第26話 明日の分の仕込みは、まだ終わらない
「気になることがあるんですが」
アイスの声が、いつもより少しだけ低かった。
「今の工程は、核の魔力を強制抽出していません。核が自然に開く温度帯と、粘液側の受容状態を合わせています。だから魔力が荒れない。通常の魔導核製法では、魔核から魔力を引き抜いてから安定化させます。あなたは、安定化した媒体の中へ核が自分からほどけるように誘導している」
「そんな上品なことをしているつもりはない。無理にやると濁るから、濁らないようにしてるだけだ」
「それを上品なことと言います」
「そうか?」
「少なくとも、乱暴ではありません」
アイスがそう言うのは珍しかった。褒めているのか、分析しているだけなのか分からない。たぶん本人にも、その区別はあまりないのだろう。
ともかく、だ。
仕上げに入る。
俺は釜の下の火を落とし、燃え残った炭を火ばさみで少し横へ寄せて、釜全体の熱がゆっくり抜けるようにした。ここで焦って冷やすと、せっかく落ち着いた魔力の流れが急に縮こまり、液の中に妙な硬さが残る。見た目には澄んでいても、瓶に詰めて一晩置くと底のほうに細かい青い粒が沈むことがある。そうなると飲み口が悪くなるし、傷への馴染みも少し落ちる。だから最後だけは急いではいけない。売れるようになってからというもの、どうしても一本でも多く作りたくなるのだが、仕上げで慌てた薬ほどあとでこちらの首を絞めてくるんだ。商売も調合も、最後に雑をすると帳尻が合わなくなるからな。
表面の泡が大粒から細かい粒へ変わり、やがて釜の縁へ寄るように小さくまとまってきたところで、俺は用意していた濾過布を木枠に張った。布は昨日の夜に洗って灰汁を抜き、今朝もう一度湯を通して乾かしてある。布の目が粗いと薬草の細かい繊維が残るし、細かすぎるとスライム粘液のよいところまで引っかかる。ちょうどいい布というのは意外と難しい。昔、安い布で済ませようとして、出来上がった液がやけに水っぽくなったことがある。あれ以来濾過布だけは少し良いものを使っている。商売人としては節約も大事だが、節約する場所を間違えると、結局あとで高くつくことになる。
釜の液体を少しずつ布へ通すと、澄んだ青が細い流れになって瓶詰め用の白い陶器壺へ落ちていった。白い器に受けると、色の具合がよく分かる。今日は濁りが少なく、青が底までまっすぐ抜けている。底に沈殿はなく香りは穏やかで、鼻に刺さる青臭さも、薬草のえぐみも出ていない。俺は指先にほんの少しだけ取って、親指と人差し指の間で伸ばした。薄い膜が一瞬だけ張り、すぐに水へ戻るように消える。肌には朝の井戸水に触れた時のような、薄い冷たさだけが残った。
「高純度回復薬向きだな」
俺がそう言うと、アイスは計測器の針と記録板を見比べながら、ほんのわずかに目を細めた。
「魔力保持率は前回より高いです。粘液濃度を事前に測定したことで、加熱段階の調整が安定したのでしょう。特に中盤で火を落とすタイミングが前回より早く、核由来魔力の散逸が抑えられています」
「俺が見て火を落としたんだぞ」
「測定値も判断材料として寄与しています」
「そこは素直に、ロイドさんの腕ですね、でいいんじゃないか」
「腕は認めます。ただし、測定も有効でした」
「譲らないな」
「事実なので」
ミーナが瓶を並べながら、くすりと笑った。彼女は朝のうちに洗って乾燥棚へ伏せておいた瓶を、布の上に等間隔で置いていく。
「二人とも、どっちの手柄でもいいじゃないですか。いいものができたなら、お店としては助かります」
「ミーナ、お前は本当に大人だな」
「店主さんが時々子どもっぽいだけです」
「この店には俺の味方がいないな」
「味方はいますよ。ちゃんと瓶を並べています」
「それは味方というより有能な店員だ」
「では、有能な味方ということで」
瓶詰めは慎重に行う。瓶は朝のうちにミーナが洗い、乾燥棚で伏せておいたものだ。以前の俺なら綺麗ならいいだろうくらいの感覚で棚から取り、そのまま使っていたかもしれない。だが今は違う。内側に水滴が残ると保存性が落ちるし、栓の乾きが甘いと時間が経った時に匂いが移る。瓶の口に細かい欠けがあれば栓が緩み、輸送中に漏れる。そういうことを一つずつ確認するようになった。非常に面倒だが、実際にやってみるとたしかに失敗は減っている。書類と同じである。嫌いでも役に立つものはちゃんと役に立つ。そこがまた腹立たしいというかなんというか。
俺は陶器壺の口に細い注ぎ口を取りつけ、一本目の瓶へ液を注いだ。青い液体は瓶の底に当たって小さく揺れ、それから静かに満ちていく。光を受けると、液の中にごく薄い筋が走った。核の魔力がまだ生きている証拠だが、荒れてはいない。瓶の肩まで満たしたところで注ぐのを止め、布で口元を拭い、栓を差し込む。指で軽く押して、緩みがないか確かめる。番号札を確認したあとにラベルを貼り、ミーナの記録表へ回す。高純度回復薬は濃い青の細ラベル、一般冒険者向けは青白のラベル、生活用は薄青のラベル。最初にこの区分を聞いた時は、うちの店が妙に格式ばっていくようで落ち着かなかったが、実際に棚へ並べてみると、誰が見ても分かるというのはかなり強い。ミーナが在庫を数えやすくなり、客にも説明しやすい。俺も疲れている時に取り違えにくいから、そういう意味でもかなり役に立っている。
「一本目、状態良好です」
アイスが横から言った。
「まだ飲んでもいないだろ」
「視認上の濁りなし。魔力の揺れも均一。瓶詰め時の泡立ちも少ない。少なくとも失敗品ではありません」
「褒めてるのか最低限の合格を出してるのか、分かりにくいな」
「高評価です」
「お前の高評価は、もう少し温かくならないのか」
「温度は薬効に関係しますか」
「今のは人の心の話だ」
「なるほど。未分類です」
「分類してから返事するな」
ミーナがまた笑った。アイスは真面目に首を傾げている。こういう会話が作業場に増えたこと自体、少し前の俺なら想像もしなかった。以前は釜の音と木べらの音と、たまに外で跳ねるスライムの気配くらいしかなかった場所だ。今はミーナが瓶をそろえ、アイスが記録を取り、俺が釜と壺の間を行き来している。にぎやかとは言わないが、静かすぎることもない。
一本目の瓶を棚に仮置きすると、青い液体が作業場の窓から差す光を受けて、やけに綺麗に澄んで見えた。さっきまで森でぷるぷる震えていたスライムの粘液だったもの。小さな核に宿っていた魔力だったもの。畑の端で育った薬草の香りだったもの。井戸から汲んだ水だったもの。それらが洗われ、刻まれ、煮られ、馴染み、濾され、こうして小さな瓶の中でひとつの薬になっている。村の婆さんが飲めば翌朝また畑へ出るかもしれない。冒険者が腰に差せば、森の奥で命を拾うかもしれない。騎士団の荷に入れば、どこか遠くの戦場で誰かの傷を塞ぐかもしれない。そう考えると、少し不思議な気分になる。
俺はスライムしか狩れない。
昔は、それを情けないと思っていた。
今もゴブリン三匹にはできれば会いたくないし、狼が出たら普通に逃げたい。強い魔物を倒して名を上げる冒険者にはなれなかった。王都の学院で理論を学んだ薬師にもなれなかった。立派な商会を切り盛りする商人にも向いていない。税金の書類を見ると、肩が重くなる。
それでもスライムを狩って、素材を傷めず採って、釜の前で泡を見て、こうして瓶へ詰めることだけはできる。
できてしまう。
それが今、なぜか騎士団や薬師会や商業組合を巻き込み、店の棚を増やし、価格表を変え、ミーナを現場監督にし、アイスを工房に住み着かせかけている。
人生というのは、どうしてこう斜めに転がるのか。
「店主さん、今日の仕込み分、何本取れそうですか?」
ミーナが瓶を数えながら聞いた。
「高純度回復が十五、一般向けが二十、生活用が二十五くらいだな。疲労軽減は別釜で少し作る」
「騎士団分は?」
「高純度のうち十本を回す。店頭には五本だけだ」
「また明日すぐ売れそうですね」
「言うな。現実になるだろ」
「もう現実だと思います」
ミーナはにこにこと帳簿へ数字を書いた。アイスは横で、今日の採取番号と仕込み番号を対応させている。瓶の列は整い、棚は分かりやすく、釜はまだ温かい。工房の窓からは夕方の光が入り、青い液体の入った瓶が淡く輝いている。
静かではない。
全然、静かではない。
俺が望んでいた、朝に少し採って昼に少し売り、夕方に安酒を飲みながら帳簿をつけるだけの生活からは、少しずつ遠ざかっている。採取には研究生が同行し、調合には測定管が入り、棚には番号札が並び、店の前には明日の客がまた来るのだろう。
それでも、釜の中で青い液体が落ち着いていくのを見る時間だけは、昔とあまり変わらなかった。
「ロイドさん」
アイスが記録板から顔を上げた。
釜の火を落とし、できあがったばかりの回復薬を瓶に移し終え、ようやく工房の中に少しだけ静かな空気が戻ってきたところだった。青い液体を満たした瓶は作業台の上に整然と並び、窓から差し込む夕方の光を受けて、どれもやけに澄んだ色をしている。湯気の残る釜からは、スライム粘液と薬草が馴染んだ時特有の、青くて少し甘い匂いがふわりと立っていた。
「今日の採取と調合工程について、後で詳細な聞き取りをします」
「今、少しだけいい話っぽい気分だったんだが」
「いい話っぽい気分と、工程記録の必要性は別です」
「そういうところだぞ」
「どのあたりですか」
「今の返し全部だ」
アイスは本気で分からないという顔をした。いや、たぶん本当に分からないのだろう。この子は釜の中の魔力の揺れや薬草成分の反応なら目ざとく拾うくせに、人間の空気の揺れには少し鈍い。少しというか、かなりだ。さっきまで俺が今日の作業は悪くなかったな、と密かに満足していたことなど、彼女にとっては記録対象外なのかもしれない。人の余韻というものは、計測器に針が出ないらしい。
「記憶が新しいうちに記録する必要があります。採取時のスライム個体の状態、核分離の手順、洗浄回数、粘液濃度、銀葉草の投入時刻、青水花の刻み幅、加熱中にあなたが火を弱めた理由、完成直前に木べらを止めた理由。今日だけでも未記録の判断が少なくとも二十七箇所あります」
「数えるな」
「数えないと抜けます」
「時には抜けていいものもある」
「ありません」
「たとえば俺が途中で腰を伸ばした回数とか」
「それは作業姿勢による疲労蓄積として記録価値があります」
「お前は本当に余韻を殺す天才だな」
「主席卒業なので」
「そこに誇りを持つな」
「アイスさん、聞き取りは夕食後にしてくださいね。店主さん、空腹だと返事がだんだん雑になりますから」
「雑になるのですか」
「なります。最初は『たぶんそうだな』で、次に『まあそんな感じだ』になって、最後は『ぷるっとしてた』で全部済ませようとします」
「それは困ります」
「俺の扱いが雑じゃないか」
「事実です」
ミーナにまで事実で殴られた。
最近、俺の周りでは事実という言葉がやたら強い武器として使われている気がする。クラウスは書類で、ギデオンは労務で、セレーナは研究で、アイスは記録で、ミーナは現場感覚で、それぞれ別の角度から事実を投げてくる。俺はスライム相手ならそれなりに強いが、こうも多方面から正しいことを言われると本当に困る。
「では夕食後にします」
アイスは少し不満そうにしながらも、記録板に何かを書き足した。
「ただし、食事中に思い出したことがあれば、その場で確認します」
「飯の味がしなくなるからやめろ」
「食事中の会話は記憶定着に有効です」
「うちでは飯は飯として食う。調合工程は皿に乗せない」
「比喩ですか」
「生活の基本だ」
アイスは一瞬だけ考え込み、それから小さくうなずいた。
「分かりました。食事中の聞き取りは緊急時のみにします」
「何が起きたら調合工程の緊急時なんだ」
「あなたが重要な判断を忘れそうな時です」
「それは緊急じゃなくて加齢だ」
「年齢による記憶保持率の低下も、工程記録に影響します」
「そこまで記録するな」
ミーナがまた笑った。工房の空気が少し軽くなる。アイスは相変わらず真顔だったが、最初に来た時のような、全員を資料扱いするような冷たさは少し薄れている気もした。いや、薄れているというより、こちらが慣れてきただけかもしれない。彼女の言葉は相変わらず鋭いし、気遣いの方向もだいぶ研究室寄りだ。だが、少なくとも今日一日、瓶を洗い、釜を覗き、薬草の刻み幅を測り、粘液の濃度を記録しながら、彼女は逃げずに作業場へ立っていた。
それはそれで、悪くない。
扱いは間違いなく面倒だ。だが、雑ではない。見たものを見たまま放っておけない性格は、こちらの気力を削る一方で、見落としを拾う力にもなる。俺が「これくらいでいい」と流していた部分を、アイスは「なぜそれでいいのか」と立ち止まらせる。何度も言うが面倒だ。本当に面倒だが、たぶん今の青ぷよ薬房には、そういう目も必要なのだろう。
俺は深く息を吐きながら、次の釜へ向けて青水花を刻み始めた。
工房には薬草を刻む乾いた音と、まだ温かい釜から立つ青い香りと、アイスのペンが紙を走る音が混ざっていた。ミーナは拭き終えた瓶を箱へ戻しながら、棚の空き具合を見ている。アイスは記録板に目を落とし、時折こちらの手元をちらりと見て、何かを書き足す。俺は青水花を刻みながら、明日の仕込みの順番を頭の中で組み直した。通常回復を多めにするべきか、疲労軽減を少し増やすべきか、村内向けに薄めのものを確保するべきか。考えることは増えた。人も増えた。記録も増えた。静かとは言いがたいが、釜の前に立っている時だけはまだ俺の手の届く範囲に仕事がある。
窓の外では、夕方の森がゆっくりと影を伸ばしていた。日が落ちる前の淡い光が木々の輪郭をやわらかくして、昼間よりも少しだけ森を深く見せている。きっとあの奥では、今日見逃した小さなスライムが、何も知らずにぷよぷよ跳ねているのだろう。俺の店が求人票を出したことも、薬師会の研究生が工房に入り込んだことも、騎士団向けの納品箱が棚の奥に置かれていることも、あいつらは知らない。知らないまま水辺で跳ね、草陰で震え、明日の朝になればまた俺に見つかるかもしれない。
頼むから、お前だけはしばらく平和に育ってくれ。
そう思いながら、俺は刻んだ薬草を皿へ移した。
明日の分の仕込みは、まだ終わらない。




