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第22話 スライムの体



エルムホルン村の裏手から森へ続く道は、店先の騒ぎが嘘のように静かだった。畑の端を抜け、小川沿いの細い道を進むと、湿った土の匂いと若い草の青い匂いが鼻に入ってくる。朝の霧はもう晴れていたが、木陰にはまだ冷たい空気が残っていて、靴の裏で踏む落ち葉が少し柔らかい。こういう道を歩いていると、俺はやはり村の人間なのだと思う。紙と帳簿と税率の山に囲まれているより、土と水と薬草の匂いの中にいるほうが、よほど息がしやすいと感じるからだ。


アイスは俺の後ろを、思ったより静かに歩いていた。白い服が森に合わないことは相変わらずだったが、足運びは悪くない。生活能力は壊滅的なくせに、観察対象を追う時だけ無駄にしっかりしている。薬草の枝が袖に触れそうになると、彼女は少し嫌そうに避けた。


「採取地点はいつも同じですか」


「だいたいはな。スライムは水気のある場所に集まりやすいから、小川の近く、苔の多い倒木の周り、畑の水路沿い、あとは雨のあとに道端へ出ることもある」


「個体数は季節で変動しますか」


「春と雨の多い時期は増える。冬は減るが、完全にいなくなるわけじゃない。岩陰や湿った穴の中でじっとしてるやつがいる」


「繁殖形態は」


「知らん。気づいたら増えてる」


「それを知らないまま、あなたは日常的に採取しているのですか」


「スライムの家庭事情まで踏み込む気はない」


「家庭という概念はないと思います」


「じゃあ聞くな」


アイスは記録板に何かを書いた。今の会話から何を記録することがあるのか知りたいような、知りたくないような気分だった。


しばらく進むと、森の地面が少し湿り始めた。小川の音が近くなり、木々の根元には青みがかった苔が広がっている。ここは俺がよく使う採取場所の一つで、村の子どもたちもたまに棒を持って遊びに来る。危険な魔物はほとんど出ない。青スライムが多く、たまに緑がかったスライムが混ざる程度で、初心者冒険者が訓練に来るにも向いている。


「いたぞ」


俺が声を落とすと、アイスは返事をせず、視線だけをすっと倒木の向こうへ動かした。湿った苔の上で、青い塊がひとつ、ぷよんと小さく跳ねている。大きさは両手で抱えるほどで、形は丸いようでいて完全な球ではなく、地面に触れている部分が重みで少し潰れ、跳ねるたびに外側の膜と中の粘液がわずかに遅れて揺れる。表面は透明に近い青色で、薄い膜の下には水を少し重くしたような粘液が詰まっており、その中心からわずかにずれた位置に豆粒ほどの核が浮かんでいた。核は青白い光を淡く含んでいるが、慣れていない人間には体内を流れる気泡や濁りと区別がつきにくいらしい。


俺には、かなりはっきり分かる。


見えている、というだけでは少し違う。目で追っているのはもちろんだが、それ以上にあいつが次にどう揺れて、核がどのあたりへ流れ、どの瞬間なら傷をつけずに抜けるのかがなんとなく分かるのだ。こう言うとまたアイスあたりに「なんとなく、を分解してください」と言われそうだが、分かるものは分かる。スライム相手だけは、昔から妙にそういうところがあった。役に立つような立たないような、少なくとも若い頃の俺が望んでいた英雄的な才能ではまったくない、非常に地味な感覚である。


スライムの体は、ただの水袋ではない。外側の膜は柔らかく、刃を入れれば簡単に裂けそうに見えるが、実際にはそれなりの弾力があり、雑に叩くと衝撃が膜の内側を伝って核まで逃げる。核も体の中心に固定されているわけではなく、粘液の流れに乗ってゆっくり動いている。跳ねた直後は上へ浮き、着地の衝撃で下へ沈み、こちらの気配を感じると膜の奥へ引っ込むように位置を変える。だから普通に倒すと、核が割れてしまう。棒で叩けば潰れるし、剣で斬れば粘液ごと裂けるし、魔法で焼けば魔力が抜けて水っぽくなる。魔物として見れば最弱に近いくせに、採取素材として見た場合、スライムは意外と面倒なのだ。


「青スライムですね。低山帯標準個体。見たところ、成熟前後ですね」


アイスが小声で言った。


「分かるのか」


「外形と色で推定しただけです。核の状態は近づかないと不明です」


「近づきすぎるなよ。あいつらは意外とすばしっこいからな」


「分かっています」


分かっていると言いつつ、アイスはやはり我慢できなかったのか、倒木の影からほんの少しだけ首を伸ばした。白銀に近い淡い髪が枝葉の隙間から落ちた木漏れ日を受けて、森の中で不自然なくらいきれいに光る。その瞬間、苔の上で小さく跳ねていたスライムの動きがぴたりと止まった。


「……動きが変わりました」


アイスが小声で言った。


「だから言っただろ。あいつら、意外と気配には敏いんだ」


「視覚器官は確認できませんが」


「目があるかどうかじゃない。こっちが見てるってことに反応するんだよ」


「非科学的です」


「スライム相手に科学だけで勝てるなら、俺は今ごろ苦労してない」


スライムの表面は、さっきまで頼りなくぷるぷる震えていたのに、今はわずかに張りを帯びている。外側の膜が一瞬だけ薄く伸び、内側の粘液が中心へ寄るように動いた。核も同じだ。さっきまで体内をゆっくり漂っていた青白い豆粒のような核が、外から遠ざかるように奥へ沈もうとしている。逃げる前の合図である。人間で言えば、足に力を入れて腰を落としたようなものだ。いや、スライムに腰はないが、たぶんそういう感じだと思う。


俺は腰の採取ナイフに、ゆっくりと手をかけた。


スライムを狩る時、大きく振りかぶる必要はない。腕力もいらない。むしろ力を込めれば込めるほど、素材の質は悪くなるからだ。初心者冒険者が棒で叩いたり、剣で真っ二つにしたりすると、たしかに魔物としてのスライムは倒せる。倒せるのだが、核にひびが入り、粘液に土が混じり、魔力が抜けて水っぽくなる。討伐報酬だけが欲しいならそれでもいい。畑に出た厄介者を追い払うだけなら、それで十分だ。だが、ポーション素材として持ち帰るつもりなら、そのやり方はあまりにも雑すぎる。


重要なのは、核が膜から一番遠い位置へ逃げ込む前に粘液の流れを一瞬だけ止めて、外膜と核の間だけを切り分けることだ。


言葉にすると自分でも妙なことを言っている気がする。外膜と核の間だけを切る、などと言われても、普通の人間には何のことか分からないだろう。俺だって十五の頃に同じ説明を聞かされたら、たぶん「スライムくらい普通に叩けばいいだろ」と思ったに違いない。若い頃の俺は、まだ自分のスキルがスライム相手にだけ妙に働くことを知らなかったし、スライム素材が後々こんな面倒な商売の中心になることも知らなかった。知らないほうが気楽だったことは、世の中にいくつもある。


「今、手を出さないんですか?」


アイスが息をひそめたまま聞いてくる。


「まだ早い。今はまだ核が沈んでる」


「見えているんですか」


「見えてるというか、なんとなく分かる」


「またその表現ですか」


「今は文句を言うな。動くぞ」


採取は狩りというより“釣り”に近い。魚が水面へ出る瞬間を待つように、スライムの体内で核が揺れの中に浮き、ほんの一瞬だけ止まる場所を待つ。焦れば失敗するし、遅れても失敗する。早すぎれば膜だけが裂け、遅すぎれば核が逃げる。刃を入れる角度は深すぎても浅すぎても駄目で、粘液の流れに逆らうと濁りが出る。俺はこの作業を何年も、朝の森で井戸水の冷たさがまだ手に残る時間に繰り返してきた。英雄の剣技ではない。派手な魔法でもない。ただ、スライムの核を割らずに取り出すためだけの、ひどく地味な手癖である。


スライムが一度、勢いよく跳ねた。


苔むした地面に溜まった水滴を押し返すように一度だけぷよんと身を縮め、それから弾力をためこんだ半透明の体を下から突き上げられるように跳ね上がらせる。透き通った青い体は空中で丸みを保ちきれずにわずかに横へたわみながら、ぬらりとした外膜の内側で粘液を遅れて揺らし、やがて重さを取り戻したかのように落ちてきた。


その気配に、隣のアイスがほんのわずか息を止めた。俺はナイフの柄を握る指に力を入れ直しながらも、刃先が不用意に下を向かないよう手首の角度を殺す。真正面から突き入れる衝動を押さえ込んだ、――その理由は一つだけだった。スライムの体が苔の上へ着地し、柔らかな外膜が押し潰されて横方向へ薄く広がるその一瞬を、ただ待っていたのだ。


外膜は地面に触れたところからぬめるように平たく潰れ、遅れて内側の粘液が奥から手前へ、手前から左右へと重たい波を打つ。その流れに押された核が体の中心から下へ沈み込んだかと思うと、着地の反動でふっと上へ戻りかける。


外膜にも触れず、核にも届かず、どちらからもわずかに距離が生まれる、体の奥へ逃げ込まれる前の、ほんの短い空白。


――そこだ。


俺は一歩で距離を詰め、ナイフの刃を斜めに入れた。狙うのは核ではない。核の周囲を包む薄い魔力膜の外側、粘液の流れが一番弱くなる線である。刃を押し込むのではなく、膜に沿わせるように滑らせる。表面に触れた瞬間、スライムの体は逃げようとして縮むが、その収縮より先に刃を抜き、反対の手に持った小さな採取匙で核の下側をすくう。


ぷるん、と軽い音がした。


刃が外膜の抵抗を抜けた瞬間、スライムの体は力を失ったように形を崩し、外側の粘液だけが湿った苔の上へ柔らかく広がった。潰れたというより、支えていた芯をそっと抜かれた水袋が重さに従ってほどけたような崩れ方だった。俺はその流れに合わせて左手の小さな採取匙を差し込み、逃げる前の核を受け止める。匙の上で、豆粒ほどの青白い核が透明な膜をまとったまま小さく震えていた。割れていない。濁ってもいない。表面に欠けもないし、魔力の抜けも少ない。中心から外へ向けて、淡い光がゆっくり滲むように揺れている。これなら通常回復用にも使えるし、状態を見れば高純度の仕込みにも回せるだろう。


「一匹目。状態は悪くないな」


俺はそう言って、核を洗浄用の小瓶へ静かに落とした。小瓶の底にはあらかじめ井戸水を少し入れてある。採ったばかりの核を乾いたまま置くと、表面の膜がわずかに縮んで魔力が逃げることがあるからだ。これもまた言葉にするとそれらしい知識に聞こえるが、もともとは何度も失敗して覚えただけである。昔、調子に乗って十個ほどまとめて袋に入れて持ち帰ったら、半分近くが白く濁って使い物にならなかった。あの時の俺は、スライム相手なら何でもうまくいくと思っていた。若いというのは怖い。いや、あれは若さというより雑さか。


続けて、苔の上に広がった粘液を別の広口瓶へ移す。粘液は水より重く、蜂蜜よりは軽い。匙ですくうとぷるりとまとまって持ち上がるが、瓶の中へ落とすと底で丸く集まり、少し遅れてゆっくり平らになっていく。青い色は強くない。むしろ透明な水に、晴れた日の空をほんの少し溶かしたような色で、光に透かすと細かい銀色の筋がうっすら走って見える。薬師会では、あれを魔力導線と呼ぶらしい。アイスが初めて見た時、やたら長い説明をしていた。魔力の伝達経路だの、粘液基材内の微細な流路だの、聞いているだけで頭の奥が重くなるような言葉を並べていたが、俺にとってはもっと単純なものだ。あの筋が濁っていれば仕込みに向かない。細く揃っていれば扱いやすい。途中で途切れていれば、加熱の時に少し荒れる。そういう目印である。


「粘液も悪くない。雨上がりだから少し水気は多いが、濁りは少ないな。今日は粗濾しを一回減らしてもいけるかもしれん」


俺は広口瓶の口を軽く回し、粘液が底でどう流れるかを確かめた。粘りが強すぎると瓶の内側に筋が残るし、薄すぎると水みたいにすぐ広がる。今日のはその中間だ。扱いやすい。こういう粘液は、薬草と馴染むのも早いし、煮詰めた時に泡が荒れにくい。まあ、そんなことを言えばまたアイスに「その判断基準を数値化してください」と言われるのだろうが、今は森の中だ。温度計も測定器もない。あるのは小瓶と匙とナイフと、長年スライムばかり相手にしてきたおっさんの目だけである。道具としては地味だが、今日のところはこれで十分だ。


「……今の、見えたか?」


俺が後ろを振り返らずに聞くと、返事はなかった。


「アイス?」


それでも返事がないので、俺は核の入った小瓶に栓をしてから、ようやく肩越しに後ろを見る。


倒木の影にしゃがんでいたアイスは、革板を胸の前で抱えたまま、まるで時間を止められたように動かなくなっていた。薄青の瞳は大きく開かれ、口元はわずかに開いたまま、こちらというより、俺の手元にあった匙とナイフの軌道をまだ追っているようだった。いつものような皮肉も、即座の分析も、理論に基づいた指摘もない。あのアイスが、だ。出会ってからこちら、何を見てもまず欠点か疑問点か改善案を口にしてきたあの研究生が、今は一言も発しない。


後ろで、アイスが完全に固まっていた。


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初コメ失礼します!アイスはどんな反応するんだろう!めちゃくちゃ楽しみ!
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