第10話 普通のポーション屋は、市場戦略なんて考えない
俺はただ、スライムを狩って、ポーションを作って、静かに暮らしたいだけなんだ。
……という話を、最近ずっとしている気がする。
言えば叶うものでもないのに、人間というのは困ると同じ願望を繰り返し口にする生き物らしい。たぶん俺だけではないはずだ。酒場で「静かに暮らしたい」と言っている冒険者は大抵トラブルを抱えているし、「もう面倒ごとは嫌だ」と言っている商人ほど翌日には新しい契約を持ち帰ってくる。
今の俺も似たようなものだろう。
鞄の中には薬師会の鑑定書。
頭の中には、銀貨数枚相当、高純度スライム核、未知の可能性、複合効能、認定調合師、という胃に重たい単語が詰まっている。
そして向かう先は、再び商業組合。
もう帰りたい。
帰ってエルムホルン村の井戸水を飲みたい。
モカのぼんやりした顔を見ながら干し肉を齧りたい。
薬師会の鑑定室で「唯一無二」などという言葉を浴びたあとだと、スライムのぷるぷるした姿すら癒やしに思える。
「ロイドさん、顔が死んでますよ?」
横を歩くリタが言った。
「まだ生きてる」
「薬師会で魂を削られました?」
「少し」
「セレーナ主任、研究モード入るとすごいですからね」
「慣れてる言い方だな」
「この前なんて、珍しい毒草見つけて三日寝てませんでした」
「薬師って、そういう生き物なのか」
「研究者はだいたいそうです!」
元気よく言うことではない。
薬師会を出て中央広場へ戻る道は、昼前の熱気に包まれていた。市場通りでは露店が増え、香辛料の匂いと焼き肉の匂いが混ざり、川港のほうからは船の鐘が響いている。荷車を押す人夫が汗を流し、商人が声を張り上げ、冒険者が依頼票を片手に仲間と揉めている。
レスタルムという街は、本当に休まない。
朝だろうが昼だろうが関係なく人が歩き、荷車が走り、商人が怒鳴り、呼び込みの声が飛び交い、どこかで金貨の音が鳴っている。道端では果物屋が客と値段で揉め、その隣では旅芸人が笛を吹き、さらに向こうでは酔っぱらいが昼間から人生論を語っていた。誰も彼も自分の都合で動いているのに、街全体としては妙にまとまって見えるから不思議である。
人も物も金も、止まらず流れ続けていた。
ライン川みたいなものだ。
山から流れてきて、街を通り船を運び、商売を育て、また次の場所へ流れていく。淀めば腐る。流れれば栄える。昔、村に来た旅商人も似たようなことを言っていた。「景気ってのは水だ、水路を止めると皆まとめて干上がる」とか何とか。たぶん酒を飲みながら話していたので細かい言い回しは忘れたが、意味はまあ分かる。
分かるのだが。
流れの速い場所に長時間いると、普通に疲れないか…?
少なくとも俺は疲れる。
村の暮らしが長いせいか、人混みというだけで体力を削られるのだ。森でスライムを追い回している時のほうがよほど落ち着く。あいつらは静かだし、ぬめぬめしている以外は急に話しかけてこないから気楽でいい。
「商業組合に戻ったら絶対クラウス主任びっくりしますよ」
「さっきから嫌な予言ばかりするな」
「嫌って、褒め言葉の方向ですよ?」
「レスタルムでは心臓に悪い褒め方が流行ってるのか」
「でも実際、あの鑑定結果は大騒ぎになりますって」
「俺は普通に作ってるだけなんだが」
「その“普通”が問題なんです」
最近、本当にそればかり言われる。
普通に作った。
普通に売った。
普通にスライムを狩った。
俺としては終始一貫して普通なのに、なぜか周囲だけ勝手に騒ぎ始める。非常に理不尽だ。世間一般の“普通”というやつが、どうも俺とズレているらしい。なら誰か、分かりやすく基準を書面で配布してほしい。できれば簡潔に。専門用語抜きで。
そんなことを考えているうちに、商業組合の建物が見えてきた。
午前中の時点でも十分騒がしかったが、昼を回った今はさらに混沌としていた。
入口では荷運び許可証を求める商人たちが列を作り、「順番を守れ!」「いや先に並んでたのはこっちだ!」と怒鳴り合っていた。別の窓口では鍛冶屋らしい大男が「鉄材価格が昨日より上がってるじゃねえか!」と机を叩き、受付嬢が慣れた顔で「現在市場価格ですので」と受け流している。奥では帳簿を抱えた係員たちが走り回り、階段では書類の束を抱えた青年が盛大に転び、紙吹雪みたいに伝票を撒き散らしていた。
「あぁぁぁっ! 午前締めの納品確認書がぁぁ!」
「すぐに拾え! 風に飛ばされるぞ!」
「誰か扉閉めろ!」
「閉めたら今度は荷物が入らねえ!」
統率が取れているのか取れていないのか、外から見ると全く分からない。
商売というのは戦場だな、と少し思った。
剣の代わりに羽ペンを握り、鎧の代わりに帳簿を抱え、怒声と数字が飛び交う場所。それが商業組合である。たまに冒険者ギルドより殺気立っている気がするのは、きっと気のせいではない。少なくとも今、鉄材価格で揉めている鍛冶屋の親父は下手な前衛職より目が怖かった。
「青ぷよ薬房のロイドです。クラウスさんに」
受付の女性は俺の顔を見るなり、小さく「あっ」と声を漏らした。
「クラウス主任ですね。少々お待ちください」
受付係の女性がそう言って奥へ消えていく。
俺はその背中を見送りながら、なるべく存在感を消すように壁際へ寄った。組合という場所では、下手に中央へ立つと面倒事に巻き込まれる。これは今日一日で学んだ大事な教訓である。村暮らしでは役立たないが、レスタルムでは命綱に近い。
もっとも、俺の努力は開始三秒で無意味になった。
「おい、青ぷよの店主だぞ」
「本当に来てたのか」
「薬師会へ行ったって噂聞いたぞ」
「鑑定で大騒ぎだったらしい」
全部聞こえてる。
なぜ情報が回るのがこんなに速いのか。
この街はたぶん伝令用の鳩より人の口のほうが性能がいい。いや、もしかすると鳩が途中で酒場に寄っているのかもしれない。少なくともレスタルムでは、秘密という概念がかなり弱い気がする。
「ロイドさん、有名人ですね」
隣でリタが少し楽しそうに言った。
「やめろ。俺は静かに生きたいんだ」
「静かに生きたい人は、薬師会で高純度認定とか取らないと思います」
「取った覚えはない。勝手に付いた」
「世間ではそれを実力って言うんですよ」
納得いかない。
俺はただスライムを狩って、鍋で煮て、瓶に詰めていただけである。どこで人生の難易度が上がったのか、本当に分からない。
しばらくすると、奥の扉が開いた。
「ロイド殿、来なさい」
クラウスだった。
相変わらず、干し肉みたいな顔をしている。
頬は削げ、表情筋は節約され、眼鏡の奥の目だけが妙に鋭い。たぶん笑っても口角が一ミリくらいしか動かないタイプだと思う。けれど見慣れてくると不思議な安心感がある。あの顔を見ると「ああ、今日も社会は難しい話をしているな」という気分になるのだ。
俺はリタと一緒に相談室へ入った。
外の喧騒が嘘みたいに静かな部屋だった。分厚い木机に書類棚、壁際には帳簿の山。窓際には湯気の消えた茶が置かれている。忙しい人間の部屋というのは、なぜこうも「座ったまま寝落ちしました」みたいな空気を出すのだろう。
クラウスは席につくなり、こちらを見るより先に言った。
「鑑定結果は」
いや、早いな。
普通、人と会ったらまず「よく来た」とか「座れ」とか、せめて「ご苦労だった」くらいは言うものだと思うのだが、この男の中ではそういう社交の段取りが、仕事の邪魔になる余計な飾りとして処理されているらしい。
「こちらです」
俺は鞄から鑑定書を取り出し、机の上へ差し出した。クラウスは眼鏡を指で押し上げると、紙を受け取り、すぐに無言で目を通し始めた。
部屋の中が、急に静かになる。
いや、正確には静かではない。窓の外では相変わらず誰かが大きな声で言い合っているし、廊下の向こうでは職員がばたばたと走る足音も聞こえる。たぶん今日も組合は平常運転なのだろう。平常運転で怒鳴り声と足音が響いている職場というのもどうかと思うが、冒険者組合という場所はそういうものらしい。
それでも、机を挟んだこちら側だけは妙に静かだった。
クラウスが黙っているからだ。
紙をめくる音さえしない。眼鏡の奥の目だけが、鑑定書の文字を追っている。こういう時は下手に声をかけると面倒なことになる気がして、俺もリタも黙っていた。仕事人間が仕事の顔をしている時に割り込むのは、森で親スライムの群れに石を投げるくらいよくない。いや、親スライムなんてものがいるのかは知らないが。
数秒後、クラウスの動きが止まった。
本当に、ぴたりと止まった。
鑑定書を持つ指も、紙に落とした視線も、背筋の角度も、そのまま固まっている。人間というより、難しい計算の途中で魂だけ別の部屋へ行ってしまった石像のようだった。俺は思わずリタを見る。リタもこちらを見た。どうやら俺だけがこの妙な間を気にしているわけではないらしい。
十秒ほど、沈黙が続いた。
さらに二十秒。
リタが椅子の上で、ほんの少しだけそわそわし始める。俺もなんとなく落ち着かなくなって、意味もなく膝の上で指を組み直した。鑑定書を渡しただけなのに、なぜこちらが罪人のような気分にならなければならないのか。俺はただポーションを作っただけである。しかも、いつも通りに。
やがてクラウスが、小さく息を吐いた。
「……なるほど」
低い声だった。
その一言に、妙な重みがあった。何かを理解した人間の声というより、理解した結果として仕事が三つほど増えると悟った人間の声である。俺は最近、そういう声に少し詳しくなってきた。…うん、できれば詳しくなりたくはなかったな。
「驚かないんですか」
俺が尋ねると、クラウスは鑑定書から目を離さないまま答えた。
「驚いている」
「顔に出ませんね」
「組合で長く働くと、驚いても顔に出さなくなる」
「便利ですね」
「内臓には出る」
「生々しい」
クラウスは鑑定書を机へ置くと、こめかみを指で軽く押さえた。たぶん今、胃に来ている。人の驚きというものは、顔に出なければ腹に出るらしい。顔色一つ変えずに職務をこなす大人というのも、案外、体の内側では大変なことになっているのかもしれない。
「高純度スライム核。複合効能。魔力保持率九十超え。しかも、分類上は通常回復ポーション扱い」
クラウスは鑑定書の内容を一つずつ読み上げるように言った。
「らしいです」
「君は、自分が何を作っていたのか、本当に分かっていなかったのだな」
「はい」
「そこまで堂々と言われると、逆に怒りにくい」
「すみません」
「悪意がないのは知っている。知っているから、余計に扱いが難しい」
クラウスは椅子の背にもたれ、疲れた役人特有の顔で天井を見上げた。
あの顔は知っている。
「これは自分の管轄に入ってくるな」と理解した大人の顔だ。見なかったことにしたい。できれば書類の端に押しやって、別の部署に回したい。だが、回したところで結局また自分の机に戻ってくる。そういう諦めを含んだ顔である。俺のポーションは回復薬のはずなのに、なぜか関わる人間の疲労を増やしている気がする。
「薬師会がここまで明確に書くのは珍しい。セレーナ主任は慎重な人間だ。曖昧なものを、曖昧なまま褒めることはしない」
「つまり」
「君のポーションは、本当に規格外なのだろう」
規格外。
また嫌な単語が増えた。
唯一無二。異常値。高純度。複合効能。魔力保持率九十超え。そして規格外。なんでさっきから聞くだけで面倒の匂いがする言葉ばかり集まってくるんだ。もう少しこう、「なかなか便利ですね」とか「村で使うぶんには十分です」とか、そのあたりの穏やかな評価で止まってくれないものだろうか。
このまま行くと、そのうち誰かが真面目な顔で言い出すに違いない。
国家管理対象。
戦略的重要資源。
王都直轄保護指定品。
どれも響きが重すぎて、それをそのままあてがったらきっとうちの棚板が抜けてしまう。辺境の小さな店で、工房も小さいただのポーション屋だぞ?国だの戦略だの資源だの、そういう大きな言葉は、もっと丈夫な建物ともっと偉い人間のところへ持っていってほしい。




