第27話 そもそも、ポーションとは何ですか
夕食は、いつもより少し遅くなった。
仕込みが終わり、釜を洗い、濾過布を軽く湯に通し、瓶詰めしたばかりの高純度回復薬を保管棚へ移し、騎士団納品分の木箱に封をして、明日の生活用回復薬に使う薬草を水にさらし、ようやく工房の火を落とした頃には外の空はすっかり藍色に沈み、村の家々の窓にぽつぽつと灯りがともり始めていた。エルムホルン村の夜は早い。王都やレスタルムのように、日が落ちても人と荷車と灯りが途切れない場所とは違い、この村では夕食の煙が細く上がり、家畜小屋の戸が閉まり、畑から戻った者たちが一日の終わりを水桶と温かい汁物で迎える。俺はそういう空気が好きだった。少なくとも、税率表を前にして肩を重くしている時よりはよほど人間らしく息ができる。
「店主さん、お皿、こっちに並べますね」
「悪いな。今日は本当に助かった」
「今日だけじゃないですよ」
「それはそうなんだけどな」
ミーナはにこにこと笑いながら、厨房代わりに使っている奥の部屋の小さな机に木皿を並べていった。食事はたいしたものではない。豆と根菜のスープ、焼いた黒パン、昼に猟師のバルドが持ってきた干し肉を薄く切って炙ったもの、あとは村の畑で採れた芋を灰の中でじっくり焼いたもの。王都の上等な料理店なら、これを食事とは呼ばないかもしれない。けれど、釜の前に一日立ち、森を歩き、スライムを採り、アイスの質問を浴び続けたあとに食う温かいスープは、金貨を積んだ皿よりずっとありがたい。人間の幸福というのは、わりと腹と足元と寝床で決まるものだ。若い頃の俺は英雄だの名声だの受付嬢の笑顔だの、いろいろ無駄に大きいものを夢見ていた時期もあったけれど、三十代後半にもなると、塩気のあるスープと割れていない椅子と翌朝まで雨漏りしない屋根の価値が身にしみる。
アイスはその食卓の端に座って、木の椀を両手で持ったまま、ずいぶん真剣な顔をしていた。
「……このスープ、薬草は入っていませんね」
「入れてない。ただの夕飯だからな」
「香りに銀葉草に近い成分を感じました」
「それはたぶん根菜の皮だ。お前、何でも薬学で見ようとするなよ」
「習慣です」
「飯くらい飯として食え」
「努力します」
努力しなければならないのか、夕飯を普通に食うだけで。
ミーナが慣れた様子でアイスの前に黒パンを置いた。初日なら、アイスはパンの焼き具合や小麦粉の質や保存状態にまで何か言ったかもしれない。実際、最初の頃にミーナが淹れた薬草茶へ「抽出時間が二割ほど長い」と評した時、この子は本当に命知らずだなと俺は思った。今はさすがに少し学習したらしく、パンを見ても「水分量が低いですね」とは言わなかった。代わりに、指先で割ったパンをスープへ浸し、ふむ、と小さく頷いていた。何に納得したのかは知らない。聞くと長くなる気がしたので、俺は黙って芋の皮をむいた。
「聞き取りは夕食後ですよ、アイスさん」
ミーナが笑顔で念を押した。
「分かっています。今は観察のみです」
「観察もほどほどでお願いします。店主さん、見られながら食べると味がしない顔になりますから」
「俺の顔の分類を増やすな」
「でも本当ですよ。さっきから芋の皮、いつもより厚くむいてます」
「……見てるなお前も」
「長い付き合いですから」
この店は、いつから俺の動作を全員で観察する場所になったのだろう。スライムの核の位置ならともかく、芋の皮の厚さまで気にされるとは思わなかった。いや、たしかに今の俺は少し落ち着かなかった。夕食後に聞き取りをすると宣言されている時点で、飯のあとに待つものが安酒ではなく薬学講義と工程確認であることが確定している。食後の一杯の楽しみが羽ペンと記録板へ置き換わるのは、なかなか心にくるものがある。
食事が終わるとミーナが器を片づけ、俺が湯を沸かし、アイスが当然のように記録板を机の上へ置いた。食卓は、夕飯の場から会議の場へ変わるのに一分もかからなかった。俺としてはもう少し余韻が欲しかったのだが、青ぷよ薬房の最近の暮らしには、余韻というものがほとんどない。釜の火を落としたと思えば瓶詰めがあり、瓶詰めが終わったと思えば在庫記録があり、在庫記録が終わったと思えば明日の販売計画がある。そこへ薬師会主席卒業の研究生が加わると、さらに工程聞き取りと理論確認と用語整理まで増える。商売というより、小さな村の店がいつの間にか三つくらいの組織に分裂しかけている気分だった。
「まず、前提を整理します」
アイスが椅子に座り直し、記録板を開いた。
「今日の聞き取りは、採取工程の補足ではなく、ポーションそのものの理解から始めるべきです。ロイドさんは完成品を作る能力に優れていますが、ポーションというものを体系として捉えていません。その状態で商品区分、品質管理、販売計画を進めると、どこかで判断が破綻します」
「いきなり人の判断を破綻扱いするな」
「破綻予定です」
「予定にするな」
「現時点ではまだ回避可能です」
「それは励ましてるのか脅してるのか、どっちなんだ」
「警告です」
「一番嫌な答えだったな」
ミーナは会議の場になると自然に書記のような位置へ座るようになっている。俺が覚えておけばいい話だと思っていることほど、後で忘れて大騒ぎになると彼女は知っているのだろう。
「そもそも、ポーションとは何ですか」
アイスが俺を見た。
「魔法薬だろ。液体で、飲んだり塗ったりして、怪我を治したり毒を消したり、体を少し楽にしたりするやつ」
「一般人の回答としては間違っていません。しかし薬師会の定義としては不十分です」
「一般人の回答で通してくれ」
「商売人として販売するなら通りません」
「正論が早い」
アイスは淡々と続けた。
「薬師会では、ポーションを“魔力干渉によって特殊効果を発現する液体薬品群”として扱います。つまり、回復薬だけではありません。解毒、強化、精神安定、魔力循環補助、特殊環境対応、工業用液剤、儀式用触媒まで含みます。飲用である必要もありません。塗布、吸入、蒸気、浸漬、器具への注入など、用途によって投与経路は変わります」
「投与経路って言われると急に医者っぽいな」
「薬ですから」
「うちは青ぷよ薬房だぞ」
「名称の問題ではありません」
「そこを少しは問題にしてほしい」
アイスの言い方はいつも通り冷たく、余分な柔らかさはほとんどない。けれど内容そのものは、俺にも分かるように順序を置いていた。以前の彼女なら、最初から魔力構造だの媒体安定だの反応保持だのを積み上げて、俺とミーナを机ごと置いていったに違いない。少しずつ、ほんの少しずつではあるが、彼女もこの店の速度に合わせようとしているのかもしれない。まあ、合わせた結果がこれなら、元の速度はどれだけだったのかをいちいち考えたくはないが。
「では、回復ポーションとは何か。一般には傷を治す薬とされますが、専門的には、損傷した組織に対して、素材由来の修復性と魔力由来の再配列作用を一時的に与える液剤です。重要なのは、傷口を無理やり塞ぐことではありません。体が本来持っている回復の流れを、外部から整えて加速させることです」
「再配列作用って何だ」
「簡単に言えば、乱れた体の魔力の並びを、元の形へ戻す働きです。切り傷なら皮膚と血管の流れを、打撲なら筋肉と内側の魔力循環を、疲労なら消耗した魔力の巡りを整えます。粗悪な回復薬は、この再配列が乱暴なので、傷は塞がっても熱が出たり、治った部分が引きつったり、飲んだあとに強い倦怠感が出たりします」
「薬で治したのに疲れるのか?」
「よくあります。強力な薬ほど、身体側にも受け止める力が必要です。高級品だから無条件に良い、という話ではありません。患者の状態、傷の深さ、体内魔力の残量、毒や呪いの有無、年齢、体質、それらによって適量も種類も変わります」
「……それ、売る側が全部判断しないといけないのか?」
「本来なら、薬師が症状を見て判断します。店頭販売ではそこまでできないので、薬の分類、注意書き、販売制限、相談対応が必要になります」
俺は額に手を当てた。
また考えることが増えてしまった。
「ロイドさん、顔が真剣ですね」
ミーナが言った。
「真剣にもなるだろ。小難しい話をしてるんだから」
「今さらですか」
アイスが即答した。
「お前は少し遠慮しろ」
「遠慮しても事実は変わりません」
「その攻撃的な武器をしまえ」
アイスは構わず続けた。
「とはいえ、あなたのポーションは副作用がかなり少ない。薬師会の鑑定結果でも、身体負荷は一般的な同等効果品より低い値でした。理由はまだ仮説段階ですが、スライム核由来の魔力安定性と、粘液基材の流動性が関係している可能性が高いです」
「スライムの粘液が、体への負担を軽くしているってことか?」
「その可能性があります。普通の魔核系回復薬は、魔物核から抽出した魔力を薬草で抑え込んで人体へ馴染ませます。あなたの製法では、スライム粘液が魔力の衝撃を受け止め、身体側へゆっくり流しているように見える。今日の調合を見て、かなり確信に近づきました」
「俺はそんなつもりで入れてないぞ。スライム粘液がないと、うちの薬は作れないから入れてるだけで」
「理由はどうであれ、結果として成立しています」
「この店、結果だけ成立してること多すぎないか?」
「多いです」
「即答するな」
ミーナが炭筆で木板に「副作用少なめ、けれど説明必要」と書いた。字が丸くて読みやすいが、内容は少し怖い。
「では、今後の商売として、どう分けるべきなんですか?」
ミーナが聞いた。
「お客さんに説明するなら、難しすぎる分類は使えません。村の人には今まで通り分かりやすくしたいですし、冒険者さんには用途と注意点をすぐ伝えたいです。薬師会向けの記録と、店頭の表示はもう少し細かく分けたほうがよさそうです」
「なるほど」
アイスが頷いた。
「販売名は簡潔に、内部区分は詳細にするべきです。店頭では“生活用回復薬”“冒険者用回復薬”“高純度回復薬”“疲労軽減薬”“解毒薬”程度でよいでしょう。ただし内部記録では、素材番号、採取日、核の状態、粘液濃度、薬草配合、魔力保持率、身体負荷推定、推奨用途まで残します」
「店頭と内部で、顔を分けるわけか」
「はい。一般客に必要なのは、何に使えるか、いくらか、どれくらい安全か、どの程度飲んでよいか。薬師会や契約先に必要なのは、どの品質で、どう作られ、どこまで再現できるかです」
「俺に必要なのは、寝る時間なんだけどな」
「それは労務計画に含めます」
「含められた」
ミーナが楽しそうに木板へ書き足した。「店主の睡眠を確保」。なかなか大事な項目に見える。俺はその一文を見て、少しだけミーナに感謝した。アイスなら「睡眠不足は判断精度低下を招く」と書くだろうし、クラウスなら「作業継続性に関わるため休息を制度化」と書きそうだ。ミーナの「店主の睡眠を確保」は、字面だけ見ると人間味があっていい。
「次に、商品ごとの役割を整理します」
アイスは記録板に細い線を引き、いくつかの項目を書いた。
「生活用回復薬は、村内価格を維持しつつ、日常の軽傷、疲労、軽い不調向けに限定します。効果は強くしすぎない。高齢者や子どもにも使えるよう、身体負荷を低くする。販売数は記録し、同じ人が短期間で過剰に買わないよう確認します」
「婆さんが畑を増やしすぎないように、ってことか」
「それも含まれます」
「含まれるのか」
「含まれます。薬の効果によって生活行動が変化するなら、観察対象です」
「婆さんまで研究対象にするな」
「個人名は記録しません」
「そういう問題じゃない」
ミーナが肩を震わせていた。
「一般冒険者向け回復薬は、軽傷から中程度の傷、依頼前の備えとして販売します。こちらは外部価格で、薬師会確認済みであることを表示する。注意点として、重傷、毒、呪い、魔力枯渇がある場合は、自己判断で複数本使わせない。必要なら治療院へ誘導します」
「治療院へ誘導って、客を逃がすことにならないか?」
「死なれるよりましです」
「それはそうだな」
「それに、適切な誘導をする店は信用されます。売るだけの店より、危険な時に止める店のほうが長期的には強いです」
アイスがそう言うとは思わなかったので、俺は少し目を開いた。
「お前、商売の話もできるんだな」
「研究でも同じです。短期成果のために危険な試験を重ねれば、信用を失います。信用を失った研究者は、予算も共同研究者も失います」
「急に学術界の生々しさが出たな」
「現実です」
「また事実の仲間が来た」
ミーナはその言葉を聞きながら、「危険時は治療院へ案内」と書いた。青ぷよ薬房は、回復薬を売る店でありながら、売らない判断も必要になるらしい。商売とは、思ったよりずっと面倒だ。売れるだけ売ればいいわけではない。安くすればいいわけでも、高くすればいいわけでもない。誰に、何を、どの量で、どんな説明と一緒に渡すのか。そこまで含めて商売なのだと、今さらのように分かってきた。
「高純度回復薬は、店頭販売数を絞ります」
アイスが続けた。
「本来なら、薬師の診断なしで広く売るべきではありません。品質が高いぶん、使い方を誤ると問題が出る可能性もあります。現時点のロイドさんの品は身体負荷が低いため危険度は小さいですが、評判が広がれば、重傷者を抱えて押し寄せる人間、転売する商人、貴族向けに買い占めようとする者が出ます」
「もう胃が痛い」
「胃薬も商品化できますか?」
「今その話をするな」
「需要はあります」
「俺に一番ある」
ミーナが小さく手を挙げた。
「高純度は、店頭には少なめで、騎士団分と薬師会確認分を優先、でしょうか。あと、緊急用として数本は店に残しておきたいです。村で大怪我が出た時に全部売れていたら困ります」
「それは必要だな。俺も緊急用は残したい」
「では、高純度回復薬は四区分です」
アイスがすぐに線を引いた。
「一、騎士団契約分。二、店内緊急保管分。三、店頭限定販売分。四、薬師会検査および研究提供分。優先順位は、緊急保管、契約分、店頭、研究提供の順でどうですか」
「研究提供は最後でいいのか?」
「私情を挟まなければ最後です」
「挟むと?」
「最初にしたいです」
「正直でよろしい」
「研究者なので」
その返しは最近聞き慣れてきた。慣れたくはなかったが。
「疲労軽減薬については、少し注意が必要です」
アイスの声がわずかに硬くなった。
「疲労を取る薬は、回復薬より危険な場合があります。怪我は傷として見えますが、疲労は本人が限界を見誤りやすい。薬で動けるようになると、本来休むべき人間がさらに働いてしまいます。村の猟師や畑仕事の人たちが分かりやすい例です」
「ああ……婆さんとか猟師とか、思い当たる顔が多いな」
「冒険者にも危険です。疲労感だけを下げる薬は、判断力や筋肉の損傷を隠すことがあります。あなたの疲労軽減薬は、魔力循環を整えつつ身体の回復も補助しているようなので粗悪品ほど危険ではありません。それでも、連日使用や過剰使用は避けるべきです」
「じゃあ、疲労軽減は一人一本までか?」
「店頭ではその方が安全です。村内向けはさらに薄め、用途を“翌日に残る疲れを軽くする”程度に説明してください。“徹夜しても大丈夫”のような印象は絶対に避けるべきです」
「言葉って大事だな」
「薬は言葉で効き方が変わる場合もあります」
「気分の問題か?」
「気分だけではありません。使う側が薬の目的を誤解すると、行動が変わります。疲労軽減薬を休むための薬と理解するか、無理を続けるための薬と理解するかで、結果は大きく変わります」
俺は黙って頷いた。
これは、かなり刺さった。商業組合や薬師会でも散々言われたが、俺は今まで疲れた人が楽になればいいと思って作っていた。村の連中が畑仕事のあとに一本飲んで、翌朝少し元気になる。猟師が山から戻ってきて、足の重さを抜く。冒険者が依頼のあとに飲んで、翌日寝込まずに済む。それでいいと思っていた。繰り返しになるかもしれないが、それが俺の中での常識だったのだ。
けれど、楽になるからもう少し働ける、動けるから休まなくていい、そう考える人間がいるのも分かる。俺だって最近の忙しさの中で、自分用の薄い疲労回復に手を伸ばしたくなることが何度もあった。飲めば釜の前にもう少し立てる。もう一本分仕込める。明日の棚が少し埋まる。…まあ、そう考えてしまっている時点で、かなり危ないのかもしれないが。
「疲労軽減薬は、売り文句を決めましょう」
ミーナが言った。
「“無理をするためではなく、休むための薬”とかどうですか?」
「いいと思います」
アイスが珍しく即答した。
「身体機能の回復補助という意味でも正確です。商品札にも書くべきです」
「長いな。札に書くなら、“休む前の一本”くらいでどうだ」
「分かりやすいです」
「ロイドさん、そういうのは上手いですよね」
「そういうの、とは何だ」
「生活感のある言葉です」




