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第15話 人間には向き不向きがある



人を雇うというのは、思っていた以上に大変らしい。


いや、冷静に考えれば当たり前なのだ。今までの俺は、村で細々とスライム素材のポーションを作り、棚に並べ、来た客に売っていただけで、誰かと正式な雇用契約を結んだ経験など一度もない。ミーナは村長の紹介で来てくれた手伝いの延長だったし、村の連中にしても「今日は暇だから瓶くらい洗っといてやるよ」とか「薬草を干すなら軒下を貸してやる」くらいの距離感だった。そこに契約書も雇用規定もない。せいぜい礼を言って、たまにポーションを一本おまけする。畑仕事や近所付き合いの延長みたいなものだった。


だが、これからは違う。


給金を決め、仕事の範囲を決め、休みを決め、怪我をした時の扱いを決め、住み込みなら寝床と食事のことまで考えなければならない。人を一人雇うということは、単に手が二本増えるという話ではないらしい。その人間の生活が、こちらの店の帳簿にきちんと乗ってくるということだ。瓶や薬草なら、足りなければ買い足せばいい。だが人は、足りないからといって棚から取ってくるわけにはいかない。


そういう当たり前のことを、俺はレスタルムの大通りを歩きながら、今さら噛みしめていた。


「こちらがレスタルム職業斡旋局です!」


隣を歩いていたリタが、妙に明るい声で言った。


俺は足を止め、目の前の建物を見上げた。


商業組合ほど威圧感はないが、それでもかなりしっかりした石造りの建物だった。通りに面した正面には太い柱が二本あり、入口の上には木彫りの看板が掲げられている。そこには、〈グラム地方労務管理・職業斡旋局〉と、やけに真面目な字で書かれていた。


長い。


絶対もっと短くできたと思う。


「……職業斡旋局だけでよくないか?」


「正式名称ですから」


「正式にするほど長くなるのは、どこの組織も同じなんだな」


「短いと管轄や権限が分かりにくいんですよ」


「長いと入る前から疲れる」


「そこは慣れてください」


慣れたくない。


俺の店など〈青ぷよ薬房〉である。短いし分かりやすい。いや、分かりやすいどうかは怪しいが、少なくとも覚えやすいことは確かだ。正気を疑う名前だとは今でも思っているが、〈グラム地方労務管理・職業斡旋局〉に比べれば、まだ口に出しやすいだけましではないか。真面目さでは圧倒的に負けているが、看板とはそういう勝負だけではないはずだ。


建物の出入り口には、ひっきりなしに人が行き交っていた。


荷運び人夫らしい太い腕の男、革前掛けをつけた鍛冶職人、まだ顔に幼さの残る見習い、帳簿を胸に抱えた女性、旅装のまま求人票を眺めている若者、いかにも冒険者をやめたばかりですという大柄な男。服装も表情もばらばらだ。仕事を探している者、仕事を出しに来た者、条件を相談しに来た者、どう見てもただ雨宿りしているだけの者までいる。


壁には求人票がびっしり貼られていた。


倉庫番募集。街道護衛。住み込み料理人。鍛冶見習い。治療院補助。薬草採取員。荷馬車御者。酒場の給仕。帳簿係。短期収穫手伝い。魔獣素材洗浄補助。


魔獣素材洗浄補助。


嫌なところで親近感が湧いた。


「人って、こんなに仕事を探してるんだな……」


思わずそうつぶやくと、リタがうなずいた。


「レスタルムは人の流れが多いですからね。周辺の村から働きに来る人もいますし、逆にここで経験を積んで他都市へ移る人もいます。商人、職人、冒険者、見習い、引退した人たち。仕事を探す人も、働き手を探す店も、毎日かなり動いているんです」


「俺は今まで、仕事ってのは村の中で誰かに頼むものだと思っていた」


「村だとそうですよね。誰の家の子か、何が得意か、誰と折り合いが悪いか、みんな何となく知っていますから。でも街では、知らない人同士をつなぐ仕組みが必要になります」


「知らない人を店に入れるのは、少し怖いな」


「だからここで条件や経歴を確認するんです。完全に安心とは言いませんけど、いきなり通りで声をかけるよりはずっとましです」


なるほど、と思った。


リタは普段、柔らかい口調で話すが、こういう時の説明は妙にしっかりしている。さすが商業組合の人間だ。俺が「人手が欲しい」「でも面倒は嫌だ」「できれば誰かいい感じの人を連れてきてほしい」くらいの雑な考えで立っている間にも、街は仕事と人間をきちんと流れとして扱っている。荷物を運ぶ道があり、金を動かす仕組みがあり、人をつなぐ場所まである。


商業都市というものは、いろいろな意味でよくできているらしい。


よくできすぎていて、少し近寄りがたいが。


職業斡旋局の中へ入ると、空気が独特だった。


商業組合より少し雑多で、薬師会よりずっと生活に近い。紙とインクの匂いに、革靴の埃っぽさと、人の汗と、古い木の椅子の匂いが混ざっている。受付前では、日に焼けた男が「住み込みでこの給金は安すぎるだろ」と窓口の職員に食い下がっていたし、別の机では若い娘が履歴票らしき紙を前に、今にも泣きそうな顔で羽ペンを握っていた。奥の長椅子では、腕っぷしだけでここまで生きてきました、という顔の傭兵崩れが口を開けて眠っている。


生きるための場所、という感じがした。


商業組合は金と品物が動く場所だった。薬師会は知識と技術が詰まっている場所だった。だがここは、もっと剥き出しだ。働きたい者がいて、働き手が欲しい者がいて、その間に条件がある。飯を食うため。家賃を払うため。家族に仕送りするため。技術を学ぶため。次の居場所を見つけるため。理由はそれぞれ違っても、ここに来ている者たちは、みんな何かしら明日のために動いている。


俺は入口近くで少し立ち止まった。


「求人相談ですね?」


受付の女性が顔を上げた。


年は四十前後だろうか。髪を後ろできっちりまとめ、眼鏡の奥の目がこちらの手元と顔と書類を順番に見ている。人を値踏みしているというより、必要な情報を一つずつ棚にしまっているような目だった。


「はい。店舗補助と作業員を探したくて」


「業種は」


「ポーション店です」


「店舗登録番号をお願いします」


「仮登録ですが、こちらで大丈夫ですか」


俺は商業組合でもらった書類を鞄から取り出し、窓口へ差し出した。受付の女性はそれを受け取ると、慣れた手つきで登録印と番号を確認しながら記載欄に目を走らせた。指が紙の上をすべる。店名、所在地、業種、代表者名。そこで、ほんのわずかに眉が動いた。


「……青ぷよ薬房」


「はい」


「噂の」


「最近、そればっかりですね」


「失礼しました。回復薬の件で、こちらにも問い合わせが来ておりまして」


「職業斡旋局にも来るんですか」


「人が動けば仕事が動きますし、仕事が動けば求人も出るかもしれない。そう考える方は少なくありません」


「世間の先読みが早すぎる」


「商人の街ですので」


受付の女性は軽く頭を下げると、書類を脇に置いた。


「担当を呼びますので、少々お待ちください。住み込み雇用や魔法薬関連の補助員募集になる場合、確認項目が少し多くなります」


「少し、ですか」


「感じ方には個人差があります」


嫌な言い方だった。


俺にとっての「少し」と、こういう場所の「少し」はたぶん違う。村で「少し手伝ってくれ」と言われれば、せいぜい薪を割るか荷物を運ぶくらいだ。だが役所や組合の「少し」は、紙が三枚増えることを意味する場合がある。ひどい時は五枚だ。


担当を待つ間、俺は受付横の掲示板を眺めた。


そこには雇用に関する注意事項が、これでもかというほど並んでいた。最低賃金規定。住み込み労働者保護規則。危険作業時の契約義務。未成年雇用の制限。魔法薬、鍛冶、鉱山、魔獣素材加工など危険職種の安全講習義務。休日取得に関する勧告。給金支払い記録の保管期間。雇用解除時の事前通知。


…ものすごく細かい。


俺は思わず掲示板の前で腕を組んだ。ポーションを作る時ですら、ここまでびっしり注意書きを並べたことはない。いや、並べたほうがいいのかもしれないが、少なくとも今の青ぷよ薬房にはそんな立派な壁がない。張るとしたら作業場の扉だろうか。そこに「粘液を床にこぼした場合は速やかに拭き取ること」とか「スライム核を勝手に砕かないこと」とか書くのか。なんだか急に店がまともに見えてきそうで怖いんだが。


「この世界、意外とちゃんとしてるな」


俺がつぶやくと、隣のリタがくすりと笑った。


「“意外と”って言いました?」


「いや、もっとこう、契約とか雇用とか、村の口約束に近いものだと思ってたんだ。働いたら払う。住むなら部屋を貸す。嫌なら出ていく。そういう感じかと」


「小さな村なら、まだそういう部分もありますよ。でもレスタルムは大都市ですし、商会も工房も多いですからね。人を雇う側と雇われる側の決まりを作っておかないと、すぐ揉めます」


「揉めるの前提か」


「前提というより、過去に揉めた結果です」


リタは掲示板の一角を指した。


「特に住み込み雇用は問題になりやすいんです。給金の未払い、休みなしの長時間労働、食事や寝床の質、怪我をした時の責任、辞めたいと言った時に引き止められる問題。昔は、見習いという名目でかなり無理をさせる工房もあったそうです」


「……思ったより重い話だった」


「だから規定が増えました。きちんと守っている店にとっては面倒でも、働く人を守るためには必要なんです」


なるほど。


俺はもう一度、掲示板を見た。


さっきまで紙と文字の山にしか見えなかったものが、少しだけ別のものに見えてきた。これは職業斡旋局が暇だから増やした注意書きではなく、誰かが実際に困った結果、壁に貼られることになった決まりなのだろう。給金を払ってもらえなかった者がいた。住み込み先で休めなかった者がいた。怪我をしても放り出された者がいた。そういう話が積み重なって、今この細かい文字になっている。


面倒だ。


だが、面倒で済ませていいものでもない。


もし俺が人を雇うなら、おそらく住み込みになる。エルムホルン村はレスタルムから毎日通える距離ではないし、馬車代だけで給金が溶ける。となれば、寝床を用意し、食事を考え、仕事の時間を決め、休みを作り、危ない作業をどこまで任せるかを決める必要がある。スライム素材を扱うなら、粘液で滑ることもある。森へ入れば、スライム以外の魔物に出くわす可能性もある。採取用の刃物だって使う。


……責任、重くないか。


俺は小さく息を吐いた。


店を続けるために人手がいる。それは分かっている。瓶洗いも薬草の下処理もラベル貼りも、誰かに任せられれば俺は釜と素材に集中できる。だが、人を入れるということは、その分だけ約束が増えるということでもあるらしい。ポーションなら、出来が悪ければ自分で飲むか、薄めて外用に回せばいい。けれど人との約束は、失敗したからといって布で濾してやり直すわけにはいかない。


「ロイド・エルムホルン殿?」


呼ばれて振り向くと、窓口の奥から中年の男がこちらへ歩いてくるところだった。灰色の髪を短く刈り、片腕には分厚い帳簿を抱えている。腕まくりしたシャツの袖には乾いたインクの跡がいくつもあり、靴はきちんと磨かれているのに、歩き方は妙に現場慣れしていた。職業斡旋局の事務員というより、倉庫の荷崩れと職人同士の喧嘩を一日三件くらい片づけていそうな雰囲気である。


「俺です」


「労務管理担当のギデオンだ。求人相談と聞いている」


「よろしくお願いします」


「堅い挨拶はいい。求人というのはきれいな言葉で飾るより、最初に条件を詰めたほうが後で揉めない。覚えておくといい」


一言目から実務だった。


クラウスとは別方向で逃げ場がない。クラウスが書類と正論で机の上から攻めてくる人間だとすれば、このギデオンという男は、現場で起きた面倒を何度も見てきた人間の目をしている。理屈だけでなく、「実際にそれで人が辞めた」「それで雇い主と揉めた」「それで窓口に怒鳴り込まれた」という経験が、声の奥に詰まっている感じがした。


通された相談室には、商業組合以上に紙が積まれていた。


いや、本当に積まれていた。


机の端、棚の上、床際の木箱、窓辺の細い台、そのすべてに帳簿や契約書の束が置かれている。きちんと積まれてはいるのだが、量が多すぎて整っているのか危ないのか分からない。部屋の隅には、紐で縛られた古い雇用記録らしき束まである。紙というものは、ここまで集まると知識ではなく地形になるらしい。


「……ここ、崩れません?」


俺が思わず尋ねると、ギデオンは当然のように答えた。


「たまに崩れる」


「崩れるんだ」


「死傷者はまだ出ていない」


「“まだ”って言いました?」


「紙束は角から落ちると痛い。覚えておくといい」


「覚えたくない知識ですね」


ギデオンは気にした様子もなく席へ着き、帳簿を机の上にどさりと置いた。音が重い。中身は紙のはずなのに、まるで石でも詰まっているようだった。俺の鞄に入っている求人票の控えが、急に薄く頼りなく思えてくる。あれ一枚でも十分面倒だと思っていたのに、この部屋では紙一枚など小魚の鱗くらいの扱いなのだろう。


リタは俺の隣に腰を下ろし、慣れた様子で背筋を伸ばしている。商業組合の人間だけあって、こういう相談室の空気には強いらしい。俺はというと、椅子に座っただけで少し肩が凝った。釜の前なら半日立っていられるのに、書類の前では十分で体力が削れてしまう。人間には向き不向きがある。


「さて、求人内容を確認する」


ギデオンは帳簿を開き、羽ペンを手に取った。


「店舗補助、製造補助、住み込み前提、勤務地はエルムホルン村。業務内容は、瓶洗い、薬草の下処理、ラベル貼り、在庫整理、店頭補助、素材洗浄の補助。採取補助は適性を見て判断。ここまでは合っているか?」


「はい。だいたいその通りです」


「“だいたい”は求人では嫌われる。合っているか、違うかで答えてくれ」


「……合っています」


「よし」


早い。


そして細かい。


ギデオンは書きつけながら、次の項目へ進んだ。


「給金は」


「それを相談したくて」


「決めていないのか」


「初めてなので」


ギデオンの目が、帳簿から俺へ上がった。


鋭い。


怒っているわけではないのだろうが、倉庫で荷物を雑に積んだ若者を一目で黙らせるような目だった。俺は別に悪いことをしたわけではない。していないはずだ。ただ、未記入の欄を持ち込んだだけである。だが、この部屋ではそれがそこそこ重い罪のように思えてくる。


「青ぷよ薬房の店主という話は聞いている」


「どこまで広がってるんですか」


「最近、薬師会でも商業組合でも名前が出ている。職業斡旋局にも、薬房関係の求人が増えるかもしれないという話は来ていた」


やめてほしい。


職安にまで広がるな。


噂というものは、街道を歩いてくるのではなく、風に乗って窓から入ってくるらしい。俺が店の奥で釜を洗っている間に、青ぷよ薬房という名前だけが勝手に王都だの薬師会だの職業斡旋局だのへ出歩いている。店主本人より社交的なのではないか。困った看板である。


「先に言っておく」


ギデオンは俺の反応を気にせず続けた。


「話題の店だからといって、安い給金で人を集められるわけではない。むしろ、忙しい店ほど条件を明確にしないと続かん。見習いという言葉で曖昧に働かせるのは不可だ」


「そんなつもりはありません」


「つもりがなくても、決めていなければそう見える場合がある」


「痛いところを突きますね」


「痛くないうちに突くのが労務管理だ」


嫌な職人技だった。


俺は少し姿勢を正した。どうやらここでは、「初めてだから分からない」で済ませてはいけないらしい。いや、分からないから相談に来ているのだが、分からないなら分からないなりに、何を任せ、どこまで責任を持ち、いくら払えるのかを考えなければならない。人を雇うとは、きっとそういうことなのだろう。


ギデオンは相場表を一枚取り出し、俺の前へ滑らせた。


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