば騎士団への納品分も、村の常連分も、冒険者向けの店頭販売分もなんとかなるかもしれない。
なんとかならないかもしれない。
そこは考えないことにした。
考えすぎると人は動けなくなる。若い頃の俺は、強い魔物と戦う前に「もし勝てなかったらどうしよう」と考えすぎて、戦う前に帰ったことが何度もある。おかげで今も生きているので、それはそれで正解だった気もする。
とにかく、人手だ。
人手さえあれば、今よりはましになる。
俺は店の奥にある作業机に座り、羊皮紙を広げながら羽ペンを握った。
まず書くべきは「人を雇う」である。
大事なことなので、少し大きめに書いた。
人を雇う。
書いた瞬間、俺は手を止めた。
人を雇うには、給金がいる。
給金を払うには、売り上げがいる。
売り上げを正しく見るには、原価を知らなければならない。
原価を知るには、素材代、瓶代、栓代、燃料代、薬草代、布代、釜の維持費、棚の修理費、井戸水の汲み上げにかかる手間、俺の腰への負担、ミーナの笑顔に含まれる圧力、それらを計算しなければならない。
最後の一つは金額に換算しづらい。
だから羊皮紙の端に「原価計算」と書いた。
書いてから、思わずうなってしまった。
「……そもそも相場が分からん」
そうなのだ。
俺はポーション屋でありながら、ポーション屋としての相場をよく分かっていない。
これはかなり良くない。
かなりどころではない。商売人としては、たぶん畑に種をまいたあとで「ところでこれは食える植物なのか」と首をかしげているようなものだ。村の中で売っている分には、村人が払いやすい値段、冒険者が買いやすい値段、自分がなんとなく納得できる値段でやってきた。
通常回復ポーション、銅貨八枚。
疲労回復ポーション、銅貨十枚。
解毒ポーション、銀貨一枚。
強めのやつ、状態を見て相談。
……改めて書き出してみると、最後の一行がひどい。
「状態を見て相談」って何だ。医者か俺は。いや、ポーション屋だから似たようなものかもしれないが、それにしたって説明が雑すぎる。雑というより、ほぼ丸投げだ。客の体調と懐事情と運に任せます、みたいな書き方になっている。
値札の木札を指でつついてみる。
少し歪んでいる。昨日、慌てて書き直したせいだ。インクもまだ完全に乾ききっていないのか、触るとわずかに指が黒くなる。こんな状態で店に出している時点で、真面目な薬房を名乗る資格はたぶんない。
……ミーナに見られたら怒られるな。
いや、見られなくても怒られる。
むしろ後で帳簿と一緒にこの値札を突きつけられて、「店主さん、説明責任という言葉をご存知ですか?」とか静かな声で詰められる未来が見える。あの笑顔で淡々と正論を重ねてくるやつだ。…きっと逃げ場はない。
俺は一度ため息をつき、値札をひっくり返して裏面も見た。
何も書いてない。
当たり前だが、なんとなく救いを探してしまった。
「……書き直すか」
そう呟いたものの、手は動かない。
書き直すとして、何を書く?
「強化型回復ポーション(個人差あり)」とかか?
それはそれで胡散臭い。薬というより健康食品の宣伝みたいだ。
結局、「状態を見て相談」に戻りそうな気がして、俺はペンを持ったまま固まった。
その時、売り場のほうから、ごと、と鈍い音がした。
木箱を床に下ろす音だ。
続けて、棚板を引き抜く音、瓶同士が軽く触れ合うかすかなガラス音。手際よく、無駄のない動き。聞き慣れた作業音だ。
ミーナが在庫棚の整理をしているのだろう。
午前の販売はすでに終わっている。
今日も、きっちり完売した。
……完売。
普通なら喜ぶべき言葉だ。店をやる以上、売れ残りがないのは理想的な状態だし、帳簿の数字も綺麗にまとまる。仕入れと販売が噛み合っている証拠でもある。
なのに最近、この言葉を聞くと胃のあたりが少し重くなる。
「よし、売り切れた」じゃない。
「また明日の分を作らなきゃな」だ。
頭の中で、明日の仕込み工程が勝手に並び始める。
スライム採取、下処理、濾過、加熱、冷却、瓶詰め、ラベル貼り。
途中で一つでもミスれば全部やり直し。
嬉しさと同時に、作業量の見積もりが押し寄せてくる。
……無事、なのかこれ。
椅子の背にもたれながら天井を見上げる。
煤で少し黒ずんだ梁。昨日、煙の抜けが悪くて軽く焦がしたところだ。あれも直さないといけない。やることは減らない。むしろ増えている。
「ロイドさん、在庫表できましたよ」
軽い足音と一緒に、ミーナの声がした。
振り向くと、帳簿を抱えたミーナが作業場の入口に立っている。きちんとまとめられた髪、汚れの少ないエプロン、姿勢もまっすぐ。朝からずっと動いていたはずなのに、疲れた様子をあまり見せない。
……同じ店で働いてるとは思えないな。
最近のミーナは、村長の姪というより、完全に青ぷよ薬房の番頭である。
在庫管理、販売整理、帳簿付け、客対応、ついでに店主の監視までやっている。最後のは業務に含まれていないはずだが、たぶん一番重要視されている。
本人に「もう番頭だろ」と言ったら、十中八九こう返ってくる。
――「番頭なら給金を上げてください」
言い方も絶妙に真顔で来るに違いない。
だから言わない。
言わないが、内心ではほぼ認めている。
「助かる」
俺は短く答えて、手を差し出した。
「店主さんは何をしてるんですか?」
「人を雇う計画を立てている」
「いいですね。ようやく現実を見ましたね」
「言い方」
「すみません。ようやく店の規模と仕事量の釣り合わなさを正面から認識しましたね」
「丁寧に言えば刺さらないと思うなよ」
ミーナは机の上の羊皮紙をのぞき込んだ。
そこには大きく「人を雇う」と書かれ、その下に「原価計算」「相場」「瓶」「給金」「腰」と並んでいる。
「腰って何ですか」
「俺の腰の価値だ」
「計算に入れるんですか」
「最近、朝起きる時に音がする」
「それは医者に行ってください」
「疲労回復ポーションでなんとかならんか」
「店主さんが自分の商品に頼り始めたら終わりですよ」
「俺が作ってるんだぞ」
「だから怖いんです」
正論が痛い。
俺は羽ペンを置き、椅子の背に体を預けた。
「人を増やすにしても、この村じゃ人手が足りない。村人はみんな自分の畑や仕事があるし、若いのは少ない。ミーナ一人にこれ以上負担をかけるわけにもいかん」
「私はまだ大丈夫ですよ」
「大丈夫な顔で棚卸しと接客と整理券と帳簿と客の苦情対応を全部やるな。こっちが不安になる」
「仕事はある程度まとめて片づけたほうが気持ちいいので」
「商会にさらわれるぞ、そのうち」
「店主さんが給金を上げてくれたら残ります」
ほら来た。
予想通りだ。
「検討する」
「商売人の検討は、だいたい先延ばしです」
「鋭いな」
「帳簿を見ていますから」
俺は咳払いをした。
給金は本当に上げるべきだと思っている。ミーナの働きは銅貨数枚で済むものではない。彼女がいなければ、俺は今ごろ客の列に飲まれ、店の床で干からびた薬草みたいになっていたはずだ。
「本腰を入れて店を広げるなら、まず調査だな」
「調査?」
「ああ。近々レスタルムに行こうと思っている」
ミーナの目が少し丸くなった。
「レスタルムですか」
「そうだ。あそこならポーションはもちろん、魔法薬全般の取引が盛んだ。薬草市場もあるし、瓶や器具の職人もいる。商会も多い。職安もある」
「職安で雇い入れを探すんですね」
「正式な手続きをしたほうがいい。口約束で雇って、あとから揉めたら嫌だからな」
「店主さん、そういうところは慎重ですよね」
「そういうところしか慎重じゃないみたいに言うな」
「わりとそうです」
「否定しろ」
「帳簿を見ていますから」
帳簿は人を強くする。
俺は羊皮紙に「レスタルム調査」と書き足した。
その下に、行くべき場所を並べる。
一、ポーション市場。
二、薬草市場。
三、瓶職人の工房。
四、職安。
五、可能なら同業者の店。
六、うまい飯屋。
ミーナが六番目を指差した。
「これは必要ですか?」
「必要だ。遠出をするなら飯は大事だ」
「調査ですよね」
「飯がまずいと判断力が落ちる」
「もっともらしいことを言っていますけど、ただ食べたいだけですよね」
「半分はな」
「残り半分は?」
「酒も飲みたい」
「全部欲望じゃないですか」
俺は視線をそらした。
レスタルムには昔、一度だけ行ったことがある。
若い頃――と言っても、今より少し無茶ができた程度の頃だが――冒険者として登録したばかりの時、まともな依頼を探そうと思って足を運んだのだ。
エルムホルン村から丸一日かけて、土の道をひたすら歩いて。
途中で二回ほど道を間違え、三回ほど「やっぱ帰ろうかな」と思い、最終的に「ここまで来たんだから入るだけ入るか」と半ば意地で辿り着いた。
遠くから見えたレスタルムの城壁は、それだけで圧倒的だった。
灰色の石を積み上げた高い壁。見上げると首が痛くなるほどで、ところどころに見張りの塔が突き出している。門の前には人の列ができていて、荷馬車がぎしぎし音を立てながら順番を待っていた。
「うわ……」
あの時、たしかそんな間の抜けた声が出た気がする。
村の入り口にある木柵とはわけが違う。あれは境界線だが、こっちは完全に「内と外を分ける壁」だ。中に入れば別世界、そんな感じがひしひしと伝わってきた。
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
まず音だ。
人の声、車輪の軋み、金属のぶつかる音、遠くで鳴る鐘、怒鳴り声と笑い声が混ざって、絶え間なく耳に流れ込んでくる。静かな瞬間がない。
次に匂い。
これがまたひどい。
いや、ひどいというか、濃い。
香辛料の刺激的な香り、焼いた肉の脂の匂い、揚げ物の油、干した魚、獣の皮、馬の汗と糞、さらにどこかで焚かれている香木の煙。いい匂いと悪い匂いが遠慮なく混ざり合って、鼻の奥にべったり張り付く。
そして視界。
広い通り。人、人、人。
荷を担いだ人夫が肩で風を切り、商人が声を張り上げ、旅人がきょろきょろ辺りを見回し、冒険者が剣や槍をぶら下げて歩いている。服装もばらばらだ。豪華なローブを着た魔法使い風のやつもいれば、泥だらけの靴のまま歩く農民もいる。
とにかく、情報量が多い。
多すぎる。
「……帰りたい」
門をくぐって、たぶん三十分くらいでそう思った。
さらに一時間後には完全に人に酔っていた。
肩が何度もぶつかる。足を踏まれそうになる。後ろから押される。店の呼び込みに腕を引かれる。気がつけば財布の位置を何度も確認している自分がいる。
結果、半日も持たなかった。
依頼掲示板を一応見て、内容を半分も理解できないまま、「これは無理だ」と判断して、その日のうちに村へ引き返した。
……今思えば、あれでよく冒険者を名乗っていたものだ。
あそこは、とにかく賑やかすぎる。
だが、賑やかすぎるからこそ、情報は集まる。
それも質のいいやつが。
エルムホルン村で俺が「ポーションの相場ってどれくらいだ」と聞いても、返ってくるのはだいたい決まっている。
村の婆さんは「効けばいい」と言う。
猟師は「安けりゃ助かる」と言う。
村長は「ロイド君の良心に任せる」と言う。
……参考にならない。
誰一人として「銀貨いくらが適正だ」なんて答えは持っていないし、そもそも必要としていない。村では、効くか効かないかがすべてだ。値段はその次でいい。
もちろん、俺も正確な市場価格なんて知らない。
いや、まったく知らないわけじゃない。
レスタルムの露店や薬屋でちらっと見た値札とか、たまに来る行商人から聞いた話とか、そういう断片的な情報は頭の隅に残っている。
だが、あれはあくまで「都市のポーション」だ。
大きな薬房で、大量の素材を仕入れて、分業で作られて、品質管理されて、流通に乗って、店頭に並ぶやつ。
言ってしまえば、工場製品だ。
それに対して、俺のポーションは完全に自家製。
素材はほぼスライム頼り。採取も加工も全部一人(最近はミーナが手伝ってくれているが)。味も香りも、その日の出来に多少左右される。
そんなものに、都市の価格をそのまま当てはめていいのかと言われると、正直よく分からない。
だから結局、俺の中の基準はこうなる。
「たぶんこのくらいなら高すぎないだろう」
だいたい、既製品の一・五倍か二倍くらい。
……いや、逆か?
俺のほうが安すぎるのか?
そのあたりも含めて、全部ふわっとしている。
つまり何が言いたいかというと。
俺の値付けは、かなり適当だ。
そして、その適当な値付けのポーションに、なぜか行列ができている。
……本当に、世の中分からない。
「ポーションの売価については要検討だな」
「今の値段は、正直かなり安いと思います」
「王都の商人にも言われた」
「マルセルさんですね」
「さん付けするな。あいつ、また来そうで怖いんだ」
「来ると思います」
「断言するな」
「商人の目をしていました」
「お前、商人の目まで分かるのか」
「店主さんの逃げたい目なら毎日見てます」
「それは見なくていい」
ミーナは帳簿を開き、ここ数日の売り上げを見せてくれた。
数字が並んでいる。
思ったより多い。
いや、かなり多い。
銅貨と銀貨の積み重ねは馬鹿にならない。行列を見ていたから売れているのは分かっていたものの、こうして数字で見ると妙な実感がある。俺はしばらく無言で帳簿を眺めた。
「……これ、こんなに売れてたのか」
「はい」
「俺、こんなに稼いでたのか」
「はい」
「税、どうなる?」
「そこから心配するんですね」
「税は怖いぞ。魔物より怖い」
「村長さんに相談しましょう」
「そうする」
世の中には、強い魔物より怖いものがいくつかある。
税と、契約書と、貴族。
それから、笑顔で追加の仕事を持ってくる人間だ。
この四つとは、できるだけ距離を置いて生きていきたい。森の奥でばったり魔狼に出くわすのも御免だが、役人が帳簿を抱えて「少し確認したいことがありまして」とにこやかに店へ入ってくるほうが、俺にとってはよほど心臓に悪い。
魔物なら、まあ逃げるなり殴るなりできる。
税は逃げると余計に追ってくる。
契約書は、読まずに判を押すと後で首を絞めてくる。
貴族は、機嫌を損ねた時点でこちらの人生が面倒な方向へ曲がる。
笑顔で仕事を持ってくる人間は、その三つのどれかを背負っていることが多い。
つまり、全部危険である。
……すでに騎士団の契約書は店の奥にある。
王都の商人も来た。
この流れなら、税は確実に増えるだろう。
貴族はまだ来ていない。
まだ、だ。
頼むからまだ来るなよ。
いや、できれば一生来るな。
俺は作業台の上に広げた羊皮紙を見下ろし、こめかみを揉んだ。
税というものは、ただ「売れたから払う」で済むほど単純ではない。
少なくとも、この国ではそうだ。
エルムホルン村のような小さな村で細々と商売しているうちは、年に一度の村税と商い札の更新料、それから売上に応じたわずかな営業税を村長経由で納めればよかった。村税は道の補修や井戸の管理、見張り台の維持に使われる。商い札は「この村で店を開いていいですよ」という許可証みたいなものだ。
ここまでは分かる。
嫌だが、分かる。
問題は、売上が一定額を超えた時だ。
村の帳簿から領主の帳簿へ名前が上がる。
そうなると、今度は領主税がかかる。年間利益に応じた課税、瓶や薬草など仕入れ品にかかる取引税、村の外へ商品を出した場合の流通税、さらに騎士団や役所との契約品には納品記録を残す義務まで発生する。
面倒くさい。
非常に面倒くさい。
薬草を刻むほうがまだ楽だ。薬草は文句を言わないし、判子も求めてこない。
しかも税というのは、払えば終わりではない。
「なぜこの値段なのか」
「素材費はいくらなのか」
「利益はいくら残っているのか」
「どこから仕入れて、誰に売ったのか」
そういうことを説明できなければならない。
今までの俺なら、「スライムを狩って、煮て、濾して、瓶に詰めて、なんとなくこの値段で売りました」で済ませていた。
済ませていたというか、村ではそれで誰も困らなかった。
だが、王都の商人が来て、騎士団との契約ができて、青ぷよ薬房の名前が妙な方向に広がり始めた以上、もう「なんとなく」では済まない。
なんとなくで商売をしていると、いつか役人に帳簿をめくられた時、俺の心が先に破れる。
「スライム素材の市場価値も調べないとな」
俺は羊皮紙にそう書いた。
書いた瞬間、ため息が出た。
これが一番の問題かもしれない。
そもそもスライムと一口に言っても、実はいろんな種類がいる。
青スライム、緑スライム、赤スライム、水スライム、泥スライム。
薬草ばかり食べて体内に薬効成分を溜め込む薬草スライム。
魔力溜まりの近くで、粘液そのものに薄い魔力を帯びる魔力スライム。
鉱山跡や岩場に現れ、体内に細かい鉱石粉を含む鉱石スライム。
腐葉土の多い森に出る、やや匂いのきつい腐土スライムなんてものもいるらしい。
らしい、というのは、俺がいちいち真面目に分類してこなかったからだ。
俺にとってスライムは、長い間、ただのスライムだった。
狩れる相手。
素材になる相手。
ぷるぷるしている相手。
あと、たまに妙にこちらを見てくる相手。
色が違えば「ああ、今日は青が多いな」と思い、生息地が違えば「水辺のやつは少し粘りが強いな」と思う。その程度である。どの種類が市場で高く売れるとか、薬師学院ではどう分類されているとか、商会がどの等級で買い取るとか、そんなことを気にしたことはほとんどなかった。
今にして思えば、かなり危ない。
魚屋が魚の名前も値段も知らずに魚を売っているようなものだ。
いや、それはさすがにひどいか。
俺だって通常回復ポーションの値段くらいは知っている。
銅貨八枚だ。
自分で決めた値段だが。
……やっぱりひどいかもしれない。
「店主さん、スライム素材って今まで自分で採ってる分だけですよね」
「ああ。足りない時は森に行けばいいからな」
「採取依頼を出す場合、単価を知らないと困りますよ」
「採取依頼か……」
それも必要になるかもしれない。
俺一人でスライムを狩り続けるにも限界がある。今はまだ何とかなってはいる。俺のスキルはスライム相手だけなら妙に便利だからだ。森に入れば素材は集まるし、品質も安定する。けれど店を広げ、騎士団分を納め、常連分を確保し、新規客にも売るとなると、素材の量が問題になる。
人を雇う。
素材を集める。
相場を調べる。
売価を見直す。
設備を増やす。
税を相談する。
俺は羊皮紙を見た。
やることが多い。
多すぎる。
「……ミーナ」
「はい」
「店を畳むという選択肢は」
「ありません」
「まだ最後まで言ってない」
「顔で分かります」
「顔に出てたか」
「すごく出てました」
俺は机に突っ伏した。
木の匂いがする。
店を開いた時に自分で磨いた机だ。あの頃は、客が一日に三人来れば喜んでいた。売れ残ったポーションを眺めながら「明日はもう少し来るといいな」と思っていた。それが今では、売れすぎて人を雇う相談をしている。
人生というものは分からない。
分からなすぎる。
「ロイドさん」
「なんだ」
「レスタルム、いつ行きます?」
「早いほうがいい。騎士団の正式契約が来る前に、相場と人手の目星をつけたい」
「明日は?」
「明日は店を閉めるわけにはいかん。常連分だけでも出したい」
「では、明後日から二日ほど臨時休業にしますか」
「臨時休業か」
いい響きだ。
休業。
なんて甘い言葉だろう。
店を閉める。
客が来ない。
釜を見ない。
棚を見ない。
行列を見ない。
いや、レスタルムへ調査に行くのだから休みではない。むしろ仕事だ。仕事なのに、店にいなくていいというだけで少し気が楽になる。
「臨時休業の張り紙を作るか」
「理由はどうします?」
「店主体調不良」
「本当に心配されます」
「素材調査のため」
「いいと思います」
「商売拡大準備のため」
「それは客が増えます」
「やめよう」
「はい」
ミーナはすぐに紙を用意した。
俺は筆を持ち、ゆっくり書く。
――素材および市場調査のため、二日間休業いたします。
よし。
無難だ。
これなら変な期待を煽らない。たぶん。
「下に、騎士団納品分および予約分には影響ありません、と書いておきましょう」
「そうだな」
「あと、転売目的の買い占め禁止も」
「それは常に書いておきたい」
「整理券制度継続も」
「張り紙が長くなるな」
「長いほうが誤解が減ります」
「読まないやつは読まんぞ」
「読まない人には私が読み上げます」
頼もしい。
頼もしすぎて、俺が情けなくなる。
午後、村長のところへ相談に行った。
村長宅は店から歩いてすぐの場所にある。白い壁と赤い屋根の、村では一番しっかりした家だ。庭には季節の花が植えられていて、鶏が数羽のんびり歩いている。村長は縁側の椅子に座り、茶を飲んでいた。俺を見るなり、何かを察した顔をした。
「ロイド君、顔が商売で疲れているな」
「分かりますか」
「最近、君の店の前だけ村ではないような賑わいだからな」
「正直、困ってます」
「儲かって困るとは、商売人としてぜいたくな悩みだ」
「儲けと平穏を交換した覚えはないんです」
村長は笑った。
笑いごとではない。
俺は人手を増やしたいこと、レスタルムへ相場調査に行くこと、税について相談したいことを話した。村長は真面目に聞いてくれた。こういう時の村長は頼りになる。普段は畑のかぼちゃの出来を自慢しているだけの好々爺に見えるものの、村を長くまとめているだけあって、手続きや人の流れには詳しい。
「税については、今年の収入がこのまま増えるなら早めに記録を整えたほうがいい。ミーナに帳簿を任せているなら大丈夫だと思うが、レスタルムの商業組合で相談してもよい」
「商業組合ですか」
「職安も組合の近くにある。人を雇うなら、契約書の雛形も手に入るだろう」
「契約書……」
俺の声が少し沈んだ。
村長は笑った。
「そんな顔をするな。契約書は敵ではない。読まずに印を押す者にとって敵になるだけだ」
「名言ですね」
「昔、読まずに印を押して痛い目を見た」
「経験談でしたか」
村長は遠い目をした。
深く聞かないほうがよさそうだ。
「それと、レスタルムへ行くなら薬師会の出張所にも寄るといい。相場を知りたいなら、商人だけでなく薬師側の話も聞くべきだ」
「薬師会……」
俺は以前うちに来て震えて帰った薬師を思い出した。
ああいう人がたくさんいる場所だろうか。
ちょっと嫌だな。
「俺、正式な薬師じゃないんですけど、怒られませんかね」
「資格がない者が薬を売っているとなれば、普通は面倒になる」
「今さら怖いこと言わないでください」
「ただし、この地方では村内販売や民間調合の範囲なら認められている。君の場合、規模が大きくなりつつあるから、正式に届け出を整えたほうがいい」
「手続きが増えた」
「店が大きくなるとは、手続きが増えることだ」
「夢がないですね」
「夢を守るために手続きがある」
これも名言っぽい。
村長はたまにいいことを言う。
「ロイド君、君は自分をただのスライム狩りだと思っているのだろう」
「実際そうです」
「村の者は、君の店に助けられている。外から来る者も同じだろう。面倒は増える。望まぬ声も増える。君が嫌なら無理に広げる必要はない。けれど、広げるなら、慌てず足場を固めなさい」
「足場ですか」
「値段、仕入れ、人手、契約、税。そこを曖昧にすると、善意も商売も長続きしない」
俺はうなずいた。
重い話だ。
けれど、必要な話でもある。
俺はただ静かに暮らしたいだけだった。今もその気持ちは変わらない。行列が嬉しくないわけではないし、売れればありがたいし、人に喜ばれれば悪い気はしない。問題は、このまま勢いだけで進むと、俺の暮らしも店もどこかで潰れるということだ。
潰れるのは困る。
静かに暮らしたいなら、静かに暮らすための仕組みを作らなければならない。
なんだそれ。
隠居に努力が必要なのか。
世知辛い。
村長宅を出る頃には、夕方の光が村を染めていた。
店に戻ると、ミーナが張り紙を清書してくれていた。俺の字よりずっと読みやすい。看板の青ぷよもこれくらい可愛く描ける人に頼めばよかったかもしれない。
「村長さん、何て?」
「相場、雇用、税、資格、全部きちんとしろと言われた」
「当然ですね」
「少しは慰めろ」
「きちんとすれば大丈夫ですよ」
「それは慰めか?」
「はい」
たしかにそうかもしれない。
きちんとすれば大丈夫。
簡単なようで難しい。
難しいけれど、何もしないよりはずっといい。
俺はもう一度、やることをまとめた。
レスタルムでポーション相場を調べる。
スライム素材の市場価値を確認する。
瓶や栓の仕入れ先を探す。
職安で人を探す。
雇用契約の手続きを確認する。
商業組合と薬師会に相談する。
うまい飯屋を探す。
ミーナに見られる前に、最後の一つを小さく書いた。
「見えてますよ」
「目がいいな」
「帳簿で鍛えました」
「帳簿で目は鍛えられんだろ」
「店主さんのごまかしを見抜く目は鍛えられます」
俺は羊皮紙を丸め、立ち上がった。
明日は通常営業。
明後日からレスタルム。
たったそれだけの予定なのに、妙に大きな一歩に思える。
俺は本当に店を広げたいのか。
正直なところ、自分でもよく分からない。
野心はない。
王都一の店になりたいとも思っていない。
金貨の山に埋もれたいわけでもない。
美人の貴族令嬢に「あなたの才能を国のために」なんて言われたいわけでもない。…いや、少しだけ見てみたい気持ちはある。男だからな。そこは否定しない。関わりたいかと聞かれれば全力で首を横に振るが。
俺が欲しいのは平和な暮らしだ。
村の人が困らない程度に薬を作り、冒険者が必要な時に買え、俺が無理をしない範囲で続けられる店。
そのために人を増やす。
そのために値段を見直す。
そのためにレスタルムへ行く。
考えてみれば、悪い話ではない。
静かに暮らすために、少しだけ賑やかな場所へ行く。
矛盾しているようで、今の俺には必要なことなのだろう。
「ロイドさん、明日の仕込み、始めますか?」
ミーナが言った。
「そうだな。まずは通常回復からだ」
「騎士団分は?」
「奥の箱に分ける。売り場には出すなよ」
「分かっています」
「それと、明日は販売数を少し減らす」
「レスタルム行きの準備ですね」
「ああ。俺が倒れたら意味がない」
「ようやく自分の体力を原価に入れましたね」
「腰代だな」
「帳簿に変な項目を作らないでください」
俺たちは作業場へ向かった。
釜に火を入れ、薬草を刻み、瓶を洗う。いつもの作業だ。いつもの作業なのに、今日は少し違って感じる。店を続けるための作業。広げるためではなく、潰さないための作業。俺にとっては、そのほうがしっくりくる。
青いスライム粘液を鍋に入れると、澄んだ光がゆっくり広がった。
相変わらず綺麗だ。
俺はこの光が嫌いではない。
いや、たぶん好きなのだ。
だから続けている。
だから面倒でも釜の前に立つ。
「……スライム素材って、市場だといくらなんだろうな」
俺がつぶやくと、ミーナが瓶を並べながら答えた。
「レスタルムで分かりますよ」
「高かったらどうする」
「店主さんの見る目があったということです」
「安かったら?」
「加工技術がすごいということです」
「どっちにしても俺が困る流れじゃないか?」
「売れているので」
「それで片づけるな」
釜の中で、青い液体がことことと音を立てる。
店の外には、もう明日の開店を待つような気の早い客が一人、看板を眺めていた。
俺は見なかったことにした。
青ぷよ薬房。
ふざけた名前の、小さなポーション屋。
その小さな店を守るために、俺は交易都市レスタルムへ行くことになった。
ポーションの相場も知らない。
スライム素材の値段も知らない。
人の雇い方もよく分かっていない。
資格や税の手続きも怪しい。
それでも、やるしかない。
やるしかないのなら、まずは飯のうまい店を探すところから始めよう。
「店主さん」
「なんだ」
「今、また余計なこと考えてますね」
「考えてない」
「顔に出ています」
「俺の顔、便利すぎないか?」
ミーナは笑った。
俺も少し笑った。
釜の火は安定している。
瓶は並んでいる。
明日の分のポーションは、たぶん問題なく仕上がる。
問題は、その先だ。
レスタルムで俺は、自分の作っているものが世間でどれほどの価値を持つのか、嫌でも知ることになるのだろう。
できれば、普通であってほしい。
そこそこ良い品。
ちょっと評判のいい田舎のポーション。
それくらいでいい。
頼むから、国宝級とか、戦略物資とか、商業革命とか、そういう面倒な言葉だけは出てこないでほしい。
俺は釜をかき混ぜながら、誰にともなく願った。
青い液体は、そんな俺の願いなど知ったことではないと言わんばかりに、いつも通りやけに澄んだ輝きを放っていた。




