第19話 まずやるべきことは
世の中には、知らないままでいたほうが幸せだった知識というものがある。
それはやはり税金である。
俺は最近、その存在を身をもって理解した。いや、税という仕組みそのものを知らなかったわけではない。村にも収穫に応じて納めるものはあったし、冒険者の真似事をしていた頃にも、討伐報酬から何やらいくつか引かれていた記憶はある。王都では入市税だの宿泊税だの、門をくぐるだけ、寝床を借りるだけで金を取られる仕組みもあるらしい。大きな街とは恐ろしいところだな、くらいには思っていた。
問題は、自分が“正式な事業者”として商売を始めた途端、その税の種類が急に増えることである。
増える。
本当に増える。
森のスライムより増える。
しかもスライムと違って、こっちは倒しても核も粘液も落とさない。残るのは支払い期限と、計算の跡と、なぜか少し重くなった肩だけである。せめて税目のひとつでも素材として使えればまだ気が晴れるのだが、残念ながら「地方営業税の粉末」や「雇用関連負担金の粘液」などという便利なものは存在しない。存在しても使いたくない。
「……なんで税目って、こんなにあるんだ」
俺は店の奥の机に肘をつき、帳簿を見下ろしながら呻いた。
目の前には、青ぷよ薬房の売上帳簿が開かれている。その横には、商業組合から渡された納税区分一覧があり、さらに薬師会関連の製造許可証と品質確認書、職業斡旋局から受け取った雇用関係書類の控えまで積まれていた。少し前までこの机には、乾かした薬草や空き瓶や、ミーナが置いていった菓子の包み紙くらいしか乗っていなかったはずなのに、今では紙だけで小さな砦ができそうである。
最近の俺の人生は、明らかに紙に侵食されている。
「当然でしょう。正式事業者になったのですから」
向かい側で、アイスが冷たい声で言った。
彼女は青ぷよ薬房へ同行してきた薬師会の研究生であり、現在はうちの作業場の一角に仮設の記録机を置き、俺の調合作業を観察し、時々こちらの心を削るような正論を投げてくる存在である。白と青を基調にした上質な服装は、うちの古い木の机や薬草の匂いとまるで馴染んでいない。だが本人は気にしていないらしい。気にしているのは、机の脚が少し傾いていて、記録用のインク壺が斜めになることのほうだった。
「人は、利益を得ると国家へ還元義務を負います。納税は感情ではなく制度です」
「お前、税務官に向いてるよ」
「嫌です。数字を扱うだけの人たちは苦手なので」
「お前も数字は好きだろ。さっきも魔力保持率を小数点二桁まで書いてたじゃないか」
「研究用の数字と税務用の数字は別物です。前者は現象を理解するためのものですが、後者は利益を分類して徴収するためのものです。興味の方向が違います」
その理屈は、少し分かる気がした。
今の俺も、ポーションの魔力濃度や粘液の状態を見ているほうが、税率計算よりはずっと気が楽である。楽しいかと聞かれれば別に楽しくはない。だが、釜の中で青く澄んだ液体が静かに落ち着いていく様子を見るのと、帳簿の数字を見ながら「この売上はどの区分に入るのか」と悩むのとでは、心のすり減り方がまるで違う。前者はまだ薬を作っている気分になる。後者は、自分の店が役所の胃袋へ少しずつ飲み込まれている気分になる。
エルムホルン村へ戻ってからの数日間、俺はほとんど休めていなかった。
レスタルムで受けた説明と手続きを持ち帰り、クラウスがまとめた方針書を読み返し、ギデオンから渡された雇用関連の控えを確認し、セレーナから預かった薬師会の連携条件を眺め、ついでにアイスが勝手に作った「青ぷよ薬房工程観察初期記録案」という恐ろしく真面目な見出しの紙まで増えた。休む暇がない。…いや、肉体的には座っている時間もあるのだが、頭の中がずっと働かされている。
まず手をつけたのは価格改定だった。
これが大変だった。
というより、今までの青ぷよ薬房がかなり適当だったのである。通常回復、疲労回復、解毒、外用、試作品。そのあたりを一応分けてはいたが、値段の決め方はほとんど感覚だった。材料費がこのくらいで、瓶代がこのくらいで、今日は薬草がよく採れたから少し安くてもいいか、という具合である。村人相手になると、さらに緩くなる。畑を手伝ってくれたから一本安くしようとか、猟師が余った干し肉を持ってきたから差し引きでいいかとか、婆さんが「腰が痛い」と言うから少し薄めて銅貨をまけるかとか、そういうことを普通にやっていた。
商売としては、かなり危うい。
クラウスがその場で見ていたら、眉間を押さえるだけでは済まなかったかもしれない。たぶん椅子に座らせられ、価格表という名の説教を受けていた。あの人の説教は声を荒げないぶん、じわじわ効く。回復薬では治らない種類の疲労が残る。
そのため、まず商品区分を作ることになった。
〈生活用簡易回復薬〉は、村人や近隣の常連向けで、切り傷や軽い疲労、日常の不調に使うもの。効果は十分だが、価格は従来に近く抑える。〈一般冒険者向け回復薬〉は、外部から来る冒険者向けで、品質確認済みの標準品。〈高純度回復薬〉は、魔力保持率や薬効安定性が高いものを選別して、重傷や危険依頼に備える者へ出す。〈高純度疲労軽減薬〉と〈高純度解毒薬〉は、薬師会の確認を受けたものだけを別棚に分ける。
さらに、村内価格と外部価格を分離した。
村人向けは生活価格として従来に近い値段を残す。ただし、購入数は制限するし、名前も記録する。外部冒険者向けは、薬師会の鑑定結果と品質に応じた価格へ引き上げる。騎士団向けは店頭販売とは別の契約価格にし、納品数と保存条件まで書面で管理する。薬師会研究部へ渡す分は、商品ではなく研究素材契約として扱い、提供本数と用途を限定する。
文字にすると、わりと整理されているように見える。
実際にやると、胃が痛い。
「この生活用簡易回復薬という分類ですが」
アイスが価格表を覗き込みながら言った。
「薬効としては、一般市場の下級回復薬より明らかに上です。生活用という名前をつけると、性能と名称にずれが出ます」
「村の人が買うものだから生活用なんだよ。性能を前面に出すと、また外から人が来るだろ」
「名称で性能を隠すのは、情報設計として不誠実です」
「店を守るための現実的な工夫だ」
「では、生活支援枠回復薬」
「堅い。婆さんが覚えられない」
「村内限定基礎回復薬」
「さらに役所っぽくなった」
「では、生活用で妥協します。ただし、内部記録には性能区分を残してください」
「お前、本当に記録が好きだな」
「記録は裏切りません」
「人は裏切るみたいな言い方をするな」
「記録しない人は、後で自分を裏切ります」
ちょっと刺さることを言う。
実際、俺はすでに何度か自分の記憶に裏切られている。昨日何本作ったか、どの瓶を奥に回したか、あの薄めの疲労回復は婆さん用だったか猟師用だったか。忙しい時ほど、頭の中の棚はぐちゃぐちゃになる。今まではミーナが横から「それは右の箱です」「その瓶は明日の納品分です」と救ってくれていたが、いつまでも彼女の記憶力に頼るわけにはいかない。
頼りたい気持ちはある。
ものすごくある。
だが、店主としてそれは少し情けない。
「それで、外部価格はこのままでいいのか?」
俺は新しい価格表を見ながら言った。
一般冒険者向け回復薬は銀貨二枚。高純度回復薬は銀貨三枚から。高純度解毒薬は状態によって銀貨四枚以上。数字だけ見れば、俺の手が勝手に値札を裏返しそうになる。銅貨で売っていた頃の感覚が、まだ体に染みついているのだ。
「安いです」
アイスが即答した。
「即答するな。こっちは心臓を押さえながら書いてるんだぞ」
「品質と市場価格を比較すれば、むしろ抑えています。薬師会の証明付きでこの純度なら、王都ではさらに上でも取引されます」
「王都を基準にしないでくれ。うちは辺境の小店だ」
「辺境でも、品質は辺境ではありません」
「そういうことを言うから話が大きくなる」
「事実です」
事実は、時々人に優しくない。
価格改定の次に待っていたのは、棚の作り直しだった。
これまでの青ぷよ薬房では、だいたい種類ごとに瓶を並べていた。赤い布を敷いたところが回復系、青い布が疲労軽減、緑の札が解毒、という程度である。俺とミーナはそれで分かるし、常連も慣れていた。しかし外部客が増え、契約分を分け、薬師会へ渡す試験用の小瓶まで混ざるとなると、その程度では危ない。間違えて売る。間違えて渡す。間違えて飲まれる。どれも笑い話では済まないレベルだ。
だから、棚札を作った。
村内向け。一般販売向け。契約納品分。研究提供分。試作品。使用禁止。廃棄予定。
最後の二つを作った時点で、俺は少しだけ遠い目になった。以前なら失敗したものは作業場の隅へ置いて、あとで外用に回すか、自分で試すか、薄めて処理していた。今はそれにも札がいる。誰かが間違って触らないように。ミーナが帳簿に記録できるように。アイスが「これは観察対象です」と勝手に持っていかないように。
「失敗品は廃棄予定ではなく、要観察試料として残すべきです」
アイスが言った。
「飲めないものを残してどうする」
「なぜ飲めない状態になったのかを調べます。失敗は成功より情報量が多い場合があります」
「うちの作業場を失敗品で埋める気か」
「全量ではありません。代表例を少量です」
「その“少量”が信用できない」
「瓶三本まで」
「一本」
「二本」
「一本半」
「瓶を半分にする意味がありません」
「じゃあ二本で手を打つ。ただし、札をつけて奥に置け。ミーナが見て悲鳴を上げないように」
「分かりました。失敗品観察用棚を作ります」
「また棚が増えた」
こうして、青ぷよ薬房の奥は少しずつ薬房らしくなっていった。
いや、今までも一応薬房だったはずなのだが、最近はその“一応”が許されなくなってきた。瓶にラベルを貼り、用途を書き、価格を書き、管理番号をつけ、日付を記録し、誰に売ったか帳簿に残す。青ぷよ薬房というふざけた名前の店が、内側だけ妙に真面目な顔をし始めている。看板のスライムは相変わらず笑っているのか溶けているのか分からないが、棚の中身は急に組合管理品みたいになってきた。
それが良いことなのかどうかは、まだ分からない。
ただ、少なくともミーナは目を輝かせていた。
「店主さん、これなら在庫が分かりやすいです。売っていいものと売ってはいけないものが分かれているだけで、かなり楽になります」
「今までそんなに分かりにくかったか?」
「はい」
「即答か」
「店主さんの“これはあとで使うやつ”が多すぎました」
「便利な分類だったんだが」
「店主さんにしか便利ではありません」
ミーナにまで刺された。
最近、俺の周りは正論を投げる人間が増えすぎている気がする。クラウス、ギデオン、セレーナ、アイス、ミーナ。リタは柔らかい顔で投げてくるので、むしろ避けにくい。俺はスライム相手なら強いが、正論の包囲網にはやはり太刀打ちできない。核がどこにあるのかも分からないし、素材にもならないからだ。
「ただ、価格が上がるとお客さんが驚きますね」
ミーナが価格表を見ながら言った。
「そこなんだよな」
「村の人には生活価格があると説明できます。でも、外から来た冒険者さんには、ちゃんと理由を言わないと揉めるかもしれません」
「銀貨二枚って言った瞬間、若いのが財布を確認して固まりそうだ」
「逆に、安すぎた時より納得する人もいると思いますよ。最近は“本当にこの値段でいいのか”って聞く人も多かったですし」
「客に心配される店ってどうなんだ」
「今までは少し心配でした」
「お前もか」
ミーナはにこりと笑った。
この子は笑顔で遠慮なく事実を置いてくる。アイスのように刺してくるわけではないが、置かれた事実が足元に転がって、結局こちらがつまずく。どちらも厄介である。




